新鮮な音量

わたしのこれまでの人生には、夏休みが31日で終わりだった頃と、9月末まであった頃があって、そのどちらの日々もとっくに終わったというのにいまだにこの季節になるとそわそわと淋しくなってくる。
自分にとっての晩夏は、こっぴどい失恋をしたり、めちゃめちゃ恋に落ちたりした季節という印象で、でも冷静に思い出すと半分以上は気のせいなんですけど、とにかく夏の終わる頃はなんだか一度しっかり眠ったりしたい。落ち着いて深呼吸がしたい。風が熱くなくなったな、とぼやぼやしているとすぐに空気が冷たく甘くなって、呼吸の旬、秋と冬がやってきますから、楽しみですね。

最近かなり準備を頑張っていたライブが終わって、あとひとつ29日に演奏をしたら後はちょっとゆっくり過ごす、という時期に今、います。この夏は「自分の曲」と呼べるものが増えていわゆるライブの形で演奏する機会が多くあった。というか自分でどんどん機会を作って、作りすぎてちょっとギリギリだった。心底楽しかった。それに、1人じゃなく人を巻き込んで一緒に自分の曲を演奏できるようになってきたりして、それがすごく嬉しかった。書けない楽譜を書いた!コード譜?だけど。思い出しても胸があったかくなります。本当に嬉しかった!ありがとう。


4月末以来、新しい歌が生まれかけては途中でしぼんだり、メロディが定まっても詩がなかなか決まらず完成させられないままだったりして、そのまま夏になったから、ここ数ヶ月はこれまで以上に同じ歌を何度も歌うことになった。それで、同じ歌を何度も歌うのってやっぱりかなりおもしろいことだと何度目かの再確認をした。
3年くらい前に、ジャワの伝統舞踊家の方に話を聞いた時、同じ型を長年踊り続けているとどんどんディティールが見えるようになってきて無限に解像度が深まるばかりで終わりがない、ずっとおもしろい、というようなことをおっしゃっていた。その時は、ただただ「スゲ〜」という感じで、今だってこんなことを言うのは超おこがましいんだけど、近いことなのかもと思った。
歌詞を間違えたりギターを難しいと感じたりする「抵抗」が、練習と本番を繰り返すなかで少しずつ減って、歌うこととそのディティールに神経がすんなり行き渡るようになっていくと、歌っているというよりは聴いているという感覚が優位になる。以前にもここに書いたことがある、ほどよく気が散ってリラックスしている状態だ。そういう時は自分の歌の細部に新鮮に驚いたり気づいたりできて、素直にめっちゃおもしろい。のだけど、加えて、この聴いている感覚は、聴いてもらう感覚にも直結してくるのでは、というのが今日の本題だ。

先日、名古屋のON READINGという小さな本屋さんで演奏をさせてもらった。この日は「アンプラグドチャレンジ」と題してスピーカーを一切使わずに生音で演奏することにして、灯りについても、へぼへぼの手回し発電機に繋いだ小さなランプが頑張ると点いて疲れると消えるという仕組みをつくって部屋の電気は消してもらった。一緒にパフォーマンスをした岡さんもかなり小さい音量だったので、わたしも歌うなら小さい声のほうがいいと思って、そのようにした。本当に消えそうなくらい小さい声〜普通の声くらいの、かなり狭い範囲のなかで歌った。
それくらい小さい声で歌うと、空間に響く、ということよりも、ここで鳴っている音が直接どこまで届くのか、これ以上速度を落とすと手前で減衰して聴こえなくなってしまうギリギリはどこか、と探ることになる。それがかなり新鮮でおもしろかった。
わたしはしょうもないマッチョ精神の持ち主なので、人が歌っているのを聞くと「腹から声が出ているか?警察」になってしまうところがある。そんなことじゃない部分でいろんな表現が達成されているなんてモチロンわかっているし囁くような声で歌う好きな歌手もいるけど、歌を聴く指針のひとつとして、気持ちよく体が鳴っているかどうか、空間まで響いているかどうかが、どうしても気になる性分である。だから、自分が歌う時にも、ちゃんと体が鳴っているか?と自分に問うような感覚があるし、10年くらいずっとそういう気持ちで歌ってきているので、〈歌う=全身を使って声を空間へ波及させる営み〉というのが、ほぼ固定概念といっていいほど己に深く強く刻まれている。

