どんどろ人形との出会いと、「自分で作る」ということ

 
この春、伊豆半島の東のあたりの伊東という地域に出かける機会があった。

思い切って前置きをぜんぶ端折るが、伊東には「東海館」という木造の古い建物がある。かつて温泉旅館だったという、かなり立派な建築物は現在は観光スポットになっていて、ここが面白いと聞いていたので、パートナーと2人で行ってみた。

玄関からしてけっこう迫力がある。ガラスがはまった引き戸を手で開けて入り、靴を脱いで入館料を払う。今回は時間がなくて諦めたが、古めかしい内装の日帰り温泉にも入れるし、昼間はカフェも営業しているらしい。全体的には、この建物が旅館として現役だった頃にどんなふうに使われていたか、1928年の開業から、時代ごとの要人たちが入れ替わり立ち替わりこの地を訪れたという諸々を解説するパネルや資料が展示してある。建物内部の至る所がかなり見事な作り(建築は専門外のわたしでも「これは多分すごいやつ」とわかるレベル)をしていて、ただ屋内を見て回るだけで確かにおもしろかった。海のそばの川沿いにあるので、常に窓からの眺めがよかった。高い建物がぜんぜんない土地で、山も海も一望でき、夕方ごろだったため、街灯の灯りが川面にうつってキラキラしていた。静かな海辺の温泉街、といった感じで、風情があった。

カフェ営業している時間帯に来られればよかったなあ、なんて思いながら、わたしたちは各階の展示を足早に(ホテルの夕飯の時間が迫っていた)見て回っていた。と、2階だか3階だったか忘れたけれど、建物の北側にあたる、キラキラした川が見えないほうに、油断したら通り過ぎてしまいそうな小さくて薄暗い部屋があった。なんの気無しに踏み込むと、そこには妖怪の頭部があった。

正しく言うなら「妖怪の頭部のような造形物」なのだけど、ぎょっとしながら見回すと、そういう頭部や面が、所狭しと並べられている。4畳半くらいの空間は、だいたいそれで埋まっていた。ひょっとこ、おかめ、天狗など、わりと見慣れたデザインのはずだけどかなりクセが強い。全然見たことのないデザインの顔もたくさんある。目をひん剥き、口を曲げて顔じゅうに深い皺を刻んでいる。素材も何でできているのかわからないけど、ごつごつでこぼこしていて、ずっしりした印象を受けた。実際の人間の頭の3倍くらいの大きさのお面、2倍くらいのお面、などが並べてあった。顔という顔ひとつひとつに気迫があり、ちょっと禍々しいとさえ思った。それまでチャラチャラとスマホで写真を撮ったり、軽口を叩いたりしていたのに、わたしたちは急に静かになってしまった。

写真とる感じじゃないな…とつぶやいて、しゃがみこみ、頭部以外の造形物にも目をやる。低い机の上にも作品が並んでいて、20センチくらいの高さに立てた木の枝に、蛇のように長い首を絡ませた、カラスかカッパの頭部のようなもの…、真っ赤な舌を出している。同じようなものが数体並んでいるが、明らかにクオリティの高いものが一体いた。え?何これ…。こわ……とか言いながら、同じ机の上に置かれていた安っぽいクリアファイルを手に取ると、新聞の切り抜きがまとめられていた。

たまたま開いてあったページの記事をまず読んだ。これは、伊東に住んでいた大久保一男さんという人が作った民芸品「どんどろ人形」だという。「どんどろ人形の起源は諸説ありますが、将軍・徳川家康から命を受け、伊東の唐人川河口にて日本で初めて洋式帆船を建造したウィリアム・アダムス(三浦按針)が、船大工の多くが疫病に罹り造船が立ち行かなくなった時、航海の途中に南洋の原住民からもらった『魔除けのどんどろ人形』を飾ったところ、病が治まったとの伝説に因んでいるそうです。」と、註釈がついている。そう、ついて、いるのだが、しかし資料を読んでいくと、これはフィクションである。というか、昔から伝わる民芸「っぽさ」を借りてきて、大久保一男氏が一代で築いた、いわば「でっちあげ」の民芸だという。えっどういうことだ…?と思ってさらに読み込む。新聞の切り抜きは、かなり昔のものから平成のものまで、けっこうな量があった。


ここで一旦、「どんどろ人形」についてわたしなりに要約します。
(※記憶や解釈違いがあるかもしれない点だけご承知おきください)

