路傍の死と詩


1週間くらい前のこと。雨の降っている昼間に1人で赤坂の歩道を歩いていた。大きな道路から少し入った静かな道だった。さっき買った弁当の入ったビニール袋を片手にさげて、借りた傘をさして歩いていると、歩道の真ん中に青虫が落ちているのを見つけた。あと少しで踏みそうだったからギョッとして立ち止まった。左側の生垣から出てきたところを誰かに踏まれたのだろうか。なんの幼虫かはわからないが鮮やかな黄緑色で、体の一部が潰れたような、破けたような形に見え、中身が出てきているっぽくて痛々しくて、しゃがんでよく見る気にはなれなかった。
あの時、立ったままの視点で短いあいだ目を凝らして、破けた青虫だと判断したけど、できればただの太いナイロンの紐とか、わかんないけど何か別のものだったかもしれない。そうだったらいい、と、雨が降っていた一昨日、また思い出していた。

ちゃんと観察しそびれてしまったせいでかえってその出来事が心に残ってしまうことがしばしばある。3日前の夜も、観察しそびれて残ってしまった出来事があった。自転車で帰る道中、坂を下っている時、手のひらサイズほどの密度の高い立体的なものをグンと轢いた感触があった。少し先の路上に何かグレーっぽいぐちゃっとした塊があるのは視認できたのにハンドル操作が間に合わなくて、轢いてしまった。その途端、ドッと心拍数が上がった。すでに死んでいたネズミをさらに轢いてしまったんだと思った。呼吸が浅くなる。動物の轢死体を見ることはしばしばあるとはいえ毎回新鮮にショックだし、今のところはまだ自分で哺乳類を轢き殺したことはない。ネズミかどうか確証はなかったけど横隔膜は下がらないし、ブレーキをかけることも、振り返ることも怖くてできなかった。
結局、どうしようもない気分のまま、やがて上りに変わった坂を今度はぐいぐいのぼって家まで帰った。わたしはこういう感じで生き物の死に遭遇した(と思った)時、とにかく「祟り」とか「呪い」が怖くて、軽薄に「南無阿弥陀」とか唱えたりするんですけど、この時もぶつぶつ声に出して10回唱えていた。帰宅してからパートナーに話したら「ネズミじゃないでしょ」と笑われた。次の日、明るい時間に同じ道を通った時には何も見つけられなかったけど、やっぱりあれは、残念だけどネズミだったと思う。3日たって何もないので多分呪われずに済んでいる。

あと、これは大学の近くに同級生がたくさん住んでいて自分もその1人だった頃、夜に自転車で帰路についていたら、通り過がりのゴミ捨て場に馬の生首が捨ててあったことがあった。茶色っぽい表面が街灯に照らされててらてらと艶をもっていて、生々しくてゾッとした。まさか馬の生首なわけがない、本当にそんなわけがほとんど絶対ないんだけど、わたしは恐怖で冷静さを失って、泣きそうになりながら急いで通り過ぎた。まずいものを見たと思った。事件に巻き込まれたような気分だった。そこは、いつも猫除けの機械の音と思しき高周波が鳴っている一角で、すごく居心地が悪い道だと以前から感じていたから、あそこに馬の生首が捨ててあるという状況は自分のなかで整合性がとれていた。しかし、友人にそれを伝えると面白がられてしまい、説得されて一緒に見に行くことになった。先に正体を知って笑っている友人に急かされながら恐る恐る近づくと、馬の生首は古着が沢山詰まった合成皮革の茶色いバッグだったことがわかった。正体がわかってもなんとなく不気味だった。


路上で何かを見つけたりびっくりしたり謎に出会ったりすると(怖いことが多いし、だいたい間違っているんだけど)頭がフル回転するというか、想像力が総動員されて、脳の普段あまり使わない部分が働き出す気がする。
生活には、まっしぐらに進む基本の流れがある。ある場所へこの時間に行くとかこの日までにこれをやるとか、スケジュール帳に文字として書ける、そういうものがある。その流れに従っているだけの時は、路上がどんな様子であろうと、順調に駅まで行くし家にも帰る。前方、フロントガラスの中央に向かってまっしぐらに、適切なフォームと速度で硬い車体が進んでいく。決めたことはそういうふうに流れていくので、点をつなぐ線の部分にディティールはいらない。でも、ふいに見間違えたり見つけたりすると、色んなことが全く当たり前じゃなくなって、前だけ見ていた視野がバーッと広がる。ディスプレイのように前方だけを写すフロントガラスの外側に、目的地以外のあらゆる上下左右があるのを思い出して、「前だけ見て予定をこなす車体」みたいなのがフワーッと溶けて、生きているわたしが露出する。そして、その生きているわたしが見る景色には、嘘とか想像の入る余地がたっぷりある。横道に逸れるというよりは別のレイヤーを重ねるように、目の前の事実に想像の奥行きが生まれ、「これなに?」「こういうことかも?」と言葉で思索し、イメージを手繰り寄せようとする時、景色は詩情をたたえはじめる。こうなったらもう、事実が実際どうであっても関係ない。太いナイロンの紐は青虫に、濡れて固まった手袋はネズミに、古着の詰まったバッグは馬の生首になる。

1人でいると、こういう発見や思い込みの、速さと深さが強まる精神状態になりやすい。特に旅行している時などは、ほとんどずっとこの感じだ。少し怖いけどワクワクしている。初めて会ってきっともう二度と出会わない人に嘘を名乗ったって良いし、夕飯を食べなくても良いし、いきなり立ち止まっても良い。いつもより女っぽく振舞っても良いし、めちゃくちゃ大人ぶっても良いし子供みたいになってもいい。1時間なんとなくここにいてもいい。景色が鮮やかに見えてきて、地に足がつく。風の温度がわかる。ひとり旅にはそういうのを許してくれる時間があるから、何かに気づいたり驚いたりしやすい。
その心地が欲しくて自分は時々一人で遠出していたけど、最近は時勢的に以前のようには行けていなかった。その代わり、散歩したり、二人くらいの少人数で友人と近場の路上を歩くことが増えた。自分は元々そういう遊びを人よりやっていたほうだとは思うけど、このところ以前にも増してそういうことをやっています。そして、こういう過ごし方を人と一緒にできる、というのがしみじみ嬉しい。

