夢と死後と時間認識についての雑記

 
今朝みた夢が美しかった。ちょっと不吉だけどすごく鮮やかで、楽しげで、まるで映画でも観たような記憶の残り方をしていて、今日は一日中その景色のことが頭の中にぼんやりあった。

ものすごい数のいろんな動物たちが、楽しそうにゆるやかな行列になって商店街や町を練り歩き、森を抜けて、はらっぱを抜けて、最後には夜の静かな海辺へ辿り着くのを、人間の主人公が目撃する、というお話を描いた絵本を読んでいる、という夢だった。その動物たちは、途中、主人公が目を擦るとガイコツ姿に見えたりして、どうやらこれまでの地球の歴史のなかで死んでしまった古今東西の動物たちが大集合しているらしい!ということが中盤でわかる。

夢の中でわたしが読んでいるのは、絵本というより、正確には何かの冊子の最後のほうに掲載されていた言葉のない漫画のような絵本のような短編なのだけど、夢の全体が入子状になっていて新鮮だった。その作品はたぶん実在しないけど、夢の中での作者は実在する先輩で、すごく優しくてあたたかい水彩の絵だった。
絵本なのに、途中で列の一員に話しかけられたりして、夢ならではって感じだった。「君たち何かいる?」「僕が何か手伝おうか?」みたいなことを親しげに英語で言われて、一緒にいたパートナーが何故か「21時には引きあげて帰るよ」みたいな返事をしていたけど、わたしは、死者に対して返事をしたり何かもらったりしたら危ないような気がしたので、慌ててその動物に会釈をして、パートナーを引っ張ってその場を離れた。

マンモスとシーズーが隣を歩いていたり、普段なら捕食・被捕食関係にある動物たちが何も気にせず楽しげにしていたりするのがなんとも言えない奇妙さで、全体的にぼんやり光っていて、人間は目撃しているわたしたちしかおらず、全然この世っぽくないのだった。



わたしは、いわゆる霊感はないし、見た夢が予知夢だったと後で知るような恐怖体験も一切したことがない。目が覚めた時には、超いい景色を観れてラッキー、夢ってコスパ最強〜!という気分と、え、怖……不吉すぎる………という気持ちが半分ずつくらいだった。いい夢だったような気がしたので、パートナーに一方的に報告して、記憶に定着させた。そのあと、1人になってから、走りに行ったり食事をしたり洗濯をしたりしながら、この余韻に触発されて色んなことを思い出した。


小学生の時、わたしは漫画を書いていた。そのうちの、一番長く描き続けていた漫画のなかで1人だけ、ストーリーの展開上、死んでもらったキャラクターがいた。冒険ものでありながら基本的には誰も死なない漫画だったのに、当時のわたしは彼を死なせてしまった。その時はそんなに気にしていなかったけど、時間がたって、だんだん後悔するようになった。最終的にあの漫画は完結しないまま、続きを描くのをやめてしまった。多分、普通にほかの漫画を描きたくなったから描かなくなったのだと思う。1人死なせたことと描かなくなったことに因果関係があったかどうかはもう分からないけど、小2〜小5くらいまで、クラスの友達に読んでもらいながら3年ほど描き続けていた漫画は、間違いなく幼少期の「代表作」だったのに、完結させられなかった。漫画に出てくるキャラクターたちは、みんな喋る、ちょっと擬人化された動物で、わたしが死なせたのも犬のキャラクターだったのだけど、今朝の夢で彼のことを思い出した。あいつは勇敢で強い犬だった…

SNSごしに大好きだったトノという名前のアヒルが最近死んでしまったことも思い出した。飼い主が毎日のように動画や写真をSNSにあげていて、わたしはそれを見ていただけだけど、芝犬といつも一緒に散歩していたアヒルのトノは本当に可愛くて、会ったこともないのに大好きだった。トノが死んでしまったのがいつだったか正確には思い出せないけど、たぶん今年の秋頃だった。ある日の「トノはお空に行ってしまったワン(※一緒にいた芝犬視点という設定の語尾)」というツイート以降、そのアカウントに投稿され始めた、かつてトノが生きていた頃の動画をいくつか見て、何度か泣いた。わたしは大人のわりにはかなりすぐ泣く人間なので涙に深みがないと自負しているんだけど、でも、会ったこともない好きだった生き物が死んだのが確かに寂しかった。

思い出したふたつの死は、ひとつは完全なフィクションで、もうひとつはほとんど実質的にフィクションだけれど、わたしのなかでは、彼らはあの世に行ってしまった死者で、かつ、人間ではなかった。彼らが死んだらどこにいくのか、わたしにはわからない。もし今朝見た夢みたいに、似た境遇の仲間たちとキラキラふわふわ過ごしていたら、ちょっと救われるような気がした。
 

