手動の都市生活

雨などを言い訳に色々と諦めたことで微妙に時間ができたので、雨音を聴きながら最近のことを書きます。

今朝は早く起きて、パートナーが仕事に行く前に手早く自作の棚を組み立てる(今日の他にできる日がないので、昨日の深夜にもベランダでパーツの塗装をしていて、その延長線上の早朝強行)のを一緒にやった。けっこう良い感じの棚ができて、家に1人になってから、さっそくちょっと物を並べてみた。暮らしって感じがする〜!久しぶりのゆっくり過ごせる午前中を、朝食後のコーヒーなんか入れたりして優雅に過ごしています。これだけ強い雨が降っていると、いろんなちょっとしたことは諦めてしまえる。



そう、引っ越しました。この春、と各所で言ってきた春がいつのまにか終わって、夏と呼んでいい頃になってしまったけど、この初夏にようやく引っ越しをしました。

「この春」は、去年の春と比べてけっこう色々と状況が変わった。一つは、新しい仕事を始めて、働く日がこれまでよりも増えたこと。もう一つは、引っ越して、人と一緒に2人で暮らし始めたこと。まだこの生活は軌道に乗ったばかりでどうもガタガタしているけど、一応なんとか動いて進んでいる。まだフォークと鍋敷きがないけど。ああ七味唐辛子も買えてない
(と言っていたらIKEAに行った友人がついでにとフォークやナイフのセットを買ってきてくれた。ありがとう!)


新しく住んでいる町は、悪臭漂う繁華街からチャリで少しいった静かな所だ。建物は古いので、何も防音施工をしないまま家で大きな声を出すとおそらく近所迷惑になる。外が騒がしいほどの、今日みたいな大雨の日に小声で歌うくらいならきっといいけど、夜中に外の道をおしゃべりしながら歩く若者たちがなんの話をしているのか興味を持てばギリギリ聞き取れてしまうくらいには全ての音がありのまま届くので、きっと楽しく歌ってしまおうものなら通りの先の家まで聞こえるだろう。わたしは以前ほかの場所で、どれくらい建物の外に歌声が聞こえてしまうのか友人達の立ち合いのもと実験した時に、自分が想像していた以上に聞こえているとわかってから若干ビビっています。
豪快な人に憧れているので少し残念なんだけど、わたしは自分で自分に期待しているほど図太くないし強くない。他人のことを気にしだすと途端に動きが鈍る。一人暮らしをしていた時は、他の大きなストレス要因があったとはいえ、暮らしにおいて少し過剰な神経質を発揮していて、自分の生きている様子がすべてバレてしまうような気がして日々のゴミを捨てることすら怖かった。思い出すと意味不明ですけど、日中のスーパーのエレベーターと駅前の交差点にて短時間で三度も目があった女性が怖くて怖くて、妖か霊などの類だと信じ切ってしばらく怯えていたこともありました。(昼に見る幽霊が一番怖いよね!)ともかく、わたしの神経はそこそこ細くて、日頃からしょうもないことやどうしようもないことがちまちまと気になる。

そんな神経が細くて怖がりの自分にとって、まだ家であんまり声も出せない新しい都会暮らしは、かなりストレスフルだ。緊張する。過敏な状態の心に全部バンバン飛び込んでくる。例えば、高速道路の入り口とか高架がかなり身近になったのだけど、あの緊張感はちょっときつい。遠くに見る風景としてなら心地よいけど、隣で生活するとなると迫力があり過ぎる。
あれを目の前にすると、高速道路を自分が運転する時の、カーブをぐーっと曲がる緊張感を思い出して、見知らぬ運転手のそれが伝わってくるような心地がする。今まさに、頭上のこのコンクリートのレールの上を、それなりの緊張感を持った運転手と、それに従う重くて大きな鉄の車が、ガーッ!という音とともに次々通過している!速い!弾丸が頬のスレスレのところを飛び交っている?!死と隣り合わせだ?!というような、ビリビリした想像が、チリチリと神経系を引っ掻く。


