いわゆる大胆


先日、久しぶりに転んで膝をちょっと擦りむいた。自転車で近所の商店街まで出かけて、持ちにくい形の荷物をなんとかしようとしたら荷物と自転車と体が絡まったようになって、バランスを崩し、大きな音を立てて自転車を倒して自分も転んだ。ズボンの下にタイツを履いていたのでそんなに痛くなかったけど、家に帰ってから見たら少し血が出ていた。

怪我をする時ってたいてい一瞬で、でも治るまでの時間は長くて、なかなかダルい。しかし、治るまでのあいだに何度も思い出すからなのか、なんなのか、怪我をした時のことは、時間が引き延ばされたスローモーションのように覚えていることが多いような気がして、その点だけはちょっとおもしろい。

過去一番印象に残っている怪我(痛い話でごめんね)は、右手の親指の内側の関節のところをツナ缶のあいたフチでザックリ深々と切った時だ。怪我そのものは大したことはなかった(鋭利な刃物の傷ってけっこうすぐ治る)が、怪我をした時の引き延ばされたような時間を今も鮮明に思い出せる。
当時の私は料理に使った缶詰の缶を捨てる時、かなり律儀に綺麗にしていた。今は怪我が怖いという理由で水でゆすいだだけで資源ゴミに出してしまっているが、当時はスポンジと洗剤できっちり洗って乾かして捨てていた。怪我をしたその日も、茶碗やコップを洗うみたいに缶を洗っていた。スポンジごしに缶のフチを掴んで、ぐるりと回す。しかし、手の中のスポンジが思っていたよりずれていて、わたしの右手親指の内側の関節のところにツナ缶の鋭利なフチが刃物のように食い込んだ。その瞬間「あっ」と思ったのに、スポンジで食器を洗ういつもの慣れた動作を止め損ない、ゾーッ、と、0.3秒くらいの時間をかけて、わたしは自分で自分の皮膚と肉を深く切ってしまった。びっくりして「あああああ」と情けない声が出た。

あのゾーッとした感触を思い出すたび、皮膚がざわつくような嫌な心地になる。耳のあたりがヒリヒリするし、手首から先がスッと冷えるような気がする。こうして文字にするのもちょっと憚られる。でも、決定的な怪我の一瞬の、引き延ばされた、長さのような深さのような、立体的といったらいいのか、あの名付け難い体感はとても気になる。

これまでにしてきたいろんな怪我のことを思い出してみると、わたしの場合けっこう高い確率で、怪我をする瞬間に体がちょっと先に気がついている。怪我の予感があることが多い。その予感が確信に変わって怪我という体験が現在進行形になった時「あっしまった」と確かに思うが、体は追いつかず、怪我になる。たいていそういう段取りである。

予感がもうちょっと長かったのに無視して怪我したこともあった。もう何年も前だが、ハチに刺された時だ。バイトで雑草をとる作業をしていて、なんとなく感じが悪くて、疲れたかも、一旦離れたり作業を中断したりしようかな、とうっすら思っていたけど、勢いと惰性で作業を進めて、低い木の下へぐいぐい入っていったら、そこにあった巣にいたハチに刺された。いまだかつて自分の腕をナイフで思い切り突き刺したことなんかないけど、それくらい痛かった。(仕事だったのでポイズンリムーバーを持っていてひとりで応急処置でき、ぜんぜん大事に至らなかった)
あの時、刺された瞬間に、あっ嫌な予感が当たった!と思った。後付けかもしれないけど、ハチのわたしへ対する恨みや怒りみたいなものが「なんとなく感じが悪い」に作用していたような気がしてならない。昆虫に感情があるとはあまり思っていないけど、それでも周りの空気に染み出す気迫のようなものは、小さい虫にもある気がする。

あの時「今、なんか感じがよくないな」という予感にしたがって、ちょっと手を止めて周りに注意していたら。あの時もうちょっとだけ慎重にスポンジを握っていたら。力任せにしないで考えておけば、怪我せずに済んだのに……。という気持ちが、記憶の中の一瞬の経験を後から引き伸ばすんだろうか。

たぶん、わたしは自分の意識とか言語的な思考を過信せずに、体が危険を察知する能力のことをもうちょっと信頼したほうがいい。というか、したい。野生のカンみたいなものだ。わたしは過去に野生だったことなんかないけど、言葉にならない嫌な予感とか気配はかなり確かにある。そういうことについては、アタマよりも体のほうがちょっと鋭いのに、言葉を使って考えてばかりいるとそういうのは手薄になる。



話はそれていくけど、わたしにとっては、そういう野生っぽいカンとパフォーマンス中の集中力の使い方は形が似ている。時間や空間とは別の軸に意識が飛んで、そっちで考えたり判断したりしているようなところが似ていると思う。
そして、怪我の予感に似た、ゾワリとした「今、なんか感じがよくないな」という予感や気配は、リハでも本番でも、一定以上の緊張感のある場で演奏しているとたまにやってくる。自分の集中力が足りていなかったり、何か他のことで不安になったりしていると、くる。怪我の時よりも時間的な猶予があることが多く、この段階で対処できれば回避できるし、対処しそびれると呑まれて失敗する。