わたしは特定の宗教に熱心な人間ではないので、「あの世」については、いろんなところからの又聞きみたいに複数の宗教観がごちゃごちゃに混じった身勝手なビジョンを抱いている。日によって「あの世とかないだろ、死んだら無!」という気分もあるけど、軽薄に「あの世にはじいちゃんがいたりするのかな〜」とも思う。死んだら、今朝みた夢みたいに、動物たちのいる次元に帰っていけるような気もする。そうだ、人間が喋ったりするのは社会的な要請があってそうなっているだけなので、死んだらあんまり喋らなくていいんじゃないか。言葉はぜんぶ詩みたいに響いて、あんまり厳密な意味とか、意義とか、目的とか、なさそうだ。歌いたかったら歌えるのだろうか。わからないけど、あまり強くて大きい声が出せるイメージがわかない。くすぐるみたいな歌なら歌えるだろうか。とにかく基本的には黙ってふわふわした状態でいられそう。黙っていていい、というのはなんか悪くなさそうな気がする。わたしは歌うのが好きだし喋るのも嫌いではないけど、黙っているのも好きです。

わたしは、眠るのは生きるのに必須科目の「死ぬ練習」だと思っているところがあるので、眠っている時にあの世っぽい夢をみると妙にしっくりくる。人間が眠っている時に(基本的に)歌を歌わないのは重要かもしれない。生きているから歌うっていうと単純すぎるけど、でも、今生きて歌っているような歌は、おそらく生きていないと歌えない。わたしは、体が邪魔とか、声だけになれたらいいのにと思っていた時期が長い。今でもしばしばそう思う。以前ここにも「色々なものが蠢き騒ぐ景色の一部に自分自身もなれたなら、それは声だけになることに近い気がする」というようなことを書いた。こういう時、生きながら、歌を通して違う次元にアクセスするみたいなことを夢想する。いつかできるような気がする。たぶん、なんかこれは、語彙がバカすぎるけど「禅っぽい悟った感じ」だと思うし、あの世のこととかを時々考えるのは、たぶん自分には必要なプロセスだ。

霊に取り憑かれたりするのは御免だし多分そういう体質ではないので、降ろしてくるという方向じゃなくて、自分から悟りに行くほうの、巫女というよりは修行僧っぽい発想がわたしには似合いそうだなというところまで考えて、なんかよくわからなくなってきたのでそろそろ終わりにします。

あ、最近Netflixで観てすっごくよかったSFアニメ作品『地球外少年少女』のなかで、
 
 
 
(ネタバレというほどでもないですが気にする人のために少し改行してから書きます)
 
 
 
 
 
 
人間もAIも、思考のリミッターを外してめちゃくちゃ賢い状態になると、過去も未来も同時に存在していると解る、全てを同時に理解できる、みたいなくだりがあって、むしろ文字や、大陸の宗教以前および外の文明で生きていた人間たちはその感性を持っていたはずだという研究を思い出した。めちゃくちゃザックリいうと、時間がまっしぐらに未来へ向かって流れていくものではなくて、全ての時間が同時に存在するような考え方もあるよ!みたいな話だ。(友人が勧めてくれた『時間の比較社会学』という本でも似たような話がされていたので多分ある程度、文化人類学とか社会学のなかで考えられてきていることなのだと思う)
これもSF映画なのだけど『メッセージ』という作品で、とても知能の高い宇宙人が空中に描いていた円環状の文字は原作者のテッド・チャン曰く漢字をモチーフにしていた。それをうけて、現代社会ではマイナーな文字である表意文字だが、あれにはそういう可能性(過去と未来を同時に把握する能力)が秘められていたのかもしれないというような指摘を(アボリジニのチュリンガとかも引き合いに出して)大学院時代のゼミの伊藤先生がしていた。もう4年くらい前のことだけど、かなり自分のツボだったらしく、以降こういう考え方がずっと気になっている。
それで思ったのは、あれを(『地球外少年少女』でいう)「知性が振り切れている」状態だと仮に理解するなら、死んで、過去や現在の概念がある現在の言語感覚に支配された現世から離れて、動物たちの暮らす文字のない次元に還っていく時って、ああいう風になれるんじゃないかということです…。
肝心の「知性が振り切れている状態」って何なのか、ふわふわのままだし、もしかしてめちゃめちゃ知性が振り切れている状態って一周回って何もわからない(言語のレベルを超越してしまうと言語で理解できない)のでは、、と思わなくもないけど、死ぬとめっちゃ賢くなる説はおもしろくて良いかもしれない。死ななくても、こういうことを考えるのがわたしは楽しいし、歌はこういうことにアクセスできる気がしています。他者との共通言語を失うという意味でスピってしまわないように気をつけつつ、健康にも気をつけつつ、これからも生きま〜す