五月末の雑記


(これは五月末に書いたけど投稿し忘れていたものです、嬉しくなる前)


あっという間に2ヶ月近くたってしまった。

わたしは相変わらず家にいる。でも2ヶ月前のように「本気で家にいる」というほどの強い意志は、もう保てなくなった。今は惰性で家にいるような気がする。

ジョギングだけは順調にその後も続いていて、目標にしていた2軒めのガソリンスタンドより少し先まで、折り返し地点がのびた。地図をみて確認したところ、この往復は約4km。あと1キロ伸びたらキリがいいな〜と思うので、もうちょっと距離を伸ばす方向で続けたい。実際、こんなに出かけていない割には体力の衰えとか、脚が弱った印象もない。なんならちょっと体が軽いし、何より、走って帰ってくると少し気持ちが元気になるのが、本当に救いになっている。

今日も走った。ただ、けっこう心が限界みたいな状態で家を出たせいだろうか。ジョギングコースを6割ほど走ったところで、視界に入る、自分と同じように走ったり歩いたりしている知らない人たちが、ふと、全員すごく憎く思えてきてしまった。これはマズイと思って脇道へそれた。こういう気持ちに取り憑かれていくと通り魔とかやるんだろうか、と想像して恐ろしくなる。たいした理由もなく人を殺す人の気持ちなんて分からない、とは、正直わたしは思えない。たまたま今、ちょっと冷静でそこそこ健康なのでやらないだけというような気がする。


脇道へそれると、全然知らない人の住む、全く馴染みのない住宅街が広がっていた。道の右も左も家ばかりだ。なるべくさっきの道へ戻らないようにしながら自宅へ帰ろうと思って、曲がる道を慎重に選びながら進んだ。いつのまにか走るのをやめて歩いていた。

知らない人の家の前に、初めて見る、名前を知らない草があった。丸くて毛が生えた丸い実が、花のように先端にひとつずつついた草が群生していた。ちょっと気持ち悪いけどおもしろい姿だった。
少し行くと、お爺さんが家の中で電話をしている声が聞こえた。犬を散歩させている人もいた。移転した後の、からっぽになった婦人科があった。「ファミリープラン」の自販機と、「ラーメン缶あります」と書かれているのにラーメン缶は売っておらずコーヒーばかりの自販機が並んで立っていた。
ここで大きな声を出したらみんなが窓から顔を出しそうなくらい、360度、ぐるりと家に囲まれていて落ち着かない。

そのままのろのろ歩いて帰った。軽快に走っていく男性に追い抜かされた。後ろから近づいてくる足音が男性のものである、というのが、聞いただけで分かった。その人が通り過ぎる時、もう少し避けてくれれば良いのにすごく近くを通られて、そんなことに若干の嫌悪感を抱いた。知らない男の人が不要に自分の近くを通り過ぎることに嫌悪感や不信感を抱くのは、もしかして多くの女性がそうかもしれないけど、「多くの女性」にそれについて質問したことがないのでわからない。わたしだけが過剰に警戒しているだけかもしれない。


昨日は、アメリカで起きている状況に関して、ドキュメンタリー映画を観たりインターネットの記事を巡ったりしていたのだけど、ふとツイッターのトレンドに「Kalimantan」と出ていたので(わたしはなかばふざけてトレンド地域設定をインドネシアにしている。カリマンタンは、何事もなければ今年の秋に行く予定だった島だ)調べたところ、ISISのシンパが長い刀で警官を殺し自身も死んだという事件が南カリマンタンで起きたという。
それは、アルファベットの文字と、おまけみたいな写真だけの情報だったが、自分にとってはけっこう鋭利だった。海流が渦巻く大洋のような、誰もが知るアメリカの状況に関する印象とは全く違って、知らない場所の凄惨なひとつの事件は、その長い刀という凶器のせいだろうか、冷たく鋭くわたしの想像を掻き立て、深い傷を負って動かなくなった肉体がどんどん硬くなっていくような場面を想像をさせた。そんなわけはないんだけど、まるで自分しかこの事件を知らないような気がして、ぞっとした。


 
この2ヶ月のあいだ、自分にも色々なことがあったといえばあった。
ベッドを買って、睡眠の環境がよくなった。
花の手入れをマメにやるようになったおかげで、ベランダが盛り上がってきた。
バジルとパクチーと大葉の種を植えたら芽が出た。
桜は完全に葉っぱに変わって、紫陽花が色づき始めた。
友人が誘ってくれて朗読を録った。
結局またツイッターは見始めてしまって、日々じわじわダメージを食らっているけど、ツイッターごしに連絡をいただいて配信ライブに出演したりもしたし、ちょっとした嬉しいこともあるにはあった。
風の谷のナウシカの漫画版を全部読み終わった。
全部嫌になって自転車に乗って、知らないほう知らないほうへ行くんだけど途中で怖くなってしまって、結局田んぼの脇に座ってカエルの鳴き声を録音して帰った日もあった。

フィールドレコーディングが、おじさんに話しかけられたりしてビックリして終わることが時々ある。むしろ、あの感じが好きなのであまりイヤホンでモニターしないで録ることが多い。
今回もそうで、少し遠くに停めたわたしの自転車が、近くの駐車場へ入る車の邪魔をしてしまっていたらしく「どかしますね」と穏やかに声をかけられてビックリして終わった。

https://soundcloud.com/aoi-tagami/200524a


嬉しいこと!


先日、3ヶ月ぶりくらいにライブをした。
とても規模の小さい演奏会で、荒いところもあったしMCを完全に失敗してしまった(ごめんなさい…)けど、本当にやらせてもらえてよかった。こんなに軽い足取りで終電に乗るのなんていつぶりだろうか、と思った。そうだ、3ヶ月ぶりだ。帰りの電車で1人になってから、わたしはああいう場での振る舞いと、自宅(実家)にいる時の振る舞いが、表情が、体の軽さが全然違うな、こっちのほうが好きだな…と自分で思った。本当にありがとうございました。


ここ数ヶ月のあらゆる中止に、思っていた以上に自分がダメージを食らっていたのが、この日よくわかった。
自分の企画やワンマンライブ(!)や演奏予定が中止(延期)になったことだけではなく、自分が観客として楽しみにしていた舞台やライブがなくなったり、仲間に会って一緒に練習することさえできない時間が続いていて、とにかく「できない」という圧が、じわじわとかかり続けていたらしい。それでも家でできることは沢山あって、それなりにやったし、まだまだこれからも家でできることはあるし、やるんだけど、それでも結局つらかったみたいだ。まあそうだよね…。



