手動の都市生活

雨などを言い訳に色々と諦めたことで微妙に時間ができたので、雨音を聴きながら最近のことを書きます。

今朝は早く起きて、パートナーが仕事に行く前に手早く自作の棚を組み立てる(今日の他にできる日がないので、昨日の深夜にもベランダでパーツの塗装をしていて、その延長線上の早朝強行)のを一緒にやった。けっこう良い感じの棚ができて、家に1人になってから、さっそくちょっと物を並べてみた。暮らしって感じがする〜!久しぶりのゆっくり過ごせる午前中を、朝食後のコーヒーなんか入れたりして優雅に過ごしています。これだけ強い雨が降っていると、いろんなちょっとしたことは諦めてしまえる。



そう、引っ越しました。この春、と各所で言ってきた春がいつのまにか終わって、夏と呼んでいい頃になってしまったけど、この初夏にようやく引っ越しをしました。

「この春」は、去年の春と比べてけっこう色々と状況が変わった。一つは、新しい仕事を始めて、働く日がこれまでよりも増えたこと。もう一つは、引っ越して、人と一緒に2人で暮らし始めたこと。まだこの生活は軌道に乗ったばかりでどうもガタガタしているけど、一応なんとか動いて進んでいる。まだフォークと鍋敷きがないけど。ああ七味唐辛子も買えてない
(と言っていたらIKEAに行った友人がついでにとフォークやナイフのセットを買ってきてくれた。ありがとう!)


新しく住んでいる町は、悪臭漂う繁華街からチャリで少しいった静かな所だ。建物は古いので、何も防音施工をしないまま家で大きな声を出すとおそらく近所迷惑になる。外が騒がしいほどの、今日みたいな大雨の日に小声で歌うくらいならきっといいけど、夜中に外の道をおしゃべりしながら歩く若者たちがなんの話をしているのか興味を持てばギリギリ聞き取れてしまうくらいには全ての音がありのまま届くので、きっと楽しく歌ってしまおうものなら通りの先の家まで聞こえるだろう。わたしは以前ほかの場所で、どれくらい建物の外に歌声が聞こえてしまうのか友人達の立ち合いのもと実験した時に、自分が想像していた以上に聞こえているとわかってから若干ビビっています。
豪快な人に憧れているので少し残念なんだけど、わたしは自分で自分に期待しているほど図太くないし強くない。他人のことを気にしだすと途端に動きが鈍る。一人暮らしをしていた時は、他の大きなストレス要因があったとはいえ、暮らしにおいて少し過剰な神経質を発揮していて、自分の生きている様子がすべてバレてしまうような気がして日々のゴミを捨てることすら怖かった。思い出すと意味不明ですけど、日中のスーパーのエレベーターと駅前の交差点にて短時間で三度も目があった女性が怖くて怖くて、妖か霊などの類だと信じ切ってしばらく怯えていたこともありました。(昼に見る幽霊が一番怖いよね!)ともかく、わたしの神経はそこそこ細くて、日頃からしょうもないことやどうしようもないことがちまちまと気になる。

そんな神経が細くて怖がりの自分にとって、まだ家であんまり声も出せない新しい都会暮らしは、かなりストレスフルだ。緊張する。過敏な状態の心に全部バンバン飛び込んでくる。例えば、高速道路の入り口とか高架がかなり身近になったのだけど、あの緊張感はちょっときつい。遠くに見る風景としてなら心地よいけど、隣で生活するとなると迫力があり過ぎる。
あれを目の前にすると、高速道路を自分が運転する時の、カーブをぐーっと曲がる緊張感を思い出して、見知らぬ運転手のそれが伝わってくるような心地がする。今まさに、頭上のこのコンクリートのレールの上を、それなりの緊張感を持った運転手と、それに従う重くて大きな鉄の車が、ガーッ!という音とともに次々通過している!速い!弾丸が頬のスレスレのところを飛び交っている?!死と隣り合わせだ?!というような、ビリビリした想像が、チリチリと神経系を引っ掻く。


都会と呼ぶのは田舎者で、ずっと東京に住んでいるような人は都会じゃなくて都市って言うんだよ…、と長野出身の友人が言っていた。「都会」はビジョンで、「都市」は事実、みたいなニュアンスだろうか。そのあたりの言葉としての真偽はわからないけど、都市は人と一緒に生きている器官という感じがする。郊外や田舎は土地が先にあってそこに人が住みついているので放っておいても大丈夫そうだけど、都市は、人が毎日メンテナンスしないとたちまち働かなくなるような、巨大だけど繊細な化け物みたいだ。みんなで「都会」を演じているような、共謀して「都会」というプロジェクトをやっているみたいな。社会ってそういうものだよと言われてしまえばその通りなんだろうけど、ちょっと手に負えなくなって主従が逆転しているような感じがするのも含めて、化け物っぽい。トシ。