大久保一男(a.k.a.大久保喜生)さんは、埼玉に生まれ、いくつかの仕事を経験したのち、1918年に関東軍に召集された。19年にサイパンに向かうが船が撃沈され漂流、一命を取り留めたが、米軍の捕虜として南方諸島を転々としながら生活することに。22年に復員し、伊東に住みはじめ、1928年から「どんどろ人形」を作り始めた。戦争で足を悪くしてしまったので、手を使った仕事がしたかった。
どんどろ人形の「どんどろ」というのは、出発の「よーいどん」の「どん」と、肉体が死んで泥になる「どろ」まで、つまり一生のことを意味するという。これは魔除けの人形であり、魔除けは「生と死」のあいだに必要なものだ、と氏は語る。彼の娘が新聞紙を破いて遊んでいるのをみてインスピレーションを受け、水で溶かした新聞紙を紙粘土にし、ノリで固めながら造形するという手法をとるようになった。仲間の芸術家に後押しされて、幼い長女をおぶって伊東の土産物屋へ売り込みに行った。何軒も断られたが、伊東屋という店の海瀬氏が興味を持ち、店に並べてくれた。おどろおどろしい造形の「どんどろ人形」だったが、妙な愛嬌が人々を魅了し、その後、東京の百貨店や全国各地で展示を行うなど、商売は軌道に乗っていった。パートも雇ってたくさん作った。58年の狩野川台風で家もろとも作品が全て流されるなどの苦難も乗り越えて、73年オイルショックの頃には全国に知られるまでになった。
大久保さんは、母が理容室を営んでいた影響か、昔から造形の才があった。戦中、捕虜として生活していた頃にも、手近にあった紙を使って工作をし、周りの人々を楽しませた。作品をタバコや日用品と交換したことも、米兵たちが彼を名のある芸術家と思ってサインをねだってきたこともあったという。そんな生活をしながら南方の島々で見てきた彫刻や面などの造形物が、「どんどろ人形」のデザインの源になっている。
60年から70年代ごろまでの日本の、旅行ブーム、怪獣ブームなどの時代の気分にうまくのったのだろう。彼の「どんどろ人形」はけっこう流行ったようで、伊東の各地の土産物屋で取り扱われ、新聞にも「販売先は伊東市内および東京駅地下街、全国名産」と書かれていたように、ポップアップショップでも扱われるほどの人気土産となっていた。伊東には、どんどろ人形や大久保さんのあらゆる作品を展示する施設もオープンしていたらしい。また、「どんどろ踊り」なる歌と踊りも創作され、伊東の夏祭り「安針祭」のパレードで披露された。(「二つずつ面を持って歌いながら踊る軽快な楽しい曲」らしい)大久保さんが亡くなって、どんどろ人形は生産が途絶えたが、平成になってから復刻版が発売された。

要約ここまで。

わたしは新聞記事がまとめられたクリアファイルを最初のページから最後のページまで、後ろでちょっと持て余している様子のパートナーに申し訳ないと思いながらも大急ぎで次々読んだ。しゃがんでいた足が痺れるくらいの時間はかかった。新聞の記事ごとに重なる内容があったり、取りあげられ方がさまざまであったりするのを脳内で繋ぎ合わせて理解しながら、心の底から感動してしまった。薄暗い小さい部屋で、奇妙な顔たちに囲まれて新聞の切り抜きに目を走らせながら、わたしはちょっと泣きそうだった。胸がどきどきした。

まずは、ひとりの人間が、文字通り地に足をつけて、自分の身の回りのものを素材に、自分の見てきたものをモチーフに、すばらしい造形を生み出している、という力強さにやられた。まず大前提として造形の技術とセンスが半端じゃないのである。新聞記事にあった写真では、作者よりもひと回り大きな仁王像も作っていて、これがまた意味わからんぐらい上手いのだけど、これもおそらく新聞紙紙粘土で作っている。(新聞紙の紙粘土で作る、ということに彼はこだわっていて、(いわく「この世のニュースをひっくるめた新聞」)どろどろに溶かしてしまうんだったら新聞紙である必要もなさそうなのに、それを使い続けていた。めちゃくちゃ好感がもてる。どんどろ、というコンセプトを貫いている。)