その日に一緒に演奏した友人とも話したけど、ライブで演奏している時の一番いい時間は沈黙だと思った。
録音では、演奏していない時間は編集してしまって完全な無音を生成したりするけど、ライブの時の沈黙は、その場にいる全員が作る時間だ。演奏している人だけではなくて、聞いている人もそこに加担している。感想がにじむ終演後の拍手とは性質の違う、もっと愚直な、生きた時間だ。好きだ。
中止や延期や、練習できない、という日々をやっとくぐり抜けて、できる、できている!と一番に実感できた時間が、音を出している時間ではなくて沈黙だった、というのはちょっと自分でも意外だったけど嬉しい。

実は今回のライブも、もし当日まで予約がゼロだったら中止にします、会場の方から言われていて、しかも直前まで予約が入らなかったので、当日までハラハラしながら準備していた。当初から内容を変更したのもあって告知が遅かったし、まだまだ都内の状況は良くないので、ちょっと人を誘いにくい、仕方ないのかもしれない、でも、もしまた中止になってしまったら、めちゃくちゃにショックを受けてしまいそうで、立ち直れないとまではいかないまでも、だんだん「中止」に慣れてしまうんじゃないか、それでは何かが麻痺していきそうだ、という恐怖があった。でも規模の小さいところから少しずつでも再開していかなければ取り戻せないので、もうしばらくは、こういうハラハラを感じながらやっていくのだろう。



ついでに、ライブの前の数日、カラオケへ行き楽器を持たずに歌う練習をしたのだけど、それがものすごくよかったことも書いておきたい。久しぶり一度めで、気持ちが高ぶり過ぎて4時間くらいカラオケで歌い続けてしまった。それくらいずっと立って動きながら歌っていると、わたしは一番最初に脚がへばってしまうのだが、この日は全然へばらなかった。感動した。ここ3ヶ月くらい、イマイチ体の変化を感じないまま季節の確認か動物の習性みたいにジョギングを続けていたのとか、ここ2年くらいなんとなく続けていた歯を磨く時に腰を落とす筋トレなどが(?)ついに報われた気がした。これはさすがに成果だ。嬉しい。

でかいステージを端から端まで走りながら歌う、みたいなライブを自分がやることは当分なさそうだけど、高校生の頃に憧れていた歌手はそういう人だった。彼女は陸上部出身とのことだったので運動を全然していなかった当時のわたしは「かなわねえ」と思っていた。今だって全然、何もかもかなわないけど、その後、事故で足首を痛めたり、頑張りすぎて膝を痛めたり腰痛に悩んだりして、足腰が弱いのが悔しい悔しいと思い続ける大学生時代を過ごしたので、やっと今「まあまあ丈夫」ってことでもいいんじゃないのと思えたことがすごく嬉しい。嬉しい、で終わる文章ばっかりになったけど嬉しいんだから嬉しい。








最後の静かな片隅


件の感染症の影響をもれなく受けて、自分もここ最近は仕事や外での用事がほとんど全部なくなり、とにかく家にいる。
幸い家にいるという選択肢をとれる人間として、本気で家にいる。


出かけなくなって約2週間半。親しい人たちに会えない、という寂しさは今のところそんなになく、むしろ1人で電車に乗る時間のことが恋しくなった。自分はいま郊外に住んでいるので、都内へ出かけるには乗車時間がいつも長く、それを煩わしく思ってきた。でも失ってみるとあの時間は、それが満員電車であろうとなかろうと、1人でぼんやり過ごす稀有な時間として、あるいはこの後に会う人のことやこの後やる仕事のことを考えたりして心の準備をする時間として、それなりの役割を担ってくれていたのだとわかってきた。満員電車は最悪だけど、それでも。

今はもう全部が全部、かえってゼロ距離になってしまった。外国にいる友人ともリアルタイムでチャットができてしまうし、仕事の通話もすぐつながる。仲間とのZOOMミーティングやオンラインでのコミュニケーションも、最初は「できるじゃん!」という感じでけっこう楽しかったけれど、だんだんしんどくなってきた。この先に、これが当然の日常になって自分が順応していく段階があるんだろうなー、とは思いつつ、今はまだ慣れず、疲れが勝っている。



こういう状況なので、今の自分にとってはジョギングだけが家の外へ出る口実だ。ここ数週間、雨の日以外は毎日走っていて、その時間が心と体を支えてくれている。同じような人が多分そこそこいるのだろう。どの時間帯に外へ出ても、自分と同様にジョギングやウォーキングをしている人とけっこうすれ違うし、けっこう追い抜く。たまに追い抜かれる。

わたしは、いつも同じコースを走りつつ、毎日数メートルずつ距離を伸ばしている。今日は3m先のあの街灯までいくぞ、明日はあの木までいくぞ、と、折り返す地点を少しずつ遠ざけていくと着実に距離が伸びていくので楽しい。恥ずかしながら、今までにもこういうのを3日に一度くらいのペースで数週間ほど頑張ってはスッカリやめて、という微妙な三日坊主(三週坊主?)を繰り返してきたのだけど、今回は相当着実にやれている。もう少しで2軒目のガソリンスタンドに到達するのだけど、急いで達成すると良くない気がするので欲を抑えてジリジリやっている。

この長い道沿いには桜が咲いている。3月末にはもう満開だったが、ここ2週間ほどですっかり葉っぱに変わった。昨日の雨で花はかなり落ちて、透き通るような美しい若葉が日に日に増している。紫陽花も生命力をメキメキ取り戻してきた。冬に一度枯れきって、またこの季節に急に元気になる紫陽花にはいつもワクワクする。一番好きな季節が近いのが心底嬉しい。早く半袖のTシャツを着たい。そういうことを考える時間を1日の中に少しもつことで、だいぶ救われている。



一方、家にいる時間、というか、自分は今インターネットがけっこう辛い。自分のタイムラインはもはや、情報源やコミュニケーションの場というよりは、バリエーションに富んだ暴力の現場みたいになってきていて、自分が弱っているとダメージをもろに喰らう。書き込んだ人の意図や具体的な内容とは無関係にとにかくガッと喰らう。こちらが疲れている時には、厳しい批評・批判、しょうもない誹謗中傷、クソリプのみならず、美しい景色やかわいい動物や美味しい食べ物の写真、ちょっとしたジョーク、音楽など、あらゆる楽しいものさえ「それにひきかえおれは」とゲッソリした気分で受け取ってしまう!疲れすぎですね。
そして数日前にようやく、自分が家族メンバーに対して不要にキツく当たってしまっている事実と、最近の己の負の感情と疲弊は全部ツイッターから受け取ったものじゃん、ということに気づいたので、お知らせがある時以外はツイートせずしばらくはガチのログアウトを決めこむことにした。やり方が不器用すぎるが、ちょっと今の自分はこういう方法しかとれない。


