旨味の岬を呼べるか

最近、味わうことが自分なりにちょっと上達した。言葉が少し見つかって、以前よりも味覚の解像度が上がったような気がする。経験上、耳も目もこういうところがあるとわたしは思っている。身体とは別の次元で言葉も感覚器官を研いでくれるのだ、と思えば、身体が老けていくのにもビビらないでいられるかもしれない。


昨年12月半ばに大きな本番が終わって緊張の糸が切れ、食欲が爆発したまま年末年始をへて、その後の生活のなかでも多少ストレスフルなことがあったりライブが少ないからと油断もしていて、冬の寒さも手伝ってジョギングもサボり気味になったまま食べに食べ、わたしは珍しく、めっちゃ太った。
2月の半ばくらいにやっと体重計に乗ったら、そこに表示されたのは過去1番太っていた中学生の時以来の数字だった。さすがに体の重さとぶよぶよとした肉の存在感がうっとうしくなってきたし、このままでは写真に写った時の「食いしん坊なオラ」といった風情(なんて言えば良いのか、愛嬌はある)が強すぎるので、最近は痩せるほうへ舵を切って、わりと順調に元の数字に戻していっている。

さて、道がそれたけど、今回はそんなふうに欲望のままに食べに食べる日々を過ごして、ちょっと遠くへ行く機会も多くて、味って面白いな〜と改めて思ったという話です。


よく言われることだが、味を言葉にするというのはけっこう難しい。「基本の五味(甘味・苦味・塩味・酸味・旨味)」とか言われるけど、その言葉5つの強弱なんかでは到底表現しきれないほど複雑だ。匂いや食感や喉越しも大きな要素になってくるが、ここではそういうフィジカルな味の体験というよりは、言語的な味覚の話がしたい。感得の少し先の、認識する部分、つまり言葉で研げる領域のことだ。

味を捉える時の口の中には、今まさに味を「捉えつつある」というほんの短い時間的体験がある。食べ慣れたものを口にした瞬間の「あ、こういう味ね」と思う時にはそれは認識できないほど短い瞬間だが、新鮮な気持ちをもって初めてのものを食べる時や、複雑な味や香りや食感をもつものを食べた時などには、「こういう味」の像と実体が重なるのに時間がかかる。頻繁に食べているものや、はっきりと製品と呼ばれるような食べもの…例えば製菓会社が工場で大量に作りビニールの袋にパッケージングされたチョコレートなどは、食べる前に予想する「こういう味」という像と、実際の口の中の体験がすぐに一致する。
味にはそういう、輪郭のようなものがあると仮定したい。つまり、食べる直前に期待する輪郭と実体とが別々にあり、すんなり重なったりうまく一致しなかったりしながら、味わう=味をとらえる、という体験を作っているのではないか。


茶碗蒸しがあんまり好きじゃないという友人にその理由を聞いた時、子供の頃にプリンみたいな甘いものだと思って食べたら違ったからびっくりして、生臭いような気がして、それから苦手だ、と言っていた。<冷蔵庫の茶色い液体を麦茶だと思って飲んだらめんつゆだった>みたいな、よくある事件だ。これは期待した輪郭と実体がうまく重ならなかった例だ。
子供の頃にはたくさんあった「初めて食べる」という体験は大人になるとだんだん少なくなるが、それを寂しいことと諦めずに、目の前のものを能動的に味わいに行くことで、何か突破できるんじゃないかと思う。味を知っていくというのは、期待した輪郭と実体がちゃんと重なっているかどうか判断できるようになっていく過程だ。二つの像の重なりかたやズレかたを把握できるようになっていくことだ。

発達した味覚を持つ者は、想像していた味の輪郭と実体のどの特性がどのくらい合致しているか、経験をもとに照らし合わせることができる。「甘味が圧倒的に強い、青っぽい臭みが少しある、奥の方にピリッとした辛みを感じる蜂蜜!」みたいに、輪郭を描写することができる。味わった食べ物の数が増えていくほど、比べた体験が積まれていくほど、旨味の輪郭を捉えるのが上手になるはずだ。たとえば味という島があったとして、その地形や土の色や質感を把握していき、ここは!とハッとするような岬や山頂があったなら、そこに照準を合わせると「うまい」という判断ができるーーなんなら脳内でその旨味の岬や山頂を繰り返し眺めたり触ったりできる。それが「味わう」だ、というイメージです。……具体例があったほうがいいですね。

