バレる速さとわかる遅さの温かさ

 
わたしは、たぶん正直者である。嘘をつくのが自分でも驚くほど苦手だし、好きや嫌いや嬉しい!が、人にバレバレのことが多い。
 
正直者はしばしば、親しい人たちにそれを褒められたり面白がられる。正直だ・素直だ、というのは基本的に素敵なことで、誇っていいと。その旨は、わかる。正直であったほうがいい場面はたくさんあるしわたしも素直な人が好きだ。でもこれは、本人にとっては、全部そのまま出ちゃってコントロールできていない、ということでもある。わたしはこの正直さのせいで、しょっちゅう困ったり傷ついたり恥ずかしいことになったりしている。ムカついている時にムカついているのを隠せないし、乗り気じゃない時に取り繕った振る舞いができないというのは、大人として胸を張れたことではない。
 
例えば最近、とある場でわりと理不尽な怒られが発生したことがあった。わたしは、まさか自分が怒られるとは思っていなかったので驚いて取り繕うのに失敗し、とっさに「すんませんww」みたいな謝り方をしてしまった。相手(偉い人)の心象が今まさに「最悪」の極に振り切ったのが手にとるようにわかった。
わたしの謝り方次第でもうちょっとマシな雰囲気になったはずなのに、空気を読むよりも早く売り言葉に買い言葉的な負けん気が出てしまった。こちらに謝る気がないのがバレバレだったと思う。相手は明らかに怒りのやり場を失っていた。それ以上は何も言われなかったし振り返ればそれほど大ごとではなかったけど、わたしは結局まあまあ気にしていて、もう週単位で日がたつのに、青アザみたいに、まだあの不味い気持ちが心に残っている。
 

そういうこともあったけど、ひるがえって最近は、後ろめたいことは何もない心底からの「うれしい!」でいっぱいの時が多い。正直さをそのままにしておけるのは健康的だ。おかげで心が明るい。多少の青アザ、擦り傷、炎症があったとしてもぜんぜん負けない大きな「うれしい」「好き」は巨大な元気をくれる!ただしそのぶん、コントロールが難しい。

恥ずかしいのでディティールをぼかすんですが、先日ある集まりで仲間とホストをつとめた時のことだ。始まる前、準備をしていて、来場予定者の名簿を見たZが「Q(共通の友人)来るんだ!」とわたしに言った。わたしは作業しながらだったので、ただ「うん!」と答えた。最近全然連絡とってなかったけどLINEしてみたら仕事の後ギリギリ間に合うかもって〜、とか言ってもよかったけど、そんなのは全部省いて、「うん!」とだけ言った。

言ってすぐ、わ、ヤベ〜!と思った。いや、全然何もヤバくないんだけど、その時の自分の声色が、おそらく表情までもが、我ながら嬉しそうすぎた気がした。
マンガだったら自分の背景にキラキラ…というダイヤ型みたいなマークが出ていたと思う。たった1つの音節にこんなに感情が乗ることあるんだ?!!と、自分で自分に驚いた。言ったそばから恥ずかしくなった。その後にどういう会話を続けたのかすっかり忘れてしまった。
極めつけは後日、それを「あなた多分覚えてないと思うけど、あれ恥ずかったんだワ〜」と少し思い切ってZに話したら「覚えてる、嬉しそうだな〜と思ってた!」と言われた点である。ひええ恥ずかし過ぎるちょっと待ってくれ〜と思いながら「へへ…」と鈍く笑って返し、その後はZが主体の話にそれていったのでホッとした。

バレバレだったのは完全に恥ずかしかったが、あのキラキラした無自覚な「うん!」の事故のおかげで、あ、わたしはこんなに嬉しいと思ってるんだ、と遅れて頭で気づけた。その素直さは、自分に必要なものだった。いつのまにか何となく疎遠になっていた友人に久しぶりに会えるのがうれしい、それ以上でも以下でもない、というシンプルなことを、しょうもない自意識を跳ね除けて素直に表明できたことで、何かがすごく楽になった。うん、嬉しいです。やっぱりそれは嬉しい。

わたしはバカ正直な上に恥ずかしいとすぐ顔が赤くなるので、Zに「覚えてる」と言われた時にお酒が手元にあって助かった。さっぱりしたビールだった。嬉しい気持ちをそのまま出せるのは、それをそのまま肯定できるのは、1人でいる時よりも、信頼できる人・油断できる相手と一緒にいる時なのかもしれない、と、それは今、書いていて気がついた。


「実は好きだけど嫌いって言ってみる」とか、そういうことが、本当にいよいよできなくなってきた。これは、子供っぽい素朴なバカ正直さというよりも、むしろ自分の年齢が着実にオバチャンに近づいている故かもしれない。ともかく、わかりやすく、ちゃんと伝わる感謝や愛が、本当に大事だと心底思う。
「次に会う時に謝ればいいやとか思っていて二度と会えなくなることだってあるんだぞ」という言説が、人生が少しずつ長くなるにつれて、身に迫るようになった。怪我や病気の話を、ひとりからではなくて色々な方面から聞く。高校の同級生がいつのまにか大病を患い、しかし一命を取り留めて社会復帰してすでに2年くらいたっていたことを知った時はなんかちょっと複雑だったけど、でも本当によかった。