そして、実際いい。なんか気づいたらロフトベッドを購入していた。

配送業者の仕事を増やしてしまう、という事実にそわそわするけど、睡眠環境の改善をもって悪夢を見る回数を減らすことのほうが自分にとって切実だと判断した。

複数の人と話してだんだん分かってきたが、自分はわりと睡眠が下手っぽい。寝る前にいきなり憂鬱になって数時間寝付けないまま静かに泣くことや、見る夢が概ね悪夢であること、寝ても寝た心地がせず寝起きのコンディションが最悪なこと、日中頭が覚醒している時間が少なすぎることなどがある。とはいえ、自分の程度はそれによって健康に害を及ぼす、社会生活に支障をきたす、というところまでは至らないので全然かわいいものだ。加えてこれは花粉症の薬のせい説もあるし、今後ばっちり是正される予定である。

ともかくベッドは近々届くので、この機会に自分の生活環境をめっちゃいい感じにする。他に歌などを録音する案件が複数あったり、ちょっとだけ仕事もあるので、なんとか「生活」という状態が成立している。
あとは友人にそそのかされて音楽を編集するソフトの90日無料のものをインストールしたので、それも毎日開いて地道に動かしている。立ち上げるたびに「無料期間はあと87日ですが買いますか?」という英語のメッセージが表示されてカウントダウンされていくのがなんだか可笑しい。超初歩ですがエレキギターをライン入力で録音できるようになりました()



まだ2日しか脱ツイッター生活をしていないけど、インターネットに全部を吸い取られていく感じがただの錯覚であったというのが、やっと体感できるようになってきた。失いかけていたものが戻ってきた。
こうしてダラダラとブログにしか書かないような文体でブログにしか書かないようなことを書くのも大事っぽい。これは自分にとって、体を吸い取らせずにインターネット上に痕跡を残す原始的な最後の手段のような気がする。140字で終わらせたり区切ったりせずに書ききるところまでしつこく言葉を探し、実感がのると思えるリズムで、でも気楽に支離滅裂になりながら、ダーッと書く。お気に入りもリツイートもいいねもない、静かな自治区だ。ここには、声を録音してアップロードするとか、演奏している様子が映像になって Youtubeにあがっている状態よりも、もっと強く自分の何かが刻まれていると思える感触がある。
 
まあ、こんなに長い独り言が必要って冷静にヤバいのだが、でも、きっと誰かが見ていると思って書く文章は、こんな文章でも紙に書く日記よりは少しよそ行きで、ちゃんと希望に向かえる。大げさかもしれないけど、これは自分が健康でいられる文体なのだと思う。インドネシアに半年いてインドネシア語に囲まれていた時も、たまに日本語でブログを書くことで、どろどろ落ち込むのではなく、1人で前向きに落ち着く時間を確保していた。

それと、ここにだけは、かつて自分が信頼していたインターネットの静かな片隅といった感じが、かろうじて残っている気がする。
Youtubeに張り付いて音楽を聴き漁ったりアニメやニコニコ動画を観たり、好きな漫画の絵を真似して描いたりグダグダと黒歴史でしかないブログを毎日のように更新していた高校生や中学生や小学生のころの自分が好いていた、あのひっそりとした居心地だ。
 
創作以前の、ただオタクかネクラっぽいだけの静かな興奮が、秘密っぽさが、かつて自分が1人で好いて遊びに来ていたインターネット上にはあったと思う。でもツイッターにはもうない。たぶん他の場所にもほとんど残っていない。というか、わたしが今からそういう場所を探して出向くことはもうなさそうだ。さすがに大人になって、顔も名前も出して表現とか考えていて、あの時とまるっきり同じものが必要なわけではない。

でも、とにかく体は続いていて、自分は同じ顔で、化粧だけ変えて生きている。
たぶん今後もここにはお世話になります。ベッド楽しみだなー。
 
 
 
追記:
はてなブログ、記事の下部に「いいな」機能があるんですね、笑っちゃった。
この機能はオフにできたらしておきます。
 
 

専門性と、純金のプライド


先週、ここしばらく制作を共にしているダンサーの小山さんと一緒に、ジャワ舞踊家の佐久間新さんのWSに参加した。今制作している作品や今後の制作(夏にジャワへ滞在制作しに行く予定)のための取材ということで、午後からのWSの前に、じっくりお話を聞かせていただくことができた。とてもいい話をたくさん聞けたのだけど、その後のWSも含む1日の中で、個人的に特に感動というか、前向きに反省したことがあったので書きたい。

佐久間さんへのインタビューは、わたしと小山さんがそれぞれジャワの踊りや文化、身体について気になっていることを雑多に聞くという、形のない形で進んだ。10時に開店したばかりのサイゼリヤに入って、お茶を飲みつつお昼のピークまでノンストップで話し続けてしまった。(すみません)話題は、伝統舞踊と地元のトランスダンスの関係(あんまりないっぽい)や、伝統的な踊りの型のなかで身体の精度を上げていくこと(何年も同じ型を踊るなかでその究極的な細部がどんどん更新されていく)、その伝承や伝播、ジャワに残っている魔術と市民の距離感、必然性をもって踊るための意識の持ち方、音に反応して体が動いていくことについてなど、様々に及んだ。
そのなかで、「常に踊っていると次第に全てが踊りに通じてくる」といったような話が、かなり自分に響いた。

佐久間さんは「踊りをやるようになってからは、それまで演っていたガムランをしばらく触らずにいたのだけど、久しぶりに触ったらガムランが上達していた」という。歌う声も以前よりよく出るようになったとおっしゃっていた。
単純にフィジカルなレベルが上がったということもありそうだけれど、どうやら踊りには「楽器の音が鳴るのに合わせるのではなくて、体が音を演奏している」としか言いようのないような境地があって、そういうことになってくると、楽器をやるより踊った方が簡単に音楽を「鳴らせる」のだそうだ。かなりの境地だと思うので、おいそれと真似できないのだけど、でも、コーヒーを一口飲むという行為を、ダンスと別の日常としてやるのではなくて、ダンスの続きにあるものとしてできるようになっていくと、ダンスも日常もどんどん磨かれていく、と、言い方を変えていただいたらわかってきた。わたし達に話をしてくださる佐久間さんの、「たとえばさ…」と言ってカップを手に取るしなやかな動作が、全てを物語っていた。