以前、中国料理の店で、とんでもなく臭いものを食べたことがあった。名前を忘れたけど、臭豆腐の上にくさや液みたいな、魚を発酵させた感じのグレーの塩っぱいドロドロがかかっているやつだ。「やつ」と呼んでしまうくらい、最初の印象が食べ物っぽくなかった。仲間とワイワイ飲んでいる席だったが、それが運ばれてきた瞬間、あまりの臭さに全員ドン引きしていた。一口でやめた人も何人かいたけど、何人かは意外とイケるね…と食べ進んでおり、わたしもその一人だった。
初めて食べるものを口に入れた時、この味はどっちにどれくらい尖っているのか、みたいなイメージを探る感覚があると幸先がいい。これが上手くいくと、脳がこれまでの味の経験と、今この瞬間の味の像とを紐づけることに成功する。つまり「あ、このテの美味しさですね!」というのが判断できる。そこへきて初めて、美味いか不味いかがジャッジできる。この時の臭豆腐みたいなやつは、わたしなりにその旨味の方向が見つかったので「イケる」判定ができた。

しかし、これはいつでもできることではない。数年前、インドネシアに二度目に行った時、ジャカルタの街中にでていた屋台で、初めてドリアンを食べた。日本人の先輩が「ここに来たならドリアンは食べとかなきゃ」と言って案内してくれたのだが、ビールを飲んだ後だったので死ぬんじゃないかとハラハラして気が気ではなかった(ドリアンとビールを同時にいくと腹が膨らんで破裂して死ぬという都市伝説がある)。
この時は、わたしはドリアンの美味しさの方向性が見つけられなかった。果物としての甘みと、野菜っぽい青い味と、酒のような発酵系の匂いを、あのヌチャッとした食感と共に同時に口に入れた時、どれを旨味として認識して伸ばしていくかーー見つけた旨味のほうへ向かっていく、とも言えるが、ともかく旨味を見つけたらそれをしっかり捉える、よく見つめるというような感覚がある。味わうことはかなり能動的な行為であるーーが、わからず、そのままになってしまった。初めて食べる味すぎて、美味しいかどうか判断できなかった。それを「不味い」と切り捨ててしまうのは簡単だったけど、半分は意地、半分は探究心で「ドリアンは不味い」と今決めてしまうのは時期尚早なのではないか、とその時は思った。先輩が面白がって「おいしい?」と聞くのに対し「なんかちょっとよくわかんないですね……」みたいに曖昧に返したのを覚えている。自分は目の前のものが美味しいか不味いかくらい判断できる、と思っていたので、珍しく確信が持てなかったことがけっこう悔しかった。

そして、数年後にまたドリアンを食べた時、美味しいドリアンだったからだろうか、甘みと臭みのベクトルやその角度がスッとわかった。あれっ?こんなふうに美味しいんだ!と理解してからは、普通に美味しく食べられるようになった。味の違いもわかるようになった。皮を剥いて冷凍して時間がたったものには特有の臭みが出て、それが前面に出てしまうと多分ちょっと美味しくない。ちょうど滞在していた頃にドリアンが旬だったようで、やや高価なフルーツではあったが、見つけるたびに食べて、わたしはその味の輪郭を把握していった。

やっぱり人間(というか少なくともわたし)は、言葉でわかるとか、理解できるということに安心するようだ。味は、かなり複雑な輪郭をしている。立体的だし、時間の概念もある。言葉にするのは難しい。それでも「あ、この感じのこのあたりをこっちに伸ばしていくと味がクッキリするな」というのが感覚的に掴める瞬間というのはあって、ああいう時に、食べるのって楽しいなと思う。

料理によっては、これはクローブの香りだとか、このハーブも効かせてあるよねとか、発酵した白菜の酸味っぽいんだよな…とか、かなり具体的に食材で分析することもできる。料理上手な人はレストランで食べたものの味をちゃんとそうやって分解して認識できるのだと思うし、以前インド料理を振る舞ってくれた人は、パクチーの使いかたがインドと東南アジアでは全然違っていて…というのを熱弁してくれた。インド料理のパクチーは味に奥行きを出すため(って言っていたと思う)に使われていて、東南アジアのはそうではないらしい。わたしはインド料理の調理工程に明るくないのであんまりよくわからなかったけど、そういう解像度で料理ができたら相当おもしろいだろうな〜と思った。