だから、目の前の人の行動と具体的な発言は、素直に受け取って「ありがとー」と思っておくのが1番スッキリしていていい。なるべくその場で完結させる。人間関係はマンガの連載じゃないのでヒキとかいらない。大袈裟に言えばこれっきり永遠に別れることになっても、後腐れないように、スッキリ気持ちよくやっていきたい。


素直に受け取る、ということでいえば、ものをもらう・あげる、ということもこの頃、気になる。

先日ある人から仕事をいくつか巻き取ることになって、そんなに大したことでは全然ないのに「ご面倒をおかけします…」というコンセプトで急にお菓子などをもらった。某デパートの紙袋に入っていて、明らかに良い品だ。びっくりして、マジで心底実際全然それには及ばないので断ったほうがいいのでは!?と頭をよぎったけど、美味しそうなので受け取った。
それを何日かに分けて食べたりして、時間もたって忘れて馴染んだくらいの最近、なんとなく、以前よりもその人と話しやすい気がして、ああ、すごいな、こういうこと、めっちゃ大事なのかもしれないとジワジワ思ってきた。贈り物が、ゆっくり伝わる言葉みたいに作用している気がする。

最近知り合ったXさんという人が「過去に関わりのあった好きすぎる劇団の稽古に顔を出しついでに差し入れのお菓子とか持っていっちゃうんだけど、やりすぎてる気がしてソワソワする。でもほとんど無意識に持っていっちゃうし多分これがわたしのコミュニケーションのあり方なんだ…、ついやってしまうんだ…。」と話してくれた。本人は「ウザがられてないかな…」と気にしていたが、コミュニケーションの一環、と改めて言葉で聞いたら妙に納得して、数日後、わたしも小さい規模でさっそく実践してみた。
実践といっても、友達の職場に用事があって尋ねた時に自販機のジュースを買っていっただけだ。でも、一緒に飲みながら、多分ほんの10分くらいだったけど「最近どうよ」みたいなことをリラックスした気分でおしゃべりできて心地よかった。ジュースが残っているあいだはもう少しいてもいいかな、と、砂時計みたいなニュアンスが出た気がしたのも、あとひと息で短歌や歌にでもなりそうで、わたしは嬉しかった。でも確かに、あげる側の「ウザがられてないかな…」という懸念は、それもわかるなあと思った。

また、ある友人が、わたしが前に「それ読み終わったら貸して〜」と言っていた本を後日(わざわざもう一冊買って)くれたことがあった。本なんてなかなか頂くことがないので、びっくりした。急に手渡しながら「お礼に…」と言われて、正直なんのお礼だかあんまりピンときていなくていまだにやや謎だけど、やっぱりメッチャおもしろい本だったので、その点で完全に納得した。
その場で「このページのさあ」「どこ」と言って同時に各々の手元で同じ本を開いていたのも教科書みたいで笑えたし、次に会った時の「ここまで読んだんだけど」もすごく楽しかった。貸し借りして順番で読むならあるけど、同じ本を同時期に読み進めていることなんてめったにない。こういう遊びみたいだ。


何かを人に贈るという行為は、ほとんど言葉のように明確でありながら、もっとゆっくりと面的に効く気がする。
 
まず、それに込めた意味の有無は一旦置いておいて、単純に「あげる・もらう」は両者にとって新規の行動だ。あげた人は、もらう人を、ちょっとした出来事に巻き込んでいる。出来事は現実の世界で実際に起きるという意味で、時間的にも物理・身体的にも、確かな持続性がある。つまり「あげた・もらった」という事実は一度起きたら確定してその後ずっと揺るがない。
そして、その「あげる・もらう」の意味が、好きとか嫌いとかゴメンねとか、具体的な言葉になってもならなくても、それが相手に対して前向きな表明であることは(なぜか)間違いない(とされている)ので、かなりフワッとしつつ、ハッキリしてもいる。ふしぎなバランスで、感触のような抽象度の何かが伝わる。色とか、広い面でくる風圧みたいな、ダイレクトな伝わり方、といったらいいのかな…。ノンバーバル、言葉じゃないコミュニケーションと一般的に呼ぶんだろうけど、効き方とか伝わり方がじんわりと広くて長いのが、おもしろいような気がしています。記憶とか時間軸が絡んでくるのがけっこう重要なのかもしれない。ちょっと複雑すぎて自分にはまだよくわかんないですが…。
 
そして、特に、これに全ての思いを託す!みたいな入念な贈り物じゃなくて、急に気が向いたようなプレゼントが、シンプルゆえに「ゆっくりわかる言葉」みたいでいっそう興味深い。
 
高校生の時、自販機の前を通りかかったら呼び止められて「間違って甘いの買っちゃったんだよね」と甘い缶コーヒーをくれたAくんのことをいまだによく覚えている。あれは、もはやプレゼントと呼ぶのか微妙だし、なんならいらないものを押し付けられているわけだけど、あの無遠慮さと当たり前みたいな軽さは、イコール完全に親しさだった。普段はわざわざ確かめたりしない柔らかくて温かい気持ちが、急に鮮やかになるような、そういう嬉しさがあった。
 