その後のジャワ舞踊のWSでは、歩く練習にけっこう長い時間をつかった。歩くことは日常の基本でもあるし、舞台の基本でもある。舞台の中央で踊るためには絶対にソデからそこまで歩かないといけないからねとおっしゃっていた。(初心者にとって車の運転では駐車がいちばん難しいけど毎回駐車はしないといけないからね…というのと同じだ…。)WSの終盤で習ったジャワの宮廷舞踊の演目の最初にも、座った姿勢でしばらく待つところがあって、きっと超基本の姿勢なのだけど、その時の座り方がやっぱり佐久間さんはハチャメチャにかっこよかった。「しっくりくる」という言い方をされていたけど、まさにそういう感じだった。「しっくり」きているのが、はたから見ただけでもわかった。確信のある体はかっこいいのだ。

そういえば、朝、佐久間さんと駅で待ち合わせた時、少し早めについた自分は、映像や写真でしか拝見したことのない彼に似た背格好の男性を見つけるたびに「あの人か?」「ん?あの人か?」と一人でキョロキョロしていたのだけど、全員ぜんぜん違う人で、時間になって改札に現れた佐久間さんが、それまで見たどのおじさんよりも、明確にかっこいい出で立ちをしていて、すぐに「この人だ!」とわかった。それがけっこう嬉しかった。姿の説得力って一瞬だし、強い。その時の印象は最後まで一貫していた。



日常の全てが踊りを磨く、という話とあわせて、ジャワの人のマルチスキルさについての話になった。すごくかいつまんで言うと「日本の人は自分の技術を専門性を持って尖らせていって、こだわりの道具を駆使して隅々まで統制のとれた完璧な仕事をこなす、といった職人ぽい気質の人が多いが、ジャワの人は、いろいろなことを器用にこなしたり、ありあわせの素材を工夫してバッチリにする、というような傾向があるよね」という話。

確かにそうで、お金がないということも関係しているとは思うけど、わたしがジャワで出会った多くの人も、素材や道具にこだわるより先にとにかく「やってみる」「工夫して実現する」というタイプだった。そういう人は突然の予定変更などにも対処が早い。イラストを描いている友人はウィンドウズのノートPCとマウスでその仕事をバリバリこなしていたし、路上で開催されているライブでは、途中で雨が降ってきたらミュージシャンの横や機材の周りにスタッフが立って傘をさしていた。それでいいのか…?と思ってしまうこともあったけど、いいのだ。ペンタブがないので描けませんとか、雨天対策のテントが立てられないのでイベントは実施しませんとか、そういう風には全然ならず、とにかく実行していく姿にはかなり感銘をうけた。




そうだというのに、彼らに刺激を受けたはずなのに、ああいう生き方かなり良いな、と思っているつもりだったのに、自分は、どうやら性根が真逆、かなり頑固だ、ということに改めて気づき、猛反省した。
頑固で失うものや得そびれるものって、かなり多い。少し前、自分のこだわりや情熱が空回ってヤキモキしたことがあった。わたしは「声」に興味を絞って活動してきたつもりだったので、その時は「いくつかの得意なことのうちのひとつとして歌もやる」という人と自分のパフォーマンスを並べられることに、納得ができなかった。自分の力が60%くらいしか必要とされていない感じがして、120%くらい提供する気合いでやっているのに、違う人でもいいような仕事ならやりたくない、などと思っていた。無駄なプライドで「だったらいっそ圧倒的なクオリティで完遂してやる」などと意気込んだりしていた。(今思うとめちゃくちゃ恥ずかしい。粛々と100でやるべきだったのだけど、そういう器用さがない。。)

きっと、基本的にはそういうこだわりとか、強い意志はあってしかるべきだけど、こういう心の姿勢は他人にすぐバレて、なんかギスギスしたりする。そして何よりも、残念ながら、自分の歌や声の技術は、そういうパワーで押し切れるほどのハイパーな実力には到底、達していない。ただ小型犬がキャンキャン喚いているだけみたいな情けなさだ。(虎になりたい…)

その案件は終えて、別の制作が始まってからも、その邪魔なプライドはやっぱり残っていた。今一緒に制作している人は、歌ではなくてダンスを専門にしている人だから、ダンスのことはお任せします〜という感じで、いい意味でお互いに信頼しあって進めて行けていると思っていたが、しかし、先日のジャワ舞踊のWSの時にも、わたしはちょっと卑屈になっていて、
「わたしはダンスはてんでだめなので」
「全然動けない参加者なんて自分くらいですよね」
などとのたまっていた。最後に感想を述べ合う時にまで、その遠慮というかビビりが発動してしまって、あまりちゃんと感想が言えなかった。
帰り道、小山さんに「いうて田上は体の感覚いいよね」と言ってもらえてもはぐらかしていた。相当ビビっている。

つまり、専門性とか言って自分で自分のやれることを狭めて、その他のことについてはビビって手を出さない、という状態になっていた。なんかこういうの本当に、すっげえ情けない!



さて。

サイゼのコーヒカップをとてもしなやかに持ち上げたり、話の途中で、上半身だけでスッと踊るように言葉のニュアンスを表現したりする佐久間さんのことを思い出して、わたしは、こういうことをやりたかったんじゃないのか、と、昨日くらいに改めて思ったので、自戒をこめてこれを書いている。

歌というものが、音楽だけの特権ではなくて、歌手の特権でもない、誰もが持てる楽しみとしてあって欲しいと思っていたことを思い出した。喋る言葉やただの呼吸までもに、歌を感じられたら、それは、日常がミュージカル映画のようになるなんてことではなく、もっと普通にそばにあるものとして、歌を再発見できるのではないかと。特別なこととしてではなくて、「自分の声が出るのを聞く」ということを肯定できさえすれば、声は歌になるんじゃないかと、難しいこと抜きにしてそれってすごい楽しいじゃんと。そういうことを思っていたはずだ。自分が自分を守っていくために「自分は歌の人」と思ってきたことがすごくしょうもなく感じた。

一番大切なものをひとつ持っておくのは当然に大事だ。でもそれを大事にするために他のことができなくなったり、他の人に対してビビったり逆に攻撃的になったりするのは本当にダサいし、大事なものを見る目さえ曇らせるだろう。専門家じゃなくても、下手くそでも、料理を作っていいし、文章を書いていいし、外国語を喋っていいし絵を描いていいし写真を撮っていいし、山に登ってみたり海に潜ってみたりしていい。というか、生活ってそういう風に成り立っている。あらゆることが、自分にとって一番大事な何かを高める糧になったり、ならなかったりしていくのだから、ビビってサボっている場合ではない。へっぴりごしでは獲れるドジョウも獲れない…(??)


