救われたいね

時々、顔が痛い。外傷も、ぶつけた記憶もないのに、ふいに鼻の横のあたりや頬や顎がビシッ!っと、陶器にヒビが入ったような鋭い強い痛みに襲われる。痛いのは数秒だけだから普段は忘れて生活できる。いつからこんな風になったかは忘れたけど、いわゆる「ストレスがある」っぽい瞬間に痛むので、わからないのにわかりやすくて、自分のことなのに漫画みたいだ。
 
先月の初め、仕事から帰る途中にまた例の痛みに襲われたが、その時はいつもよりずっと強い痛みだった。痛過ぎて歩けなかったので、駅のホームの壁際で立ち止まって目をぎゅっと瞑って耐えた。
少しするといつものように痛みは引いたが、あんまり痛かったのでさすがに怖くなって、その足で医者にかかった。何科へ行けば良いかわからなかったけど遅くまで開いていた駅前の内科に駆け込んだら問診の後「GWが明けたら大きい某病院に行ってね」と紹介状を書いてくれて、先日、やっとその紹介先の神経内科へ行った。
 
結論からいうと何も分からなかった。病院に行けば解決するだろうと期待していたので、なかなか絶望感があった。
 
その日は、医者も多少カンジが悪かったけど、わたしがまあまあキていたことによって良くない診察になってしまった。神経のチェックのために先の尖ったミニチュアの剣のようなもので腕などを軽く叩かれるシーンが怖すぎて(目の前にいきなり尖った金属の棒を黙って向けられたら誰だってビビる。なんか言って欲しかったよね〜)、そのあたりから感情が乱れていたのだけど、座っている仕事が多いという話の流れで「日頃から運動はする?」と聞かれ「時々走ったりします」と答えたら「それは肩こりには効果ないよ〜」と半笑いで言われた時、なにかがキレてしまった。
わたしが大切にしていることを!そんな「効果」みたいなしょうもない物差しで測って笑うな!!お前は!!公園を走る時の風の気持ちよさを!!木々のざわめきを!!散歩する犬とすれ違う可笑しさを!!太陽の明るさを!!季節のにおいを!!色を!!音を!!形を!!脚や腰や肺が踊るような喜びを!!走り終えた達成感を!!知らないから!!そうやって笑うんだ!!!!!こら〜〜!!!!という怒りが急激に膨れ上がって、破裂しそうになった。
 
でも怒りは全然うまく表明できず(しなくてよかった)、わたしはいつのまにか「すいません」と言いながら泣いていて、「君のいう症状は神経科的には矛盾が多くてよくわからない、MRI撮っても薬だしても意味ないと思うけど、撮る?MRI」と言う医師に「意味がないならもう帰ります」と精一杯の怒気を込めた声で言い捨てて診察室を出た。自動精算機に診察代の数百円を乱暴に投げ込んで、歯を食いしばって、ぼろぼろ出てくる涙を拭きながらバス停まで早足で歩いた。
 
なんでこうなっちゃうんだろう!医師のおじいさんは考えてみれば至極まっとうな対処をしていて、無駄に薬を出したりしないし普通に信頼できたのに、わたしの情緒がオワっていてひどい患者だった。病院にはこんな人は時々いるんだろうけど、でも自分がそれになるのは嬉しくない。
 
1人でいる時、わたしはしばしば乱暴で我儘な別人になっているような気がする。いや、そんな言い方は大袈裟で不誠実な言い訳で、これも自分だ。わたしは1人でやりたいことがたくさんあるし、大勢よりも1人でいるほうが落ち着くけど、信頼している人と一緒にいることで保っている何か、その人たちの優しさが制御してくれているものは、確実にあるな〜と思った。
 
 
そんなことと同時期に、なんとなく読んでいた本がある。それは、こっくりさん千里眼の起源やそれが流行した時代背景などを研究している本だった。(一柳 廣孝『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉・増補版 日本近代と心霊学』(1970年01月))19世紀のアメリカやイギリス、フランスなど欧米各国で「テーブルターニング」という呼び名で流行っていた遊びが日本にも輸入され、「こっくりさん」に変形して日本でも流行った、というようなことらしい。(長くなるのでここでは書かないけど、その後、1900年代に日本で新聞の普及と相まって「千里眼」が流行って廃れていったストーリーとか、フランスで「わたしは特別な医者なのでわたしが触れるとあなたの身体に流れる電気が変化して病気が治ります」といって病気を治しまくった人が人気になりすぎて手が回らなくなったので巨大磁石を持ってきて「これを各自で触ってくれればおk」とか言い出していたらしい話、アメリカで話題になったポルターガイストと意思疎通ができる大家族は実はポルターガイストを自ら演じていたことが後日判明してなんじゃそりゃ〜ってなった話などがあり、笑っちゃった)図書館で背表紙が目について、もともと探していた本と一緒に借りたらこっちのほうがおもしろかった。
 
