わたしは、声と言葉を手法に、風景を主なモチーフに歌の作品を作ってきた。ヴォーカリストとかアーティストという肩書を名乗ることが多いが、やっていることはほぼシンガーソングライターだ。
自分の歌のモチーフは多くが「この目で見たもの」で、風景からヒントを得て歌を書いてきたし、それらを歌う時にも、この場の風景のなかにこの体で在るのだ、という感覚が頼りというか、根拠というか、礎みたいにある。もはや自分の表現と風景とは、切り離せない関係にあると思っている。
そんな人間として、先日みた現代美術の作品がとてもおもしろくて学びがあったので雑感を書いておきたい。
それは、加藤広太による《あなたにではない、何かに向けて》という作品だった。これは、取り壊し予定の数件の古い家屋を使った、若手美術作家を多く集めたグループ展「150年」に出展されています。会期は2025年1月27日(月)まで…。この記事に詳しいかも https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/150years-report-202501)(今回の文章はわたしが勝手に書いているもので、企画や他の作品については言及しません)(何か間違ってたらこっそり教えてください)
この作品は、3階建の建物の眺めの良い屋上に設置された巨大なディスプレイに映されている映像と、作品の解説をしている音声(1分程度の音声がメディアプレイヤーでループ再生され、トランスミッターを使って数メートル離れたところに置かれたラジオから聞こえるようになっている)で構成される。ただし映像は、人の身長を超える高さに設置された大きなディスプレイに写されているらしいのだが、画面はすぐそばを走る首都高速道路のほうに向けられている。観客にはディスプレイを支える金属製の什器の鏡のような裏側が見えるだけで、ここから映像を見ることはできない。わたしも見ていない。
解説の音声によれば、これは首都高速道路を走る車の中から見えるように設置された映像であり、風景を撮影した数秒を会期(たしか10日間)時間ぶんにまで引き伸ばす編集が施されている。つまり、ほとんど静止画にしか見えない映像なのだという。
作品の要素はこれで全てだ。とてもシンプルながら、わたしはかなり感動してしまった。
風景というものに、わたしは自分の身体で対峙することしかできないと思ってきたし、むしろそれがおもしろいと思ってやってきたけれど、加藤さんの作品は「車の身体」から発想されていた。(本人のことを少しだけ知っているのだけど、彼は車の運転が好き)
車は人間の足よりもずっと速く走る。運転手が車窓から見る景色は常に一瞬だが、そこで見られている景色というのは、人がそこを車で通ろうが通るまいがずっとそこにある、風景でもある。都市の風景は、里山の四季のような変化には乏しく、ほとんど止まった写真のような状態に見えながら、しかし、視点をかなり遠くに置き、広く都市を眺めるならば、ゆっくり動いている。まずこのことにだいぶハッとした。速い視点から巨大を経て、ゆっくりしたもの、長大な時間感覚に想像力が至るのがシンプルにおもしろい。
そう、速いということは遠くまで行けるということで、遠くまで行けるということは、土地の距離や広さがわかる、つまり巨人のような視点を獲得できる、ということでもある。
人間サイズのわたしの視点では、都市は全てのスピードが速いはずなに(特に夜は)季節感が薄く、ある意味では止まってるみたい、というイメージだったが、なるほど車の速さと距離をもった巨人の視点で見てみれば、人には観測できない速さでゆっくりと変化していると想像できる。
自分の足で歩いて立って、目で見て肌で感じる都市と、速くて巨きな「車の身体」で出会う都市とは、全く質が異なる。わたしにとって後者はかなり新鮮に感じた。