ここだって、都会を都市と呼ぶ人たちからしたら全然たいした都市じゃないんだろうけど、深夜にも人がたくさん外を歩いていたりジョギングしたりしていて、自転車でいける圏内になんでもあって、川はなくて、海はなくて、空の手前にはビルや高速道路の高架や大きな看板、いくつもの道に分岐する立派な歩道橋、そういうのがすごい密度で交差している。道を道が超えて、ビルにビルが覆い被さって、線路が家を越したり地下に潜ったり、このあたり一帯の全ての土地が200%くらい活用されていて、空間に対して人間の意思の密度が高すぎる。

たまに自転車で通る、少し高くなっている高架があって、そこから街を見下ろすたびに、こういう場所で生活することの不気味さが迫ってくる。ここではキラキラがぜんぶ電気なんだよ。燃える火とか、雨が降ってあがったあとの雫とか朝露が陽光でキラキラしているような時の、顕微鏡でのぞけば無限に深まっていくようないろ・かたちとは全然違って、街の明かりひとつひとつが四角い一個のピクセルみたいな、そういう荒い画面だ。命の数と光の数はぜんぜん違うのに、こうやって高いところから見下ろすと、まるで暗い部分には何もないような気がするだろ?そういうのが怖いよ。


駅に向かう途中にたくさんある高架の下、あるいは仕事から帰る途中の自販機の横などで、おそらく家がない人とか、うまく家にいられない人が、寝そべっていたり、タブレットでゲームをしていたり、何かを拾っていたりするのを目にすることが多々ある。老若男女いる。わたしが以前まで住んでいた郊外ではほとんど見なかった光景だ。彼らはたいてい暗いところで静かにしているので、気づいた瞬間はついギョッとしてしまうのだけど、都市の救いと絶望を同時に見るような思いがして、怒られそうな言い方だけど、わたしはちょっとほっとする。

2月と3月の頃、いま住んでいる家が、地震と老朽化の影響で2ヶ月近く断水していた時、わたしは何度も公園に水を汲みに行った。(住む前から断水なんて、聞いたことねえよ!って感じだが)その時に、はたから見たら今のわたしはどんなふうに見えているんだろう、家がない人とか極端にお金がない人みたいに見えたりするんだろうか、と毎度思っていた。平日の昼間に、街ゆく人たちよりも雑な厚着をして公園に現れ、持てるだけのペットボトルに黙って次々水を詰めて1人でのろのろ立ち去るわたしと、ぐっと眉を描いてファンデーションを塗って、適切な時間に電車に乗って向かう職場には自分のデスクがあって空調の整った部屋で仕事をしているわたしは、時間軸がずれているだけの同一人物だ。ふたりは片方ずつ都市に現れる。

断水だけど無理矢理泊まりがけで作業をしていた(床や壁などの内装を自分たちでやったんです…)時、朝起きたらまず顔を拭いて無理矢理化粧をして、街へ向かい、パン屋のイートインでモーニングを食べてようやくトイレを借りたりしていた。そういうことを楽しんではいたけど、あんな非常事態みたいな生活(せいぜい体験版だけど)と、今のすっかり「普通」の都会暮らしとのギャップを、私自身が意外に思いながら納得している。社会や都市の要求にきちんと答えている自分と、ちょっと違う論理で動いている自分がどっちもいて(あいだにはグラデーションがあって)わたしたちはどちらの時にも都市の生活人だ。

自分の生活は家という単位で成り立っているのではない。あの厳しめの生活(体験版)が教えてくれたのは、生活は街と共にあるということだった。頭ではわかっていたことを身をもって知った心地がした。ちょっと考えてみれば、この小さい部屋のなかだけで全てが完結しているはずなんか当然ない。電気も水もガスも、遠くからここまで運ばれてくる。うちは水道関係がやばいので、上の階の人が洗濯機を使えば、わたしたちの家のベランダの排水のところに泡が流れてきたりするんだけど、それくらいの、なんか雑雑としていてちょっと汚くて、みんなで生きているのだという感覚が、都市ってことなのであれば、これは愛せる。弁当屋とか、銭湯とか、食料品を売っている店、コインランドリーとそこのフリーWi-Fi、いくつかある最寄駅、そういうものを用途に応じて使いこなしていくのが、おそらく自分がこれからしばらく営んでいく都市生活のあり方なんだろう。郊外でだってそうだったはずだけど、あの車規模の街とは全然ちがって、ぜんぶ自転車と徒歩圏内にあって体の大きさに近いので、感覚としてぜんぜん違う。

南国で、たまに電気が止まったり、時々手桶で水を汲んで水を浴びるタイプの風呂やトイレを使う生活を半年だけやって、慣れてきた頃に、ああ、生きていくのに必要なものってそんなにたくさんなくて、必要なものを自分の手でかき集めて、みんな各自で工夫して手動で生活しているんだな〜、と思ってちょっと嬉しかったことを思い出している。ガスや飲み水をタンクで買ってきて使ったりしている町だった。あらゆることがかなり違うけど、ここでも本当はそう。あんまり上手くいかないことのほうが多くて、工夫の余地ばっかりで、手や足、体を使って、見えないようで見えるものたちと隣同士で生きている。