まあ、わたしがチョロすぎるというのと、「びっくり」が「うれしい」に間違って計上されているんじゃないかという気もする。でも言葉の意味と声のニュアンスに任せた、直球の現在・今!ここ!みたいな速いコミュニケーションを頑張っては失敗しがちな自分にとっては、ああそっか、こういう風に行動で、ゆっくり効くような方法で「喋って」もいいんだ!というのが、今、大きめの気づきです。
 

そういえば春ごろ、久しぶりに母に会った時に、急に大きな花束をもらった。おもしろいくらい大きい花束だったので、そんなに盛大にお祝いされることなんかあったっけ?!とつい笑ってしまったけど、それは1ヶ月遅れの誕生日プレゼントだった。
こんなことを言うのは失礼だし大変野暮なのだけど、その時に母がくれた大きな花束は、一本ずつこだわって花を選んだというよりは、もう店頭で形になっているものを、急いでパッと買ってきたような、どちらかというと無難な面構えの花束で、しかもやたら大きくて、なんかその「とりあえずこれなら間違いないかな?!(息切れしながら)」みたいな間に合わせ感が(入念に選んでたらマジでごめんだけど)自分の母のそういう一面っぽくて、すごく愛しかった。「この花束どうしたの?これどうすんの?」と聞いたら「あんたのだよ!」みたいなちょっとつっけんどんな返しをされたのもウケた。めっちゃ嬉しかったな…。隅々まで行き届いた、考え抜いた完璧なプレゼントじゃなくても、なんか変な渡し方になってしまったとしても、あげることにした、という行動が、なんか届くようです。



さいごに

最近、たまたま古本屋で見かけてドサっとまとめて買った雑誌がある。大阪の国立民俗学博物館が隔月くらいのペースで発行しているという雑誌の、20年くらい前のものだ。これには、世界各国のあらゆる土地に残る伝統的な祭りや生活の様子や最近の環境的な問題など、あらゆるジャンルの、めちゃめちゃ熱意に溢れたレポートがたくさん収められていて、本当におもしろい。学術的な価値がきっとあるんだろうけどそれ以前に、その熱量がすごく良い。当然、全員が1人残らず現地でリサーチしているというのも、人類学者たち…という感じでアツい。

わたしはテレビを持っていないし、最近は、知りたいと思ったことを知る機会とツールはあっても、向こうから情報が飛び込んでくることは減っている。だからだろう、こんなふうに思いもよらない知らない土地の人々の日々の営みが、大きく鮮烈な写真とともにA4見開きサイズで次々に飛び込んでくると、すごくワクワクする。そういうえばこういう情報摂取の手法、あったわ〜〜という心地よい興奮がある。たまに、儀礼の写真などに動物の死骸や血がたくさん写っていたりすることもあるが、それも含み置いて、本当に楽しい。
古い言い方をすればこれは「異国趣味」なのかもしれない。でも、こうして色々なものをそれぞれに信じながら、それぞれのやり方で社会を作って生きている人たちがいる、という具体的な情報は、わたしにとっては本当に、救いといっていいほど頼もしい。
 
先述の、友人にもらった本にも、全然知らない異国の島の生活文化や環境が描かれていた。マジで全然知らん島と馴染みのない文化圏の話なので、笑ってしまうくらい、正直わからない。文庫本の本文中のモノクロの写真から知れることは多くない。でも、その土地に歴史があり人々の営みがある、そしてそれを伝えようと本を書いた人がいる、というのは希望があるし、頼もしい。人間いいじゃんと思う。数週間前、香港の凄惨な殺人事件をSNSで知って、その映像をうっかり見てしまってすごくダメージを喰らっていたのも、平行して思い出す。それでもやっぱり人間はおもしろいと、わたしは思いたいし、思っている。

人間って世界中にたくさん生きていて、それぞれ色々考えていて、わたしが今関わっている人たちは、本当に少ない、ごく一部の人間なのだということに思い至る。狂わずに済んでいる人たちと、狂わずに済んでいるわたしが、まともっぽい場で会って話せる。殺したり殴ったりしないで、喧嘩はするし泣いたりもするけど、一緒に座ったり、働いたり、ご飯を食べたり、景色を肴に酒を飲んだり、音楽を聴いて踊ったり、同じ歌を歌ったり奏でたりできる。なんてことだろうな…。


何度も言っている気がするけど、この頃また、人生における章が変わった。プライベートの進展もさることながら、自分の歌ったりするのもそろそろ「おっかなびっくり」の次のステージで動き出していると思う。日々の「主な登場人物」も少し変わった。
こんなにどんどん変わっていくし世界は広いのに、ほんのちょっとの今そばにいる人たちを前に、かっこつけたり恥ずかしがったりして愛を伝えそびれるのはめちゃくちゃ愚かなんじゃないかという気がする。だから伝えていこうと思います、愛、親しさ、怒ってないよ、など。隅々まで丁寧にできなくても多分大丈夫なので、とはいっても手を抜かずに、普通に。