路傍の死と詩


1週間くらい前のこと。雨の降っている昼間に1人で赤坂の歩道を歩いていた。大きな道路から少し入った静かな道だった。さっき買った弁当の入ったビニール袋を片手にさげて、借りた傘をさして歩いていると、歩道の真ん中に青虫が落ちているのを見つけた。あと少しで踏みそうだったからギョッとして立ち止まった。左側の生垣から出てきたところを誰かに踏まれたのだろうか。なんの幼虫かはわからないが鮮やかな黄緑色で、体の一部が潰れたような、破けたような形に見え、中身が出てきているっぽくて痛々しくて、しゃがんでよく見る気にはなれなかった。
あの時、立ったままの視点で短いあいだ目を凝らして、破けた青虫だと判断したけど、できればただの太いナイロンの紐とか、わかんないけど何か別のものだったかもしれない。そうだったらいい、と、雨が降っていた一昨日、また思い出していた。

ちゃんと観察しそびれてしまったせいでかえってその出来事が心に残ってしまうことがしばしばある。3日前の夜も、観察しそびれて残ってしまった出来事があった。自転車で帰る道中、坂を下っている時、手のひらサイズほどの密度の高い立体的なものをグンと轢いた感触があった。少し先の路上に何かグレーっぽいぐちゃっとした塊があるのは視認できたのにハンドル操作が間に合わなくて、轢いてしまった。その途端、ドッと心拍数が上がった。すでに死んでいたネズミをさらに轢いてしまったんだと思った。呼吸が浅くなる。動物の轢死体を見ることはしばしばあるとはいえ毎回新鮮にショックだし、今のところはまだ自分で哺乳類を轢き殺したことはない。ネズミかどうか確証はなかったけど横隔膜は下がらないし、ブレーキをかけることも、振り返ることも怖くてできなかった。
結局、どうしようもない気分のまま、やがて上りに変わった坂を今度はぐいぐいのぼって家まで帰った。わたしはこういう感じで生き物の死に遭遇した(と思った)時、とにかく「祟り」とか「呪い」が怖くて、軽薄に「南無阿弥陀」とか唱えたりするんですけど、この時もぶつぶつ声に出して10回唱えていた。帰宅してからパートナーに話したら「ネズミじゃないでしょ」と笑われた。次の日、明るい時間に同じ道を通った時には何も見つけられなかったけど、やっぱりあれは、残念だけどネズミだったと思う。3日たって何もないので多分呪われずに済んでいる。

あと、これは大学の近くに同級生がたくさん住んでいて自分もその1人だった頃、夜に自転車で帰路についていたら、通り過がりのゴミ捨て場に馬の生首が捨ててあったことがあった。茶色っぽい表面が街灯に照らされててらてらと艶をもっていて、生々しくてゾッとした。まさか馬の生首なわけがない、本当にそんなわけがほとんど絶対ないんだけど、わたしは恐怖で冷静さを失って、泣きそうになりながら急いで通り過ぎた。まずいものを見たと思った。事件に巻き込まれたような気分だった。そこは、いつも猫除けの機械の音と思しき高周波が鳴っている一角で、すごく居心地が悪い道だと以前から感じていたから、あそこに馬の生首が捨ててあるという状況は自分のなかで整合性がとれていた。しかし、友人にそれを伝えると面白がられてしまい、説得されて一緒に見に行くことになった。先に正体を知って笑っている友人に急かされながら恐る恐る近づくと、馬の生首は古着が沢山詰まった合成皮革の茶色いバッグだったことがわかった。正体がわかってもなんとなく不気味だった。


路上で何かを見つけたりびっくりしたり謎に出会ったりすると(怖いことが多いし、だいたい間違っているんだけど)頭がフル回転するというか、想像力が総動員されて、脳の普段あまり使わない部分が働き出す気がする。
生活には、まっしぐらに進む基本の流れがある。ある場所へこの時間に行くとかこの日までにこれをやるとか、スケジュール帳に文字として書ける、そういうものがある。その流れに従っているだけの時は、路上がどんな様子であろうと、順調に駅まで行くし家にも帰る。前方、フロントガラスの中央に向かってまっしぐらに、適切なフォームと速度で硬い車体が進んでいく。決めたことはそういうふうに流れていくので、点をつなぐ線の部分にディティールはいらない。でも、ふいに見間違えたり見つけたりすると、色んなことが全く当たり前じゃなくなって、前だけ見ていた視野がバーッと広がる。ディスプレイのように前方だけを写すフロントガラスの外側に、目的地以外のあらゆる上下左右があるのを思い出して、「前だけ見て予定をこなす車体」みたいなのがフワーッと溶けて、生きているわたしが露出する。そして、その生きているわたしが見る景色には、嘘とか想像の入る余地がたっぷりある。横道に逸れるというよりは別のレイヤーを重ねるように、目の前の事実に想像の奥行きが生まれ、「これなに?」「こういうことかも?」と言葉で思索し、イメージを手繰り寄せようとする時、景色は詩情をたたえはじめる。こうなったらもう、事実が実際どうであっても関係ない。太いナイロンの紐は青虫に、濡れて固まった手袋はネズミに、古着の詰まったバッグは馬の生首になる。

