わたしは、景色を見て言葉と歌にしていく、というのを自分の表現の大きなテーマのひとつにしているのだけど、「景観」という考え方が全く頭のなかに無かったことに、最近気がついた。
景観、というのはわたしの理解では、景色とか風景よりも、だいぶ資本主義社会のコードにのっとった新しい概念だ。土地の開発や建物の建設などに際して「景観を壊す」とか「景観を保つ」とかいう使われ方をする。誰かひとりの視点というよりも、社会的や客観的な眼差しでみる景色のことを景観と呼ぶ。
春先に読んでいた本のなかで(わたしには全く自分の専門分野ではない本を分からないまま読んでみるという雑な趣味があり、その本は「社会経済学的な問題を民俗学的な視点で追うinインドネシアのカリマンタン島」といった概要)その「景観」という概念の理解を個人的に少し深めたので整理しておきたい。
そこが住宅地になるにせよ、プランテーションになるにせよ、土地が新たに開発される時、そこには全く違う二つの視点が必ずある。
これまで、わたしが見てきたのは、ひとりの人間として出会う私的な「景色」だった。ひとりひとりの人間の生活と当たり前に密接な景色ーーたとえば毎朝仕事へ出かける時に曲がる道の角のところにあるあの木、といったようなミクロな物語と詩性に、わたしは惹かれてきた。ジャカルタで見た、都市開発のいざこざをうけて集落ひとつぶんの家家が更地にされてしまったスラムのことや、自分の家の近所の古い中華屋が更地になって白い塀が建ち、工事が進められていることなど、偶然出会った都市開発も、私的な視点によって、これまで自分の表現の源泉になってきた。歌う人間がわたしひとりであり、詩を書く人間もわたし個人である、ということと、普通に地続きだし、バランスが取れていて適切だと思う。
ただ、そういう視点ばかり採用してきた自分にとっては、更地になったスラムのことを「キレイになった方が普通にいいじゃん、あいつら汚いもん」と悪びれもせず言う友人のことが理解できなかった。けっこうショックだった。でも、8年くらいたってようやくわかった。あれは「景観」の思想からくる言葉だったのだ。
「景観」という考え方で景色を見ることは、支配的で、資本主義的だ。景観のことを考えて街をどうこうする、というのは開発者の視点であり、かなり大きな経済が動くような事業に拠る。そして、開発者というのは、者という形の単語だが、個人的な存在ではない。ひとりの欲望ひとつではなくて、それが寄り集まってできた、もっと巨大なうねりのようなものが動力源になって進行する営みだ。
読んでいた本のなかに、フロンティア(開拓地)は、開拓者にとっては何もない土地、まだこれからなんでもできる白紙の土地なのだろうが、すでにそこで暮らしてきた人間にしてみれば、いつもの木や道や過去の記憶が蓄積された複雑な場所だ、というようなくだりがあった。本当にそうだと思った。開拓って、知るとか理解するとか、そういうことから隔絶された精神だ。フロンティアは翻訳を必要とし、外部からやってくる…。
4月に『No Other Land』という映画を観た。これは、パレスチナ人の青年と、イスラエル人でジャーナリストの青年が(画面に写っていない仲間も合わせて確か4人のチーム)一緒に作ったドキュメンタリー映画だ。乾燥した田舎の町で、理不尽でえげつない破壊(家財は破壊しない(住民はテレビやベッドを家の外へ持ち出すことを強要される)が家を重機で粉々にしたり)を強行するイスラエル軍の姿と、それに抵抗する地元住民のパレスチナ人たちの様子が、極めて近い距離で撮影されていた。物事はなにも解決しないまま映画は終わる。
見終わって、わたしはそれまで正直あんまりピンときていなかった「地元」というものが、いかに人が人らしく生きるために重要で、手放せないものなのかが、ようやく少しわかった気がした。土地の空気や景色、暮らしてきた人々のあらゆる営みが自分を形成していて、それが己を確かなものにしてくれる。手放す・手放さないじゃなくて、それ自体がもう自分という人間の一部なのだ。それを他人に破壊されるというのは、めっちゃきつい。
急に卑近な例に聞こえるかもしれないが、最近、ゲーム原作とアニメ作品の有名な『CLANNAD』を見返していて、似たことを思った。主人公たちは高校生なので素朴に「地元」という感覚が作品世界の全体にあるのだが、物語が進んでいくと、地元に縛られている人と、才能があって土地を離れていく人、という二項が浮かび上がるくだりがある。(※特に今回ハッとさせられたのは本編に加えて制作された番外編 『もうひとつの世界 智代編』)
