手の向こうに人、命ある味方

最近、架空の人物と手をつなぐ瞬間、というちょっと変な夢をみた。自分でも引くくらいディティールの感受に全振りした夢で、時間も引き伸ばされたようだった。自分の人差し指の親指側の側面と親指の腹のあたりの皮膚表面の、指紋や細かいシワの凹凸の摩擦のあるなかに、相手の手がするりと触れて、その皮膚表面の質感や全体の質量や密度や湿気を感じつつ、指の付け根のあたりをまとめて握る力の加減や指の形を少し調整しながら、相手もそうしているのがわかった。そうやって互いの出方をみるような、探りあうような、手が離れたところから繋いだ状態まで辿り着くまでの一瞬が、その夢の覚えている限りの全体だった。
触れるということを深く味わおうとすると時間が止まるみたいだ。相手の手の存在感が濃かった。まるでマクロレンズとハイスピードカメラで撮影した昆虫のドキュメンタリー映像のような解像度で瞬間を引き伸ばしたような味わいで、ただ手を繋いだ。自分たちが立っていたのか座っていたのか寝ていたのか歩いている途中だったのかもわからないし、相手は自分の夢にしばしば登場する、色んな人が混ざったような架空の人だった。お互いに人間であることだけが確かだった。なんとなく、良い夢だったような気がする。でも、あんなに繊細な夢で、たぶん湿度まであったのに、相手の手の温度がどれくらいだったかはいまひとつ覚えていない。それが今になって妙にしっくりくる。やっぱりあれは誰の手でもなかった。

私は人の手を見て「いいなあ」と思うことが多い。羨ましいということはなくて、ただ好きだな〜というシンプルな「いいなあ」だ。
手がけっこう大きい女性の友人がいる。彼女が音楽をやる時にその大きい手の指先で機材をさらさらと操作する様が良い。一緒に写真撮ろ!とスマホを構えるとノリよくサッと指で韓国式のハートを作ったりしてくれるのだけど、それもいつも似合っている。
とあるダンサーの友人も良い手の持ち主で、彼女の手は、手のひらの「平!」って感じがする。指をいっぱいに開いたり、しっかり床についたり、シャキッと型を作ったりする姿が直線的でかっこよくて、普通の人の足くらいの強度を感じる。すごく好き。
その人とはまた全然違う質感で踊る友人の手も良い。ネコの背みたいな柔らかそうな姿の良さに加えて、その少し大きい爪に最近マニキュアを塗っていて、めっちゃ映えている。がしっと何かを掴むというよりは、微細な空気の質の変化を察知するような手の甲の印象が強い。
楽器の演奏を仕事にしているある友人の手は、意外と丸い。脂肪が多くついているのではなくて骨や関節のトゲのなさでそう見えるという感じ。爪も短くしていて、河原の角の取れた石みたいで似合っている。何かの拍子にこんな手なんだと知った時、この手があの鮮やかで騒やかな演奏をしているというのが、やや意外だというのも含めてすごく腑に落ちて嬉しかった。
たまに2人で会うことがある女の子の、強く握ったら壊れてしまいそうなくらい細くて繊細な手が細い腕の先にあって、さらに細いフォークをつまんでいて、ああ似合ってるなと思ったのとか、やや神経質なところのある友人の指の爪が薄そうだったのとか、婚約したんだと言って指を見せてくれた友達の、細く光る指輪よりも、ふんわりした白い指とすべすべの手の甲があまりに可愛くて、ああ!そりゃ婚約もするわ(?)!と思ったこととか…、ほかにもいっぱい、キリがないくらい「あの人はあんな手をしている」という確かな記憶が、けっこうしっかりとわたしにはある。ラッキーなことに、良い手の持ち主が周りに多いのかもしれない。みんなそれぞれに、それぞれの手の姿がよく似合っているし、手のことを思い出すと、彼らが各自の手をどう使っているのかという仕事や生活までついてくるのでおもしろい。

そうやってなんとなく思い出せる手を思い出せるだけ思い出していたら、他人の手の姿は、いつも爪と手の甲の側の印象ばかりだということに気づいた。手に表と裏があるとしたら、たぶん、こちらを表と呼ぶべき面。指輪の飾りも表、マニキュアの色も、表にある爪につく。そして、手という器官の使い方からすると、手の甲と手のひらって、表と裏どころか、外側と内側なんじゃないかとも思えてくる。


そこまで考えて、ただ1人だけ、手の外側ではなく内側の印象が真っ先にくる人がいるのに思い当たった。10年くらいの付き合いになるパートナーだ。その手の内側は何故だか一年中ぽかぽかしていて、この手の向こうにしっかりした命がある、という感じがする。ちゃんと生きていて、頼もしくて優しい。間違いなく好きな手だ。でも、さっき並べたような友人たちとは違って、この手に関しては、「好きな手」という言葉がよそよそしく思える。