だから、あえてそれを抑え込んで小声で歌うのは本当に新鮮だった。そして、家で小声でこっそり歌うとかじゃなく聴いてくれている人がいる場でそのように歌うとなると、小さいまま届けるために、声の先のほうまで考えや感覚を巡らせることになる。これまでなら、空間に響かせればみんなに聴こえるだろう、と思っていたことが、まあなんと呆れるほど「漠然」であったか!ということに気付かされた。音がひとりひとりの耳に入っていくルートがきっとあって、それはめっちゃ大事なことなのに、考えが及んでいなかった。そして、聴こえるギリギリの小さい声で演奏するのは「漠然」の真逆で、ちゃんと狙って距離を測って投げないと、手前で落ちたり過剰になったりする。その塩梅を探るのが本当に難しくて、どれくらいうまくいったかは正直わからないけど、とにかくおもしろかった。
かなり感覚的だけど、声の先端の照準をどこにどう合わせてどんな速さで空気を送り出して音にするのか、というようなことを、これは研鑽を積めばいつか適切に操作できる技術になりそうだ、という予感があった。歌を探求するという果てしない地平が、前方だけじゃなく左斜め後ろにも広がっていたのに気づいたみたいな気分だ。


名古屋に行く前、東京(八丁堀・七針)でも演奏をした。この時には、ちゃんと「返し」のスピーカーがあるとめっちゃ演奏しやすい、ということ(すっごく基本だけどこれまでいわゆるライブハウスじゃない場所で演奏しがちだったので)が新鮮だった。でも逆に、自分の音がよく聞こえすぎて、もしかしたらお客さんにはそんなに大きく聞こえてないのにこちらで音量を控えすぎていたりしたシーンもあったようだった。とはいえ「返し」の重要性は確かだったので、この次の名古屋・パルルでの演奏の時には、一緒に演奏した岡さんのスピーカーを借りて、モニターできるようにした。実際やりやすかった。そして2日後に全然ちがうアプローチの「アンプラグドチャレンジ」だった。

これらの3回の演奏をへて、何か基本ぽいことが腑に落ちてきた。電気の力を借りてわたしたちがやっているのは、やっぱり体の、感覚器官を拡張しながら一部の機能を削っていくことだ。聴く人の耳へ「まあそりゃ届くよね」っていう十分な音量でスピーカーから音が出ていって、演る人はここで鳴らす音に集中できる、というシステムがあるのはとてもいいことだけど、耳は本当は単に自分の音をモニターするだけじゃなくてもっと器用に空間を感得する力を秘めているし、声はマイクを通すとただの音色になるけど、空気を直に伝うなら、触覚を伴った感覚器官になれる。


薄暗くて、特に音がよく響くわけでもない小さな本屋さんで、自分の腹にかかえたギターの振動をわずかに感じながら、前方に腕を伸ばして手探りするように声をそっとのばした時の体感は、自分にとって確かに新しかった。いつもは太めのサインペンで一気にぎゅっと描いていたちょっと乱暴なくらいのストロークが、0.3ミリのHBのシャーペンでフリーハンドで直線を描こうとする慎重な運動に変わったみたいだった。個人的な質感があった。誰かが言っていた受け売りだけど、やっぱり大きい声は公共を帯びて、小さい声は個人に還元される比率が多い。

演奏した次の日だったか、体感がおもしろかったな〜と思って、Twitterには「コンデンサーマイクで丁寧に録音する時に似ている」と書いてみたけど、特に穏やかな朗読を録る時のそれに似ていると思う。大きい声をその空間に響かせる必要はなく、このマイク、ひいては将来誰かの耳になる予定の点、複数あるそこへ向かって、本当だったら100出したい息を60くらいまで抑えて、勢いより正確さに神経を使って…、というあの感じ。2020年、コンデンサーマイクなど宅録環境整え始めた当時のわたしは、口の中で鳴ってしまうクチャ、みたいな音がイヤで、あの音をソフトウェアで消せるって知らなかったので、あれをいかに減らせるか頑張っていて異様な緊張感があった。なつかしい。


そういうことが、最近おもしろかったです。繰り返し歌ってきた歌も音量をめっちゃ下げると全然ちがう演奏体験になりますね。簡単に文章にするとあまりに普通のことだけど、今後の演奏に活きていくことのような気がして、ワクワクしています。
去る8月21日も生音ライブだったので小声を探ってみたりもしたけど、キッチンの音を聴くほうに神経がいってしまったところがあって、小声の実践に関してはやりきれないまま途中でライブを成立させるほうにシフトしてしまったのが本音です。ともかく、小声での演奏は、まだまだ想像のつかない伸びしろがある。歌、マジで無限におもしろいです。


今回は夜中につらいことを考え出して眠れなくなってしまったので書きました。近況としては冒頭の通り、名古屋with岡さんデュオめちゃ楽しかったし、その後もknofというカフェ+美容室でほぼ生音の演奏をさせていただき、これは29日にもありますのでよかったら(宣伝)

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お付き合いいただきありがとうございました!おやすみ〜