星と星をつなぐもの

一年くらい前に東京へ引っ越してから日頃よく通るようになった大きな交差点がある。そこは駅前の繁華街の一角で、最近は閉店したデパートを解体している。

夜にその辺りを通ると、若い酔っ払いやキャッチ、手に紙とスマホだけを持った女の子などがたくさんいる。早朝に通ると昨日の続きを起きている人たちがタクシーに乗り込んだり体を支え合ってふらふらしたりしていて、その間を縫うように仕事へ向かう様子の人がサッサと歩いている。開店前のスーパーの前に客の行列がある。もうちょっと遅い昼になると急に人が少なくなる。Tシャツに雑なサンダルをはいた地元っぽい人がどこからか急に現れて、目的がよくわからないけどなんか居る。ここはアジアの一角だな…という気分になる。時間帯によってかなり雰囲気が変わる界隈である。いつもなんとなく臭いし、決して気持ちの良い区画ではないけど、毎日のように通っていたらなんとなく親しみを感じるようになった。

もうひと月近く前になる。夜、いつもの大きな交差点を自転車で通りかかり、信号待ちをしていた時。車道から一段高くなった歩道の、ガードレールのようなものの車道側に、誰かの吐瀉物がぶち撒けられているのに気づいた。オエーッ最悪!という気分になるにふさわしい鮮度と量だった。わたしは自転車に跨ったままのそのそ後退してソレからちょっと距離をとって、信号が青になるのを待った。某感染症の流行の勢いがかなり増していた頃だったのもあって、他人のそういうものを見るのは輪をかけて不愉快だった。

次の日もその道を通ると、同じものがまだそこにあった。まじまじ見たわけではないけど、明らかに昨日からほったらかしで、真夏の強い日差しで少し乾き始めているのが分かった。あーあ、誰も掃除しないんだあ、と他人事って感じでそう思った。こんなにハッキリと目の前のことを他人事だと認めたのは自分にとって珍しかった。
その後、雨が少し降ったことで吐瀉物は溶けて流れたようで、数日たって三度目に通った時には、ほぼ跡形がなくなっていた。それでも、「数日前にここで誰かが吐いた」と知っている人間が見れば、まだギリギリわかる程度に痕跡があったのが意外だった。一度の雨ではきれいにならないらしい。


そんなことが、究極にどうでもいい一コマが、なぜだか忘れられないまま夏も終わろうとしている……。あれは別にいい記憶でもなく、悪い記憶ですらない真に瑣末なことだというのに、わたしはあの道を通るたびに、数日続けて視線をやっただけの他人のゲロを何度も思い出すようになってしまった。いらな過ぎる記憶だ。こういうことで、脳のストレージをかなり無駄に食っているような気がする。

そういえば「あの道と吐瀉物」と同じようなことは考えてみたらいくつかある。街の中で日頃から目にする看板や標識やら建物やらから一度連想してしまったことを、それ以降毎回思い出す。困るようなことではないけど変な感じだ。
例のゲロ交差点から、飲み屋で一度しか会っていない人のあだ名と同じ表記のアルファベット二文字の看板が見えて、そのたび必ずその人を思い出してしまうというのもある。その人は多分もう会うことのない友人の友人なんだけど、失礼ながら、こんなにどうでもいいこともなかなかない。その人に対して好きとか嫌いとか、なんらかの感情が一切ない。そこまで考えて、「いらないこと」かどうかって、どうやって決めてるのか?という反論が頭をかすめるんだけど、いや、でも、さすがにいらないでしょ、そんなのは。思い出すのが大切な人とか好きだった人とかだったらわかるけど、こんなに軽い記憶はなくなっても困らない。

最近一緒に制作している人と話していて、わたしはいろんなことを、捨てて捨てて捨て続けてそれでも残ったもので何か作ろうとしているんだというのが言語化されたが、捨てる必要を感じるほど一旦手もとに(頭もとに?)残してしまうものが多いのかもしれない。

でも、これは日々の全てを緻密に覚えているとか、そういう天才っぽいことでもない。記憶の点と点同士をつなぐ回路が安易に繋がってしまいがちなだけだ。想像の回路はすごく短絡的だ。あの日ゲロを見た場所!とか、あの人のあだ名と一緒じゃん、みたいなしょうもない連想。たぶん多くの個人にとって、記憶と連想なんてそんなもんだとは思うけど、本当に、見えているものとそこから想像するものって、必ずしも適切な繋がり方をしていない。ああ、でも、だから面白いのか。