先日そんなふうに友人と高田馬場あたりを歩いていた時だ。道路と私有地を隔てるフェンスの向こうに、大きな細長い白い板が立てかけてあるのを見つけた。細長い穴が規則的に空いていて、暗いのでその穴は黒く見え、ピアノの鍵盤のようだった。しかし良くみると穴だし、まあ全然違って、洗濯板とか排水溝にはめる板に近い。プールに置くベンチみたいな質感?なんだろう。わたしがそこまで考えたタイミングで、一緒にいた友人が「こんなところに鍵盤が捨ててある!」と言ったのでおもしろかった。いやそれわたしもそう思ったけど違うんだよ!!うわ本当だ?!と笑いながらもう一度よく見たけど、2人がかりで観察しても一体何なのかわからなかった。何かの部品だろうか。そのフェンス沿いにしばらく行くと、同じものが同じようにいくつか捨ててあってますます謎だった。

そんな調子で歩くと、例えば滝へ続く山道も、終電後の隅田川沿いも、郊外のショッピングモールも、土曜日の新宿の喧騒も、無法地帯みたいな裏路地も、人の多い公園も、全部それぞれに、それぞれの場所に特有の「なにあれ」があるからすごい。変な色の虫とか、エイゴリアンで見たみたいなキノコとか、マンションのベランダに下がっている万国旗とか、ビルとビルのドアと窓が通路でつながっているのとか、屋上から腕が飛び出たまま止まっているフォークリフトとか、何に使うのか全くわからない売れ残りの生活用品らしきものとか。何なのかわからないもの、なぜそうなっているのかわからないものって本当にいっぱいある。自分で見てその理由や経緯までわかるものなんて実際ほとんどなくて、わかった気分になっているだけだとよくわかる。夜、川が終わって海に開く湾岸の橋を渡りきるあたりで、シュレッダーにかけた細かい紙片が大量にばら撒かれていた時は、事件のにおいがして怖くって嘘みたいで、でも一緒に歩いていた友人とちょうど「事実は小説よりも奇なりですよね〜」みたいな話をしていた時だったから、現実マジ最高に狂っててたまんね〜!と大笑いした。


こうなってくると、目をはじめとした感覚器官はすごい。理解できなくてもとりあえず見て捉えることができる。いや、本当は、言葉と目の前の現実は常にそういう関係だ。ただ、びっくり事故みたいに勘違いしたり、その正解がわからないというだけで一気に普段の言語の運用、日常バイアスが無効化されるのがおもしろい。人間に想像力があってよかったと思う。いつも見ているお馴染みのビルをいきなり「硬そうなでっかい箱!」と表現するのにはちょっと心の準備が必要だけど、見慣れないものは見間違えやすい。もう、何年も前の晩にあのゴミ捨て場にあったのは馬の生首だったし、シュレッダーにかけた細かい紙が小雨で濡れて路面にこびりついているのは誰かが証拠を隠滅しようとして失敗した痕跡だった。犯人どうなっちゃったんだろう。


自分で見たり感じたりした時、その対象と自分は一対一になる。そういう時がわたしは心地よい。そして、幸運なことに、隣にいてもわたしをそういう「ひとり」にしてくれる親しい人が何人かいる。あの人たちは、自身も少なからず「ひとり」でそこに居るのだと思う。油断しながらアンテナを張っているみたいなモードで、知らない路地にふらふら迷い込んでいける、ちょっとした勇気と好奇心のある軟らかい人たち。好きです。

どちらかの「あれなに?」に、「どれ?」と重ねた時から、発見は2人の遊びに変わっていくけど、見つめあったりしない2人は、ふたりというより1人と1人だ。もし突然はぐれても、あっさり次の区画で合流して、あんなの見つけましたと笑って話せる気がする。
全然まとまらないし度々いつも言っているけど、わたしには良い友達がいます。






袖なしで電動キックボードに乗るシーン

 
先日、電動キックボードに乗った。恋人の乗る自転車に先導してもらって、夜の都内を目的地まで10分くらい走っただけだったけど、昔漫画で読んだ未来を今生きているみたいで、まるでひとつ夢が叶ったような気持ちになった。思い描いて望んでいたわけでもないから、夢の中にいたような、といったほうが正しいのかもしれない。でもとにかく、よかった。


最近、さすがに人生のフェーズが変わってきているのを感じる。「アラサー」がいつのまにか自分のことになった。結婚した友達も多くて、子供を育てている子も何人かいて、え?子供を育てている”子”……?子じゃねえ〜〜!親〜〜!!
アラサーって言葉が使われ出した頃に私は高校生だったような気がするので、え、いつの間に、と、ポカンとしてしまう。とにかく、自分の若さの臨界点はぼちぼちこの辺なんだろうな、という感じがしている。
自分なりに鍛えて、手入れをして、気を使って生活をして、ようやく体力とか肌の調子が人並みのところに、自分のなかでは最高の状態に保てている。でも、ちょっと気を抜いたらもう崩れちゃいそうだ。そんな気の張り詰め方をしていたら心がもたないよと、自分でも思うし、たまに人にも言われる。

ここしばらく、いろんなことが全然うまくいかない。こんなんじゃだめだということだけは頭でボンヤリわかるけど、思い切って行動に出ても空回るし、どんどんやるせない気分が押し寄せてくる。負けていられないと奮起したいところだけど、人生の短さや自分の何もできてなさ、これからのできそうになさ、その他いろんなことが情けなく思える!絶望的だ〜!こういう、暗くて卑屈な考えに落ち込んでいってしまうことは本当によくあって、ぜんぜん特別なことではないから、家で肉を焼いて山盛りの牛丼に卵を割り入れて、初めて飲んでみるビール(Asahiの富士山)なんか開けてみたりして誤魔化そうとするけど、当然、それじゃ何も解決しない。ビールは麒麟が好きだな…。

とにかくずっとぼんやりそんな気分で生活を続けていて、なんだか気持ちがアガらないことにも、やばすぎるコロナの状況にも政治のひどさにも、自分自身にも、すっかり飽きてしまったような憂鬱さだったので、生まれて初めて電動キックボードに乗った数分間が、突然、予想外に鮮やかで、特別な何かに思えたのだった。