都会と呼ぶのは田舎者で、ずっと東京に住んでいるような人は都会じゃなくて都市って言うんだよ…、と長野出身の友人が言っていた。「都会」はビジョンで、「都市」は事実、みたいなニュアンスだろうか。そのあたりの言葉としての真偽はわからないけど、都市は人と一緒に生きている器官という感じがする。郊外や田舎は土地が先にあってそこに人が住みついているので放っておいても大丈夫そうだけど、都市は、人が毎日メンテナンスしないとたちまち働かなくなるような、巨大だけど繊細な化け物みたいだ。みんなで「都会」を演じているような、共謀して「都会」というプロジェクトをやっているみたいな。社会ってそういうものだよと言われてしまえばその通りなんだろうけど、ちょっと手に負えなくなって主従が逆転しているような感じがするのも含めて、化け物っぽい。トシ。

ここだって、都会を都市と呼ぶ人たちからしたら全然たいした都市じゃないんだろうけど、深夜にも人がたくさん外を歩いていたりジョギングしたりしていて、自転車でいける圏内になんでもあって、川はなくて、海はなくて、空の手前にはビルや高速道路の高架や大きな看板、いくつもの道に分岐する立派な歩道橋、そういうのがすごい密度で交差している。道を道が超えて、ビルにビルが覆い被さって、線路が家を越したり地下に潜ったり、このあたり一帯の全ての土地が200%くらい活用されていて、空間に対して人間の意思の密度が高すぎる。

たまに自転車で通る、少し高くなっている高架があって、そこから街を見下ろすたびに、こういう場所で生活することの不気味さが迫ってくる。ここではキラキラがぜんぶ電気なんだよ。燃える火とか、雨が降ってあがったあとの雫とか朝露が陽光でキラキラしているような時の、顕微鏡でのぞけば無限に深まっていくようないろ・かたちとは全然違って、街の明かりひとつひとつが四角い一個のピクセルみたいな、そういう荒い画面だ。命の数と光の数はぜんぜん違うのに、こうやって高いところから見下ろすと、まるで暗い部分には何もないような気がするだろ?そういうのが怖いよ。


駅に向かう途中にたくさんある高架の下、あるいは仕事から帰る途中の自販機の横などで、おそらく家がない人とか、うまく家にいられない人が、寝そべっていたり、タブレットでゲームをしていたり、何かを拾っていたりするのを目にすることが多々ある。老若男女いる。わたしが以前まで住んでいた郊外ではほとんど見なかった光景だ。彼らはたいてい暗いところで静かにしているので、気づいた瞬間はついギョッとしてしまうのだけど、都市の救いと絶望を同時に見るような思いがして、怒られそうな言い方だけど、わたしはちょっとほっとする。

2月と3月の頃、いま住んでいる家が、地震と老朽化の影響で2ヶ月近く断水していた時、わたしは何度も公園に水を汲みに行った。(住む前から断水なんて、聞いたことねえよ!って感じだが)その時に、はたから見たら今のわたしはどんなふうに見えているんだろう、家がない人とか極端にお金がない人みたいに見えたりするんだろうか、と毎度思っていた。平日の昼間に、街ゆく人たちよりも雑な厚着をして公園に現れ、持てるだけのペットボトルに黙って次々水を詰めて1人でのろのろ立ち去るわたしと、ぐっと眉を描いてファンデーションを塗って、適切な時間に電車に乗って向かう職場には自分のデスクがあって空調の整った部屋で仕事をしているわたしは、時間軸がずれているだけの同一人物だ。ふたりは片方ずつ都市に現れる。

断水だけど無理矢理泊まりがけで作業をしていた(床や壁などの内装を自分たちでやったんです…)時、朝起きたらまず顔を拭いて無理矢理化粧をして、街へ向かい、パン屋のイートインでモーニングを食べてようやくトイレを借りたりしていた。そういうことを楽しんではいたけど、あんな非常事態みたいな生活(せいぜい体験版だけど)と、今のすっかり「普通」の都会暮らしとのギャップを、私自身が意外に思いながら納得している。社会や都市の要求にきちんと答えている自分と、ちょっと違う論理で動いている自分がどっちもいて(あいだにはグラデーションがあって)わたしたちはどちらの時にも都市の生活人だ。