わたしはその手の、目で見た外側の姿よりも、皮膚でわかる内側のことを、そのあたたかさを好いているんだと思う。多分、あの手の向こうに続くひとりの人間の、過去も未来も含む人生全体のことを愛しく思っていて、命ってたぶん有限だなあ、とかにもしょっちゅう思いを馳せている。それが全部、あたたかさや厚さや重さに集約されているみたいな。仕事で酷使していつもボロボロになっていたりする手だけど、わたしが知っているあたたかさは、そういう仕様とは別の次元にある。手というよりも、もっと親密な、その人自身がそこにあるような。


自分に触れた誰かの手に命の存在を知るというのは、手を姿や言葉で観察している状況とは全然ちがう。手の内側には、その人間そのものを総合的に代表する感触というか、(マジでうまく言えなくていきなりスピるんだけど)生命エネルギーを練ったり発したりする仕組みがあるような気がする。「手」よりももっと他の呼び方がありそう。「相手」という言葉の一部でもある「手」は、実感しているあたたかさや命の印象と一致しない。なんか距離がある。わたしにとってパートナーの手は、もはや「相手」じゃない。命ある仲間?味方?みたいな…。なんて言えばいいんだろう。ああでも、小さい鳥を飼い主が手で包み込んでいる時の手は、きっと鳥にとって、手と呼んで名指せる、視覚で捉える距離の相手というよりも、大きくてあったかい肉と骨と血でありながら同時にそのどれでもないような、ただのあたたかさ、大切にしてくれる味方の気配なんじゃないかと想像する。あれに近い気がする。わたしは手のなかの小鳥なんて可愛らしいもんではないですが…。


話が漠然としてしまったけど、つまりは、手の内側はけっこう特別だということ。そのすごさにやられた出来事があったので書いておきたい。だいぶ前、とある企画で一緒になった憧れの先輩が、本番の前に「自分いまめっちゃ緊張してる!手が冷たい、ほら」と言って突然わたしの手を握ったことがあった。確かに、冷え性のわたしよりもその手はヒンヤリしていて、こんな人でも緊張するんだなあと素朴に思った。そして、イベントが無事に終わった帰りの別れ際で「今日はありがとう」と手を差し出されたので握手をしたら、さっき冷たかった手が、とてもあったかくなっていた!!
かなり「ウワーーッ!?!?」ってなった。数時間前の手の冷たさとの差もあいまって、今はとても気分が良いです、リラックスしています、というようなその人の心と体の状態が急に皮膚ごしに流れ込んできたことのヤバさに、脳がクラクラした。まるで相手の心の一部を直視してしまったようで、完全にドキドキしてしまった。そして屈託のない笑顔。なんて素直な人なのか。他人の体温≒心の変化を、こんなにダイレクトに感じることって滅多にない。加えて、わたしはチョロすぎるので、ついウッカリ歳上のその人をなんとなく可愛く思ってしまった(好ましい人の生理現象は愛しく思えるというの、ありませんか?わたしはあると思っています!)。
乗り換えの駅で降りたその人に、動き出す車窓越しにふらふらと手を振りながら、わたしは「凄まじいモテテクを行使されちまった……」とかなり失礼な感想と共に呆然としていた。ちょっとあれは、反則というか、半分は偶然かもしれないけど、なかなか素人に真似できることではなかった。完敗です。

そう、大人の手は、わたしの手もそうですが、そんなふうに色んな、素直さや緊張やら下心やら誤魔化しやらなんやらにまみれて、冷えたりあったまったりしてどうも複雑みたいだけど、もしかしたら小さい子供の場合は、全然そんなことないのかもしれないと思ってて。

半年くらい前、友人の娘に会いに行ったことがあった。たぶん生後3ヶ月〜半年くらいだったと思う、そのあたりを全く正確に認識できないくらい赤ん坊に対する知識や経験値がないわたしは、その小さい小さい手がひんやりしていたことに、けっこうびっくりした。とても意外だった。体は普通にあったかくて、両脇を抱えて踊らせてみたりして遊んだらちょっと汗を感じるくらいだったし彼女は元気だったけど、ミニチュア細工みたいに精巧な小さな爪の指先はしっとりしながら常温以下で、神秘的というと言い過ぎだけど、なんか不思議だった。冷え性とかでもなくて、そういうものなんだと思う。その手で包めるものがまだほとんどない小さな手は、誰かに包まれるものとしてそこにあって、だからほんのり冷たくてもいいみたい。

その子は友人夫婦によって、あえて書くのも野暮だけど大切にされていて、可愛がられていて、そして可愛かった。あの時、周りの大人はみんな、小さい妖精みたいな娘ちゃんにメロメロになっていて、わたしもその1人だった。こんなに小さくて、生きてるだけで笑ってもらえた頃があったんだよな、きっと自分にも、と思った。「かわいいね〜」「できまちたね〜」と子供に対して甘くて高い声で話しかける大人ムーブがいまだに恥ずかしくてできないくらいには自分は何かをこじらせた大人だけど、自分なりにその子と遊ばせてもらって、楽しかった。その場には母である友人も含めて大人が4人いたのに、なぜか娘ちゃんはわたしのほうばかり振り向いて笑うし、抱き抱えたらミルクも素直に飲んでくれて、好かれているみたいで嬉しかった。こんな場所でこっそり自慢しちゃうくらい嬉しかった!やっぱりわたしはチョロい。

