ちょっと「目がいい」


今朝は午前指定のギリギリにやってきた宅配便で正午に目が覚めて、思いついて久しぶりに走りにいった。いつもはちょっと遠い大きい公園まで自転車で行ってそこを走っているし、このあたりで何か用事があるといえばそれはたいてい食品などの買いものなので荷物の重さで周りを見る余裕がないし、銭湯に行くのは夜だしで、明るい時間のこのあたりの様子をゆっくり見られるのは休日の特権だ。

昼間って、本当に何もかもよく見える。良い。銭湯に行く途中にあるお宅の庭に、皇帝ダリアが咲いているのを見た。家の2階の窓をゆったり超えていてちょっと感心した。元来背の高さが1番の特徴の花だけど、あそこまで高いのは少し珍しい気がする。ひょろりと伸びた茎とザクザクした葉っぱの先に、これも鋭い形の花びらが薄い紫色をして咲いている。「皇帝ダリア」(コダチダリア)という名前はやっと最近覚えた。たまに電車や車で通り過ぎる時に見つけるとギョッとするほど背が高いので、こんな季節にあんなに背の高い茎で花が咲いているのは妙な感じがするし、ちょっと不気味だなあと思って印象に残っていて、数日前にまた電車から見つけて、一緒にいた人と話題にしたくてやっと名前を調べたのだった。メキシコ辺りからきた外来種らしくて、不気味さの根拠を得たようで腑に落ちた。


最近(前提を省略するけど)初めて会う人と一緒に昼間のほとんど知らない町をのんびり歩いたことがあった。よく晴れていて、各自が見つけたものを報告しあうような会話が1時間くらい続いていて、ふと「花が好きなんですね」と言わた。花だけじゃなくて、イチョウはすっかり黄色くなっているのとまだ緑色のとがあるのとか、木の畑に小さい実がひっそりなっているのを見つけたり、赤い実がびっしりなったサンザシにてんとう虫を見つけたりもしていたので「花」とは思っていなくて、そう見えるんだなと意外だった。シュロとソテツはどっちも「ヤシの木みたいなやつ」だけど違う木です。そして、その人もわたしにとっては意外なところで立ち止まって写真を撮ったりしていて、ああここで立ち止まるんだとそのたび思った。変な言い方だけど、これまでの人生のなかでいろんな人と一緒に歩いたり景色を見たりした経験を振り返ってみても、まあ大抵の人が、いや、たぶん全員、わたしとは全然違うところを見ておもしろがっている。それが重なると嬉しいし、ずれていても楽しい。先日「えっ!」と言ってチカチカしている居酒屋の看板を指さした友人に、気づいていたけど気にしていなかったわたしは不思議な気分で「え?」と返してしまった。つまんないこと言ってゴメンみたいに言われてしまって申し訳なかったけど、えっ!とかあっ!とか思うもの、注視するものが全然ちがうってことが、当たり前だけど素晴らしいことだとしみじみ思う。言葉を使えば互いに共有できるということも含めて。


かなり前に、知人の映像作品の撮影を手伝った時にも、見ているものが違うのを実感した。あれは山での撮影だった。画面に映ってしまう隠したいものがあったので、そのへんで草を摘んできてカモフラージュに使うことになった。カメラが向いている場所は少し日陰になった急な斜面で、一帯はじめっとしており、当然、植物もそういうところで育つものばかりだった。笹みたいなのとかシダとか、色の濃い葉がずっしりびっしり生えている。道がなく足場は悪い。そんななかで、ディレクターが「隠すための草は、そっちで摘んできたら?」と、日向のほうを指して言った。摘んだ跡も絶対にカメラに映らないし坂になっていないから摘むのもラクだよ、という意図があったと思う。しかし、そっちの日当たりの良いひらけた草っぱらは、撮影場所からほんの数メートルいっただけだけど植生が全然違った。細くてサラサラした乾いた葉っぱしかない。この草ではカモフラージュにならない。論外の提案だ!まあ別にそんな草なんかどこで摘んだっていいので「そっちは生えている草が全然違うからダメです」と伝えて、最終的には画角のなかに入る草と同様の草を集めて、違和感なく隠すことに成功した。ディレクターに「植生が違うとか考えてもみなかった、そのディティールが見えてるのは素晴らしい」と言われて嬉しかったのでよく覚えている。