たぶんこれはオカルト好きにとっては基礎知識なのだろうけど、1882年にイギリスで発足したSPR(The Society for Psychical Research---心霊現象研究協会)という組織があるらしい。創設時の支持者にコナン・ドイルルイス・キャロルユングとかもいたらしく、心霊現象の仕組みを解き明かす!という機運が、研究分野を問わず時代の最先端の感覚として盛り上がっていたことが伺える。そういえば大学院のゼミの伊藤先生も、この頃の心霊写真に関する講義をしていた時があった。あのくらいの時代って、宗教と科学と芸術と、新しく発明された各種テクノロジーが、みんなゴチャゴチャに混ざって様々な言説が生まれていた、すごくおもしろくて重要な時期だったようだ。いい。そしてそういった研究は人を救ったり癒やしたりすることとも直接的につながっていて、人々にとって切実だった、ということも腑に落ちてきた。
そして、当時は科学と宗教のどちらが世界の真実なのか、という争いがまだあった頃。SPRは、科学のさらに上の科学として心霊的な世界やエネルギーがあるという仮説をもっていて、これをもってすれば神を否定せずに進化論(自然淘汰の考え方をすると人間が特別な生き物ではなく他の動物と同じになってしまうので宗教的にまずかった)も肯定して、宗教と科学の融和が目指せる、ということだったらしい。そのなかで、当時の科学は「自然を対象とする物理的な、唯物論的な解釈装置だった」という指摘がすごく大事だと思った。あくまでも科学はひとつの考え方の指針であって、世界の真実ではない。特に19世紀の日本にとっては、欧米のような宗教との軋轢すらなく、ただ世界の解釈装置として思想だけが輸入されたのでなおさらそうだったはずだ。
 
何年か前まで、わたしは日本でそれなりの学校教育をまあまあ真面目に受けた身として、本当に素朴に(心霊現象は一旦置いておくとして)世界の全ては科学で説明できると思ってきた。コロナの流行の初期の頃や、福島第一原発の事故の後など、世間が目に見えないものの恐怖に大騒ぎになってあちこちで真偽の疑わしい諸説がどんどん生まれたタイミングでは、一応、科学のことを信じておくか…と思ってきた。今も概ねそうだ。でも、最近そうとも限らないというか、何かを説明できるということに、そんなに価値があるのか?という気分がけっこうある。社会をやっていれば説明責任とかはまああるんだけど、もっと生活や命に近いところでは、興奮とか、喜びとか、言葉にはある程度なるけど説明は全然できないものがたくさんあって、わたしたちはそういうことに救われながら生きているんじゃないか。
 
先日、上野の科学博物館で宝石をテーマにした特別展にふらっと入ってみた。本当になんとなく入ったのでなんの心の準備もしていなかったけど、宝石は鉱物だから科学で全部説明しますよ〜ッ!という姿勢の隙間に、周りの鑑賞者の小声のおしゃべりの端々に、宝石に憧れる人間達の説明し難い信仰のような、土着的で感情的でスピリチュアルなものを感じて、なんだか新鮮だった。職人によって見事な細工が施された金と宝石の装飾品の数々も展示されていて、いくつかの本当に見事なものには目が吸い込まれた。えっ今ちょっとアタシの目も宝石みたいにキラキラしてるんじゃない?!って気がしたけど、1人だったのでわからない。「宝石をこんなふうに磨くとこんなふうに光が反射して、キラキラして見えるんですよ〜」という説明ができても、キラキラすると嬉しい、という気持ちは説明できない。すごいものはすごい。
あと、数万人規模の巨大な会場で行われたコンサートも最近たまたま聴きに行って(あいみょんだったんですけど)やっぱりすごいものはすごい!と思った。遠すぎて小さいけど確かにそこにいる姿に、バチバチのレーザービームや強力な照明と大音量で鳴る音楽に、それらを全部背負った歌声と言葉(あいみょんは本当に滑舌が良くて、言葉がシャキシャキ耳に入ってきたしMCも達人だった)に、ちょっと怖いぐらいみんなが心を洗われているのがわかった。わかったって、今思うと、え?なんで?具体的な根拠は?って感じだけど、わかっちゃったんだから不思議だ。それに、わたしもうっかり救われてしまった。わたしなんて、周囲のほとんどの観客のような熱心なファンじゃないのに、ただミーハーな気持ちで聴きに行った不躾な観客なのに、こんなわたしさえ救ってくれるあの空間と、そんなふうに導いてしまうポップスター、ヤバくない?
 