1人でいると、こういう発見や思い込みの、速さと深さが強まる精神状態になりやすい。特に旅行している時などは、ほとんどずっとこの感じだ。少し怖いけどワクワクしている。初めて会ってきっともう二度と出会わない人に嘘を名乗ったって良いし、夕飯を食べなくても良いし、いきなり立ち止まっても良い。いつもより女っぽく振舞っても良いし、めちゃくちゃ大人ぶっても良いし子供みたいになってもいい。1時間なんとなくここにいてもいい。景色が鮮やかに見えてきて、地に足がつく。風の温度がわかる。ひとり旅にはそういうのを許してくれる時間があるから、何かに気づいたり驚いたりしやすい。
その心地が欲しくて自分は時々一人で遠出していたけど、最近は時勢的に以前のようには行けていなかった。その代わり、散歩したり、二人くらいの少人数で友人と近場の路上を歩くことが増えた。自分は元々そういう遊びを人よりやっていたほうだとは思うけど、このところ以前にも増してそういうことをやっています。そして、こういう過ごし方を人と一緒にできる、というのがしみじみ嬉しい。

先日そんなふうに友人と高田馬場あたりを歩いていた時だ。道路と私有地を隔てるフェンスの向こうに、大きな細長い白い板が立てかけてあるのを見つけた。細長い穴が規則的に空いていて、暗いのでその穴は黒く見え、ピアノの鍵盤のようだった。しかし良くみると穴だし、まあ全然違って、洗濯板とか排水溝にはめる板に近い。プールに置くベンチみたいな質感?なんだろう。わたしがそこまで考えたタイミングで、一緒にいた友人が「こんなところに鍵盤が捨ててある!」と言ったのでおもしろかった。いやそれわたしもそう思ったけど違うんだよ!!うわ本当だ?!と笑いながらもう一度よく見たけど、2人がかりで観察しても一体何なのかわからなかった。何かの部品だろうか。そのフェンス沿いにしばらく行くと、同じものが同じようにいくつか捨ててあってますます謎だった。

そんな調子で歩くと、例えば滝へ続く山道も、終電後の隅田川沿いも、郊外のショッピングモールも、土曜日の新宿の喧騒も、無法地帯みたいな裏路地も、人の多い公園も、全部それぞれに、それぞれの場所に特有の「なにあれ」があるからすごい。変な色の虫とか、エイゴリアンで見たみたいなキノコとか、マンションのベランダに下がっている万国旗とか、ビルとビルのドアと窓が通路でつながっているのとか、屋上から腕が飛び出たまま止まっているフォークリフトとか、何に使うのか全くわからない売れ残りの生活用品らしきものとか。何なのかわからないもの、なぜそうなっているのかわからないものって本当にいっぱいある。自分で見てその理由や経緯までわかるものなんて実際ほとんどなくて、わかった気分になっているだけだとよくわかる。夜、川が終わって海に開く湾岸の橋を渡りきるあたりで、シュレッダーにかけた細かい紙片が大量にばら撒かれていた時は、事件のにおいがして怖くって嘘みたいで、でも一緒に歩いていた友人とちょうど「事実は小説よりも奇なりですよね〜」みたいな話をしていた時だったから、現実マジ最高に狂っててたまんね〜!と大笑いした。


こうなってくると、目をはじめとした感覚器官はすごい。理解できなくてもとりあえず見て捉えることができる。いや、本当は、言葉と目の前の現実は常にそういう関係だ。ただ、びっくり事故みたいに勘違いしたり、その正解がわからないというだけで一気に普段の言語の運用、日常バイアスが無効化されるのがおもしろい。人間に想像力があってよかったと思う。いつも見ているお馴染みのビルをいきなり「硬そうなでっかい箱!」と表現するのにはちょっと心の準備が必要だけど、見慣れないものは見間違えやすい。もう、何年も前の晩にあのゴミ捨て場にあったのは馬の生首だったし、シュレッダーにかけた細かい紙が小雨で濡れて路面にこびりついているのは誰かが証拠を隠滅しようとして失敗した痕跡だった。犯人どうなっちゃったんだろう。


自分で見たり感じたりした時、その対象と自分は一対一になる。そういう時がわたしは心地よい。そして、幸運なことに、隣にいてもわたしをそういう「ひとり」にしてくれる親しい人が何人かいる。あの人たちは、自身も少なからず「ひとり」でそこに居るのだと思う。油断しながらアンテナを張っているみたいなモードで、知らない路地にふらふら迷い込んでいける、ちょっとした勇気と好奇心のある軟らかい人たち。好きです。

どちらかの「あれなに?」に、「どれ?」と重ねた時から、発見は2人の遊びに変わっていくけど、見つめあったりしない2人は、ふたりというより1人と1人だ。もし突然はぐれても、あっさり次の区画で合流して、あんなの見つけましたと笑って話せる気がする。
全然まとまらないし度々いつも言っているけど、わたしには良い友達がいます。