わたしは、もともと民芸というものに全然馴染みがない。銀杏のカラで作ったひよことか、お土産屋さんにある、もう誰が買うんだよみたいなホコリかぶった大きなこけしとか、織物とか焼き物とか?そういう印象がざっくりあるだけだ。美術教育を受けていない人たちの作品をアウトサイダーアートと呼ぶのも知っていたけど、でも目の前のこれは、そういう横文字の文脈とも全然関係なく、とにかく、歴史も、家族も、人生もある1人の人間が、その手で作ったものだった。
ああ、これを民の芸と呼ぶんじゃないか、と、急に腑に落ちた。代々伝わる織り方とか、焼き物の技術とか、そういう難しい話や徒弟制の伝統ではなくて、芸術なんて高尚なことでも全然なくて、本当に個人のレベルで始まる民芸っていうものが、手作りというものが、世の中にはあるのだ。そして、これが民芸なのだとしたら、わたしはすごく民芸のことが好きだと思った。この日、わたしは民芸というものに初めて出会ったのかもしれない。辞書的な意味での、カテゴリーとしての民芸ではなくて、人間の営みとしての民芸が、極めて真に迫るものとしてそこにあった。


そして、彼の生活の、物質的にも精神的にも糧であった制作活動が、戦時中であったり旅行や怪獣ブームであったりといった、時代の状況と分かち難く結びつきながらこんなふうに展開していった、という数十年にわたる事実、史実。これは、「作る・作り続ける」ということのすごい作用だと思う。人ひとりの人生と世界の状況が同時に作品にこもって、造形に寄与し、あらゆる事実を引き連れてきて、後世のわたしにまで届いたのだ。本当にすごい。大久保さんはすでに鬼籍に入られたのでお会いすることは叶わないが、できるなら会ってお礼を言いたかった。この世にすばらしい作品を残してくれてありがとう。66歳の時に取材を受けた新聞記事には、「健康あっての仕事と、体力づくりに気を使っているだけに筋肉型、艶のいい顔、白髪もみられるがふさふさしている」とあった。どんなふうに喋る人だったのか、新聞の切り抜きからの想像しかできないけど、インタビューの最後にダジャレとか言ってるし、ああ、、会ってみたかった。


東海館の入り口で受付をしているおじいさんに、東海館の絵がプリントされたお土産っぽ100%の瓦煎餅を(応援する気持ちで)買いながら「どんどろ人形っていうやつ、あれすごいですね」と話しかけてみた。彼の作品が集められているという施設は今もあるのか聞いてみたけど、とっくに閉館していた。おじいさんは、さっきわたしが新聞で知ったこと以上の情報はもっていないようだったので、わたしたちはすぐホテルへの帰路についた。

これを読んでいる皆さま、伊東に行かれる機会があったら、ぜひ、東海館でどんどろ人形と数々のお面を目撃してください。
あと、もし、リサイクルショップや骨董市?か何かでどんどろ人形を見かけた際には、わたしに教えてください(けっこう欲しいけど通販で買うのは違う気がして)。





わたしがやっているのは歌で、最近はだいぶ音楽で、いわゆる造形作品ではない。でも、今回この作品と、それをとりまくいろんなことを知って、まがりなりにも何かを作ることをずっと考えて実践している人間の端くれとして、すごい量の勇気をいただいた。どんどろは「民芸」、それも、「ぽさ」をまとって成立したでっちあげの民芸だ。アカデミックな正当な芸術ではない。でも、正当な芸術かどうかなんて本当にどうでもいい。こうして「作る」ということが、その素材と手法の身近さや、わたしには想像できないくらい苦しかったであろう戦争の体験とそこでみた魅力的な造形が、彼の人生そのものと同時にこの世にあって、渾然一体となって、現れている。残っている。それってめちゃくちゃすごい。

あと、資料室の入り口で、異様な造形にゾッとして「写真とか撮る感じじゃないな」と直感的に思った、あれだけの迫力が一体どんなふうに醸造されたものなのかを、新聞記事が教えてくれたということにも、わたしはグッときていた。本人か、家族か、誰か、複数の人たちがいたのかはわからないが、数十年にわたって関連記事を切り抜き続け、それがここにまとまっている。ファイルの全ページのコピーが欲しいくらい、あれ自体もすばらしい資料だった。新聞記事の文字や印刷の濃さが、だんだん大きく読みやすく変わっていくのをみて、時代が移っていくさまを感じた。記事の文体もさまざまで、取材をした数多の記者たちの存在も、そこに確かに刻まれていた。

最初に見た時に、ずっしりとした印象があったどんどろ人形は、新聞を読んで知った上でもう一度見て(本当はだめですが)そっと持ち上げてみると、見た目の印象よりもずっと軽かった。ノリがすっごく大量に使われている、というかほぼ全体がノリなので、それなりの重さではあるけど、想像したよりは軽かった。これも造形と彩色の妙だ。そして、勝手に意味付けるようだけど、その軽ささえ、わたしには示唆的なもののように思えた。
同じ建物の上の階の広くて白い部屋には、木やブロンズやFRPを使用して彫刻作品を発表し続けている市内在住の作家、重岡建治さんの作品が、もっとシュッとした展示空間で、きれいなライティングのもと陳列されていた。こちらは完全にいわゆる正当な芸術だった。重岡さんは彫刻をイタリアの美大で学んでいる。さすがに洗練されていた。比べるものでもないけど、きっとここを訪れる多くの人の印象に残るのはこっちの美しい展示なんだろう、と思った。