自分の生活は家という単位で成り立っているのではない。あの厳しめの生活(体験版)が教えてくれたのは、生活は街と共にあるということだった。頭ではわかっていたことを身をもって知った心地がした。ちょっと考えてみれば、この小さい部屋のなかだけで全てが完結しているはずなんか当然ない。電気も水もガスも、遠くからここまで運ばれてくる。うちは水道関係がやばいので、上の階の人が洗濯機を使えば、わたしたちの家のベランダの排水のところに泡が流れてきたりするんだけど、それくらいの、なんか雑雑としていてちょっと汚くて、みんなで生きているのだという感覚が、都市ってことなのであれば、これは愛せる。弁当屋とか、銭湯とか、食料品を売っている店、コインランドリーとそこのフリーWi-Fi、いくつかある最寄駅、そういうものを用途に応じて使いこなしていくのが、おそらく自分がこれからしばらく営んでいく都市生活のあり方なんだろう。郊外でだってそうだったはずだけど、あの車規模の街とは全然ちがって、ぜんぶ自転車と徒歩圏内にあって体の大きさに近いので、感覚としてぜんぜん違う。

南国で、たまに電気が止まったり、時々手桶で水を汲んで水を浴びるタイプの風呂やトイレを使う生活を半年だけやって、慣れてきた頃に、ああ、生きていくのに必要なものってそんなにたくさんなくて、必要なものを自分の手でかき集めて、みんな各自で工夫して手動で生活しているんだな〜、と思ってちょっと嬉しかったことを思い出している。ガスや飲み水をタンクで買ってきて使ったりしている町だった。あらゆることがかなり違うけど、ここでも本当はそう。あんまり上手くいかないことのほうが多くて、工夫の余地ばっかりで、手や足、体を使って、見えないようで見えるものたちと隣同士で生きている。






クナイプのハンドクリームへの感謝

 
今日、疲れた帰り道で、手があまりにもカサカサしていて破けてしまいそうだったので、マツキヨでハンドクリームを買った。かなり疲れている時の、「胸が張り裂けそうな」という表現がしっくりくるような、コップのふちギリギリまで水が入っているような、あと一つ何か条件が揃ったら途端に泣き出してしまいそうな限界状態というのがあるが、最近は慣れないハードなことが多くて2日に一度はそうなっている気がする。ともかくこの手のカサカサを癒したかった。

店頭には、ハンドクリームだけで4段くらいのコーナーができていた。yusukinの香りつきのが3種類、三色並んでいるのが可愛かったり、ハンドモデルも使っています!と書かれた業務用というのがあったり、フエキのりのパッケージのふざけたようなものもあった。一番下の段には見慣れたニベアもある。選択肢が多くて迷った。わたしは疲れると判断力をごっそり失うが、この時もそうで、どうやって決めたものか悩んだ。一度、業務用のものを手に取ったが、レジへ進もうと左へ視線をやると、輸入っぽい感じのハンドクリームやボディクリームが並んだゾーンが目に入った。クナイプのハンドクリームがこれも3種類出ていて、ひとつは寝る前用、もうひとつは何だったか忘れたけど、一番左にあったもののパッケージがちょっと面白くて目を引いた。

全体は鮮やかなオレンジ色で、回すタイプのフタは安っぽいプラスチックのシルバー。チューブの上部には、口角の上がった表情のぬいぐるみのクマが二匹(大きいのと、少し小さいクマ)が仲良く写った写真がプリントされていた。「穏やか」で画像検索したら出てきそうな、ザ・穏やか、といった印象である。そして「Show me your smile」と書かれた白い字の下に、同じような白いゴシック体で「あしたも笑って」と書かれていた。
明日が「あした」と表記されているし、全体が輸入系っぽい(ドイツの製品らしい)デザインであるため、どことなく自動翻訳のような変な日本語のように感じて可笑しかった。それに加えてクマの親子が晴れた陽気の花畑で仲良さそうにしている写真があまりにも優しく感じて、これを買うことにした。

マツキヨを後にして、駅のホームで電車を待つあいだにさっそく使ってみると、ネロリの香りと書かれている通り、甘い匂いがした。手を鼻に近づけて、マスクごしにもう一度息を吸い込む。少し生っぽいくらい甘くて強い香りだ。なんとなくインドネシアを思い出した。あの国では甘い匂いをたくさん嗅いだ。花もタバコも果物もお菓子も、空港の空気さえも、大抵のものが甘ったるかった。旅先で嗅いだ匂いのことは覚えやすいし思い出しやすい。ああ、暑い気候も、薄着の暮らしもまだ遠い。懐かしい気分だ。こことは違う場所や季節のことに思いが巡った。
 
嬉しくなってインドネシアの友達に「この匂いはインドネシアを思い出します!」とインドネシア語で送ろうと思って写メを撮ったけど、Bau=においという単語が思い出せなくて面倒になってやめて、来た電車に乗ってぼうっとしているうちに眠ってしまった。
 
