喧嘩も未来も言葉から

わたしは寒いのが本当にニガテなので、この季節は「楽しく過ごす」を目指すよりももっと手前の「落ち込まないようにする」でいっぱいいっぱいだ。加えてなんだか涙が出るほど忙しくて、溺れかけているような、坂を足任せに駆け降りているような感じで、自分の速さを超えた速度で、日々が過ぎていっている感覚がある。
 
いっぱいいっぱいだからだろう、細かいことで気分が浮かれたり沈んだりする。先日、必要に迫られてコンビニで適当に買ったメンソレータムのリップクリームを塗った後に、同様にコンビニで買ったコーヒーでなけなしの暖をとりながらホームで電車を待っていた時、冷たい風が吹いて、口のあたりを冷たさと温かさが同時に通っていって、なんかおもしろくて、気持ちが少し、スッと軽くなった。
こういう些細なことを捕まえて書き留めては「忙しい」だけにならないように、体を見失わないように…と思っています。
 
 
ところで最近、全く細かくないことなのだけど、すごい喧嘩を見た。他人同士のガチ喧嘩だった。ざっくりいうと、おじいちゃんAがおじいちゃんBに対してブチギレるという形の喧嘩だった。

何があったか順を追う。おじいちゃんAは、プロではなく素人だが、その時は(色々端折るので意味不明かもしれないが)15人ほどの若者たちを前に自作の落語を披露することになった。おじいちゃんBは、その落語が終わった直後に進行役の人によって舞台に上げられて、皆の前で感想を求められた。Bの第一声は、「…僕にはよくわからなかったな」だった。それに対してAがキレた、という次第だ。

Aの自作の落語は、正直、面白くはなかった。語り口も非常にたどたどしく、頭の中でかなり補完して考えながら聞かないと、内容が掴めない。たまにメタ視点で喋る(「(落語を今)やってみてはいるけど、ラジオで少し聞きかじっただけなんでね」など、謙遜というか、予防線を引いてくるのがちょっと鬱陶しい)ので、話が頭に入ってこない。ただ、一生懸命やっている、ということだけで場がギリギリ成立しているような有様だった。
しかし、Bの感想「よくわからなかった」という第一声を受けて、Aは「なんてことを言うんだ!」と瞬時にブチギレた。その場にいた全員がびっくりしていたと思う。飛びかからんばかりの迫力で、真っ直ぐ目を見て相手を指差しながらの怒声には迫力があった。
その後の発言は「あなたの態度が気に食わない」とか「あなただってそれなりに年齢もいっているのにもっと言い方を考えられないのか」「配慮がなってない」そして「あなたの言うことは抽象的すぎる」「もう帰りますよ」「あなたと同じ場所にいたくない」など、だんだんめちゃくちゃになっていくのだけど、まあとにかくキレきっていた。部屋中にAの激しい声が響き、場は完全に凍りついていた。Bも、たった一言「ごめんなさいね」とでも言って場を収めれば済むのに、頑なにそれをやろうとはせず、穏やかなようでいて彼は彼で譲らないので、ひとしきり喧嘩は続いた。


結局、耐えきれなくなった周囲の人たちによって無理やり2人が引き離されて喧嘩は終わったが、それをみていた私と友人はすっかりダメージを喰らってしまった。激しい喧嘩、というだけでなく、その登場人物がおじいちゃん2人であったことについてのショックが大きかった。

歳をとるとあんなふうになるのかもしれない、と、安直に、まず思った。私は、おじいちゃんAにめちゃくちゃ共感していた。
 
以前、認知症が進行しつつある祖母の様子を母から聞いた時、「脳はだいぶきてるけど、おばあちゃんは体力はまだまだあるから、かえって大変」と言っていたのを思い出す。自身がこれまでのようにうまく暮らせないことに対して苛立つことが増え、そういう時に感情を表現する体力があるので、大きい声が出たり力が強かったりして、周囲は困るのだそうだ。あの日、喧嘩をふっかけたおじいちゃんAも体がしっかりした人だったし、わたしも、同年代の同性と比べると少し丈夫な体格をしているので、そういう部分が他人事と思えなかった。
 
それに加えて、おじいちゃんAの怒った理由「自分の表現を馬鹿にされたくない気持ち」も、わたしにとっては馴染みのあるものだった。
私は美術系大学の「講評」という文化にどっぷり浸かって10年くらい過ごした過去がある。そこで、自分の作ったものを酷評された時には歯を食いしばって冷静に聞く、あるいは必要ない指摘だと判断したら聞き流す、などの態度を培った。最近はもう、気持ちがズタズタになるまで酷評されるような場面はほとんどないけど、人より批判に慣れているという自負がある。でもそれはヘッチャラなわけではない。その場では耐えても、あとでぐちゃぐちゃになる。
 