それは、加藤広太による《あなたにではない、何かに向けて》という作品だった。これは、取り壊し予定の数件の古い家屋を使った、若手美術作家を多く集めたグループ展「150年」に出展されています。会期は2025年1月27日(月)まで…。この記事に詳しいかも https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/150years-report-202501)(今回の文章はわたしが勝手に書いているもので、企画や他の作品については言及しません)(何か間違ってたらこっそり教えてください)
この作品は、3階建の建物の眺めの良い屋上に設置された巨大なディスプレイに映されている映像と、作品の解説をしている音声(1分程度の音声がメディアプレイヤーでループ再生され、トランスミッターを使って数メートル離れたところに置かれたラジオから聞こえるようになっている)で構成される。ただし映像は、人の身長を超える高さに設置された大きなディスプレイに写されているらしいのだが、画面はすぐそばを走る首都高速道路のほうに向けられている。観客にはディスプレイを支える金属製の什器の鏡のような裏側が見えるだけで、ここから映像を見ることはできない。わたしも見ていない。
解説の音声によれば、これは首都高速道路を走る車の中から見えるように設置された映像であり、風景を撮影した数秒を会期(たしか10日間)時間ぶんにまで引き伸ばす編集が施されている。つまり、ほとんど静止画にしか見えない映像なのだという。
作品の要素はこれで全てだ。とてもシンプルながら、わたしはかなり感動してしまった。
風景というものに、わたしは自分の身体で対峙することしかできないと思ってきたし、むしろそれがおもしろいと思ってやってきたけれど、加藤さんの作品は「車の身体」から発想されていた。(本人のことを少しだけ知っているのだけど、彼は車の運転が好き)
車は人間の足よりもずっと速く走る。運転手が車窓から見る景色は常に一瞬だが、そこで見られている景色というのは、人がそこを車で通ろうが通るまいがずっとそこにある、風景でもある。都市の風景は、里山の四季のような変化には乏しく、ほとんど止まった写真のような状態に見えながら、しかし、視点をかなり遠くに置き、広く都市を眺めるならば、ゆっくり動いている。まずこのことにだいぶハッとした。速い視点から巨大を経て、ゆっくりしたもの、長大な時間感覚に想像力が至るのがシンプルにおもしろい。
そう、速いということは遠くまで行けるということで、遠くまで行けるということは、土地の距離や広さがわかる、つまり巨人のような視点を獲得できる、ということでもある。
人間サイズのわたしの視点では、都市は全てのスピードが速いはずなに(特に夜は)季節感が薄く、ある意味では止まってるみたい、というイメージだったが、なるほど車の速さと距離をもった巨人の視点で見てみれば、人には観測できない速さでゆっくりと変化していると想像できる。
自分の足で歩いて立って、目で見て肌で感じる都市と、速くて巨きな「車の身体」で出会う都市とは、全く質が異なる。わたしにとって後者はかなり新鮮に感じた。
美術家をやっている別の友人が「車の免許をとった時に僕の父が言っていたんだけど」といって聞かせてくれた言葉を思い出す。曰く「車に乗る生活に慣れると、歩いたり自転車に乗ったりしていた時の視点やその時に見えていたもの・感じていたことが分かりにくくなると思うけど、そうならないように気をつけろ」と。そんなアドバイスをする父親ってなかなかいない(し、良い)と思う。交通事故に気をつけろとかじゃないんだ、と笑って言っていたけれど、すごく印象に残っている。また、わたしが最も影響を受けたアーティストの1人に村上慧さんがいるが、彼も、歩いて移動することを基点にして家や生活をテーマに制作していた時期が長い。他にもいろいろなものごとに感化されて、わたしにとって「身体感覚を大切にしないと色々なものを見落とす」ということは、かなり揺るぎない考え方だった。今も基本的にはそうだ。
