ラブい口元

日頃から口元を隠すことがすっかり当たり前になってから、人の口元にドキッとすることが増えたような気がする。

もう1年くらい前になるけど、夏くらいの季節の頃、親しい女性の友人と久しぶりに会ってレストランで食事をした時にドキッとしたことを、今でも鮮明に思い出せる。
席に案内され、置かれたコップの水を飲もうと彼女がマスクを外したら、唇のルージュがすごくきれいだったのだ。たったそれだけのことなのだけど、すごくドキッとした。それは茶色に近い艶のない渋い赤で、彼女の白い肌に似合っていた。主張は強くなく、でも存在感のある上品な色だった。その日は朝から一日じゅう曇っていて少し雨が降っていたのだけど、そんな気圧の低い空気感にも、今思い返すと似合っていた。こんなジメジメした日にマスクをして来たのに化粧が全く崩れていないことへの尊敬みたいな気持ちもちょっとあった。
でも、「そのリップかわい〜」というような女子っぽいコミュニケーションがわたしには照れ臭くて、咄嗟に言えなかった。そして、言いそびれたからだろうか、まるで秘密でそう思ったみたいに意識してしまって、その日、彼女と別れるまでずっとそれが印象に残っていた。後から「さっき思ったんだけど」とわざわざ言うほどのことではないというかそれは不自然な気がして尚のこと言えないまま、レストランを出て観劇したりお喋りしたりしながら、白いマスクの向こうのきれいな色の口紅のことが、一度だけ見た美しさが、ずっとほんのり頭の中にあった。もしわたしが彼女にガチ恋をする人だったら、あの瞬間にめちゃくちゃ惚れの気持ちが加速してどうにかなっていただろう。というか、まあ、誤解を恐れずにしっくりくる言葉で言えば、友達にだってわたしはおおいに惚れている。


他の好きだった口元もある。それは男性の友人と会った時に、やはり食事の場面で、隣に座ったその人がひょいと外したマスクの下の、頬と顎のあたりに無精髭があったのを目撃して、気持ちがギュッと温かくなった。
自分に対して気を許されているというか、油断されているような気がした。でも、女友達のルージュと同様、見つめたり言及したりはなんとなくできなくて、前に向き直って気づかなかったみたいに会話を続けた。彼はしばしば人前に出る仕事をしている人で、そういう時には普通に髭を剃っているし、マスクをする日常がくる前からも「髭の人」という印象はなかった。だから、その無精髭はけっこう新鮮だった。
本人にとっては理由も何もないだろうけど、でも、わたしと会うことは彼にとってそれほど「オン」ではない時間、なんなら「オフ」なのかもしれないということが妙に嬉しかった。なんというか、その年の夏の始め、今年初めてサンダルをはいた友達に会った時に「この人はこんな足の指の形をしているんだ」と思うような、「まだ日焼けしてないな〜」みたいな、そういうのに似た、なんでもないけどちょっと新鮮な横顔が、親しくて嬉しかった。


ドキッとしたというのはつまり、この心の中でだけ起きた勝手な爆発なので、自動的に小さい秘密みたいになる。それが生まれた瞬間は、たとえ一瞬でも強く印象的で、わたしの場合は景色の記憶になって残っていることが多い。その時していた会話の内容はボンヤリとしか思い出せないけど、わたしの右手、あなたの左手に窓があって、店内は冷房が効いていて薄いシャカシャカした上着を脱がないでおくくらいの気温だったとか、蚊がまだいない公園のベンチに座って、ツツジの植え込みの山を越えた先の空のあたりで地面に竪穴を掘る重機がゆらゆらと変な動きをしているのを笑って見ていたのとか、そういうことは、秘密でも内緒でもなんでもないのに、ひっそりしっかり覚えている。

こうして言葉にしてみると「誰にでもすぐドキドキしてしまうチョロい奴」みたいですけど、誰にでもってことはない。性別や関係性を問わず、わたしは好きな人のことがとことん好きなのだと思う。だから綺麗な唇に目を奪われたり、油断した横顔にグッときたりする。きれいに手入れが行き届いていても、そうじゃなくてもいい。というか、きっと本人の何かがどうこうってことでは全然ない。たぶん本当に何でもよくて、こちらが勝手にドキッとする口実を探している、といったほうがしっくりくる。好ましい人と一緒にいる時の小さい色んなことーー灯りに近いカウンター席でこちらを向いて笑うと大きな瞳がキラリとして、うわ、きれいだ!と思ったりした、ああいうことーー忘れたくない小爆発がいっぱいある。


この頃、親しい人と約束をして会えることが多くて、とても嬉しいです。いろんなことを頑張れそう。SNSにアップしない写真をたくさん撮って、時々ただ見返したりしている。今日も友人と集まって、地元の友達とやるみたいなユルユルとした遊びかたをした。バッティングセンターに生まれて初めて行きました。もっとやりたかったな。まるで来月あたりから長期間すごく遠くへ行ってしまうから細切れに自主壮行会を開催しているみたい。否、これは先月の自分が「会いたいけど来月にならないと」と言って予定をたくさん詰めたんです。褒めたい。
こういう文の終わりに、ラブ!とか書いてしまうやや旧い長文SNS文末仕草(?)のことを、恥ずかしいなって数年前は思っていたけど、やっぱり歳をとったんだろうか、確かに書きたくなりますね、ラブ!とか。高校生の頃、文末に時々「ちゅ」って書いてたギャルっぽい同級生からのメールに、まんまと(?)ドキッとしたりしていました。わ〜い!ラブ!ちゅ