最近おなじ現場になった音楽家のかたも、彼にしては意外な道具を使ったりしていたので、こういうのも使うんですねと言ったら、「自分の目的ははっきりしていて、方法はけっこうなんでもいい」と言っていて、え、めっちゃかっこいいなと思ったのを思い出した。

自分の中に軸を持っていればいい。油断するとその軸が外側に出ていってしまって、自分が振り回されたりするのだけど、毎回正しく戻してこられるようになろうと思いました。
それでちゃんと軸の周りに充実した実がついてきたら、本当の専門性とか、ちゃんとした格好良さにつながる価値あるプライドが生成されていくんだろうと期待して。そんなものは40年とか50年先にならないとわからないだろうとも思いつつ、柔軟に続けていきたい。








いい秋の1日目みたい

乱暴なくらい音の大きなライブを楽しんだ帰り、iPhoneに繋がないままのイヤホンで耳栓をしながら電車に乗っている。
 
イヤホンから音を鳴らしていないのに、耳の中を圧迫するようにピーーーーという微妙な音程の細い持続音が鳴り続けている。よく聞くと2つくらい鳴っている。疲れていたりして鳴ることはあるけど、爆音でこうなるのは久しぶりだ。きっと耳に悪いんだろうけどまあしかしすごく楽しかったからあんまりどうでもよくて、いつ鳴り止むのかが知りたくて、ピーーーーに耳を澄ましている。経験の余韻(これは疲労どころか多分ほぼ傷)がこんなに明確に残っている。楽しかった。
 
 
この電車に乗り換える前は、わたしは本を読んでいて、目や体が楽で心地よかった。(わたしは今いい具合に疲れて酔っ払っているのでかえって感覚が冴えていて、そんなこともいちいちクリアに感じる。)
読書はスマホで色々やっているよりも1つのことにグッと集中できるのがすごくいいと最近実感する。パソコンで作業をするよりもペンで紙に書いた方が捗ったりするのと同じだ。本も紙も、それ以外のことができないのが、気が散りやすいわたしにとって有難い。
さっき一緒にライブハウスにいた友達と、ある程度閉じた空間というのは必要だね、みたいな話をしたのも思い出す。主にSNS上で遭遇するような、あまりにもしょうもなかったり民度が低すぎる言葉とか雑な悪意とかは、本当の本当に完全無視していい存在だが(ある、ということを知るくらいで充分)、ライブハウスみたいに正しく閉じた場所にはそういうのがいない。みたいなことだったと思う。(違ってたらごめん)かつてライブハウスで痴漢ぽいのに遭ったことも思い出すとわたしは100同意ではないけど、でもライブは現場で起きていて、そこには一定以上の情熱のある人達が来ていて、ちゃんと作法や目的を共有できているから野暮なことは誰も言わない。いわゆる茶番も成立する。それは愛しいしクールだ。いろんな考えなきゃいけないことは一旦置いておいて、今はとにかく笑って踊る。昨日のイベントにはそれがあって、素晴らしかった。なるべく真摯であろうとすることは人として大切だし、ポリティカルコレクトネスとか大事だけど、正しさを過剰に求めるのは毒だ。
最近は、バカになるのにもワルくなるのにもおちょくるのにも勇気を要するような感覚が自分のなかにあって、それをシンドく思っているのを自覚した。オフラインで、ちょっとワルいくらいのパーティーがしたい。
 
 
 
 
読んでいたのは図書館で借りた本だったので、「〜までに返却してください」という紙をしおりにしている。たまに「これは」という箇所があるとそれを小さく破って挟むのだけど、束ねられた紙を神聖なくらい丁寧に見つめ印刷された言葉を味わいながら、別の紙をビリビリちぎっては挟む、というのはなんだか罪悪感に似た違和感があっておもしろかった。紙の世界にもヒエラルキーがあるみたいだ。
 
 
今日はすごく楽しく過ごした。偶然バッタリ久しぶりの友達にも会ったし、偶然ではなくて予定していた久しぶりの友達にも会った。初めての串カツ田中にも行った。
 
都内で目的地が4箇所くらいある日だったので、メトロの一日乗車券を買って使った。600円で24時間有効だとわりと簡単にお得になるから良い。ピ!じゃなくてカシャン!という音と一緒に改札機を通すのは、ちょっと懐かしさもあり楽しいのでおススメです。
 
 
 
 
 
 
 

日記190624


最寄りの駅から、いつも使っている駐輪場まで、歩いて2分くらいだ。走ると1分。その途中、アパートの一階部分がごっそりコインパーキングになっているところを通り抜ける。ここには張り紙があって、曰く「通り抜け禁止」だ。でも、駐輪場を使っている人の多くはここを通っていて、わたしもそうだ。電車通学を始めた中学生の時からいつも。ここを通るのが近道だからだ。なお、近道をしない場合、30秒くらい余分にかかる。
わたしはいつもここを通る時、車と車のあいだを通り抜けながら、車の持ち主とかコインパーキングの管理をしている人に遭遇したくないな、と軽く思っている。一度もそういう人に会って怒られたことはないけど、ここを人がたくさん通り抜けていくことのデメリットが一応想像できるから、ちょっと罪悪感がある。

今日の帰り、そのコインパーキングにさしかかるところで、目の前にとまっていた車のヘッドライトがピカピカ、と二回光った。どうやら鍵を開けたか閉めたかしたようだった。鍵はけっこう遠くから操作されたのだろう、とりあえずわたしの視界には車の持ち主らしき人物はいなかったが、ビビってちょっと早足になってしまった。


コインパーキングをぬけた先には数件の飲食店がある。どれも個人経営っぽいこじんまりとした店で、居酒屋とか洋食屋とかカラオケスナックがあるが、わたしはネパール料理屋以外は入ったことがない。ここを通る時は、居酒屋の隣の白っぽいアパートの入り口のところの低い木に、黄色い花が咲いていたり咲いていなかったりするのをいつも見る。今日は同じ株の先に、黄色の他に小さい赤いのも咲いていて、え?と思ったが、あえて確認しません、という気持ちが勝ったのでそのままの歩調で通り過ぎた。(あえて確認しないことによって心に残すというのをけっこうやってしまう。)

