鼻とリンゴ、耳とゼンマイ式の出会い

昨日、夜遅くに家に帰ってきた時、甘いにおいがした。

原因はよくわかっている。その日、家を出る前にリンゴを煮て食べたのだけど、はちみつを少し焦がしてしまった、あの残り香だ。鍋は洗ったのに、においはまだ残っていた。いやではない不意を突かれた。

ここは自分ひとりが暮らす家だから、この中で起こる出来事はほとんどすべて把握している。あそこの角に埃がたまっている(→明日掃除機をかける)とか、使い切った化粧水の霧吹きのボトルを昨晩洗ってから乾かしている(→内側の雫がなくなったらプラゴミの袋にいれる)とか、排水溝の掃除はいつやったからそろそろまたやろうとか。使いかけの野菜をどう食べようとか賞味期限とか。その把握の実感はけっこう悪くない。調子のいい時は、部屋の中のあちこちへ意識の糸がのびて、それぞれがちゃんと絡まらずに結ばれているような感じがする。だから、時々、姉と母の暮らす実家に帰ったりすると、自分ではない誰かが散らかした服とか、使って洗っていない皿とか、そういうのに出会って、「ああ、人と暮らすあるあるだ」と思う。友人と四人でのシェアハウス生活から打って変わってのひとり暮らしだからか、未だにいちいち実感してしまうのだけど、この生活にはあの煩雑さがない。片付けて外出すれば、帰ってきた時には片付いた部屋が待っている。逆も然りだ。ひとり暮らしにとっての「帰宅」とは、「家を出た時の状態に再会すること」だ。淡々としていて悪くない。

しかし、案外、ひとりで暮らしている家でも予想外の出来事に出会える時があって、そのひとつがにおいだ。

あの日、家を出る時には、はちみつを焦がしたにおいなんて意識していなかった。焦げている、と思った時にはちょっときついくらいのにおいがしたからその時だけ換気扇を回したけど、ずっと回していると寒いしうるさいから、少ししたら止めた。それで換気されきらなかったにおいが、数時間かけて、ちょっと驚くくらいやわらかくなって、嬉しい不意打ちの香りになっていた。

一度に沢山もらったリンゴを、戸を隔てたキッチンではなく、寝ている部屋の机の上に置いていた時も、小さい驚きがあった。カバンから出してポンと置いてそのままにしていただけなのだが、後になってその部屋に入ったら、とたんに、ふわりと微かだが爽やかな香りがした。いいじゃんと思ってしばらくそこに置いていたけど、知って狙ってしまうと、もうあの爽やかには出会えなかった。

鼻の体験は、内側に吸い込む息と共にあるせいか、どうも秘密の質が強いと思う。普通、鼻から意思を発するということをあまりやらないせいもあるだろう。自分から語らないという点と空気を媒介とする点で耳と似ている。加えて、たとえば鼻の速さと目の速さは違っている。人を相手に出会う時には、お互い目を見たりするから、鼻よりも先に物理法則とは違う次元で出会ってしまう。体が近づくよりも先に、目の出会いは生まれる。しかし、鼻がにおいに出会う時は、体はもうそこにある。言い換えると、鼻はここに来る空気を吸うだけだ。目や声みたいに、少し遠くへ伸びることはできなくて、ここへ来たものにだけ、ひとりだけで、受け身で出会う。

ただ、空気は、自分の手や風によって、動く。鼻が付いている自分の顔だって、動く。動ける。そうして動いて、ドアが開いたり、風がふいたり、すれ違ったりグッと近づいたりした時に、鼻は、出会う。空気が変わった時に出会うのだから、それはドラマチックだ。まわりの空気の動きによる変化、それを選り好みせずにとにかく一先ず捉えるのが、鼻だ。鼻は慣れやすいから、一度出会った空気を確かめ直すのは苦手だ。つまりそれは逆を返せば、鼻が「出会うための器官」だということだ。顔のいちばん先頭で、密かに堂々と「出会う」のを待っているのだ。

ひとりで、疲れと空腹でフラフラの状態でレストランに入って、待ちに待った料理が届いた時に、つい、ウエイターが今まさにテーブルに置くか置かないかという皿を覗き込んで、鼻から思い切り深く息を吸ってしまったことがある。後で恥ずかしくなったけど、その時は、ようこそ!ペペロンチーノ!という気分が羞恥心よりも先に前に出てしまった。あの時、ペペロンチーノが目の前に登場した感動と、空腹に染み渡るようなにおいはよく覚えている。鼻から吸った空気は肺に入っていくのに空腹に染み渡るんだから可笑しい。まあでもあれは間違いなく、鼻から「出会った」瞬間だった。

人との出会いにもある。緊張しながら待っていた人が現れて、目を合わせて会釈したあと、椅子に案内された時に、その人の香水がふっと香って、あ、と思った。香水なんて完全にずるいのだけど、見事に効いた。その人が違う空気を持ってきたみたいで新鮮で、その後その人と話をするあいだ、自分が妙に集中しているのがわかった。つまりその時は、目と鼻とで、わたしにとって二段階の出会いが発生していて、なるほど人と会う時に香水をつけるのはこんなに有効なのだと、わたしは深く学んだのだった。(実践できていませんが)

部屋に帰ってくる時は、必ず扉を開ける。扉の外と中では、当たり前のように何もかもが違っている。その、王道ドラマチックな行為には、文字通り、空気が変わるということが織り込まれている。そういう意味で、やはり出会っているのだ。

つまり、わたしが毎日帰宅する時に出会うのは、「家を出た時の状態」ではなかった。そこから数時間を経た、「家を出た時の状態’」だったのだ。だから、例えばにおいが、変わったり分かったりするのだ。そしてわたしも、「家を出た時の状態’」だ。外の空気のなかを歩いてドアの前まで帰ってくるのだから、当たり前だ、全然違う。

リンゴは、沢山あるので日持ちさせてくて、冷蔵庫に入れてしまった。冷蔵庫からはブーンという音だけが発されていて、においはしない。なんのにおいもしない台所は静かだ。家で料理をする楽しみは時にはもしかして、それを食べ終わって家を出て、帰って来た時にまで長くのびうるんじゃないかと思えてくる。

今は部屋にいて、わたしにはこの部屋のにおいがわからない。ただ、今までなかったものがある。昨日、世田谷のボロ市にでていた店で出会って、つい心惹かれて買った、古いゼンマイ式の置き時計だ。その、音である。

その時計は、古いけれどとてもマトモに動く。台所にいる時に時計が見えないのがいつも気になっていたから、台所から見えるところに置いたのだけど、けっこうチクタク音が大きい。戸を一枚隔てた部屋で、自分が少し動くのをやめて音をたてないでいると、すぐにせわしない音が聴こえだす。

まあ、思っていたよりも音が大きいってただそれだけなのだけど、台所のチクタクが聴こえると、家のなかが前よりも静かに感じる。彼は時間を知らせること以上に、夏の窓辺の風鈴みたいな仕事をしれくれているのだ。わたしは好きです、そういう仕事。これから、宜しくお願いします。