この手を離したら、まだ1人では立てないこの子は転んじゃうんだ、転んだら痛いからそうあってはならん、という責任感を両手に感じながら、そもそもこの子を産んで、ここまで育ててきて、これからも育てていく友人夫婦、本当にすごいと思った。「ずっと大切にする」って月並みなようなフレーズが、今まさに、ぎょっとするほど目の前に生々しくあった。



さて、ではわたしはこの手で、何を大切にしているのか。やっと自分の手のひらを見てみる。アイシャドウか何かのラメがついて、微かにキラキラしている。わたしの手はよくこうなっている。今日は親指の付け根のところの筋肉が硬くなっている。ここが腫れるのは、消化器系が疲れているサインらしいので、胃を休めてよく寝た方がいいっぽい。

わたしのこの手は、果たして誰かにとってあったかいのかどうか。生きている、命ある味方になれているのかどうか。自分ではよくわからない。物理的に言えば、冷え性のわたしの手はたいていの時に冷たい。8歳くらいの時に工作していてカッターで派手に切ったのは左手だったなとか(綺麗に治ったけど)、11歳くらいの時にペンを強く握りすぎる癖がついてからというもの親指の真ん中にシワが入るようになってしまったのとか、18歳の時に階段から落ちて剥離骨折した痕跡が右手の中指に残っていたりとか、最近は楽器のために右手の爪は伸ばして左手の爪は短くしているのとか、写真に映る自分の手はなんだか思っているより手首が細くて弱そうだなあとか、自分の表の手、姿としての手のことは、色んな具体的な出来事や要素で形容できるのだけど、内側の手のことは全然わかんないや。手相を見てくれた占い師に「お金持ちにはなれないけど幸せになれるね、あと、社長に向いてる」って言われたことがあります。矛盾…

まあ手相とかもあるにはあるだろうけど、手の内側の生きてる感じは、目でわかる話じゃない。自分の顔を肉眼で見ることができないことと似ていて…、目って便利だし大事だけど、便利なだけの役立たずだなって思うことがしばしばあります。目ぇ!そうじゃねえのよ!手のひらでわたしたちがやっていることは、多分あんまり言葉になっていないことだ。目に見えず、言葉にならないこと。手と手がぎゅっとしている時、それぞれの手の奥で同時に起きていることを想像できないなりに想像すると、たまらない気持ちになる。



ハグとか握手って、わたしの場合かなり調子に乗っている時とか、酔っ払って感極まっている時とか、完全に今がクライマックスだと共通認識がある祝いや別れや再会のシーンとかじゃないと滅多にできないのだけど、実はハグも握手もけっこう好きだと、ここ5年くらいで思うようになった。言葉があんまり通じない外国にいた時に、フツーに便利な言語だったし。

個人的には、なんかもっと気軽に普通に、そういう意思疎通の手段を選べたらいいのになと思う。コロナ禍に見た演劇の終盤で(範宙遊泳って劇団の『バナナの花は食べられる』っていう作品なんですけど)、もうどうしようもなくなってしまった別れ際、一度去りかけた人が戻ってきて、黙って相手をハグするシーンがあって、あ、こういうコミュニケーションってそういえばあったんだった、と思った。その頃わたしがうまくいかなかった人と、もしハグとか、握手ができたなら、もうちょっとなんとかなっていたんじゃないかと、なかった可能性を想像したりした。同じ作品のなかにあった、人間関係に優劣はあるの?残念ながら優先順位はあると思うよ、というようなセリフが、その時の自分にはすごく重かった。

多分、わたしはもっと人に触れたい。自己中な考え方だけど、他人の皮膚が遠い社会様式で生きていると、自分も自分の皮膚やエロスから後ずさってしまうような感じがする。触れることってどうしても暴力と隣り合わせだし、慣れと勇気と礼儀と、その他色々必要だし、一方的にどうこうできることではないけど、それでもどうにかこうにか、がんばってでも触れていった方がいいような気が、やっぱりします。

最後に、これは今さら何も恥ずかしくないので本気で思っていることを書いておくんだけど、わたしは、10年超一緒にいるパートナーに対しても、出会って何年もたつ何人かの友人たちに対しても、かなりわたしを知っているであろう実の母に対してさえ、きっと私たち、これからもっともっと仲良くなれるはず、ってずっと思い続けている。好きな人たちに関していえば、もう十分に仲がいいという飽和状態は、わたしが思うに多分ない。皮膚がそれぞれの皮膚である以上、諦めながら目指し続けられる。

「限りなく0に近づく」っていう、高校の数学の二次関数?かなんかで出てきた考え方が好きで、当時の先生が楽しそうに語っていたのが印象的だったこともあって、今でもよく思い出す。グラフ上のある値が、0に接近し続けるけれど、絶対にそれにはならない。ただただ長い線が、ずーっとXやYの軸に近づき続けるあれ。
ああいう感じでわたしたち、もっと仲良くなれる気がすんのよね。