地下駐輪場の入り口にも、少し前は黄色い花が咲いていたが、今はもうない。
蛍光灯で照らされた緑色の階段を降りる。ここの壁には「不審者に注意!」という張り紙が以前からあるのだが、最近これが、怖い表情をした男性の目と眉のあたりだけを切り抜いた写真を使ったものに変わっていて、なんだか生々しくて気持ち悪い。リュックのポケットから出して手に持っている鍵がチャリチャリ鳴るのを聴きながら降りていく。最近ちょっと調子に乗ったので脚が筋肉痛だ。階段を三段降りたぐらいから、音の響きが明確に変わり始める。家の鍵と、自転車の鍵と、木のキーホルダーと金属のキーホルダーをカラビナでまとめているのだけど特に木のキーホルダーがいい仕事をする。好きな音だ。階段を降りきる。


この地下駐輪場は、地上が暑い日でもヒンヤリしていて、湿度が高くて、静かで、かなり音が響く。自分の足音とか鍵をはずす音とか、そういう細かい音がいちいち遠くまで広がるのがいつもちょっと楽しい。床はぜんぶ緑色で塗られていて、しばしば結露で濡れている。

とまっている自転車のうちのいくつかに、レインコートが広げてかけてあった。黄色とか、ピンクや薄いミントグリーンもあったけど青いのが多い。少し珍しい光景だった。今朝は強い雨が降っていたから、レインコートを着てきた人が多かったのだろう。わたしもその1人で、派手な柄の黄色いレインコートを自分の自転車にかけてきていた。レインコートはすっかり乾いていた。わたしより先に出かけた母の自転車も近くにとめてあって、青いレインコートがやっぱりかけてあった。

昼に会った友人と「雨の日にレインコートを着て傘をささずに歩くのいいよね」という話をしたのを思い出した。そういう人ってそんなに多くないから、歩いていてそういう人とすれ違うとちょっと同志みたいな気分に、勝手になったりするよね。

ここはいつもはほとんど満車になる駐輪場だが、今日は強めの雨だったので自転車を諦めた人が多かったらしく自転車の数がいつもよりも少なかった。そのいつもより少ない自転車の一部にレインコートがかけてあったので、やっぱりちょっとの同志がいるぞ、という気分になった。



乾いたレインコートを畳んでリュックに入れるのが面倒だったので、雨はもう止んでいたけどとりあえずガバッと頭からかぶって、自転車をおして地上に出た。
なぜか気がつくと下がっているサドルを昨日上げたばかりだったので、快適な乗り心地だった。夜風も気持ちいい。交差点のところで、前を歩いている人との兼ね合いがうまくいかず少しオロオロする。信号が変わるのを待ってふと左の空を見ると、けっこう明るい光が、ギューンという感じの、鳥くらいの、そこそこの速さで東のほうに飛んで行った。低めのところを飛んでいる飛行機だ、とすぐわかった。
同時に、2ヶ月くらい前のことを思い出した。その日も同じように駐輪場を出て自転車をこぎだして、機嫌がよかったので「ピカピカぼうや〜」とテキトーなデマカセを歌いながら顔をあげたら、ちょっとハッとするくらい明るい光が、目の前の空をやっぱり東のほうへギューンと過ぎていった。歌った言葉とちょっとシンクロしたのが嬉しくて、ピカピカぼうやじゃん!!と思ったんだけど、あれも飛行機だったんだろうなと今日、わかってしまった。

5月に、目の前をぐわっ!と大きな飛行機が通り過ぎたこともあった。飛行機は実際には普通の大きさだったのかもしれない。でも、デカ!と思った。浜松に行った時だ。あの時は、たしか遅めの午後で空はまだ明るく、車は国道を走っていて、わたしは助手席に座っていて視界はひらけていた。その視界の大部分を占めていた青い空が、突然、なんの前触れもなくぜんぶ飛行機でいっぱいになった。びっくりした。突然壁が現れたみたいだったけど、まばたきくらいの短い瞬間の後にはもう消えていた。いきなり気が狂って幻を見たのか異世界に飛んだのかCGかと思ったけど、運転していた友人も目撃していたので現実だった。後部座席に座っていたメンバーは見逃していた。それくらい一瞬だった。あれは左手にある航空自衛隊の基地に着陸せんとする飛行機だったようで、浜松では時々見る光景らしい。とはいっても車の運転中にあんなふうに遭遇するのはちょっと珍しいですね、と聞いて、わ〜い単純にラッキー、と思った。でも総合的にはけっこう怖い体験だった。

近くを飛ぶ飛行機は速い。飛行機に自分が乗っている時とか、遠くの空に飛行機が見えている時には、「あ〜、飛行機だな〜」と眺めるくらいの余裕がある。でも、近くで見るとあれはけっこう速い。浜松の時はショックなくらい速かった。駅前で何度か目撃してきた光も、まさに「ぎゅーん」という言葉くらいの速さで視界から消えた。たぶん飛行機の速さそのものはそんなに変わっていないんだろうけど、はるか上空を飛んでいる時には、ぼんやり眺めたりできるのに、目の前の空を飛ばれるとけっこうビビる。



飛行機って、速いんだな、ピカピカぼうやは、ちょっと近い飛行機だったんだな〜、、と思いながら、青になった信号を渡った。ちょっと行って、家のあるほうへ道を曲がると、歩いている姉がいた。帰りの時間がこんなふうにかぶることは珍しいので、自転車がギリギリ倒れないくらいのノロノロ運転に切り替えて、イヤホンで音楽を聴きながら歩いている姉の視界に、えい、えい、と入って、気づかせて、少し喋った。音楽が途中だから聴きたいんだけど、という雰囲気を若干感じたが、彼女のその気持ちには気づいていないふりをして会話をした。
夕飯どうするか考えてる?考えてない、卵と牛乳は買ったよ、あと、ネギがあったのは覚えてる。ネギか〜。そのレインコート買ったの?いいじゃん。いや、だいぶ前に買ったやつ。


帰宅して、空腹と体の疲れで調理をやる気がでないので、冷蔵庫にあったチョコパイをキッチンの床に座って食べた。姉と、チョコパイって美味しいけどなんか正直そこまででもなくない?という会話をした。冷蔵庫で冷やしすぎたチョコパイはちょっとゴムっぽい。
ネギを切り始めた時に思いついて、一度手を洗って部屋へ行き、スピーカーを持って来て音楽をかけた。ネギをまる2本ザクザク刻んで、水と小麦粉と卵と、中華スープの元とキムチを刻んだのをぐちゃぐちゃ混ぜて、ごま油で焼いた。まあまあ食えるものができた。これはビール欲しいやつだな?と頭をかすめたけど、最近ちょっとお酒を飲まないでいてみているので、シークワーサーの甘くないジュースを炭酸で割って飲んだ。一口飲む?と姉にすすめたが、酸っっぱ!と笑いながら不味そうな顔をされた。わたしはこのバカ酸っぱいのをけっこう楽しんで飲んでいるのだけど、他の家族が全然飲まないのでなかなか減らず、傷んでしまいそう…という懸念をしていた。やっと今日で飲みきった。