あれから半年。最近、わたしはその頃よりもさらに景色のディティールが見えるようになった(気がしている)!なんか「目がいい」です。音楽を聴くセンスがいいのを「耳がいい」と評するような感じで、ちょっと「目がいい」。それもちょっと異質な目の「よさ」を身につけつつある気がする。草木のディティールがちょっと分かるのは昔やっていた植栽管理のバイトの影響で、景色を見る特定の観点を新しく得たという話だけど、最近のアップデートはそれとはまったく異質だ。多分、双眼鏡のおかげである。Nikonのちょっといいやつを夏の終わりに買ってから、荷物の少ない日は鞄にいれて持ち歩いて時々取り出してみたり、暇な時にそれだけ持って出かけて工事現場を眺めたりして遊んでいたのだけど、その影響を受けて、この数ヶ月で目の使い方が少しだけ新しくなった。

双眼鏡は、視野を一点(と言っていいほど狭い範囲)に絞ることで景色という全体から部分を抽出する道具だ。その感覚が、目にインストールされつつある。どういうことかというと、景色のなかの気になるものに目がいく時の、目が「いく」速さや圧や、見ると決めた点に瞬時に集中する正確さがあるとしたらそういうのが上がっている、といった感じ。目を、景色という反射光を受け取る穴というだけじゃなく、ビームを撃って捕らえにいくように能動的に使う、みたいな感覚が、新しく生成されつつある。

やっぱりこういうのも1人では自覚できなくて、友達と一緒に歩いている時にわかる。並んで歩いていた友人に「少し先のあのローソンに寄ろう」と言ったら伝わらなくて、少し進んでローソンがかなり近くなってから「ここまで見えてたの?!」と言われたりとか、そういう時にわかる。この時は、道が曲がっていたのでまだ思い切り距離がある特定の瞬間にしか遠いローソンの看板は視認し得なかったのだが、わたしは目がビームになっていたので瞬間のローソンが「見え」た。厨二みたいな言葉遣いになってしまうけど厨二みたいな感覚の話なのでしょうがないです。
ともかく、たぶん日常的に、ちょっとだけ人より「見え」ている。でもこれは天然ではなくて意識的に仕組んでいる。何を隠そう、バキバキに度を強くして乱視補正もかけた悪魔的コンタクトレンズの為せる技である。これは普通にお金がかかるし明らかに眼精疲労と頭痛と肩凝りの原因になっていて代償が重いのだが、本当に見ることがおもしろいし眼鏡より圧倒的に邪魔にならないので手放せない。身軽、かつ、視界のほとんどすべてのものにばっちりピントがあうということは、目が「いく」時に大きなアドバンテージになる。
 
これは数字で測れるものではないけど、わたしなんかよりももっともっとすごい鋭さで目が「いく」人が、いる。狂気を感じるほどに「目がいい」人が。知っている中で一番やばい人は、写真家なのだけど、伝え聞くところによると彼は車道を挟んだ向こうの路地の進行方向がわの壁(つまり歩いていく時に自然に視界に入る位置ではない壁)のドアの前に不自然に配置された自販機を、人と歩きながら発見したりするらしい。目、どこについているんでしょうか…。
 
そういう達人もいるけど、まあ、我々のこれは、目ですから、自分が見たいと思うものを見たり見つけたりできればそれで良い。わたしは自分のその力がだんだん、自分の欲しい方向に先鋭化してきているのが嬉しい。成長しています!