旅館に帰ってから、インスタグラムで東海館のハッシュタグをみたら、カフェや庭の写真に混じって、なんか…、東海館で痴女の方が自らのノーパンを見せつけるグラビア風の写真を撮ったりしていて、それはめっちゃウケた(合法なの…?)。「そういう人もいるんだ………」の、想像もしなかった幅を急に見せつけられた。あーあ。本当に人間って面白い。ちなみにインスタグラムでどんどろ人形に言及している人は全然いなかった。Twitterにはちょっといた。


最近なんとなく、正しいとか、ちゃんと洗練されているとか、そういうことがあんまりおもしろくない。わたしは、色んなことを系統だって勉強したり誰かに習ったりして身につけたりしてきたほうじゃないけど、それでも本当に破天荒な人を前にしたらかなりまともで真面目なほう、つまんない正しさが全然抜けない、普通の人だ。正しく何かを積み上げて、誰も傷つけないやり方で、きれいに効率よく何かを達成していく、という昨今の風潮に、わざわざ抗ってやろうというパンクな気持ちも勇気も、今のところない。諦めて勉強とかしちゃう。

そう、インターネットのおかげで、今はあらゆる理論のことも、ハンドメイドやDIYにまつわるハウツーもすぐ知れるようになっていて、「作る」ということにまで「正しさ」「効率の良さ」といった価値観が強く侵入してきていると思う。もちろんそれは質の底上げにつながっていて、知るのも分かるのも楽しいことだし、全体的にみて、きっと良いことなんだろう。普通に色々なことがうまくできる。でも、どんどろ人形が「この世のニュースをひっくるめた」ものとして新聞紙を素材に選び、柔らかすぎて造形が難しいのにもかかわらず、こだわってそれを使い続けることで手に入れていた圧倒的な強度は、ハウツーに倣って作ることとは対極にある凄みだった。

最後に急に近況みたいになるけど、自分の制作も、最近やっと動き出したバンドも、そういうふうにあれたらいいなと思う。正しい作り方も、まあさすがに勉強はするんですけど、でも、自分にとっての、どんどろ人形における新聞紙のような、実存する素材をしっかり目の前に据えることを、忘れないようにしたい。逆に、目の前に素材になりうるものがあったなら、正しくなくても、試しに使ってみちゃえるような軽やかさが、そういうことが楽しくてイケてるんじゃないの、という気が、最近してます。

全方位に正しいなんてことは絶対無理だ。思うに、かっこつけたり気を遣ったりし過ぎてしょんぼりしていくくらいなら、軽薄にとりあえずやってみたほうが前に進める。語弊があるかもしれないけど、被害者みたいな顔をして何かを正しく表現しようとするなんておこがましい。何かを作ることは、喪失や加害の責任や悲しみや、過ぎていく時間や破壊を引き受けるということだと思う。描いた線は消せないし、出した音は引っ込められない。破った沈黙があったなら、その責任は自分がとる。逆に言えば、作ろうとする人は、消せない線を描き、引っ込められない音を出し、沈黙を破ることを選び続けている。そこには善いも悪いもない。あらゆる素材ーーそれは電気エネルギーだったり弦だったり、絵の具だったり紙だったり木だったり糸だったり土だったりするけど、そういうものーーを引き裂いて消費して傷つけて削ってくっつけて炙って溶かして組み上げていくことで、初めて何かができていく。発表するなら、観客の時間も奪う。お金もいただく。そういう事実はしっかり認めないと嘘じゃないか。

別に何かに怒っているわけじゃ全然ないです。ただ、視野を広くとってみると、わたし1人がやっていることなんて何にもならないんだなあ、という気持ちになる。歴史に名前なんてまず残らない。それは良いことだ。たぶん本当に好きにやっていっていい。そして好きに生きていい。
10歳くらい若かった時の自分には、きっとわかってもらえない気がするし、なんなら一昨年の自分だって窮屈な悩みでつぶれそうになっていたけど、いい構えです、これは。風が通っていくよう。
中途半端な下手具合がダサくて恥ずかしいけど、それでも1人で笑っちゃうくらい楽しいから、最近また絵も描いています。しょうもないプライドはだいぶ、ふやけてきました。