Terimakasihhhhhhh

 
日本に帰ってきてちょうど2週間がたった。
2週間前、29日に朝の羽田に着いて、空港の外に出た時の第一印象は「木がショボい」だった。空港の周りだし、まだ寒い季節というのも手伝って葉っぱのない木ばかりで、植物の迫力がインドネシアとは全然違って、曇り空の下、冷たい風に揺れていて、寒々しかった。それに、どうやら自分はよりによって寒い日に帰ってきてしまったらしかった。でも、この季節の日本のにおいが確かにした。噂に聞いていた醤油の匂いではなくて、冷たくてツンとしていて、淋しくなるような春のにおいだ。
 
地元に戻ってすぐ、母と近所の回転寿司屋に行った。インドネシアにいるあいだ、寿司が食べたいという気持ちを意図的に捨てて寿司のない生活になんとか耐えていたけど、久しぶりに食べたら泣けてくるくらい美味しくて、飢えている人みたいな勢いで食べてしまった。晩にはスーパー銭湯に行った。久しぶりの湯船に浸かって、体が溶けそうに気持ちよかったのには、さすがに半年を感じた。寿司と風呂があるってサイコーだ。その日から、毎日あたふた楽しく過ごしているうちに、もう4月も半ばにさしかかる。
 
ここ2週間は、いろんな場所でいろんな人と、花見をしたりご飯を食べたりして、久しぶりの友人たちに次々会った。先週は即興的なパフォーマンスのイベントに参加したり、この前の火曜日には友人の営む店でインドネシアで撮ってきた映像や写真を見せて話す会を開かせてもらったりした。来月にある演劇の稽古も始まった。寒さのせいか気が緩んでいるのか、寝ても寝ても眠くて毎日寝過ぎるのを早くなんとかしたい。
 
 
 
 
インドネシアにいるあいだに仲良くなった友人達とは、インドネシアにいた頃より(来週の待ち合わせはこうしようとか、今度ここに行ってみない?といった話をしないから)頻度が激減してしまったけど、インターネットを通して普通にコンタクトが取れるので、拍子抜けするほど淋しくない。日本にいたって一年以上会わない人がたくさんいるんだから、それと同じだ。
 
ただ、インドネシアで半年間住んでいた町を離れて2日ほど手続き等のためにジャカルタにいた時とか、日本への飛行機に乗っている時などは、さすがに淋しかった。
 
 
26日、ジャカルタに行くために空港へ向かっていた時、タクシーの運転手とした短い会話の時の感触をよく覚えている。以前にも一度お世話になっておしゃべりをしたことのある運転手だったので、半年の滞在の最後の日だというのをすぐに理解してくれたようだった。わたしがゲストハウスのオーナーと別れる時に思わずちょっと涙ぐんでしまって、車に乗ってからも遠い目をしているのを察したのか、「たくさん勉強した?」「うん、たくさん」と短いやりとりをしただけで、あとはほとんど黙っていてくれた。
 
わたしは、「banyak(たくさん).」と、この半年間ほぼ毎日のように使ってきてすっかり口に馴染んだ単語を、噛みしめるみたいに低く、少しゆっくり発語してそれを自分で聞きながら、100キロ超の猛スピードで景色が流れていくのを目で追った。あと何回、残り数日のインドネシア滞在でbanyakって言うかな、と月並みなことが頭をかすめた。何かを逃したくない、みたいな、切ない気分でいた。何を逃したくないのかは、よくわからないのだけど。
昨夜、荷物をまとめると帰ってしまうことが現実になるようで、いやでいやで仕方がなくて、だらだらと明け方頃まで荷造りをしていたので寝不足だったけど、ぜんぜん眠くなかった。さっきの涙が下のまぶたにちょっと残ったまま、鮮やかな緑色の山とか煉瓦色の家々とかよく晴れた空を見ていた。なんだか目がよく見えた。でも、初めて通る高速道路の景色は、あまり感動的ではなくて、残った涙はすぐに乾いていった。
 
以前にも、同じように引き裂かれるような呆然とした気分でタクシーに乗っていたことがあったのを思い出していた。気持ちと関係なくドンドン前に進んでくれる乗り物のおかげで、わたしは次に移っていける。人が運転してくれる乗り物は強い。徒歩や心ならこうはいかない。
 
 
 
空港やジャカルタでは、半年間、わたしとは違う町や島で同じ仕事を頑張っていた仲間たちに再会できた。それは嬉しかったけど、以降、突然バチンとインドネシア語を聞かなくなってしまって、日本人に囲まれて、もう日本に帰ってきたみたいだった。いやいや、待ってくれよ、まだ、まだインドネシアにいるだろうが、、、だから、ひとりの時には友人に教えてもらったインドネシアのバンドを聴いたり、「もうジャカルタについた?」とメッセージをくれたジョグジャの友人とくだらない話題でしばらくチャットしたりして、インドネシア語の質感とか、確かにそれに付随する色んなことを、体にとどめようとするみたいにしていた。思い返すとけっこう必死だった。
 
わたしは日本へ帰る飛行機に乗っているあいだじゅう殆どずっと、紙のノートに細い黒いボールペンで隣の人には読めないくらいの小さい字で、詳しすぎる日記のようなものを書いていた。特に、23日にライブをしたことその前にご飯屋さんを探して弱い雨のなか傘もささずに友達と4人で散歩したことバカな写真を撮ったのを見せてもらって笑ったこと結局一番近いお向かいの屋台で食べたこと(その屋台は1月に同じ場所でのライブを観に来た時に食べたのと同じ屋台で店のお兄さんは後で娘を連れてちょっと演奏を見にきてくれた)合間に話した沢山のことAditが面白いTシャツを着てたことRanggaが2年前と同じサンダルをはいていたこと準備した時のことライブ中のことライブの合間のことライブ直後のこと一回コンビニに行ったこと帰りの車が高台の坂を登れなくてみんなで押したけどわたしは押す役ではなくタイヤに挟むための大きい石を探してくる役を任されたことその時振り向いたら見事に町の夜景が見えたこと小さい雷という意味の言葉を3人がかりで教えてもらったこと仲間のシェアハウスにみんなで泊まったことジャワの甘すぎる濃いお酒を飲んだことワヤンのポーズの話をしたこと寒さと疲れと興奮でなかなか寝つけなかったこと朝ごはんにジャンクすぎる揚げ物とソトを食べたことその時Aditが肉抜きでと注文していたこと笛を吹いて遊んだことATMでお金を下ろすのを待ったことプレゼントをもらったことそして大好きな友人たちと別れたバス停までの、
 