その土地で暮らし、その景色のなかで、その地域の人たちと一緒に生きていくつもりでいる主人公と、この街の外へ出て「上」を目指せる可能性と才能にあふれた智代。智代のほうが新進的でかっこいいような気がするし、主人公もそう思ってちょっと卑屈になったりしているが、作品全体を見ていくと、大事なことが他にあるというのがわかる。行ける人は外へ行けば良い。それはもちろん個人の自由だし選んで咎められるようなことでは絶対にない。でも、その土地に根を張って生きていくことの強さ、たくましさ、切実さは、違った重さで確かにある。人間が一人で生きていない感じ、というか、正直あんまり理論とかないんだけど、地元とか土地は、生活してそこで成長していく人間と分かち難くそこにある。
わたしは、生まれと育ちが別の土地だったり、地元の中学に行かなかったことなどもあり、どちらかといえば「地元」への帰属意識が低いタイプの人間だ。むしろ身一つでどこへでも行きたいし、いろんな土地に住んだらそのぶんおもしろいと思う。きっとどこへ行ってもなんとか生きていけるという自負すら正直あるけれど、最近やっと、全然その限りではないとわかってきたのでこうして言葉に残しています。
今年の2月末〜3月初旬にかけて、わたしは東北地方の南のエリアに少し滞在していた。三ヶ所を巡る自主企画の演奏ツアーだった。そのなかで、何の経緯も意味もない景色・景観なんてものはないのだ、という事実にバンバン直面した。演奏とは一見関係なく見えるが、これが、10日あまりの日々の中で、わたしにとって最も大きくて重要な気づきだった。
わたしが主に滞在していたのは、浜通りと呼ばれる福島県の海沿いのエリアだった。そこは2011年の東日本大震災と福島の原発事故の被害を大きく受けた地域でもあり、10年以上がたった今、その過去が深くそこにあるということをむしろいっそう強く感じさせるような「景観」を多く湛えていた。
津波の被害を受けた地域は、すぐにそうだとわかるほど住宅がなく、泣けてくるほど見晴らしがよかった。山のほうの町も、放射能の除染がようやくすっかり済んで(すなわち町中の建物が取り壊されて)更地になり、ほとんどの土地は新しい家がまだ建たないままだった。夕方に訪れた夜ノ森地区で、自分たちの普通の話し声がどこまでも響くほど静かだったのには、重い衝撃を受けた。
もちろん復興は進んでいて、新しい駅や商業施設や新しげな家も多少できていたし、大きな公園を作る工事も進められていた。地域には人が戻ってきつつあるとも聞いた。だが、色んな人の話を通じて、復興それ自体が破壊でもある、ということも同時に知った。数々の痕跡が、つるりとした質感で上書きされていく…。以前・以後でまるきり姿の変わった土地で、しかし、とにかく前を向いて進むしかないというような、多くのことが保留されたままのような、複雑な状況がそこにはあった。
わたしは、行きの電車に乗っていた時にはまだ、この旅で見た景色から歌を作ろう!とけっこう素朴に思っていたのだが、到着後この目で見たシンプルな現実の景色の先に、あまりにも多くの意味や理由、生々しいほどの過去があって、「見たものから作るって、こんなに複雑で難しいことだったのか」と衝撃を受けた。自分がやろうとしていることの大きさや深さが、自分の想定をはるかに超えていた。初日、富岡町に到着してすぐにそのことに気づいて「これはハードだな」と正直思った。
福島の滞在中とても世話になった友人から聞いた話が印象に残っている。海が見える場所に新しく文化的な建物をつくることになり、その事業のトップの、偉い人を案内した時のこと。自分の事業に相応しい土地を探して他所からやってきたその人が、「我々の新しい建物と海のあいだに民家などがないのがいい」と要望したという。その瞬間、俺びっくりしちゃってさ、そのことがこの土地においてどんな意味を持つのか、アンタは考えたことがないのか!? って…、あまりにも無自覚で無神経な発言だよね!と、友人は語気を強めて怒っていた。
本当にそうだと思った、が、わたしは、その怒りを理解するのにほんの一瞬、時間がかかってしまった。そのコンマ数秒の思考の時差があったこと、即座に「そうだよねえ!」と言えなかったことが、かなり強く記憶に残った。
あえてはっきりと書くが、つまり、ここは津波で流されて人も家屋もなくなった土地で、10年以上たってもまだ、そこに新しい家が建てられていないのだ。この状況で「それがいい」とケロッと言ってしまうのは、端的にいって配慮に欠ける。まあそれくらい無神経でなくては、フロンティアスピリットでガシガシ開発とか新事業とかやっていくなんてできない、ということでもあろう。