少しごついハンドルには、右手の親指で操作できるレバーのようなものがあり、これを押すと加速する。ブレーキは自転車と同じ。まがりなりにもナンバープレートのついた、運転免許証の提示が求められる乗り物なのでけっこう緊張する。指だけでレバーを押すとキックボードだけぐーんと先に行ってしまいそうになるので、全身を使って重心をうまく調整してその速さにのる必要があった。初めはちょっとこれは怖いぞと思ったけど、覚悟を決めて道を進むなかで加速と減速を何度か繰り返したらすぐにわかってきた。わかってきてからは、中途半端な速さでこうして車道を、ヘルメットもしないで(義務はない)走っているのはきっと自動車からしたら相当うざいだろうなあという想像を半分くらいしつつも、新しい遊びを、生まれて初めてやる体の使い方をやっていることの新鮮さと喜びのほうが勝っていた。スケボーに乗るみたいに両足のつま先を右に向けて、膝は少し曲げて、腰から上の背筋をすっと伸ばしてボードの上に立つと気持ちよかった。

こうやって新しい遊びにすぐに適応できる自分のちょっとした運動神経の良さが妙に誇らしかった。今まで何人かの友人に「きれいな服だね」「いいね」と言ってもらえた袖のないお気に入りの服から出た生身の腕が、排気ガスやらいろんなもので汚染されたグロテスクな都会のベタベタした空気を、ぎりぎりの感じでかろうじて「キラキラと風を切って」いけることが嬉しかった。
袖のない服はわたしにとって普通にできる格好のなかで一番裸に近い。開放的な気分になって気持ちが良いので夏になるとこれでもかと着てしまうのだけど、これで電動キックボードに乗ったら、こんなんで転んだらすごく痛い思いをするだろうな、という出血の想像と緊張感が肌の表面に魔法をかけて、開放感がMAXまで振り切れてしまった。そして、こんなことを言うのは自分でもどうかしてると思うけど、いろんなリスクの上にやっとのバランスで成立している、ぎりぎりの美しさが纏えているような気がした。きっとあの時の自分は、街に肌を許しているような危うさとともに「キラキラと風を切って」、若くてちょっと美しかった。でっかいバイクにビキニのギャルがまたがっている、みたいなのの超超下位互換みたいな感じ、といったら伝わるでしょうか!

台風の近い夜の、ぬるい風。次々に現れる信号。街灯。言葉は聞きとれない大量の人々の声。漠然としたざわめき、車のヘッドライト、店の明かり、視界には光るものがたくさんある。前方を走っていく自転車に乗った恋人。代々木のはずれから、新宿・歌舞伎町を通り抜けて新大久保まで。こんな状況だけど東京の繁華街には想像以上に大量に人がいて、今この瞬間、自分もその構成員だからとやかく言えないけど、あれはソドムだった。そして、焼かれてなくなってしまえと思うわけじゃなくむしろわたしは滅びゆくオワった都市で生活することを眉を顰めながら面白がっている。あたしに生産性なんかないでーす、と、ワルぶって、カワイくてダサいのを誇って堂々と背すじを伸ばした、明日に続かない、愛すべき新鮮な体。ダメな奴ですがなにか!
次々にすれ違い通り過ぎるあまりにも多くの人たちと決して目は合わないけど、おそらくほんの少しの物珍しさの視線をちらちらと感じながら、中途半端なスピードでぎゅ〜っと進む。さっきテイクアウトして食べた大きくて美味しい、ちょっといい値段のハンバーガー!人のいない駐車場みたいなところで、こっそり悪いことしているみたいに、口内炎を我慢してゆっくり食べたやつが胃の中にある。信号で止まったら、毎週片道1時間半くらいかけて予備校に通っていた高校生の頃にドキドキしながらローファーで歩いた大通りだった。相変わらず高いビルばかりがあって、ハイブランドのショップとか看板とか、カフェとか、電気屋とかごちゃごちゃあって、横断歩道があって、ぜんぜん空気がおいしくない。空なんか見えない。でもこんなに楽しい。わたしはあの10分間だけ、映画の中にいるような、始まれば必ず終わる時間の中にいた。
 
 
 

手動の都市生活

雨などを言い訳に色々と諦めたことで微妙に時間ができたので、雨音を聴きながら最近のことを書きます。

今朝は早く起きて、パートナーが仕事に行く前に手早く自作の棚を組み立てる(今日の他にできる日がないので、昨日の深夜にもベランダでパーツの塗装をしていて、その延長線上の早朝強行)のを一緒にやった。けっこう良い感じの棚ができて、家に1人になってから、さっそくちょっと物を並べてみた。暮らしって感じがする〜!久しぶりのゆっくり過ごせる午前中を、朝食後のコーヒーなんか入れたりして優雅に過ごしています。これだけ強い雨が降っていると、いろんなちょっとしたことは諦めてしまえる。



そう、引っ越しました。この春、と各所で言ってきた春がいつのまにか終わって、夏と呼んでいい頃になってしまったけど、この初夏にようやく引っ越しをしました。

「この春」は、去年の春と比べてけっこう色々と状況が変わった。一つは、新しい仕事を始めて、働く日がこれまでよりも増えたこと。もう一つは、引っ越して、人と一緒に2人で暮らし始めたこと。まだこの生活は軌道に乗ったばかりでどうもガタガタしているけど、一応なんとか動いて進んでいる。まだフォークと鍋敷きがないけど。ああ七味唐辛子も買えてない
(と言っていたらIKEAに行った友人がついでにとフォークやナイフのセットを買ってきてくれた。ありがとう!)