までの、、
 
メチャクチャ楽しかった約2日間の、全ての出来事とその時に思ったことを絶対に忘れたくなくて、馬鹿みたいだけど思い出せる限りの全部を詳細に言葉にしてノートに書きつけた。文章が時々ぶっ壊れていたけど誰かに見せるわけでもないのでそのままにして先へ先へ書き進んだ。手が追いつかなくて字も汚い。全部なんて絶対に残せないと分かっているし、こんなの何にもならない無駄な行為だけど、それでも書くなら今が最後だと思っていた。日本に着いてしまったら書けなくなる気がした。
 
 
深夜23時半くらいに出発して朝に羽田空港に着く便だったので機内は暗く、本来は寝ておくべきだし他のほとんどの乗客は寝ているのだけど、わたしは「ごめんなさいあとちょっとだから」と思いながら自分の手元を照らすランプをつけて、時々目と手を休ませつつ、結局朝の6時ごろまで書き続けた。左隣の座席には、外国人技能実習制度で日本へ行くとおぼしき青年が座っていた。きっと彼にとっても、今夜は特別に孤独で、でも楽しくてワクワクで、いや、やっぱり寂しくて、グラグラと心の落ち着かないフライトだろうなと想像したりした。いや、わたしがそうだっただけだ。
 
右隣の席の日本人のおじさんが、機内食が配られるタイミングなどに少しコミュニケーションを要する際、初対面なのにこちらをナメきって下に見て接しているのが見え見えでわりと不愉快だったのだけど、その不愉快さはちょっと懐かしくすらあって、ああ日本に帰るんだなと思ったりした。
 
 
 
 
 
 
 
メチャクチャ楽しかった二日間の最後24日の昼の、大好きな友人たちとの別れは、けっこうあっけなかった。学校の先生たちはプレゼントを次々にくれたり送別会を開いて写真をたくさん撮ったり歌を歌ってくれたりボロボロ泣いてくれたりしてしっかりと別れを味わわせてくれたけど、彼らは普通だった。わたしも「まあまた会うでしょ」という気分が強くて全然泣かなかった。
 
Aditは超嬉しいプレゼントをくれたけど、出発する前にみんなでお喋りしている場面でこっそり「みんなの前で開けられると恥ずかしいので後で開けて」とメッセージを送ってきて、わたしがスマホでそれを確認したのを見届けたうえで片手で雑に渡されてしまったので、全然本人の前でちゃんと喜ばせてもらえず、だいぶ戸惑った。でも、重要なところで変な感じになっちゃうのがあまりにも彼らしくて、マジ好きだなと思った。友人として大変に愛しい。
AditとRanggaが一緒にジョグジャへ帰っていくのをバス停で見送った時もなんだかヘタクソだった。バス停にバスが来て、さあ乗るぞ!というタイミングになって、ウワアア〜〜!もうバス来ちゃった早〜〜!!という感じで思い出したように大急ぎで、でもお互いにそうすると決めていた迷いのなさで、バッ!とハグしてシンプルに「またね」と言った。前に彼らに教えたのだった。Sampai jumpa lagi は「さよなら」じゃなくて「またね」だよ、と。
 
慌てて2人が乗り込んだバスはドアを開けたまま発車(※インドネシアでは普通)して、3秒くらい手を振ったらもう、ドアは閉まって2人の姿は見えなくなった。ついさっき抱き合って「うわあやっぱり肩の位置が高い」と思うほどの距離にいた人が、5秒とたたずに、何メートルも遠ざかってしまった。早すぎた。友達をバスにさらわれたみたいだった。昨日からさっきまで、ずーーっと聴こえていた笑い声とか見えていた表情とかあった仕草とかそういうのが、こんなに一瞬で、もう跡形もない。
 
 
わたしは軽くため息をついて伸びをして、一緒に見送りに来ていた友人Bambangと、ジョグジャに行くためにはあのバスだとどこで乗り換えることになるの?など関係ない話をしながら3分くらい歩いてシェアハウスに戻った。
 
 
次の日、25日にはわたしも同じバスでさらわれたのだけど、その時もKartunさん(今回音楽周りで超お世話になったおじさま)と、やっぱりハグして別れた。Kartunさんは痩せていて少し背が低い。静かな細い目をして、またね、と落ち着いて一言言ってくれた。こういうシーン、彼にとっては今までにも幾度となくあったんだろうなあ、となんとなく思った。昨日の夜にライブ会場から(24日の夜にもライブをした)シェアハウスへ戻る時、スマラン中心部からひとしきり走ったから、最後に馴染んだ街の夜景がじっくり見られて嬉しかったです、と言いたかったけど言葉が間に合わないのでそういう目だけしておいた。
 
乗りこんだバスは平日の昼らしく空いていて、めずらしく音楽もかかっていなかった。一番後ろの席に座って、景色を目で追うでもなくただただ揺られた。クーラーが入っていなくて車内の気温は高めだったのだけど、寝不足ゆえに暑さをあまり感じなかったから、ずっと上着を着ていた。あんまり何も考えられないまま、ゲストハウスまで帰った。あの部屋に「帰る」のは、この日が最後だった。次の日、26日にはジャカルタへ向かうのだ、というのが全然信じられないくらい、荷造りの進捗はゼロだった。
 
家に帰ってから、さっきAditが片手で渡してきたプレゼントを開けたら、彼が描いた絵をプリントしたトートバッグとおすすめのCDと、当たり障りのない内容の、ノートの切れ端に書いたと思われる短い手紙が入っていた。思わず「ええええ〜〜〜」と声が出た。こんな嬉しいプレゼントだったのかよ雑に渡しやがって!と思った。

簡単なインドネシア語で書いてくれていたのだろう、手紙は最後まで辞書不要でさらさら読めた。そして、一番最後にひらがなで「またね〜」と書いてあった。慣れない手書きのひらがな三文字と、最後の「〜」が、とても愛しかった。そっか、わたしも手紙書けばよかったな、とちょっと後悔しながら、すぐ、お礼のLINEを、超ハイテンションで送った。