ようこそのおどけ

先日、ずっと憧れていた人(ボカして書く意味がほぼないけど以下Kさん)と会って話した。
Kさんはアーティストで、わたしは端的にいって彼のファンだ。4年半前に知ってからずっと、最新作が発表されるたびに嬉々としてチェックし、SNSもフォローして活動の動向をワクワク追っていた。そして、話をめっちゃ端折るけど、近々そのKさんと一緒に取り組む企画があるので、いっちょ顔合わせ的にお茶でもしましょうということになった。夢にも想像しなかったような展開なので驚きが大き過ぎてもはや嬉しいのかどうかもよく分からないけど、とにかくはちゃめちゃな気持ちになった。それだけで一万字くらい書けそうだけどここでは割愛します。

お茶当日。わたしはかなり動揺していた。何を話せばいいのか全然わからない。朝ふと「そういえばお茶するってなんだっけ?」と思い電車の中で一回ググってみたが、ググったところで何も解決しなかった。面接試験の前みたいな緊張。いや、準備や対策のしようがないので、試験よりも怖い。自信もない。今度のプロジェクトに関して聞くんだろうという見当はつくけどそれ自体は15分もかからないはず…、個人的にこちらから聞きたいことは正直そんなにない(アーティストのファンとしては作品があればそれで充分)。嫌われたくないとか余計なことを考えておしゃべりすると失敗するから気をつけないと、これでいきなり喧嘩とかして全部おしまいになったらヤバいな、もう、そうなったらそうなったで悲しいけど仕方ない!行くしかない!と、かなり余分な覚悟まで決め、全力で涼しい顔を作ってエイヤッという気分で待ち合わせの喫茶店に行った。

店の前に着いた時にちょうど向こうのほうにKさんの姿が見えて、彼もこちらに気づいて手を振っていたのでわたしも手を振り返して合流した。
店内は昭和からあるような雰囲気で、いい意味で誰かの実家みたいだった。まあまあ混んでいた。席に座る時に店を見渡したら、キッチンとホールを隔てるカウンターの、キッチン側の壁に設られた腰くらいの高さの棚に、透明の袋に入った食パンがたくさん詰めてあるのが見えた。サンドイッチの看板メニューでもあるんだろうか。わたしは、完全に緊張している+とりあえずなんか笑ってほしい+話すことない+えっ何あれw、が全部まざって、なんの脈絡もなく「食パンがいっぱい…」と口走った。
それに対してKさんは、今座ったばかりの椅子からヒョイと腰を上げて(でも完全には立ち上がらない中腰で)、たくさんの食パンを目で確認し、「ほんとだ笑」みたいな感じのことを言ってすぐ腰を下ろしてリアクションとしたのだけど、わたしはそれをみて、こんなタイミングで完全に変なんだけど、ワッと嬉しくなった。

そのヒョイとした一瞬の動作にはうっすらと、おどけた気分が滲んでいた。ノリが良かった。それはカジュアルな動きだった。こちらのぎこちない冗談未満の発言に目の前のKさんがノってくれた…という事実が、あっけなく現前していた。
ばかみたいに大袈裟に書いてしまったけど、これは至極マジで普通のどうでもいい会話の断片で、Kさんのリアクションも真っ当で妥当、なんてことないんだけど、彼に対して「ファン」だった時間のほうがずっと長い自分にとっては、そのほんのちょっとした運動神経のよさみたいなものが、舞台上で見てきた軽やかなパフォーマンスや、作品のすっきりとした印象や随所で読んできた言葉と、繋がっている気がしたのだった。あ、同じ身体だ!と思った。当たり前に本人だった。

それからの会話は、極めて正しく前向きな話題ばかりで、本当になんの心配もいらなかった。あんなに緊張していたのが嘘みたいだった。
 
そして、その時はすごく普通に喋っていたけど、わたしには「一致した目的のために人と人が仲良くなってみようとする」ということが久しぶりすぎて、後で1人になってからその尊さを思い返し、深くてあったかい気持ちで泣きたくなった。ちゃんと友達になれそうだということが素直に心底嬉しかった。