新しく住んでいる町は、悪臭漂う繁華街からチャリで少しいった静かな所だ。建物は古いので、何も防音施工をしないまま家で大きな声を出すとおそらく近所迷惑になる。外が騒がしいほどの、今日みたいな大雨の日に小声で歌うくらいならきっといいけど、夜中に外の道をおしゃべりしながら歩く若者たちがなんの話をしているのか興味を持てばギリギリ聞き取れてしまうくらいには全ての音がありのまま届くので、きっと楽しく歌ってしまおうものなら通りの先の家まで聞こえるだろう。わたしは以前ほかの場所で、どれくらい建物の外に歌声が聞こえてしまうのか友人達の立ち合いのもと実験した時に、自分が想像していた以上に聞こえているとわかってから若干ビビっています。
豪快な人に憧れているので少し残念なんだけど、わたしは自分で自分に期待しているほど図太くないし強くない。他人のことを気にしだすと途端に動きが鈍る。一人暮らしをしていた時は、他の大きなストレス要因があったとはいえ、暮らしにおいて少し過剰な神経質を発揮していて、自分の生きている様子がすべてバレてしまうような気がして日々のゴミを捨てることすら怖かった。思い出すと意味不明ですけど、日中のスーパーのエレベーターと駅前の交差点にて短時間で三度も目があった女性が怖くて怖くて、妖か霊などの類だと信じ切ってしばらく怯えていたこともありました。(昼に見る幽霊が一番怖いよね!)ともかく、わたしの神経はそこそこ細くて、日頃からしょうもないことやどうしようもないことがちまちまと気になる。

そんな神経が細くて怖がりの自分にとって、まだ家であんまり声も出せない新しい都会暮らしは、かなりストレスフルだ。緊張する。過敏な状態の心に全部バンバン飛び込んでくる。例えば、高速道路の入り口とか高架がかなり身近になったのだけど、あの緊張感はちょっときつい。遠くに見る風景としてなら心地よいけど、隣で生活するとなると迫力があり過ぎる。
あれを目の前にすると、高速道路を自分が運転する時の、カーブをぐーっと曲がる緊張感を思い出して、見知らぬ運転手のそれが伝わってくるような心地がする。今まさに、頭上のこのコンクリートのレールの上を、それなりの緊張感を持った運転手と、それに従う重くて大きな鉄の車が、ガーッ!という音とともに次々通過している!速い!弾丸が頬のスレスレのところを飛び交っている?!死と隣り合わせだ?!というような、ビリビリした想像が、チリチリと神経系を引っ掻く。


都会と呼ぶのは田舎者で、ずっと東京に住んでいるような人は都会じゃなくて都市って言うんだよ…、と長野出身の友人が言っていた。「都会」はビジョンで、「都市」は事実、みたいなニュアンスだろうか。そのあたりの言葉としての真偽はわからないけど、都市は人と一緒に生きている器官という感じがする。郊外や田舎は土地が先にあってそこに人が住みついているので放っておいても大丈夫そうだけど、都市は、人が毎日メンテナンスしないとたちまち働かなくなるような、巨大だけど繊細な化け物みたいだ。みんなで「都会」を演じているような、共謀して「都会」というプロジェクトをやっているみたいな。社会ってそういうものだよと言われてしまえばその通りなんだろうけど、ちょっと手に負えなくなって主従が逆転しているような感じがするのも含めて、化け物っぽい。トシ。

ここだって、都会を都市と呼ぶ人たちからしたら全然たいした都市じゃないんだろうけど、深夜にも人がたくさん外を歩いていたりジョギングしたりしていて、自転車でいける圏内になんでもあって、川はなくて、海はなくて、空の手前にはビルや高速道路の高架や大きな看板、いくつもの道に分岐する立派な歩道橋、そういうのがすごい密度で交差している。道を道が超えて、ビルにビルが覆い被さって、線路が家を越したり地下に潜ったり、このあたり一帯の全ての土地が200%くらい活用されていて、空間に対して人間の意思の密度が高すぎる。

たまに自転車で通る、少し高くなっている高架があって、そこから街を見下ろすたびに、こういう場所で生活することの不気味さが迫ってくる。ここではキラキラがぜんぶ電気なんだよ。燃える火とか、雨が降ってあがったあとの雫とか朝露が陽光でキラキラしているような時の、顕微鏡でのぞけば無限に深まっていくようないろ・かたちとは全然違って、街の明かりひとつひとつが四角い一個のピクセルみたいな、そういう荒い画面だ。命の数と光の数はぜんぜん違うのに、こうやって高いところから見下ろすと、まるで暗い部分には何もないような気がするだろ?そういうのが怖いよ。


駅に向かう途中にたくさんある高架の下、あるいは仕事から帰る途中の自販機の横などで、おそらく家がない人とか、うまく家にいられない人が、寝そべっていたり、タブレットでゲームをしていたり、何かを拾っていたりするのを目にすることが多々ある。老若男女いる。わたしが以前まで住んでいた郊外ではほとんど見なかった光景だ。彼らはたいてい暗いところで静かにしているので、気づいた瞬間はついギョッとしてしまうのだけど、都市の救いと絶望を同時に見るような思いがして、怒られそうな言い方だけど、わたしはちょっとほっとする。

2月と3月の頃、いま住んでいる家が、地震と老朽化の影響で2ヶ月近く断水していた時、わたしは何度も公園に水を汲みに行った。(住む前から断水なんて、聞いたことねえよ!って感じだが)その時に、はたから見たら今のわたしはどんなふうに見えているんだろう、家がない人とか極端にお金がない人みたいに見えたりするんだろうか、と毎度思っていた。平日の昼間に、街ゆく人たちよりも雑な厚着をして公園に現れ、持てるだけのペットボトルに黙って次々水を詰めて1人でのろのろ立ち去るわたしと、ぐっと眉を描いてファンデーションを塗って、適切な時間に電車に乗って向かう職場には自分のデスクがあって空調の整った部屋で仕事をしているわたしは、時間軸がずれているだけの同一人物だ。ふたりは片方ずつ都市に現れる。

断水だけど無理矢理泊まりがけで作業をしていた(床や壁などの内装を自分たちでやったんです…)時、朝起きたらまず顔を拭いて無理矢理化粧をして、街へ向かい、パン屋のイートインでモーニングを食べてようやくトイレを借りたりしていた。そういうことを楽しんではいたけど、あんな非常事態みたいな生活(せいぜい体験版だけど)と、今のすっかり「普通」の都会暮らしとのギャップを、私自身が意外に思いながら納得している。社会や都市の要求にきちんと答えている自分と、ちょっと違う論理で動いている自分がどっちもいて(あいだにはグラデーションがあって)わたしたちはどちらの時にも都市の生活人だ。