見たものと連想はどうとでも繋がれる。表現ってそういうことを担うんだと思う。
そういえば最近、これとは全く逆のあり方で夜景を見たことがあって、それが良い体験だった。見えているものが判然としなくて、それがなんなのか当てようと想像を巡らせる遊びだった。だいたいの時、見えているもののほうが想像よりもはっきりと確かだけど、夜の船から見る街や橋の星座のようなキラキラはもっとずっと漠然としていて、それを解読するみたいに想像力を使った。あの時は見えているもののほうがぼんやりしていた。順を追って書きます。


先日とある仕事で、船に乗って東京都の大島に行った。夜行便で出て朝に着き、午前中にミッションを終えて午後3時半のジェット船で帰る、というほんの短い旅程だった。

行きの船が出発する時刻は夜中の23時。JR浜松町の駅を出た時からすでに周囲にはキャリーケースを転がす若い男や女のグループが目立った。たまに家族連れや、大きなバックパックにフィンをくくりつけたダイビング目的らしき人もいたけど、おそらく大学生の旅行客がいちばん多い印象だった。
出発30分くらい前、同行する2人と竹芝の船着場で合流して、チケットに住所氏名など書き込んでいるうちに時間がきて、船に乗り込んだ。人生初の夜行船だ。船はメチャクチャでかくて、たしか6階建て?くらいで、小さいショッピングモールくらいの規模があるような気がした。
チケットに書かれた番号と案内板を見比べながら船内を進み、該当の部屋に着いた。番号ごとに指定の座席があるのかと思いきや、カーペットの床の8畳くらいの小さい部屋の左右の壁に四人分ずつ、人間ひとりの幅を想定した浅い仕切りがつけてあった。乗船前に「雑魚寝みたいな部屋」って言ってたのコレかあ、と知ってちょっと覚悟を決めた。部屋にはすでにマリンスポーツガチ勢っぽい夫婦の先客がいた。玄人っぽい2人はすぐに寝る体制に入っていた。私たちはそこに荷物を置いてから、3人で夜風がごおごお吹く甲板へ出た。

甲板からは東京の湾岸の夜景が見えた。近いビル群、おそらくオフィスビルタワーマンションの大きな影と窓の明かりが手前と奥に折り重なっているのをみると、わたしは昔テレビの自然番組で見た、ブラジルかどこかにあるという夜半になると光る蟻塚のことを思い出す。人間もここから働きに出て、帰ってきて眠り、また働きに出るんだからまあまあ似ている。

周りには、その景色と自分たちを写真に収めんとする若くて声の大きい乗客が大勢いて、風が強い屋外とはいっても、最近コロナにビビっているわたしはなんとなく近寄りたくなかったので、甲板の東側の通路へそれて、遠めの夜景を眺めていた。最近ちょっと健康に気をつかっているので、もうすぐ寝るんだしってことでお酒は飲まずに、ただ手すりに体重を任せて立っていた。一緒にいた2人はお酒を飲んでいて、少し喋ったり、代わり番こにお酒を買いにどこかへ消えたりしていた。

まもなく船が動き出す。声の大きい若者がチューハイの缶をこぼしそうにしながら何をそんなに、というくらい盛り上がって大笑いしている。小ぶりのミラーレスを持っている男の子が写真係みたいになって仲間を撮っている。

船が動き出すと、さっきまでどっしりそこにあった夜景もじりじりと動き始めた。手前と奥のある夜景が動くとけっこう複雑な立体感が出て、立ち止まって見る夜景とは全く趣が違った。これから東京湾を南下していく船の東側からは大量のコンテナを積み上げるクレーンが休んでいるのがたくさん見えた。
こういう景色自体は、初めて見るわけじゃなかったし、もうちょっといくと幕張とか千葉のほうが見えそうだな〜、くらいに思って、心の温度はわりと低めで引き続き海の向こうを眺めていると、今回の仕事の案内をしてくれているTさんが「あっちのほうがたくさん光ってるのに、そんな暗いところばっかり見て何が楽しいんだか」と言う。ちょっとムッとしたけど、大学生が大騒ぎしている甲板のほうに行きたくないのでわたしは「いえ、けっこうおもしろいですよ」と返して、7割は実際おもしろく、3割くらいは意地っぱりでその場に居続けた。船がレインボーブリッジの下をくぐって、また歓声があがった。

Tさんの言う通り、そこから先も景色はほとんど真っ暗だった。でも「あの建物は東京ビッグサイトじゃないか?」「あれは去年なんとなくのノリで歩いて渡った橋だ、葛西臨海公園にいけるやつ!」と気づいたくらいから、景色の楽しみ方が変わった。地図アプリを参考にして自分のいる場所と向きを確認しながら、いま見えている光の群れとそれを支えるシルエットがなんの橋や建物なのかを解明していくゲームみたいになってきた。船はぐんぐん進むので風が強くメガネを飛ばされそうになったけど、顔を前に向けて目を凝らした。あたりは真っ暗だけど海は平らなので遠くのほうまで見通すことができたし、テクノロジーの力を借りれば、目の前の景色の解像度が想像上でぐっと上がるのがおもしろかった。暗い遠くを本物の街が、ゆっくり通り過ぎていく。