だが、確かに、車に乗った身体からしかできない発想、生まれないアイディアというのはある。加藤さんの作品はそうだった。わざわざラジオを使って音声を電波に載せているのもおもしろくて、(本人の意図は聞いてないので想像だけど)これがわたしには「都市には人が目で見るのとは違うレイヤーが重なっていて、これは今そういうもののひとつにアクセスしている」というような表現に見えた。ちょっとSFっぽい想像力につながり始めるのがアツい。
加藤さんの作品を前にした屋上で実際に鑑賞者が目で見れるのは、彼の作った映像ではなく、屋上からの現実の景色だ。周りの多くの鑑賞者も「あっ映像みれないんだ」とわかるとすぐ景色を眺める方に移行していた。それは普通に眺めのいい都市風景だけど、作品を通して新しい視点を獲得すると、まるで違って見えてくるのだった。景色がこれまでとは違ってみえるというのは、良い表現にしかできない、しかしお決まりの、わたしの大好きな偉業です。
ところで、昨年の夏、千葉の山に遊びに行った時に見た現象が忘れられなくて、昨年の「ベストオブきらきら」だった。
山から降りていた時のことだ。歩いていた道の右手にあった、椿か何かの、濃い緑色の光沢のある葉っぱの表面に、ぎらぎら照りつける青空を伴った日差しが当たって、空色に光っていた。葉っぱの表面が鏡みたいにつやつやしていて、その程度が甚だしく、また、光も強烈だったから、空の青が写って見えていた。
椿の葉っぱの表面がそのように光を返すことをわたしはずっと前から知っていたし、歌ったこともあったくらい好きな現象だったが、青い色までもが映るというのはこの時に初めて知って「こういうことあるんだ!!」とかなりグッときた。
あまりに感動したので、それ以降も晴れた日はツヤツヤした葉っぱの木を気にして見ていたが、先日、また別の山に登った時にも、同様の現象が観測できた。「わりと普通にあるんだ」とわかって若干熱が冷めたが、素敵なもんは素敵である。木漏れ日、みたいに、なにか名前がついていそうなものだけど、その言葉をわたしは知らない。なんていうんだろう。これってたぶん、けっこうリテラルに「逆木漏れ日」なんだけど(太陽からくる光のうち木の葉にあたって溢れているものが木漏れ日なので、溢れずに木の葉の上に湛えられている光の姿は、逆木漏れ日といえそう…、あるいは木漏れず日?)全然詩的じゃなくてひどい。悔しい。木漏れなかった光…葉っぱ反射光……うーん
ともかく、わたしはこういうことに言葉をさくのが好きだし、こういう小さな気づきは風景をこの身体で確認しているからこその賜物だと若干誇りにすら思う。でも、それとは全く真逆の、むしろ巨大な都市を巨大なまま、圧倒的な時間的スケールを持った空間、飛行機から見下ろすようなどでかいフィールドとして捉えるような視点があって、そこからおもしろい表現がうまれることがあるんだ、というのが、今回は感動的だった。加藤広太さんありがとう。勉強になりました…。
あまりに感動したので、それ以降も晴れた日はツヤツヤした葉っぱの木を気にして見ていたが、先日、また別の山に登った時にも、同様の現象が観測できた。「わりと普通にあるんだ」とわかって若干熱が冷めたが、素敵なもんは素敵である。木漏れ日、みたいに、なにか名前がついていそうなものだけど、その言葉をわたしは知らない。なんていうんだろう。これってたぶん、けっこうリテラルに「逆木漏れ日」なんだけど(太陽からくる光のうち木の葉にあたって溢れているものが木漏れ日なので、溢れずに木の葉の上に湛えられている光の姿は、逆木漏れ日といえそう…、あるいは木漏れず日?)全然詩的じゃなくてひどい。悔しい。木漏れなかった光…葉っぱ反射光……うーん
ともかく、わたしはこういうことに言葉をさくのが好きだし、こういう小さな気づきは風景をこの身体で確認しているからこその賜物だと若干誇りにすら思う。でも、それとは全く真逆の、むしろ巨大な都市を巨大なまま、圧倒的な時間的スケールを持った空間、飛行機から見下ろすようなどでかいフィールドとして捉えるような視点があって、そこからおもしろい表現がうまれることがあるんだ、というのが、今回は感動的だった。加藤広太さんありがとう。勉強になりました…。
