もらった景色と言葉と他にも

 
秋口、11月〜12月前半の個人的な大忙しが始まるちょっと前の頃に、飼っていた金魚が死んだ。

その金魚をわたしと同居のパートナーは「キンちゃん」と呼んでいた。映像作家の友人の撮影で活躍した後、行くあてを探していたところを引き取る、という経緯で、彼は我が家にやってきた。オスなのかメスなのかは知らない。キンちゃんはいわゆる金魚らしい明るい朱色の体で、背鰭や尾鰭をゆらゆらと揺らして泳ぐリュウキンという品種だった。

キンちゃんは今年の夏にうちに来て、秋に体調を崩した。だんだんヒレが小さくなって、泳ぐのが下手になり、水中に沈んでいられず水面近くまで浮いてくるようになった。水面に浮いてひっくり返っているのを初めて目撃した時は、けっこうショックだった。魚が浮いてきてしまうなんていうのは明らかに致命的だし、バチャバチャと音を立てて元の姿勢に戻ろうとしている様子が痛ましかった。放っておけず、割り箸でそっとつついて元に戻した。その日はそれでよかったが、だんだん元に戻しても戻らなくなった。近所にある熱帯魚屋さんに動画を見せたり、ネットで調べたりしたところ、おぐされ病とか転覆病とか、そういう名前がついた、金魚によくある病気を併発していたようだった。ひとしきり調べて、水を替えたりヒーターを入れて水温を上げたりエサの頻度を調整したりしたけど、もう手遅れだった。熱帯魚屋のお兄さんにもそう言われた。そして、キンちゃんは初めて転覆した日から2週間足らずで死んだ。


10月16日の朝に死んでいるのを見つけた。でも、その遺体をどうにかする時間はなく、とりあえずわたしはそのまま家を出た。仕事に向かう電車でググった。金魚はとても小さいし、燃えるゴミとして捨ててしまっても全然問題ないらしい。切り身の魚より小さいわけで、まあそりゃそうかと思う。でもその手段は選ぶ気になれず、その日の夜、とりあえず水槽から出した。

ちゃんと葬儀できる時まで、思い切って冷凍しちゃうことにした。このくらいの大きさなら紙に包んでジップロックに入れて冷凍庫に入れちゃえばいいや、と思いついて、きっとこういうの生理的に無理っていう人もいるんだろうな、と、架空の非難の声が頭をかすめた。シャケの切り身を食材としてスーパーで買ってきて冷凍しておくことと、飼っていた魚を冷凍することとの違いって、確かにあるけど、なんか変な話だ。でもとにかく、目の前の死んだ肉に腐らずに待っていてもらえる手近な場所を、わたしは冷凍庫しか知らなかった。


死んだキンちゃんは、水槽から出すとベタベタしていた。脆そうだった。ちょっと力を加えれば簡単に潰せてしまいそうだ。ひき肉を買った時の白い食品トレーの上にキッチンペーパーを畳んで、その上にそっと寝かせた。キッチンペーパーが水を吸って、キンちゃんの体の周りだけが少し沈んだ。料理の下ごしらえをしている時と同じ姿勢で、同じ道具で、全然違うことをやっている、というのが妙だった。

キンちゃんの丸い目には、他の多くの魚と同様に銀色の縁取りがある。もともとまぶたがないので「死体が目を見開いている」という激しい印象とかは特にない。こちらを見ているような怖い感じとか、嫌な感じは全然なかった。
体の色は、水の中で見るよりも透明感がなくベタっとしていた。彩度はむしろ高く見えた。頭のあたりが赤く内出血みたいになっていて痛そうだった。最期は衰弱死ではなくて事故死だったのかもしれない。魚も私と同じに血が赤いんだ、そういえば。全てのヒレが病気でほとんど溶けてなくなったので、全体のフォルムはリュウキンらしからぬちんちくりんだ。このちんちくりんのヒレで、必死にプリプリと泳ぐのが、悲しくも愛らしかったのだけど、死んだらそのプリプリ感もなくなっていた。プリプリっていうのは形というよりも、生きて動いている時の印象だった。死んだらもうプリプリじゃない。口は、生きていた時と変わらず尖っていて可愛かった。パートナーは仕事で居ない日で、わたしは深夜のキッチンにしばらく立ち尽くしてそれを見ていた。


その後、1週間くらいはけっこう落ち込んだ。ほんの数ヶ月の短期間だったけど、10年ぶりくらいに心臓のある生き物の世話をしたので、ちょっとダメージをくらっていた。わたしがもう少しちゃんと目を配って、もっと早く病気に気づいて対処できていれば、とか、色々思い、何もいない水槽を見ては、申し訳なくて悔しくて涙目になったりしていた。でも、幸い、忙しさがどんどん押し寄せてきて、次第にそれどころじゃなくなって、いつのまにか泣くこともなくなった。