少し話がそれるけど、生きていくうちに更新されるのは目だけではない。今朝のジョギングの時に近くを通り過ぎた建設現場で、釘か何かを打ち込む作業をしている音が聞こえた。言い換えると、釘か何かを打ち込んでいるのが音でわかった。
釘を打ち込む時、一回叩くごとに打撃の音と同時に、響く音も鳴るパターンがある(響くほうはあんまり聞こえないこともあって、どの条件がその差異を生むのかわたしにはまだわからない)のだけど、その響くほうの音は、打ち込むごとに音程が高くなっていく。単純な物理法則で。今日は、それが音を聞いて瞬時に想像されることが妙に嬉しかった。自分が過去に釘を打ち込んだ経験と、ものを叩いた時の音は長いものほど低く短いものほど高くなるという実感を伴った知識が、音を聞いてすぐに思い起こされ、今まさに金属棒が打ち込まれて木に埋まっていく、という様がありありと想像できた。打つごとに次第に音が高くなって、最終的には打撃の音だけになって響く音は聞こえなくなるのだけど、一本、また一本と、細長い鋭利な金属が刺さるべきところへ刺さって作業が進んでいくところを、ジョギングの速さで通り過ぎる10秒にも満たない時間で聞いて想像できたのはとてもおもしろかった。


わたしは、こういうことに気づいてウヘヘおもろ〜と喜ぶのをマジで一生やってたい。そのためには好奇心とちょっとの知識、あと、そのベースとして健康が必要だ。ここ一、二週間くらい、そこまで忙しくもないのにめちゃめちゃ体調が悪かったので心が参っていて、仕事中などに、頭の中でずっとなぜか罵詈雑言を絶叫している声のようなものが鳴り響いていた。今にも口から声になって出そうなので歯を食いしばって黙ったりしていたけど、耐えきれず、帰り道で見知らぬ犬に(犬に)吠えたり、会話に夢中で道を通してくれないおじさんに舌打ちしたり、1人で虚空に向かって怒鳴ったり泣いたりしていて、自分じゃないみたいに乱暴者になってしまっていた。でも今日、やっとちょっと余裕があったので朝遅くまで眠った。最近ニュースに聞く数々の凶悪犯罪に、正直ちょっと共感してしまっていたので、休めてよかった。冬の寒さと年末みたいな空気感には、人を焦らせたり狂わせたりする何かがあるんだろう。年が明けたらちょっとは変わるんじゃないかとか、嘘でもそう思いたい。牡蠣たべたい。



今朝は午前指定のギリギリにやってきた宅配便で正午に目が覚めて、思いついて久しぶりに走りにいった。
走るたび、背筋の腰につながるあたりがぶよぶよ動いているのがわかった。冬は、じっとしていると体が石みたいに冷たく硬くなっていってそのまま気分も暗くなっていきがちで、最近まさにそんな感じで落ち込んでいたから、一歩一歩走るたびに意外と背筋とかが軽く動いている!とわかるのが嬉しかった。家に帰ってきてシャワーで汗を流し、洗濯機を回し、オンラインミーティングで来月の企画の話とかして、その人が昔つくった歌を今度一緒に歌おうってことになって、めっちゃいいじゃん、え、楽しい〜なんて明るい気分でぼやぼやしながら、洗濯物こんな午後からで乾くんだろうか?と思いながら干して、ジャンパーの襟元から部屋着のフードを出して一昨日買ったばかりのふわふわのネックウォーマーをして、スボンはスウェットのまま靴下につっかけで牛丼を食べに行った。

もう、ちょっと陽がかたむきだしていて、外の空気はさっきジョギングに出た時よりもヒンヤリしていた。足首だけが寒かった。薬局の前を通り過ぎる時、ガラスに映った自分の姿が、11月の人、って感じだった。

これを書いていて、今はいつもなら夕飯時だけど、変な時間に牛丼を食べたのでお腹が空いていない。楽しいたびに「久しぶりに楽しいな」って思うけど、数えてみたらちゃんと2日に一度以上は楽しい。