自分の生活は家という単位で成り立っているのではない。あの厳しめの生活(体験版)が教えてくれたのは、生活は街と共にあるということだった。頭ではわかっていたことを身をもって知った心地がした。ちょっと考えてみれば、この小さい部屋のなかだけで全てが完結しているはずなんか当然ない。電気も水もガスも、遠くからここまで運ばれてくる。うちは水道関係がやばいので、上の階の人が洗濯機を使えば、わたしたちの家のベランダの排水のところに泡が流れてきたりするんだけど、それくらいの、なんか雑雑としていてちょっと汚くて、みんなで生きているのだという感覚が、都市ってことなのであれば、これは愛せる。弁当屋とか、銭湯とか、食料品を売っている店、コインランドリーとそこのフリーWi-Fi、いくつかある最寄駅、そういうものを用途に応じて使いこなしていくのが、おそらく自分がこれからしばらく営んでいく都市生活のあり方なんだろう。郊外でだってそうだったはずだけど、あの車規模の街とは全然ちがって、ぜんぶ自転車と徒歩圏内にあって体の大きさに近いので、感覚としてぜんぜん違う。

南国で、たまに電気が止まったり、時々手桶で水を汲んで水を浴びるタイプの風呂やトイレを使う生活を半年だけやって、慣れてきた頃に、ああ、生きていくのに必要なものってそんなにたくさんなくて、必要なものを自分の手でかき集めて、みんな各自で工夫して手動で生活しているんだな〜、と思ってちょっと嬉しかったことを思い出している。ガスや飲み水をタンクで買ってきて使ったりしている町だった。あらゆることがかなり違うけど、ここでも本当はそう。あんまり上手くいかないことのほうが多くて、工夫の余地ばっかりで、手や足、体を使って、見えないようで見えるものたちと隣同士で生きている。






クナイプのハンドクリームへの感謝

 
今日、疲れた帰り道で、手があまりにもカサカサしていて破けてしまいそうだったので、マツキヨでハンドクリームを買った。かなり疲れている時の、「胸が張り裂けそうな」という表現がしっくりくるような、コップのふちギリギリまで水が入っているような、あと一つ何か条件が揃ったら途端に泣き出してしまいそうな限界状態というのがあるが、最近は慣れないハードなことが多くて2日に一度はそうなっている気がする。ともかくこの手のカサカサを癒したかった。

店頭には、ハンドクリームだけで4段くらいのコーナーができていた。yusukinの香りつきのが3種類、三色並んでいるのが可愛かったり、ハンドモデルも使っています!と書かれた業務用というのがあったり、フエキのりのパッケージのふざけたようなものもあった。一番下の段には見慣れたニベアもある。選択肢が多くて迷った。わたしは疲れると判断力をごっそり失うが、この時もそうで、どうやって決めたものか悩んだ。一度、業務用のものを手に取ったが、レジへ進もうと左へ視線をやると、輸入っぽい感じのハンドクリームやボディクリームが並んだゾーンが目に入った。クナイプのハンドクリームがこれも3種類出ていて、ひとつは寝る前用、もうひとつは何だったか忘れたけど、一番左にあったもののパッケージがちょっと面白くて目を引いた。

全体は鮮やかなオレンジ色で、回すタイプのフタは安っぽいプラスチックのシルバー。チューブの上部には、口角の上がった表情のぬいぐるみのクマが二匹(大きいのと、少し小さいクマ)が仲良く写った写真がプリントされていた。「穏やか」で画像検索したら出てきそうな、ザ・穏やか、といった印象である。そして「Show me your smile」と書かれた白い字の下に、同じような白いゴシック体で「あしたも笑って」と書かれていた。
明日が「あした」と表記されているし、全体が輸入系っぽい(ドイツの製品らしい)デザインであるため、どことなく自動翻訳のような変な日本語のように感じて可笑しかった。それに加えてクマの親子が晴れた陽気の花畑で仲良さそうにしている写真があまりにも優しく感じて、これを買うことにした。

マツキヨを後にして、駅のホームで電車を待つあいだにさっそく使ってみると、ネロリの香りと書かれている通り、甘い匂いがした。手を鼻に近づけて、マスクごしにもう一度息を吸い込む。少し生っぽいくらい甘くて強い香りだ。なんとなくインドネシアを思い出した。あの国では甘い匂いをたくさん嗅いだ。花もタバコも果物もお菓子も、空港の空気さえも、大抵のものが甘ったるかった。旅先で嗅いだ匂いのことは覚えやすいし思い出しやすい。ああ、暑い気候も、薄着の暮らしもまだ遠い。懐かしい気分だ。こことは違う場所や季節のことに思いが巡った。
 
嬉しくなってインドネシアの友達に「この匂いはインドネシアを思い出します!」とインドネシア語で送ろうと思って写メを撮ったけど、Bau=においという単語が思い出せなくて面倒になってやめて、来た電車に乗ってぼうっとしているうちに眠ってしまった。
 
自分があまりにもヘトヘトなのがよくわかった。ハンドクリームに期待していたのは単純に手の乾燥を癒すことだけだったのに、想像以上に癒されてしまった。これまで、パッケージに「きっとうまくいく」とか「だいじょうぶだよ」などと書いてある商品を見るたびに、誰が誰に言ってんだか…と小馬鹿にしていたけど、おそらく今日の自分はこの言葉にもまんまと癒されてしまった。「あしたも笑って」なんて、言われなくても笑いますが、ずっとこのメッセージを発し続けているパッケージ、パワフルすぎる…。
 
自分は明らかに、ここ数年でかなり涙もろくなったし、かわいいぬいぐるみや良い香りや、犬の動画に癒される度合いが増したような気がする。簡単に癒されるので、つまり生きやすくなったということなんだけど、漠然と、代わりに何かを失っているような気がする。そのうち、子犬の写真になんかそれっぽい前向きな言葉が添えられたカレンダーとか買ってしまうようになるんだろうか…。捻くれたところが減って、心が広くなったといえば聞こえがいいかもしれない。とにかく今日はクナイプに感謝、あしたも笑います。

 
 
 
 
 

他人の荷物

 