キンちゃんを冷凍してから2ヶ月ほどがたって、先日、いろんな忙しさがひと段落した。濾過装置を回し続けたまま2ヶ月放置してしまっていた水槽は、臭いはギリギリないながらも玄関に置くものとしてはきっと風水的に最悪な状態で、それもやっと片付けることができた。そして、ようやく葬儀というか、どっかに埋めに行く時間と心の余裕ができた。というのも、今住んでいる東京のアパートの近所には、そういう生き物を迎え入れてくれるような土壌が全然なくて、その事実はけっこう心に重かった。なんて余裕のない場所で生活してんだろう。

12月某日、ついに葬儀決行。パートナーの仕事場の裏にはちょっとした山があって、金魚を1匹埋めるくらいなんの問題もないよ、と聞いていたので、彼の仕事を手伝いがてら、そこに向かうことになった。(厳密には山に埋めるのはダメらしいけどおねがい、大目に見て〜)
冷凍したキンちゃんの入ったジップロックをさらに保冷剤などと一緒に、旅先でかまぼこを買った時にとっておいた銀色の保冷袋に入れて、持っていった。かまぼこのお土産みたいだけど、キンちゃん1匹しか入っていないので袋はとても軽かった。


キンちゃんを埋めたのは用事が全て済んだ夕方、日が暮れかけた頃だった。山のほうに入っていくと、ほんの70メートルくらい住宅地から離れただけなのにグンと気温が下がった。わたしにとって今年初めての霜柱が、足元でバキバキ砕けた。

少し開けたのっぱらに着いた。そこの端のほうの、大きな木の下になんとなく足が向いたので、パートナーが持ってきてくれたバールのようなものを借りてそのへんを掘った。この辺りの土はとても柔らかく、歩くとブニャブニャで、掘っていても手応えがなかった。こんなに柔らかいと、土があまりにも生き物のフンっぽい。実際けっこうそうだよね〜ウンコの上に立っているんだね!などと思ったけど、神妙にしておいた方がいいような気がしたので口には出さなかった。
紙に包んだキンちゃんはすっかり自然解凍されていて、キッチンペーパーには体液が染みていた。なんとなくその中の姿を見る勇気がなかったし、ひどい姿になっていたとしたらそれを見るのは失礼な気もしたので、紙を開くことはせず、そのまま穴の底に置いて土をかけた。使い捨てのビニール手袋も持ってきていたので、手を汚すこともなく、作業はとても順調に終わった。





ここで、時間を少し巻き戻して書きたいことがある。11月末、わたしは未完成の歌をなんとか完成させようとしていた。
12月半ばに上演した舞台作品のなかで「ドンキホーテの店の前にある大きな水槽の中の南国の魚たちを眺めて、そこから想像力を宇宙まで飛ばしていく」というような終盤のシーンがあり、そこで歌う予定の歌だった。もうほとんど決まっていて、あと2行くらい詩が書ければ完成というところ、その最後の2行ができないでいた。夜中に自宅の押し入れ改造防音室で、ギターを弾きながらああでもないこうでもないとやっていた。

晴れた夜空に突き刺す星の光の色は
いつか見たあの魚の眼(まなこ)に似た透明な銀色の走る光だ

結局、この2行が25時ごろに書けた。書けたというか、歌いながら作ったので「できた」。とにかくできたかもしれないと思って、でも疲れていてこれでいいかどうか判断がつかない、けど時間もないし、うーん、きっとこれだな、と思いつつ共同制作中の悠さんに「これでいいかなあ、歌えば変じゃないんだけど文字で読むと日本語としてややキモくない?」などと珍しく弱気のLINEを送ったりしていたが、心はけっこう定まってきていた。
これで良いか確かめるために繰り返し口ずさんでいるうち、「いつか見た魚の眼に似た透明な銀色」が、わたしのなかでは、本来のモチーフである南国の魚だけではなく、キンちゃんの目のふちのところとも結びついているということに気づいた。あの色、というか、光のような、あの生き物のぬるりとした質感。

歌詞の意味を字義通りに辿るなら、これはキンちゃんとは全然関係ない魚の話だ。聞く人にとっても、これは金魚の歌ではない。でも、詩を書いた時、見たものや見たいものを言葉にした時にイメージが得た言葉は、さらに他のイメージを大胆に呼び込んでくる。詩の言葉は、イメージがまだ語られない事実や記憶だった頃には持ち得なかった新しい活路だ。言葉を定めた時、そこからイメージは改めて広がりなおすのだ。南国から来た魚をふまえて書いた言葉が、それが言葉であることを通してキンちゃんの眼の光を想起させたように。つまり、あの夜はイメージをもとに言葉を書くことと、読んだ言葉をもとに新たなイメージを得ることが短い時間で起きていた。
 
これは作品にとっては裏テーマですらない個人的なことだし、作り方として真摯ではないかもしれない、ような気がする。どうなんだろう。でもわたしには、こんなルール違反みたいなやり方で、あの小さな愛しい生き物がわたしに与えた印象を残せるんだということが、すごく嬉しかった。美化しすぎている感じもしてちょっと笑っちゃうんだけど、でも、その嬉しさが確かにあったので、この2行はこれで行こうと、繰り返し歌い、だんだんと確信していった。