あたりは真っ暗なので、基本的には光っているもの、というかほとんど光そのものしか見えない。そして、その光は空の星座みたいに実際の建造物のフォルムをかなり抽象化したような線を描いている。そこから想像しながら目を凝らすと、橋の向きや大きさがわかってくる。画像検索した橋の形と見比べると、もっとよくわかる。これは都市の星座だ!湾岸に浮かぶ星の向こうには、伝説じゃなくて自分たちの本当の生活と現在があるんだ!と思ってワクワクしたけど、ちょっとロマンチックな比喩表現で恥ずかしかったので一緒にいた2人には言わずに黙っていた。昔の人が星と星のあいだを線でつないで、その形から色々な想像を膨らませて動物などに例えた時とは全く逆の仕組みで、今わたしは遊んでいる。都市の星と星のあいだをつなぐ線は想像ではなく現実そのもので、でもその現実が暗くて見えない。けっこう詩的なんじゃないかと思うけどあんまり詩的に表現できなくて悔しい。


去年、友人となんとなく歩いて渡った葛西臨海公園のほうへ向かう橋は「荒川河口橋」という名前だった。かの有名なアクアラインの「アクアブリッジ」も見えたし、その近くにある「風の塔」というのも見えた。(「風の塔」は、アクアラインの換気のための施設だけど観光スポットとして登れるようになっているらしい、けっこう気になる。)それは真っ暗な海の上、けっこう手前に何やら怪しげな建物のようなものが浮いている…?という感じで現れ、赤いランプが点滅しているのが悪の組織のアジトみたいだった。向こう側が透けて見えているようだけど壁もあるみたいで、実際の形がうまく想像できず、検索してみるとやっぱりけっこう変な形の建造物だった(検索してみてね)。船の反対側に行ったら「横浜ベイブリッジ」も見えた。橋マニアの人とかは、きっとこんな夜景で極度に抽象化された状態でも、これがあの橋で、とかヒョイヒョイわかったりするんだろうなあ。楽しそう。そういえば羽田空港から離陸する飛行機も見れました。

そうやって1時間くらい夜景を見て、その印象をまだまだ体に残したまま、船の揺れとモーターの振動が直にくる固くて寒すぎる床で一睡もできず島に到着し、朝から数時間めちゃめちゃ頑張って諸々が終わり、帰りの船に乗った。

帰りの船は夕方のまだ陽がある時間帯だったので、行きの夜行で見た景色の答え合わせができた。「風の塔」も、ネットで検索して見た画像の通りの青と白のしましま模様だった。暗闇のなかで大きな面に光がぬらぬらと反射していて不気味だった建物は、その大きな面がぜんぶガラス張りになっていたのがはっきり見えた。昨夜は「あれはガラスなのかな〜?」というところどまりだったので、正解して嬉しかった。一緒に行った2人は帰りの船に乗るなりすぐに寝てしまったので、わたしは1人で黙って窓の外を見ていて、小学生の時の夏休みが終わっていくみたいな気分だった。こんなふうに黙っていると心だけこっそり社会性から離脱できる時がある。でも、帰りは友人と新橋で飲んだりしたので急に社会で生きてる大人っぽくて、さっきまでの幼いような柔らかくて鮮やかな気持ちがはっきり終わったのを感じた。楽しかったけど寂しかった。新橋の小さい飲み屋で、お酒も手伝って、ちょっと強い言葉で喋ってしまっていたような気がする。


東京湾を航行する船には過去にも何度か乗ったことがあるけど、その度に楽しい。移動目的ではなく遊びで乗ることの方が多いから、船は自分にとって日常の乗り物ではなくてアトラクションだ。でもテーマパークとは違って、景色はいつも見ている東京の景色なので、そこにグッとくる。観覧車の楽しさに近い。そうか、東京湾クルーズも伝統的なデートスポットだし、昔からあるようなデートスポットってつまり景色がいいんですね。いい景色のことを多くの人が好きだというのはなんだか心が和む真理です。


最後に近況
ここ最近ちょっと時間があるので、読みたかった本・漫画、観たかった映画などを積極的に摂取していて楽しいです。船からの東京湾の眺めは、そのモードの入り口になってくれた。知らない場所に行ったり知らないものを見たりすると、けっこうすんなりとちゃんと頭が冴えてる状態になれる。何かに夢中になる時の冴えた集中、あの状態に勝る身体的快感はないと思う。狩りに似ているんだろうか。なかなか調子が良いです。やっていこ〜