1人で電車に乗っていたら、向かいの席に30代と見られる男性2人組が座った。少し小柄なヒゲの人と、少したくましいメガネの人。それぞれトレーナーとネルシャツで、カジュアルな服装だ。

 
前を向いているとつい視界に入ってしまうのでなんとなく見ていたら、ヒゲの人がおもむろにリュックから小さな袋を出した。ユニクロのウルトラライトダウンかな?と思っていたら、生地を少し引っ張り出して触り心地を2人で確認するように指で擦っただけで、すぐリュックにしまった。電車の走行音が大きくて、話の内容は全然聞き取れない。今のは何だったんだろうと思って積極的に見ていたら、ヒゲの人が今度は30センチくらいの、半透明の青いプラスチックの筒を取り出した。たぶん直径4センチくらい。何に使う物なのか全くわからない…!片方には緑色のキャップがついていて、全体がネジのように規則的にデコボコしている。本当に何に使う道具なのか、あるいは部品なのか全くわからず、かなり惹かれてしまった。この人たちは何者なんだ。
 
コントみたいだなあと面白がって見ているわたしをよそに、ヒゲの人はまたすぐリュックに謎の筒をしまって、それからは何も取り出さずに話を続けていた。
結局どんな二人組なのか全然わからなかったが、仲は良さそうだった。(そのあとまた謎の筒を取り出して、貼ってあったシールを剥がしてヒゲがメガネにそれを差し出し、「いらないっす」と言っているのが聞こえた。ヒゲの人はちょっとお茶目だ。ふいにメガネのほうが「お疲れ様した」といってヒゲが「ありがとうございました」と返すのに会釈しながら降りていった。2人はなんらかの仕事を共にしていたっぽい。)
 
 
人のリュックに何が入っているのかってそういえば知るよしもない。友人や家族の鞄にすら、何が入っているのかわたしは知らない。だからだろうか、電車で見るような全然知らない人の鞄の中から何かが出てくると、ちょっと惹かれて見てしまう。ほとんどの人がスマホを操作しているだけの電車内だから、そうではないものを出したりまたしまったりする人がいると、急にその人の個性のようなものが際立つ。
 
今年の1月の初旬には、外国人らしき風貌のおじいさんが、わたしが使っていたのと同じ、ダイソーの赤い水玉のペンケースを使っているのを見た。ガバッと大きく開く形がすごく使いやすくて、わたしもなかなか使い込んだのだけど、そのおじいさんは私よりさらに使い込んでいて、妙に嬉しかった。地図か何かにピンクのマーカーを引いていて、隣には歩きやすそうな靴をはいたおばあさんがいた。
 
また、いつだったか、新聞を読んでいたおじさんが、ふいに自分の鞄からハサミを取り出して、記事の一部を切り抜き、ハサミをしまうと同時に取り出した小さながま口のポーチに切り抜いた記事をしまうのを見たことがあった。がま口の小さなポーチをおじさんが丁寧に触っているのが可愛く見えた。
 
電車で隣に座っていた高校生らしき制服を着た髪の短い女の子が、鞄から手のひらほどの小さな手帳を取り出してシャーペンで何か書きつけていたこともあった。気になって見ていたら、書いているのは全て漢字で、中国語かな?と思ってさらにコッソリ注目していると、右側のページに少し書き込んではすぐページをめくり、また新しい右側のページに書き込む、というのを繰り返していた。5ページくらい書き込んだら済んだらしく、すぐに手帳を閉じて鞄にしまった。
目視できた漢字の意味をなんとなく想像するしかできなかったけど、詩か、あるいは何かの見出しのようだった。ぽく見えただけかもしれないけど、あんな感じに、ポケットサイズの小さな手帳に、漢字の詩を書く若い女の子なんて初めて見たので、新鮮だった。
 
 
日々、電車に乗っている時間が長いと色々なことがある。全然知らない他人の個性的なプライベートが垣間見えて、人間ってほんとうにたくさんいて、それぞれにそれぞれの一生とかがあるんだなあと思うとなかなか感慨深い。こんなに色んな人がいるんだったら、自分が何をやっても良いような気がしてくる。
そういえば高校生の時に帰りの電車で見た、薔薇の花一本だけを手に持って、つり革の取っ手じゃなくパイプ部分を掴んで窓の外を見ていた背の高い黒人のお兄さんは、とても楽しそうにしていたあの人は、今頃どうしているんだろう。あんな映画みたいな様子はなかなか忘れられない。たぶん一生覚えている。上に書いた人たちのことも、書いたからにはきっとしばらく覚えているだろう。
 
わたしももしかしたら何か思われているのかもしれないと思いながら、今日は本を持ってくるのを忘れたのでこれを書いていました。
今日は、夏日だとか言われるほど異常に暖かな陽気の2月21日。油断してジャケット類を羽織らずにセーターで家を出てしまった。少しずつ暮れていく夕陽を車窓から眺めて、帰りはきっと寒い思いをするだろうなあとソワソワ後悔しながら電車に揺られて、横須賀に向かっています。
 
 
 
 
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踊れるかも


先日、自分の書いた作品のなかの言葉について、「〈醤油〉と〈精霊流し(しょうろうながし)〉の「しょう」とか、そういうふうに似た音が、ダジャレとか韻を踏むところまでは行かないけれど、一定の分量のテキストのなかに混在して繰り返されるのを声にしていくと、近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていくような感じがあって、そういうのが楽しいです」というようなことを自ら語っていたことがあって、自分で言っておいて自分で「あ、これだわ」と二重に思った。

言葉の音が意味を超えて繰り返し鳴る感覚は複数の生き物が走っているようだなというところの言語化としての「これだわ」と、自分がこういう身体感覚に基づく比喩を用いた言葉遣いをしがちであることへの「これだわ」だ。


自分の言葉の使い方は、けっこう極端なほどに身体寄りだと思う。もう少し丁寧に言うなら、体と近いところにある声を基準にしている。一人称視点という意味ではなくて、声が音として体と関係していて、高めの密度をもって、独立してそこに在る、というような感覚だ。あまりにもうまく言えなさすぎるのだけど、とりあえずこのまま進めてみたい。