仲良くなるってなんだっけと思う。どうやってたんだっけ。
例えば大人になると、今までこうやって仲良くなった、という経験値がだいぶ溜まってきているから、かつてやったのことあるコミュニケーションの手法をそのまま使ってみたりする。こう書くと愚行っぽい感じがするけど、でも初対面の人と良好に時間を過ごそうとするとどうしてもそうなる。Kさんと話していた時も、わたしは、こういう感じで冗談を言われたら多分これぐらいの感じで笑っていい、の加減を推し量っていて、心はずっと中腰だった。いつでも走れるし左右にも前後にも素早く重心移動できます。これぐらいの馴れ馴れしさOKでしょうか?OKっすか!ありがて〜!あっ、ここツッコミいれるとこですね?!よし!いくぜ!「(ツッコミ的発言)!」キマった〜!田上碧選手、決めました!わたしは内心ハイになっている一方で「今自分は手持ちのカードを適切に出している」という戦術的な感覚もあり、しかし持ち前のパフォーマンス力(ぢから)で平静を装っていた。
 
そんなふうに見えないと良いな、と思いながら正直かなり真剣だった。余計なことを言わないようにとマスクの内側で口をピッと閉じて黙ったりもしていた。わたしは慣れない人と話す時、会話の沈黙を埋めようと余計なことまでペラペラ喋ってしまって失敗することが多いけど、真剣に口を閉じる作戦が功を奏してか、この日は多分大丈夫だった。Kさんも変にペラペラ喋ったりしない人だったので、たまに2人とも黙ってシーンとしていたけど、ピリピリしているわけじゃなく、あれはそんなに悪くない時間だったような気がする。

むしろお互いのそういう丁寧さが新鮮で嬉しかった。ひとつひとつ順調に言葉が交わされ、少しおどけたところに小さな笑いが起きていくたび、話せることが増えていくみたいだった。「話したこと」が増えると「これから話せること」が増えるんだ、と思った。

午前中「14時50分に新宿…」と頭をいっぱいにして緊張で気持ち悪くなったり脚に力が入らなくなったり手が冷たくなったりしていたのに、気づけばあっけないほど普通に喋っていた。こうやって他の友達と喋るのと同じように喋って笑えたら、もうこの人とも友達なのでは?とさえ思った。Kさんのコミュニケーション能力の高さで見事に調子に乗せてもらっていたような気も大いにしているけど、でも自分としては、ちゃんと話すというシンプルなことを久しぶりに頑張った日だった。大人として仕事の話をちゃんとしただけ、と言ってしまえばそうかもしれないけど、気持ちは、人間として歓迎されているみたいでうれしかった。



8月の終わりくらいから一緒に作品を作っているHさんとも、最近ようやく、かなり普通に喋れるようになった。ほぼ初対面で、最初の頃はオファーをいただいたという光栄さで妙に気負って「かっこいいこと言わなきゃ」みたいな気分があったけど、それでは知っていることしか話せないような感じで、しんどくて、途中で意識的に気負うのをやめた。
ちょっと歳上の彼女がわたしを「あおいさん」と呼んでくれるのを受け取ってわたしも彼女を名前で呼ぶようにしてみたり(まだ慣れなくてたまに苗字呼びと名前呼びが混ざってしまっていた頃のソワソワが懐かしいほど、今ではすっかり名前呼びが定着した)、ご飯を一緒に食べたり映像作品を一緒に見たりして、もちろん制作がメインだけど、同じ時間をたくさん過ごして、好きなものの話をして、関係ない話もして、やっぱり笑いあうたびに何かが開いていった。ここ数日の稽古なんてもう、何もなくても細かいふざけで笑っている。Hさんもふざけてくれるようになって、先日ついに彼女の顔芸で笑う、なんてことも起きて、いよいよ仲良い。うれしい。そうなったらアイディアもかなり出しやすくなって、単に段階が進んだからかもしれないけど、制作自体も作品もグングン面白くなってきている。(12月11日が本番です!きてね)(吉祥寺ダンスLAB.5『千年とハッ』|吉祥寺シアター


どうやら、おどける、ってすごい威力がある。笑う、も当然必要だけど、おどけて笑わせにいくのは、もっと効く。おどけるのは優しさのひとつの形だと思う。別に中身はおもしろくなくてもいい。ただ、状況をおもしろくしたいという態度は、君の色々なことを許すよ、なんでも言っていいよ、という優しさに繋がっていて、目の前の人を柔らかくするらしい。
 