「集中力」にも色々あって、わたしが欲しい集中力は「良い散漫」だ。全部がただここにある、というような状態。これは昨年ごろに自分の中でクリアになった。視野を広く取り適切にリラックスし、いろんなことに気がつける生き物になると、自分も自分のことが客観視できるような気がするので、なるべくそういう姿勢でできるように臨んでいる。(確信に至った話、過去の記事。https://aoi-tagami.hatenablog.com/entry/2022/01/23/154519
そして、ここ一年くらい、ライブの機会が多くあったなかで、先述のような不安がよぎった時、それを乗り越えるために<意図的に「感じ」を良くして、いやな予感をねじ伏せる>というのをたまにやるようになった。
集中に失敗するというのは強めの重力系攻撃を受けるみたいなもので、捕まるとズルズルとだめになるので早めに断ち切る必要がある。光や音の存在や向きを意識して集中力にブーストをかけたり、自分の表情筋を使って雰囲気を変えるようなこと、肌に浴びる光を味方にするような…、スピっていうと、オーラの色を変えるようなこと。こう書くと大袈裟だけどつまり、状況の捉え方を変えるということ。

そう、状況の捉え方って、けっこうかなり、だいぶ全てというか、もしかして生きるコツなのではないかと思う。

自分が理不尽に怒られている状況を「怒られが発生している」と茶化す言葉遣いがちょっと前にSNSで散見されだした頃があった。あんまり美しい言葉遣いではないと思うけど、自分を今のつらい状況から一歩引いた視点で描写する言葉が心の中にあるだけで、ずいぶんラクになるというのはすごくよくわかる。自分が怒られている今の状況を「いわゆる怒られ」であると定義してみる、というような、客観視の数ある手法(?)のうちの、それを既存の事象と照らし合わせたもののことを「いわゆる」と呼ぶとして、これには、嫌な予感や不安をもねじ伏せて物事を進める力がある。

仕組み上、とてもざっくりしているので乱暴になったり雑になったりするリスクもあるけど、わたしは最近この「いわゆる」を、けっこう上手に使えるようになってきたような気がする。

先述のように良い感じを演じることで本当に良い感じにする、とか、仲良いみたいに話しかけたら距離が縮むとか、そういうことも「いわゆる」の力を借りていると思う。形から入るとか、プレイなどとも呼べそうだ。対人応酬技術応用編。わたしはコミュニケーション強者が天然でやっている「いわゆる」コミュ強しぐさを、めちゃくちゃ考えて真似している。

例えば先日、ライブに1人で来てくれた人に何と話しかけるか迷って、でもここはバーだし、っていうチャラさで明るく「なにを飲んでるんですか?」と話しかけて近くの椅子に座って会話を始めたことがあった。我ながらかなり「いった」と思った。ナンパみたいな話しかけかたをしてしまったことに我ながら内心ウケたけど、あれは「いわゆる」の力を借りた振る舞いだった。「いった」というのは、「うまくいった」の「いった」じゃなくて、なんか、こう、思い切りがあったというニュアンスで…、躊躇の地面をえい!と蹴った、「いった」だ。


その時だけじゃなくて、この頃ずっとそういうムードが自分にある。ちょっと思い切ってかなり大胆になったりしながら、新しいことを進めている。

わたしはすぐお調子者モード(モードも「いわゆる」の一種だ)になっちゃうため、気を許した人の前ではふざけてばっかりである。もう誰も笑っていないのに変な声で喋り続けたり変な歌を歌い続けたりしてしまう。でも周りの仲間はそういうのを温かくスルーしてくれる。皆さんの優しさに支えられて、お調子者モードが持続できています!
たぶん、「いわゆる」の力を借りながら進もうとする時は共犯者が必要で、わたしの周りにはそういうノリで動いてくれる人が多い。わたしが「いわゆる」この感じでいきたいと思いまーす!というのを、けっこう的確に受け取ってそのまま一緒に歩いたり走ったり泳いだり踊ったり歌ったりしてくれる…。

そして、お互いに「いわゆる」が3割くらいあるまま始めたような会話が、いつのまにかすごく普通になっていたりすることが、わたしは嬉しい。前にも書いた気がするけど、仲が良いから一緒にいるとか連絡取るというより、一緒にいたり連絡をとったりすると温かくなれるのは本当にそう。どこまでが「いわゆる」だったのか、分からなくなるくらい、自分で自分を調子に乗せて、友達のこともそうやって騙して、少しずつ本当にしながら全部おもしろくなっていったらいい。


もう、春さえ終わりに近づいて、なんか寒い日もあるけど、いかがお過ごしでしょうか。わたしには夏が見えつつあって、最近は冬に蓄えてしまった脂肪をぜんぶエネルギーに変えるみたいに色んなところに足を運んでいます。うれしい。
自分のことがやれていると、まっすぐ人を好きになれる。体もそうだけど、心の体脂肪率も下がってきたみたいだ。少し体が軽くて、風通しがいい。