私の場合だと、都市を前になにか作ったものといえば、数年前にこの曲(「モーターリバー(https://youtu.be/HmeVePU5XkE?si=wjw3-ZRD2t6TXxdr)を書いたけど、同じようなモチーフ(都市、高架高速道路)を据えておきながら、こんなにも違う視点が、あるんだ〜〜っ!という喜びがあった。表現って本当におもしろい。
また、何かを写真や映像に撮るとか描写したりする、などという表現の根本的な営みについても、加藤さんの作品には批評的な視点があったように思う。
ついさっき、わたしは先日やった焚き火の映像をiPhoneで撮影したのを見返していて、撮った映像のなかで火はいつまでも燃え続けるなあ、と思ったのだけど、ちょっと考えたらマジで全然そうじゃなかった。映像に撮ったら永遠になるんじゃなくて、永遠にある現実から、それこそcaptureしているだけ、切り抜いて扱い可能な状態にしているっていうだけなのだ。手に取れるようにしているだけ。
また、何かを写真や映像に撮るとか描写したりする、などという表現の根本的な営みについても、加藤さんの作品には批評的な視点があったように思う。
ついさっき、わたしは先日やった焚き火の映像をiPhoneで撮影したのを見返していて、撮った映像のなかで火はいつまでも燃え続けるなあ、と思ったのだけど、ちょっと考えたらマジで全然そうじゃなかった。映像に撮ったら永遠になるんじゃなくて、永遠にある現実から、それこそcaptureしているだけ、切り抜いて扱い可能な状態にしているっていうだけなのだ。手に取れるようにしているだけ。
でも先日の加藤さんの作品は、そもそも観られない(作った本人さえ10日間にわたる映像を全編観てはいないだろう)構造で制作し、それを現実の都市に開いた屋上で提示することで、都市のでかさ、手に取れなさを教えてくれていたと思う。
焚き火も、都市も、山も海も、あらゆるすべての現実が、人間に切り取られようと切り取られまいと、言葉を持たないカオスとしてそこにただ在る。何かを撮ったり記録したり描写したりする時、目の前の現実はびくともせずにでっかくそこにあるんだぞということに、今回あらためて思い至った。
自分の話につなげてばかりで恐縮だが「歌をその場に起こすのでみんなで聞いてみませんか、というスタンスでいたいと思っているんです、火を囲んでるみたいに」というようなことを、昨年うけたインタビューで話したことがあった。(https://x.gd/cBIgP)これは正直ちょっと友人の受け売りだったのだけど、今回のことを通して、一段階深く自分のことにできた気がする。
現実に歌を起こす。それは町がそこにあるとか、火がそこで燃えているとか、山がこのようにそびえているといったことと同じ地平に投げ出された「生きている」という事実の延長に、どうやらあるみたいだ。
歌は、パッと考えるととても短くて刹那的なもののように思える。だが、わたしのような末端の音楽家が作った歌であっても、なんだかいつのまにか友達の口先で歌われていたり、会ったこともない人が演奏してくれていたり、海を越えた遠い国で録音が再生されたりしている現状をみると、どうやら短い現象ではないようなのだ。
歌はこの世に生まれて、歌われ聞かれ再生されるなかで、山とか家とか、海とか都市とか、そういうものみたいに、なにかどーんとしたものになれるのではないか。そして、たまに演奏されるたび、我々はその「どーんとしたもの」にアクセスしている……みたいなことなのかも。歌には大きさがない、と勇気を出せば言ってしまえるような気がする。歌には大きさがない!!
そう思うとやはり、風景について考えることと、歌を扱うことは、かなり親和性が高そうだ…ぜんぜんまとまらないけど、ともかくわたしは「歌」のほう、担当させていただきます!というところで〆ます。
そう思うとやはり、風景について考えることと、歌を扱うことは、かなり親和性が高そうだ…ぜんぜんまとまらないけど、ともかくわたしは「歌」のほう、担当させていただきます!というところで〆ます。