どちらからともなくおどけるようになってから、「いちご味のポッキーは昔から売っているけど美味しくリッチになってきているような気がする」とか「アライグマはあんドーナツが好物らしいよ」とかいった情報が、ちょっとした笑みと一緒に、ひとつひとつ「Hさんが言ってたこと」として自分のなかに増え、記憶になっていく。こういうことの真偽なんて本当にどうでもよく、つまり会話は必ずしも内容ではないということですが、そういうコミュニケーションってすごく尊い



そういえばわたしは自分の周りの好きな友人たちと、なんで、どうやって、いつのまに仲良くなったんだっけ、と思い出していたら、やっぱり彼ら彼女らは、めっちゃ一緒に笑ってくれていた気がしてきた。たくさん笑わせてくれたし、わたしもなかなか笑わせにいった。最終回みたいな気持ちになってきた!!ともかく、おどけると人間が油断するのは間違いなさそう。そして油断を重ね、相手に委ねていくことで人は仲良しになるっぽい。

一緒に住んでいるパートナーはもう10年くらいの付き合いだけど、朝から晩まで基本的にずっと楽しそうにしていて(めっちゃ良くない?マジで生涯を共にしたい)、あれは、実際本当に楽しいのかもしれないけど、何割かはあえておどけてみせてくれていると思う。おどけてみせるって優しさの最上級の態度だ。敵意のなさを示し、笑っていいよと両腕を広げて許してくれている人を前に、攻撃なんかしようと思わない。もちろんわたしもおどけて返す。おどけにおどけを返すとずっとふざけて笑うことになる。仲がいいから笑うのか、笑っていたら仲良くなるのかわからないけど、そのOKな基盤ができてしまえば、いろんな具体的なことをスムーズに進めていける。

わたしが先日「食パンがいっぱい…」と言った時にKさんがひょいと立った「ひょい」の感じが嬉しかったのは、こういうことだったような気がする。ほんとにあのKさんだ〜!という不躾なファン的感想は表面的なもので、実際はこういう嬉しさだったんだと思う。おどけてみせてくれたら、こちらもおどけていいのかな、と思える。ようこそ、ちょっと一緒に笑ったりしてみませんか?という表明をもらって嬉しくないわけがない。わたしが犬だったら尻尾を振っていました。

そういえば、後から何を話してたんだか忘れちゃうくらい、会うとお互いずーっと喋ってしまう友人がいて、一日二日一緒にいたくらいじゃ話題が尽きないし(なんなら同じ話を平気で何度もしてさえいる)近くまで行く予定があるから会おうよ!といって1時間だけお茶とかもする仲なんだけど、いつの間に、こんなに何でも話せる感じになったんだっけ。
多分、こんなことも話してみちゃおうという一歩を踏み込ませてくれる「ようこそ」が、どこかにあったはずだ。わたしが、というよりは、彼が先に「ようこそ」という開けた態度で接してくれたような気がする。いくつかの歓迎にためらわずにノれたのはわたしの勇気と自負したいけど、「ようこそ」ができる人は愛されますね。わたしも見習いたい。
 
人と人、まずはおどけて開いてみせることなんだ、というのが今回の気づきでした。おどける優しさと、ノる勇気。こうやってまとめると、頭では知っていたようなことだけど、でも、笑いのほうが先だと思ってたから難しかったのかもしれない。つまり、スベってもいいんです!
 
最後の最後で、インドネシアに行った時、仲良くなりたくても言葉ができなさすぎたので、動物の声真似(近所のギエェーって鳴く変な鶏、夜に登場するトッケーという巨大ヤモリなど)を上手に披露して笑いをとりにいっていたことを思い出した。
 
いやいやそんな原始的な方法?って感じですが、ちょっと考えてもみて…。言葉が通じるうえで奇声を発するくらいのユーモアはあったほうが豊かじゃない?というか、かなりトラディショナルな手法では?歌や踊りもそういうことかもしれない。毎日のように歌って踊っていると疲れていても笑えるから、体がヘトヘトでも気分は強くて元気だ。
なんだか楽しく人生をやっていけそうな気がしてきた。ありがとうみんな、わたしもおどけて生きていきます。ギエェー