すっきりしたロン毛

最近、こだわり方とかカッコつけかたの重心が変わったような解放感がある。気分がすっきりしている。

これはもしかしたらある種の諦めなのかもしれないけど、取り繕うようなことが減った。例えば、洗濯して干したハンガーのまま部屋にぶら下がっていたのを適当にとってきた服を着て、近所を歩くためだけの雑なサンダルをはき、マスカラをサボった手抜きの化粧のままで近所で友達に会って、なかなか充実したおしゃべりをする。こういうことが、この夏はたまたま何度かあった。取り繕いレベルほぼゼロで会える友達がいる、というのがまず何よりも嬉しいし、こういうテキトーさが、自分にとってはちょっと新鮮で、心地いい。家の前までのゴミ出しや近所のスーパーや銭湯に行く時にはく、ナイキのロゴのついたヤンキーみたいなサンダルは、全然おしゃれではない。ここへ引っ越してきたばかりの時に近所のドンキで一番マシだったのをほとんど必要に迫られて買った。もう3年目の夏だ。これをはいている時は、妙に自分が若いような気分になる。

この若いような気分というのは、「おしゃれ」とか「洗練された大人」じゃないことを平気でやっている、ふざけた感じのことだ。はぐらかすような力の抜けた態度。こういうのがクールな気がして、最近ハマっているし、しっくりきている。わたしにとって「おしゃれ」は、長らく、叶わない理想や苦手な課題だったけど、最近ついに、やり負かした気がする。もしかして、肩の力を抜けば、わりとなんでもおしゃれでかっこいいんじゃないか…?はぐらかす、というか、気さくなクールさってかなり素敵で、今まで憧れてきたありようなのではないか…

わたしは元来「ひたむき」だ。地元の中学に行きたくなくて泣きながら受験勉強を頑張っていた小学生の頃からすでに、学生時代も、大人になってからも、なんか、ぜんぶ頑張ってきた。かなり楽しく生きてきたと思うし、真面目一辺倒ではないけど、同時に、ずっと肩の力が抜けないという性格を患っていた(患って、と書きたくなるほど病的に肩の力を抜くのが下手だった)。しかしあえて過去形で書こう。かつて、わたしはそうだった。


歌に関して言えば、肩の力を抜くことと安定した声を出すことはかなり重要な関係にあると、各所で言われ尽くしている。実際そうだと思う。肩の力が抜けていたほうが聴きやすい良い声が出るし、消耗しにくく集中力が続く。でも、時には、肩をこわばらせて緊張させまくった身体から絞り出すギリギリの声が必要な場面もある、というのをここ数年のあいだに関わってきた演劇や即興演奏の現場で学ばせてもらって、なんか、最近かなり楽になった。たぶん一周まわったってやつだ。肩の力を抜く、ということの先に、わざと肩に力を入れる、があって、そこからもう一度、肩の力を抜く、に戻ってきた。肩の力を抜くことを今年の目標にします!とはなから矛盾したようなことを言って憚らないようなヒタムキ人間だったこのわたしが、ついにこれは、もしかして、肩の力が抜けているんじゃないか?と思えるようになってきた。ようやく少しだけ「人生」というものに慣れてきたのかもしれない。


さて。「人生」に慣れてきた、と思っている最近のすっきりとした気分を大いに支えているのが、すっかり伸びた髪である。

わたしはここ10年くらいずっとショートヘアだった。でも、なんとなく飽きてきて、約一年をかけて、三つ編みができるくらいまで伸ばした。たいした理由はなかったけど、大きくて確かな要因はあって、それは、腕の良い美容師に出会えたことだ。いろいろなことを省略するが、彼女が「自分がやりたい髪型にしたほうが絶対にいい、人がなんと言うかは関係ないです!」と力強く言ってくれて、実際に髪が伸びていく過程を見守りながらイケてる感じに整え続けてくれたおかげで、わたしは自分が期待していた以上に、髪を伸ばした今の状態を気に入っている。

なぜずっと髪を短いままにしていたのかというと、「ニュートラルな人間」になりたかったのだった。

わたしは、シスジェンダーの女性である。そして異性愛者で、男性のパートナーがいる。しかし、そういう社会性とパラレルに、自分が女性であるということに対して幼少期からもやもやしていた。できれば性別なんて関係ない次元で、いろんなことを考えたいと思ってきたし、なにか表現をやるという時に、自分の性別がノイズになってほしくなかった。

女性である、ということはわたしにとってずっと余計なことだった。まず身体がポンコツすぎる。毎月バカほど体調を崩す。10代の頃から、出先で立ち上がれなくなったことが数えきれないくらいあり、薬の副作用にやられながら数種類を試す1年弱を経て、ようやくここ数年は、男性にも引けを取らないくらい活発に活動できるようになった。こうなるまでにかけた時間とお金と心労を思うと、ふつうに理不尽で、まじでツイてないと思う。次に、女性であることで社会的に受けるクソな扱いというのが多すぎる。わたしはそういうこと全般が死ぬほどイヤなので、自分の持てる最大の警戒心をもって行動してきたつもりだけど、そんな努力とは残念ながら関係なく、電車やライブハウスの客席での性被害や、クソなナメられ対応等に遭ってきた。人間関係や環境に恵まれて丈夫な自尊心を育んでもらえたおかげで、わたし個人は強気で生きられているけど、まあ端的に言って「女」が被差別ジェンダーだ、ということは残念な現実だ。