そんな色々があって、今のわたしは、スピリチュアルな方法に頼る人の気持ちが本当に心底すごくよくめっちゃ鮮明に想像できる。冒頭で書いたことだけでもないんですが、去年ぐらいから体の謎不調がずっと気になっていて、病院でも「そんなに健康なのになんで来たの?」(こっちが聞きたいんだが)みたいな態度で診察されるし、「ストレスですね〜」なんて言われ飽きていて、もう、お祓いとか行ったほうがいいんじゃないかと思っている。なんか、病人になるために病院に行っているみたいで嫌になってきた。わたしは患者ではないです。ちゃんと寝て、お米と納豆をしっかり食べて、ちょっと運動していればきっと大丈夫。
これは個人的な見解ですが、納豆とかヤクルトとかは、おまじないだと思っておいた方が、というか、薬みたいな飲み方ではなくて「これを飲むと…、効くらしいぞ〜!ワクワク」って思いながら摂ったほうが、体だけじゃなくて心にまで効く気がしている。プラシーボ効果とかはじゃんじゃんおこしていったほうがいい。巨大磁石を触って病気が治るんだったらそれでよくない?思い込みや直感には多分けっこう力と信頼性がある。怪我をする前に「あ、ちょっとなんか嫌な感じ」と思ったのにそれを無視して、直後にやっぱり怪我をした、という経験が自分は過去に何度かある。理由はなくても意味があるんだと思う。
 
 
 
ある友人にしばしば「あなたは信仰する才能があるから、宗教を持つと少し楽になれるのかもしれない」というようなことを言われる。彼は熱心にキリスト教の勉強をしていた過去を持っていて、曰く、疑り深い人ほど聖書を研究し続けられるし、君は思い込みが強いから、と。勧誘されているわけでは全然ないけど、本当にそうだと思う。インドネシアにいた時、周囲の多くの人がムスリムとして毎日祈っていて、その習慣は美しく見えたし、けっこう羨ましかった。
 
何年も前だけど、フィリピンのトランス儀礼の研究のため現地で医者になる勉強をしている(違ったらすいません)という先輩が大学院のゼミに来てくれたことがあった。あんまり正確に覚えていないけど、彼らは村のなかで悪魔に取り憑かれてしまった人が出た時に、村人全員で儀礼を行うのだそうだ。先輩の解釈だと「周囲が彼を1人にしたから悪魔にやられてしまった」ということらしく、全員で儀礼を通して1人のケアをすることで再び共同体の中に連れ戻すという仕組みだそうだ。実際に科学的に根拠があるかないかとかとは別に、自分のことを気にかけて支えてくれる人がここにいる、と再確認することで、気持ちがめちゃくちゃ救われたりするんだろうなあということは想像にかたくない。
 
人間に必要なのはそういうことなんだと思う。おまじないでも、宗教でも、何らかの共同体でも、なんでもいいから、根拠なく頼れるものがあるということ…。世間的に風当たりの強い「救い」でいうと、パワーの入った水やツボが有名ですけど、ああいうふうにお金が絡んでくると雲行きが怪しくなってくる理由がわかったかも。お金をこんなに積んだんだからよくなるはず!っていうのは、根拠で信じようとしていて、心で信じていないからだね。買うことと信じることの相性、すごい良いだけにめっちゃ良くないね。お金で買えないものを信じたいね〜。迷っている時は「ね」っていう音を、人から聞きたいかもね〜。そうかもね。ねー。
 
医者に「よくわかんないっす」と匙を投げられても、整体で「がんばってるね」と言ってもらうだけで肩はほぐれるし体は軽くなる。これが人間の実際だ。わたしは病院のアンチではないけど、ここ最近は、もっと違う方法で人って救われるじゃんね、という実際が、骨身に染みて仕方がない。愛とか優しさ、それに似たものが大切だね…。いつだったか、数年前なんとなくサブスクであいみょんを聞いてみた時に、なんて優しい声で歌うんだろう、こんな感じなんだ、ちょっと意外だなあ、と驚きながら好感を持ったことを、先日のさいたまスーパーアリーナで思い出した。優しさに似たものは、それでもうじゅうぶん優しいから、けっこうそれでいいかもしんないね。30代に突入しつつある、あるいは30代以上の、女性の知人友人が、次々にタロットカードを始めたり占星術ガチ勢になったりスピリチュアルに目覚めたり宗教を勉強しだしたりする感じ、ほんと正直すごいわかるんだよね。雑に一緒くたにするなって言われそう、自覚しています、ごめん!でも、それ的なもの、あるよね、ということが言いたい。教科書で習った科学じゃない、怪しくて面白くて、優しいもの。
 
わたしもそれにハマったりしたいという気持ちがありつつ、それこそ宗教をもつのもいいと思いつつ、でもなにか、プライドに似た感覚が邪魔をしていて(これって自分がまあまあアカデミックな場でベンキョーしてきてしまったこととか、ジェンダーまで含む問題のような気がしていて、これはこれでちゃんと考えたい)、とりあえず折り合いをつけて保留するために今は、歌と納豆に落ち着いている。歌を歌ったり納豆を食べたりしていればだいだいOKという俺の教えです。紙の本にもすごく救われていて、最近は↑みたいな全然知らない分野の本を軽率に読んでみるブームです。図書館は最高!
 
あっ、これは単にミーハーなんですけど、おすすめの対面の占いがあったら教えてください、行ってみたい。いっぱい悩んでいるので、プロの占いに感動したり救われたりしてみたいです!