12月半ばを過ぎた葬儀の日に戻る。キンちゃんを埋め終わって、この木を目印にしてまた来れるね、ここは春には桜が咲くね、などと話しながらその場を後にし、ついでにちょっと眺めの良い丘まで登ってみることにした。すごく寒かったけど、以前にもその丘から街を見下ろしたことがあって眺めがいいとわかっていたので、パートナーと2人で期待しながら登った。足元はライトで照らさないと見えないくらい暗かったけど、ワクワク登った。

その日のその眺めは、素晴らしかった!だいぶ日が沈んで、頭上は深い紺色で、西のほうの山々に続く空は濃いオレンジ色だった。1番目立つ山はどうやら富士山で、神々しいほど見事な形だった。富士山が見える時ってだいたい「わ〜!富士山〜!」みたいなノリになってしまうけど、この日はもっとずっしりと神々しかった。12月らしいツンとした寒さで空気は甘く澄んでいて、山の輪郭は遠くにあるはずなのに、版画のようにベッタリクッキリしていた。空のグラデーションの見事さも相まって、山影のコントラストはかなり浮世絵っぽかった。そして山の少し上のところに、一番星と呼びたくなる明るさで、金色みたいな星が、突き刺すように鋭く一つ、ぽつっと浮かんでいた。ほんとうに見事だった。

遠い山の手前には街が、こちらの山まで広がっていて、右手には以前行ったことのある大きなホームセンターの看板が見えた。規則正しく並んだ光、鉄塔の赤いランプ、家々の明かりや近くに見える街灯、昼間わたしたちがいた建物、駐車場。そして街の中で鳴る音のひとつひとつが、澄んだ空気を一直線に伝わってここまで飛んできた。これはあのバイクの音だ、と目で見て耳で聞いてわかった。

わたしはキンちゃんのことで頭がいっぱいだったので、月並みだけど、こんなに美しい夕方にお別れができてよかったと思った。土に埋めてしまったし、とっくに死んでいるのでこの景色をキンちゃんが見れるはずもないけど、よくあるフィクションの表現みたいに、墓から魂がふわ〜って空へ浮かび上がるんだとしたら、きっと今頃、山の上からこれを見ているはず……………(???)自分にとって都合のいいチープな想像力を発動させてしまうくらいには、わたしはベタに感動していた。

隣でパートナーが景色を写真に撮っていたので、わたしは撮らなくていいやと人任せに思って、目をちょっと見開いていた。素晴らしい景色を前にした時に、目をちょっと見開くと、もうちょっと景色がこちらに入ってくるような気がする。ここまで登った運動量で体が温まっていて、顔に触れる空気の冷たさが気持ちよかった。

古いアパートの玄関の靴箱の上にちょっと大きめの水槽を置いて、その中で少しのあいだ飼ったあの小さい魚が、巡り巡って、こんなに美しくて大きな景色をわたしに観せてくれた、ということに、無理矢理にでもしてみたい。させて欲しい。だってそのほうが嬉しい。




自分に言葉があってよかった。この件に関しては、詩を書くということが、何よりも誰よりも、まず自分に作用していた。歌にしたことで、わたしはキンちゃんを柔軟な形で覚えておけるし、たぶん、これからはあの日暮れの景色もそこに繋がって、何度でも思い出してみることができるだろう。

わたしは、詩(あるいはそれに類するもの)を書く友人が身近に何人もいるという事実がかなり嬉しい。すごくおもしろいことだと思う。以前、ふと見た景色から友人が書いた歌の歌詞を思い出して、あの歌詞ってこういう景色のことだったのね、と軽く連絡をしたら「そうだよ」と言っていた。彼はこれをあああう言葉に変換するんだなということを、意味的な理解とは違った方法でわかったような気がした。
人が書いた言葉の端々に、その人の世界への接し方が滲み出るわけだけど、それが作品そのものとは別の側面も知っている身近な人のものとなると、うまく言えないけど、言葉で理解するのとは違った方法でその人の見たものや考えが「わかる」ような気がする。
 
突然めちゃ勝手な願いを書くけど、わたしは街中のみんなに、世界中の人に、もっと詩を書いて欲しい。短歌とか歌詞とか、エッセイとか論文とか、なんでもいいからその人に合ったやり方で、その人の目の前や内側にあるイメージを、なんとか納得のいく形で人と共有しようとして欲しい。絵や写真もおもしろいけど、言葉は決して「そのもの」にはなりえないという点で他の表現と全く質が違うから、やっぱり詩がいいんじゃないかと思う。そういうことで世界が少し複雑に見えるようになったら、もっと生きることがおもしろくなるはず。なると思う、んだけど、でもそんな世界を未来に想像できるほど楽観的になれない現実の厳しさが切ないな、ああ〜

まあいいや。ともかくあれは、わたしが今年見た、人生でも指折りの、本当にきれいな景色だった。あの星と空と、黒い山と、詩のうえで地続きになった、魚の眼。もうひとつ歌ができてもいいくらい。あの夕方の景色とあの魚のことは、ずっと覚えておけそうです。