そういうことをなるべく自分から遠ざけておきたくて、わたしは「ニュートラルな人間」を目指してきた。自分の女性性を前面に出して表現をやるということは、そういうクソな女体を認めることのような気がして、嫌悪してさえいて、一時期、本当に女性が、というか女体が苦手だった。電車で偶然目にした胸の谷間や、ステージでドレスを着て歌っている女性のやわらかな肉感が気持ち悪く感じてしまっていた頃があって、かなりつらかった。自分にも程度の差こそあれ、そのような身体があるということがおぞましかった。自分の皮膚の薄さと柔らかさが情けなかった。

女である自分が女を憎んでいる、という状態は、ほんとうにしんどい。どうやったら自分の女の部分を認められるのかわからなかった。今思えば、あの頃の自分の髪の短さには、怒りとか、自分が女性であることをうまく認められていない自信のなさを裏返した闘志とか厳しい気分が、なくはなかった。そういう態度も、意識して徹底していたならば、それはそれでカッコよかったかもしれないけど、わたしの場合はそうじゃなかった。中途半端なまま、何度こんなふうに言葉を割いても、結論が出ることはなかった。


そんな長年のしんどさが、なんか、テキトーな気分でなんとなく髪を伸ばしてみたら、ずいぶん緩和したのだった。

もちろん他にもあらゆる要因が絡み合ってそうなっている。2022年ごろから弾き語りで歌を歌い始めたというのも関係があると思うし、声を仕事に使ってもらうことが増えていくなかで、自分の声が完全に女性のそれだという事実に慣れてきたというのもある。性別が関係しない部位で鳴らせる「奇声」と呼ばざるを得ないような声を演奏に使うようになったこともすごく大きい。声というのは明らかに性別が深く関わる表現手段なのに、だからこそだろうか、ここまでくるのに時間がかかった。

実際に髪を伸ばしてみると、驚くべきことに、女性らしさだとかなんだとかいうことと、髪の長さって、いうほど関係なくね………?ということがわかった。肩透かしをくらった。髪はわたしのほうが長くても、隣に並んだらあっけなく髪の短い友人のほうが女性らしかったりして、傷つくとかはもはやなく、あっそんなもんかあ〜!と、妙に腑に落ちたことがあった。そういえば彼氏のほうがわたしより髪が長かった時期があったけど、別に男女逆転したような印象とか、全然なかった。ちょっとおしゃれな二人っぽいね、えへへ、っていうだけだった。なんだ、そんなことなら別に、いいか。気分で好きにすれば。短いのも似合ってたから、飽きたら切ればいいし、また伸ばすのもいいし。仲間由紀恵みたいな黒髪のワンレンとか、やってみたっていいんだ、やりたければ。痩せた力士みたいになると思うのでやりませんが……



ひっそりと心の奥にあった澱んだ巨大な水溜まりのようなものの、南の岸のところが実はダムになっていて、開け方がわかった、みたいな感じがする。あ、ここって開くんだ、じゃあちょっと開けとこうかな、というのが最近のすっきりした気持ちだ。こだわりとかカッコつけ方の重心が変わった、とはじめに書いたように、体の姿勢が変わると肩こりが改善する。テキトーっぽくロン毛にしておくくらいのことを、自分にすっきりと許せる。雑な服で友達に会ってもいい。そんなのヨユーだ。変な色のTシャツも、変なピアスも、楽しいからつけていい。爪を黒に塗ったっていい。そういうのが、たとえ似合ってなくてもいいし、言うまでもないけど、女っぽくなんて、全然なくていいし、たまに女っぽくてもいい。文字にしたら、当たり前だ!でもこんなことが、わたしはなかなか自分に対して許せなかったのだった。本当に、髪を伸ばしてよかった。
 

「女」としての自分はどう生きていけばいいのか、というのは、依然としてデカすぎる課題だ。解決できた感じは全くない。一生どうにもならないだろう。課題という認識自体が大間違いなのかもしれない。でも、わたしのなかで狭い定義だった「女」は、だいぶ緩やかで広い定義に変わってきた。髪がどうあれ、服がどうあれ、体格がどうあれ、肌の質や目や髪の色が、声が、態度が、どうであれ、いろんな女がいる。わたしもその中の一人です。

ニュートラルな人間」という過去の私が想定していた謎概念は、もうすっかり失われた。そんなものはない。わたしはわたしのことを個別に認めて、それと同じやり方で、ひとのことを個別に認める、というシンプルな心がけがあればきっとOKだ。自分にも他人にも、過度な期待をしない。肩の力を抜いて、でもまあがんばるしヒタムキのムキムキですが、汚れても気にならないような服で、適当に地べたに座って何かを眺めたり、しましょう、本当に。できれば一緒に。