滞在中、わたしは近くの他の町へも、車を借りたり案内してもらったりして見に行った。資料館(役所が主体になって震災の記憶を残している地域ごとに設えの異なる資料館、東京電力の反省を伝える資料館、福島の地質や化石の研究成果を展示する小さい博物館、反核運動家たちの活動をまとめた資料館など)にも行ける限り足を運んだ。そのなかで、景色と景観には必ず、そうなった理由があるのだと知った。実際にわたしが訪れたいくつかの街は、もともと坂道だったところが埋められて全然違う地形になっていたり、名前がつくほど親しまれていた巨大な岩がなくなっていたりしていた。津波の被害の後、もう今後は人の住む家を建てるのをやめてしまった町だってあった。そこは、今後は工場や公園になる。大規模な工事が進められていて、夕方のコンビニではその仕事に就いているらしい男たちとすれ違った。海沿いには、まだ赤ちゃんみたいな背丈の松の人工林があった。あまりにも広い空と2月の冷たい空気と、山に沈む美しい夕日のなかに一人でいると、どうしようもない気分になった。「なんでもない風景」なんてものは実際にはない、ということを、繰り返し肝に銘じた。
そうしたら、自分がこれまでやってきたこと、やろうとしていることが、ハードどころか、とんでもない(すごく陳腐か、あるいは傲慢で暴力的な)ことのように思えてきて、勝手にプレッシャーを感じて、わたしは気分が静かになってしまった。旅から帰ってきてからも、重く捉えてしまって曲が作れなかったけど、4月に山に登って、ようやく少し心が進んだ。
登山といっても、登ったのは日本でも有数のチョロい山「高尾山」である。わたしは、なんとなく3年前くらいから、新年の気分で登るのが気持ちよくて毎年恒例みたいに1月に登ってきていて、今年もそうしたのだけど、4月の高尾山は初めてだった。
3ヶ月たっただけで、4月の山は、1月とは全く様子が違った。あらゆる枝の先で新芽がゆるみ、蕾が膨み、いくつかはすっかり咲いていた。細長い穴の奥から蛙の声を聞いた。茂みの奥のほうにきれいな色の羽の小さい鳥も見た。桜はもう散りつつあって葉っぱが青かった。水の流れがトロトロしていた。この日は、そういうのが目や耳に入るたびに「見て見て!」と立ち止まるメンバーばかりだった(5人で行った)こともあって山頂までいくのには思ったよりも時間がかかったけど、そのぶん、木々の合間から差す日差しの華やかさも、空いた腹の情けなさも、全部が全身に染みていくようだった。
下山してから入った駅のところの温泉とその後の夕飯も、とても幸福な時間だった。春というものを毎年のこととして30回ぐらい通過して、すっかり知ったつもりになっていたけど、この日、新たに味わった気分だった。全然知らなかった気がした。春ってすっごい季節なんですね!
それはシンプルな喜びだった。季節が進んで景色が変わるというのはうれしい。よくぞこうして、色々なものが生き残り、あるいは生まれたものだと思う。春のきらきらした山の景色ひとつずつに、数ヶ月前の冬の様子というのがあって、その続きに4月があった。すごく当たり前のことだ。過去を持たない景色はない。
季節の変化と自然災害と侵略と土地開発を等しく語ることはできない。だが、その全てが、景色と景観を変化させる因子という点では共通していて、地球の表面で絡み合っている。そして、誰かの目の前の景色というのは、あらゆる変化の先にたったいま存在し、たった今、観察されることでそこに現れ、居合わせた人間によって、読み解かれたり愉しまれたり、悲しまれたりしている。一人一人は、点のように小さくて短い機会で、そこに居合わせている…。
大きく捉えてみたら、少し気が楽になったというだけの話を長く書いてしまった!けど、つまりそういうことだ。大きく捉えたり個人的に凝視したりしながら、真剣にぶつかることでしか、真摯に表現なんてできねえのだ。本当に時間がかかるけど、わたしにできることを引き受けていきたいと思います。ということで急に終わります。
※表現に関して「引き受け」が必要、というのは以前にも書いているので補足的にリンク載せてみます
2023-05-27
『どんどろ人形との出会いと、「自分で作る」ということ』
『どんどろ人形との出会いと、「自分で作る」ということ』
2024-02-21『自分とこの世の最前線』