あの時のおじいちゃんAの気持ちは、全体的に、すごく「わかる」ものだった。バカにされたと思ってカチンときたのも、大勢の若い人たちの前で恥をかきたくないというのも、一度キレた以上は相手を言い負かすまで引き下がれない、というのも。黙っていて後でぐちゃぐちゃになるんじゃなく、ああしてすぐに怒りを露わにできることに、なんならちょっと憧れたまである。あんなにキレるくらい必死にやってるんだったら、合間で謙遜したり卑下したりするなよな〜と、一緒にいた友人たちは言っていたけど、そういう部分にさえ、わたしは共感が深かった。
 
人前で何かやる、というのは恥ずかしい。自信はないし人の目は怖い。でもそんなのは舞台に立つ時の超一般的大前提で、これを言い出したら始まらないし皆うんざりすると思うから言わない、というだけだ。
わたしもAと同じで、歌う前にも歌っている最中にも、いっぱい言い訳が浮かぶ。今年は自分にしてはたくさんライブをやってきたけど、2回に一度は「これ引き返して家に帰っちゃったらどうなるんだろう」と思いながら会場に向かっていた。リハーサルが終わって開場してから一度外に出て開演時間を待つあいだ、このまま戻らないで家に帰っちゃうことも物理的にはできるんだよなあ…、と思いながら神社の石段で寝ていた時もあった。それでもわたしは会場に戻ったし、これからももうしばらくやっていきたいから、全ての言い訳を飲み込んで、自信のあるふりをしている。
 
話がそれたけど、おじいちゃんAは言い訳をする人だった。わたしとあの人は、まあ、いろいろ全然違う。それでも、あり得たかもしれない、あり得るかもしれない自分の姿を見たようで、あの日はとにかくショックだった。
 
 
 
 
大人になってあんまり怒らなくなったけど、ついキレてしまう、ということが、自分にもないとは言えない。わたしは正直けっこう怒りっぽいというか、いらちだし、怒りに任せて目の前の相手が一番傷つく言葉を探して的確にグサグサ刺すようなことができる。東京に住み始めてからは、処世術?としてなのか毒されてるのかなんなのか、とっさに物凄く感じの悪い舌打ちもできるようになってしまった。ひけらかすようなことではないけど、自分には普通に暴力的な部分がある。今年の夏にパートナーと喧嘩した時、自分の言葉の暴力がそうとう酷かったのを覚えている。
 
でも、その日の喧嘩は、本当に言い方がおかしいけど、すごくおもしろかった。達人同士の居合いのようだった。二人の仲直りまでの持っていき方が、自分で言うのも変だけど、創造的だったのだ。10年もまじめに人と付き合っているとこんなことが成立するんだと、ちょっと感動した。
 
 
時効だと思うので書く。それは初めて行くレストランで、二人で食事をした帰りのことだった。ちょっと創作的要素のある中華風の店で、バーみたいな高さの天板の小さいテーブルが並び、わたしが座ると足が床につかない椅子があり、ウイスキーの種類が豊富だった。お腹いっぱい食べるというよりは、サッとつまみつつスッと飲むような店なのかもしれない。中華風の店だけど、メニューにカレーがあって、その、煮込みと餡掛けとカレーの間みたいな料理が美味しいと聞いて訪れた。いくつか料理を頼んで、二人で分け合って食べた。おいしかった。彼はそのちょっと変わったカレーを評して「やっぱりおもしろいなー」と言っていた。
 
店を出てから「なんかあの言い方、恥ずかしかった」とわたしは少し思い切って言った。「あなたは料理の専門家でもないのに、素人がお店の人に対して評論家みたいに「おもしろい」なんて言葉を使うのは不躾っていうか、わたしはそういうの恥ずかしい」というようなことだった。彼は相当心外だったようで、すぐ言い合いになった。お前と一緒にいると恥ずかしい、という風に言い直せばすぐわかるが、こんな失礼な発言に対して、彼が怒ったのは当然である。
 
だが、その言い合いは、だんだん演劇の稽古みたいになっていった。わたしたちは、最初こそ「は?」「やんのかコラ」という感じで完全にイラついていたが、次第に、相手を言い負かすのではなくて、さっきのセリフで使われていた「おもしろい」という言葉のニュアンスが互いに違っている、とわかって、それを整理するほうへ向かった。
わたしは「おもしろい」というのがちょっと上から目線っぽいと感じて「素人がプロの仕事に対してそんな風に言うのはイタい」と思っていたが、自身も作家である彼にとっての「おもしろい」は、映画を見た時の感想と同様に、あらゆる創作物への「そんな発想があったか!やられたぜ」という驚きと賞賛なのだった。そこには、料理を自分が踏み込めないプロの領域とみるか、我々と同じようなクリエイティブな仕事としてみているか、という違いがあった。
まあでも素人が他業種の仕事に対して「実におもしろい…」とか言ってるのは、確かに恥ずかしいというか、店の人にしたらちょっとウケちゃうダサさあるよな(わたしが店の人だったらそんな客がいたら微笑ましいけど)、わかるわ、というのも含めて確認して、わたしたちの喧嘩は収束した。その仲直りまでの道のりが、ジリジリと慎重に、しかし最短の直線距離をいったみたいで見事だった!と二人とも思ったようで、試合が終わったみたいに、笑い合って握手をしてから半分のハグをして背中を叩き合った。15分くらいで終わったその時間が、正直、わたしは心底おもしろかった。
 