ただ、わたしが興味があるのは、作るよりも味わうほうで、その味についても、どちらかというともっと訳のわからないもの、混沌とした、たとえば精製されていないような野菜や肉や果物だ。料理は素材と工程の産物であり、これは具体的に説明可能な作りだが、ドリアンはただドリアンであるという以上に細かくすることができない。品種や育て方によって味をある程度操作できるにしても、ドリアンがドリアンになったその過程の1番奥には、人は介入できない。「こういうスパイスを組み合わせるとこういう風味になる」とかではなくて、もっと混沌とした、極めて命に近いところに、人の手ではないものが作った味の像がある。

混沌とした味の野菜や肉、精製されていない食材というのは、普通に生活しているとあんまり出会えない。スーパーで買ったニンジンだって、間違いなく土の下で育ったニンジンのはずだけど、雑味がほとんどない。味の精製度が高い。つまり料理には使いやすいのだけど、古くなって芽が出まくったジャガイモを料理して食べた時に、あ、限界ジャガイモの風味(酸味とか苦味みたいな渋さ)があるな〜、という時のほうが、なんかおもしろい。最近買った美味しいお米も、それまでの安いお米とは全然ちがってすごくおいしいけど、どこかで食べたことのある白米の味だった。もちろん、日常生活のなかではそれで十分だし、味の整った扱いやすい食材がいつでも手に入るなんて本当に豊かなことだけど、時々ちょっと物足りないし、なんか怪しいと思う。「ニンジン」という記号を買っているような気分さえしてくる。匿名性の高いニンジン、一年中ハナマサの店先にあって、お金を払えば手に入るニンジン…。変な感じ。

最近、伊豆大島に何度も行く仕事があって、ちょっと変わったものを食べる機会が続いた。伊豆大島はそれほど東京から遠くないけど、地元で採れた野菜を売っているところに行くと見慣れない野菜に出会えた。おそらく一番有名なのが明日葉。これは東京でも食べたことがあったし飲食店でもよく出てくるのですぐに慣れた。それから、別にここの特産というわけではなさそうだけど、オカワカメ、キクイモ、スティックブロッコリーフキノトウ。そういうのを買って帰って、ちょっと珍しがりながら食べた。くさやも食べた。某居酒屋の店主が作ったというかなり個性的な香りのヤマモモの焼酎とか、なんか謎の(やばい)焼酎とかも飲んだ。

そういうのをちょっと楽しく味わっていくなかで、わたしが気になるのは、マジで食材が野生っぽいやつ、か、あるいは発酵(それもドメスティックな)の工程を経ているもの、だな〜というふうに取り急ぎ整理された。わたしは多分「食べやすくないものを食べ、味わう」ということにそこそこ興味がある。おそらくこれは食における贅沢とか趣味のひとつの方向として珍しいものではないので、同志がたくさんいると思う。
最近たまたま友達と「やっぱりシュールストレミングを一回でいいから食べてみたい」という話にもなっていたし、なんかそういうのを食べたりすることを面白くやっていきたいです。趣味として…。

混沌とした味のなかに輪郭を見つけにいく旅、というと大袈裟だけど、味ってけっこう宇宙だ。道もないし距離もないし時間もあてにならない小さな体験に、自分で輪郭線を描くような、見つけたものに名前をつけて呼ぶような、そういうことを通してちょっと自分のものにできるような気がする。そして一瞬で消えていく。すごいな〜、味。目に見えないし形も音も持っていないけど、わたしにたくさんの刺激をくれる。

わたしは歌を歌うのが生き甲斐で、口のなかの空っぽの空間を使って声を響かせるのが大事な仕事なのだけど、美味しい〜と言って食べながらじゃ、どんなに嬉しくても歌い出せないのがけっこう可笑しい。だけど、口の中でいろんなことが起きている、それを楽しんでいる、というところで、歌うことと味わうことには近いものがあると思う。目に見えず、形を持たないけれど、極めて直感的に身体と関わり、生活と命のすぐ近くにある。