最近は、ZOOMなどを使って、音声と自分の姿の映像を通して人とやりとりをする機会が増えて、自分が人と話す時に体や表情をどう使っているのかを以前よりも強く自覚させられるようになった。それによって、どうやらこれまで自分で思っていた以上に、わたしは手や表情に任せて表現している部分が多い、体も顔もよく使っている、とわかってきた。

人と話す時、目や顔ベースの人と、声ベースの人がいるとわたしは考えている。極端に目や顔ベースの人は、実際に会って話していても、よく目が合うし、表情が豊かだ。普通にいわゆるコミュニケーション能力が高い、という印象だ。しかし、電話に変わるとどうもコミュニケーションの感触が物足りなくなったりすることがある。一方、すごく声ベースの人は、実際に会って話していても、なんかあんまり目があわなかったりするのだが、それがあまり気にならない。そして場が電話に変わった時のギャップが少なく、むしろ電話のほうがうまく色々と話せたりする。声ベースの人は、電話で話す時に目や顔が使えないことがマイナスにならないので、電話の時には声ベースの人のほうが、いつも通りちゃんと話せる感じがある。これは、極端な例のようだけど、ぶっちゃけていうと両者ともにわたしの身近に実在している。(電話が得意な人とそうでもない人というだけで、人としてどちらがどうとかいうことは全然ない。)

そういう考えが以前から自分のなかにあったし、わたしとしては声を使うのが自分の仕事だし自分も声ベースのコミュニケーションの人だとなんとなく思い込んでいた。だが、ここ半年くらいで突然使う頻度が増えたビデオ通話の、画面の中の小さい自分と向き合い続けながら会話をしていくという体験が見せてくれた自分の話す姿は、想像していた以上に、表情や身振りが豊かだった。まあかなり気を遣って意図してやっているのだけど、話す時や声を出す時に体も巻き込んでいくことが、すごくおもしろいような気がしてきた。


先日、自分が過去に発表したパフォーマンス作品を、改めて映像に撮った。その後になって撮り終えたデータを観るのがけっこう面白かった。今まで自分がパフォーマンスしている姿を、ひとつの遠めの定点カメラで見直すことはあったけれど、カメラが3つも、それも顔に注目して手ブレを伴って追いかけ続けているのを見たのは初めてだった。自分の表情がすごく豊かに変化していくのが客観的に見えて、おもしろかった。基本的には自分でも知っている顔なんだけど、たまにすごいブサイクな瞬間とか、稀にめっちゃカッコいい瞬間もあって、興味深さ半分、可笑しさ半分だった。それは、表情で見せてやろうという気概や狙いは特になく、声を出すことを基準にして顔が動いていった結果だった。つまり、表情で表現していたのではなく、声の表現のために表情を経由していて、それがたまたま面白かった。声の表現の幅のぶんだけ、表情にも幅があった。

そして、表情よりも少し引いた視点で、ダンス未満のような、踊ってしまうような身体が自分にあるのも最近改めてわかった。

ここ1ヶ月くらい、ダンサーの友人の誘いにのって、カメラを携えて即興的に踊ったり歌ったりしながら移動したりして遊んでいくのを撮ることを繰り返している。1回目の時には、わたしは「え〜!わたし踊りませんよ」とか笑いながら言って、まあビビっていたのだけど、ぎゅんぎゅん踊っていく友人に触発されて次第に、声を出すことにも踊りの気分がある!とか言って、全然かっこよくないながら、体を動かすようになってきた。
日をおいて、2回目、3回目、と同じルールで繰り返していくごとに、わたしも走ったり、腕を持ち上げてみたり、足を高くあげて葉っぱを蹴ってみたり、飛び跳ねるように歩いたり、摺り足になったり突然立ち止まったり腰を低く落としたり、そういうことをやるようになった。映像に写す「踊り」として出力しようとは思いきれないが、「歌」を発するのに付随する、声のために身体を経由する、という攻め方でなら動けた。

たぶんこれは「ノリノリ」というやつだ。「よっとお〜」と言う時に、体が静止した状態でそう言ってももちろん良いのだけど、例えば、なんとなく持ち上げた右腕を少し曲げて、肘を下げるように腰のほうへ15cmくらい素早く引いたところで腹筋を使ってグッと止めて、その止まるエネルギーを開放するように頭上へ、手を放るみたいに伸ばしていきながら、「よっ(停止)、とお〜(解放)」と言ってみると、なんかめっちゃ楽しい。シックリくる。ノリノリである
おそらく、平井堅とか声楽家の人とかが音程を正確にとるために歌いながら手をメーターの針みたいに上下に動かすアレとかと、近いものだと思うのだけど、言葉を音にした時の非言語的なシックリとか、音が身体と交わる部分が、まだ「ノリノリ」とか「こうするとなんか音程とりやすくなる」みたいな、フワッとした言葉でしか説明できないことにわたしはワクワクします!(自分が知らないだけでこれの科学的な研究とか普通にありそう)


ノリノリ続きで最後にマイクの話、というよりマイクの前にいる時の話がしたい。この数ヶ月、人前でパフォーマンスをする機会が減り、自宅でマイクを前に声を出している時間が増えた。それは歌の録音であったり、朗読の録音であったり、それこそ先述の発見を促したZOOM会議であったりしたけれど、その時のわたしの身体は、けっこう楽しく踊っていた。この音をのばしていく時には目がカーテンのあのあたりを見ていると良い感じだ、とか、朗読をしながらちょっと腕が踊ったりするのが心地良かったりとか。短編小説をノリノリで朗読していたら「面白いねえ。」という象のセリフがあり、その時に自分が目を細めていて、続きを読んだらその象が目を細くしていたという描写があり、シンクロしていた!ということもあった。体が丸ごと文章に浸かっていたのが分かったような、心地よい喜びがあった。
この文章の初めに書いたことーーー複数の言葉のあいだにある共通の音(ex.「しょう」)が何度か鳴るたびに、それらの音が近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていく感じがする、というすごく身体的な言葉の選び方、聞き方、発し方ーーーと、すごく親和性がある。なんかちょっと頭がよくなったような気がしてきた〜ァ

たぶん、わたしはそういうノリノリ、つまり体が全部つながって、一斉に何かに反応している状態のことが楽しくて、好きで、これを信頼している。人と会って話したり、同じ場所に集まって一緒に何かをする時にはそういうことが普通だった。でかい音で音楽をかけて踊るようなことが、定義を少し広くとってみれば日常に溢れている。