うまく言えないけど「我々は人と人としてここまできた」という感じがした。こんなことで自分たちの関係性を終わらせたりしない、という確信が互いにある上で話せるというのは本当に稀有なことだ。パッと出た言葉が違った時に、ちゃんと調整していくのを怠らずに繰り返していけたら、これをもっと積み重ねたら、他の二人にはできない深さで話ができる関係が、できていくのかもしれない。
 
あの日の喧嘩と解決までの道のりは、人間として、言葉と共に生きていくまっすぐな態度という気がして嬉しかった。ぐるぐると繁華街を歩きながら、低い声でぶつぶつ喧嘩したわたしたちは、人間をやっていくことを諦めていなかった。
 
 
 
最後に今日のこと。
最近、忙しくて人とじっくり話せる機会があんまりなかったので、今日は友人とちゃんと話ができたのが嬉しかった。
待ち合わせた場所に着くと友人がすでにいて、わりと落ち着いた状態とみえるところに、わたしは精神的に息が上がったままのような慌てた状態で辿り着いた。遠くから目があって「お〜」と手を振りながら落ち着いたフリをして、リュックをおろして向かいあう位置に座る。そうしてから、ひとつずつ話すべきことを話していくうち、自分の体とソファがじわじわと馴染むような、空間が自分の延長にあるのがわかるような、体が一つにまとまっていくような感じがしてきた。相手の言葉を待って、考えながら話して、自分のスピードが落ちていく感覚。これから作るものの話をしていて、語り口はテキパキしていたけど、だんだん、それまでの転げるような勢いが落ち着いていった。どんだけ慌てて過ごしてたんだよと今になって思うけど、「人と、ゆっくり話すと、落ち着くのだなあ」と、染み入るように思った。
 
その後、場所を変えて引き続き話していたなかで、彼が「来年はもっと楽しくなる気がするんだ」と言った。それもけっこう迫真な感じで。わたしは、この頃あまりにも慌てた日々を過ごしているせいで、さっきまで自分達が未来の話をしていたことに気づいていなかった。来年は未来でしょ、来年作るものの話をしていたのにバカなのか、と思われるだろうけど、とにかくそうだった。だから、ふいに来年の話を、それも、なんか、漠然とパワフルなことを言われて、なんだか眩しいみたいでびっくりした。
 
えっ、わたし、そういうこと考える余裕が今、全然なかった!ってことに気づいた…!と、自分で言いながら「ウワー」と思った。言葉って未来のことも捉えられるんだった!!元気、でた〜〜
 
 
わたしは「涼しい唇とあったかいコーヒー、ウフフ」みたいなことを、いちいち言葉にしてとっておくような人間だけど、会話の中で人が言った言葉には、そういう描写とか保存とは、全く別種の特別さがあると思う。人から人に渡る時、言葉はメッセージになる。そして、そこには二人の人間の意味づけと意味受け取りが、たいてい非対称にあって、それがおもしろい。
 
3年くらい前に「あなたは音楽に愛されてるよ」と言ってくれた人がいた。言い方としては「そんなに音楽に愛されてるのに!(何を弱気でグダグダしてんのよ)」だったかもしれない。彼女の言葉には少し「わたしはそうでもないのに」というような、ちょっと嫌な、破り捨てるようなニュアンスがあったように思うけど、でも、字義だけとれば、それはわたしが言われたかった言葉だったから、意識的に真に受けることにした。賢くて尊敬している友人からそう言われたら、真に受けたくなる。
そうしていたら、だんだんそれがお守りみたいになってきて、実際に音楽に愛されているとかいないとかはよくわからないことなので置いとくにしても、今は自分がやっていることをちょっと思い切って音楽と呼べるし、率直に楽しい。まるで姉のようなところのあるあの人は、本当にたいしたことをやる…。人が言われたい言葉を短く言いながら、破り捨てるような感じも入れ込んでくるなんて巧みである。彼女とは絶対に口喧嘩したくない。
 
言葉の、こういうところをちゃんと使っていけると、人間をやっていくにあたって良いのかもしれない。言葉の発し手としても、受け手としても、届いた先で違う意味になるということを、ちゃんとわかって遊んで、味わって、読んで、誤読して、未来にする。
 
あの夏のおもしろかった喧嘩もそうだ。さっき聞いたばかりの「来年はもっと楽しくなる気がする」もそう。なんか、たまに会う友人というのはずるいですね。いつも美味しい役をもっていく!