記録メディアは、せっかくノリノリになっている身体であっても容赦無く切り刻むし、ZOOMの画面ミュート機能はコミュニケーションとしてはしっくりこない。自分の場合は電話は楽しいし、録音という方法ならば比較的しっくりくるのだけど、それでも、何らかのメディアを間にはさんだ時の、片腕が肩からゴッソリ切り落とされているような、痛いくらいの激しい「片手落ち」を感じる。マイクと出会って、録音されて、きれいに整えられた自分の声は、もうわたしの声ではなくなる。

でもそのゴッソリ片手落ちの声が、楽しくなってきた。録音したり、他の人の声と重ねたりを繰り返して自分の声を客観的に把握していくと、だんだん「こういう器官」というような割り切った感覚になってくるし、自分の声のこのざらっとした感じがいい感じに聴こえるように録音したいとか、そういう考えも浮かぶようになった。
身体表現は、自分の体が自分の体になりすぎて突き抜けて離れてしまうまでいって初めて、誰かの何かになれるのではないかと思う。手を貸すみたいに声を、貸しだす、というより、もはや晒すとか捧げるみたいなギョッとするような言葉がしっくりくる。聴く人の耳を喉に招待する、とも言ってた(わたしが)。(気持ち悪いですね)
それを今の自分が肯定できるのは、逆説的なようだが、踊りながら歌ったり喋ったり呼んだり読んだりしてしまうこの肉体だけは、誰にも譲らずに済んでいる!俺のだ!という確信があるからだろう。基地があるから出発できる少し無謀な旅というのがあります。こっち側の端っこを、手綱をしっかり握れているというような。

そういう感性が育ってきたので、以前はあまりそう思えなかったけれど最近は、誰が書いたどんな歌でも歌えるような、どんな文章でも読めるような、そういう気がしている。
まあ、気がするだけで実際は決してそんなことはなく、わたしには到底歌うことができないような歌、読めないような文章やセリフがあるのだけど、それでも少しずつ、わたしの声がわたしの声ではなくなっていくようなことを肯定できる回路が見つかった気がする。いよいよシャーマンか、トランスか………







弾き語りもやります

今日は、言い訳をします!オオウ!

自分で弾き語りしたものをインターネットにUPすることを、ひっそりと自分に解禁した!
これについての言い訳をします。(ギャグに思えてくる「だ、である」調で)


アカペラで録った歌とかただの鼻歌なんかは、これまでにも平気でどんどんUPしたりCDに焼いて売ったりしてきたくせに、弾き語りだけはどうしても勇気が出ずにいた。端的に自分の弾くギターがへぼいというのが大きい理由だ。それに、ずっと「自分が弾き語りを前面に押して活動していくのはなんか違う気がする」と思い続けてきたので(それは今もそうですが)、人前で自分の歌を弾き語りで演奏したのは、今年の初めにやったパフォーマンスが初めてだった。
(これのことです。)




それで、実際やってみて、実はかなり勇気を振り絞ってやっていたあの演奏について、「ギターヘタクソ〜」とか、なんかわかんないけどそのような批判を受けることは特になく(少なくとも耳には入らず)、ちゃんと作品の感想をもらうことができた。あっけないような気持ちになった。
この何日かめの上演の時に、ギタリストの方が聴いてくれたので、終演後に「いやあギターが下手で恥ずかしいです」と言い訳気味に話したところ「いやいいんじゃないですか」とバッサリ、「その話はしてない」的な返しだった。他にも尊敬している音楽家の方からSNS上で映像みたけどいいじゃんという旨のコメントをいただいた時にはビビり倒したけど、ギターのこととか多分あんまり気にしてなさそうだった。それらを自分に都合よく受け取って、もしかしてこれについては開き直った方がいいんかもしらんと思えてきた。

あと、これはかなり重要なんですが、弾き語りって、もうその時点でちょっと陽気で、それがいい。
先の自分のパフォーマンスについて、爽やかめな印象を受けたという感想をけっこういただいた。言葉で描いている内容自体はあまり明るい話じゃないのに、ギターを弾きながら爽やかな声で歌ったことが、なんとなくそういう雰囲気を作っていたようだ。それに自分で家で歌っていても、アカペラより伴奏があると、リズムに乗るのも簡単だし、なんかニコニコやれる感じがある。ずっとアカペラで、演劇に近いような形でパフォーマンスをやってきた自分にとっては(ヴォイスの即興とかもですが)、どうしてもこの「なんかニコニコやれる感じ」がすごく偉大というか、「音楽」というフォーマットの絶大な効果という感じがする。

インドネシアにいた時、ギターを弾きながら歌うことは、アカペラで歌うよりも簡単だった。「言葉が体から出ている」というよりも「メロディーがギターと合わさって鳴っている」というほうが、意味が薄れて、深刻にならない。それは良くも悪くもといった感じだけど、ともかくそういう特性がある。そして、その抽象度と陽気さに、わたし自身が救われてきた。
(この時の話です。http://aoi-tagami.hatenablog.com/entry/2018/10/22/005444


まああと、何より、ギターを弾きながら歌うのって、楽しい〜。それでいいのでは?
伴奏を弾いてくれる人と自分がいる、という状態もすごく楽しいのだけど、それとはまた別のものだなというのがようやくわかってきた。自分で自分の伴奏を弾いているというよりは、大げさに言えば、「歌う」体の部位が増えたみたいな感じがある。指で弾いているとわずかな力の加減で音量の操作が、う〜〜ん!色々書けば書くほど、何言ってんだという感じがする!楽しい!ただそれだけです!
 

こんなことをここに書いてしまうのはあまりにもプロ意識に欠ける、などと、思わなくもないですが、宣言みたいなものです、ビビっている状態をグズグズ続けていくよりは100倍いいはず。長年抱いてきた弾き語りライブをやることへの憧れを、最近ついに抑えきれなくなってしまった。「下手」とか「上手い」とかにも疲れてしまった!
 
やりたいからやります、ということで堂々とやっていこうと思います。秋に色々発表の予定があるのでその布石ということで、お手柔らかに何卒…