自分があまりにもヘトヘトなのがよくわかった。ハンドクリームに期待していたのは単純に手の乾燥を癒すことだけだったのに、想像以上に癒されてしまった。これまで、パッケージに「きっとうまくいく」とか「だいじょうぶだよ」などと書いてある商品を見るたびに、誰が誰に言ってんだか…と小馬鹿にしていたけど、おそらく今日の自分はこの言葉にもまんまと癒されてしまった。「あしたも笑って」なんて、言われなくても笑いますが、ずっとこのメッセージを発し続けているパッケージ、パワフルすぎる…。
 
自分は明らかに、ここ数年でかなり涙もろくなったし、かわいいぬいぐるみや良い香りや、犬の動画に癒される度合いが増したような気がする。簡単に癒されるので、つまり生きやすくなったということなんだけど、漠然と、代わりに何かを失っているような気がする。そのうち、子犬の写真になんかそれっぽい前向きな言葉が添えられたカレンダーとか買ってしまうようになるんだろうか…。捻くれたところが減って、心が広くなったといえば聞こえがいいかもしれない。とにかく今日はクナイプに感謝、あしたも笑います。

 
 
 
 
 

他人の荷物

 

1人で電車に乗っていたら、向かいの席に30代と見られる男性2人組が座った。少し小柄なヒゲの人と、少したくましいメガネの人。それぞれトレーナーとネルシャツで、カジュアルな服装だ。

 
前を向いているとつい視界に入ってしまうのでなんとなく見ていたら、ヒゲの人がおもむろにリュックから小さな袋を出した。ユニクロのウルトラライトダウンかな?と思っていたら、生地を少し引っ張り出して触り心地を2人で確認するように指で擦っただけで、すぐリュックにしまった。電車の走行音が大きくて、話の内容は全然聞き取れない。今のは何だったんだろうと思って積極的に見ていたら、ヒゲの人が今度は30センチくらいの、半透明の青いプラスチックの筒を取り出した。たぶん直径4センチくらい。何に使う物なのか全くわからない…!片方には緑色のキャップがついていて、全体がネジのように規則的にデコボコしている。本当に何に使う道具なのか、あるいは部品なのか全くわからず、かなり惹かれてしまった。この人たちは何者なんだ。
 
コントみたいだなあと面白がって見ているわたしをよそに、ヒゲの人はまたすぐリュックに謎の筒をしまって、それからは何も取り出さずに話を続けていた。
結局どんな二人組なのか全然わからなかったが、仲は良さそうだった。(そのあとまた謎の筒を取り出して、貼ってあったシールを剥がしてヒゲがメガネにそれを差し出し、「いらないっす」と言っているのが聞こえた。ヒゲの人はちょっとお茶目だ。ふいにメガネのほうが「お疲れ様した」といってヒゲが「ありがとうございました」と返すのに会釈しながら降りていった。2人はなんらかの仕事を共にしていたっぽい。)
 
 
人のリュックに何が入っているのかってそういえば知るよしもない。友人や家族の鞄にすら、何が入っているのかわたしは知らない。だからだろうか、電車で見るような全然知らない人の鞄の中から何かが出てくると、ちょっと惹かれて見てしまう。ほとんどの人がスマホを操作しているだけの電車内だから、そうではないものを出したりまたしまったりする人がいると、急にその人の個性のようなものが際立つ。
 
今年の1月の初旬には、外国人らしき風貌のおじいさんが、わたしが使っていたのと同じ、ダイソーの赤い水玉のペンケースを使っているのを見た。ガバッと大きく開く形がすごく使いやすくて、わたしもなかなか使い込んだのだけど、そのおじいさんは私よりさらに使い込んでいて、妙に嬉しかった。地図か何かにピンクのマーカーを引いていて、隣には歩きやすそうな靴をはいたおばあさんがいた。
 
また、いつだったか、新聞を読んでいたおじさんが、ふいに自分の鞄からハサミを取り出して、記事の一部を切り抜き、ハサミをしまうと同時に取り出した小さながま口のポーチに切り抜いた記事をしまうのを見たことがあった。がま口の小さなポーチをおじさんが丁寧に触っているのが可愛く見えた。
 
電車で隣に座っていた高校生らしき制服を着た髪の短い女の子が、鞄から手のひらほどの小さな手帳を取り出してシャーペンで何か書きつけていたこともあった。気になって見ていたら、書いているのは全て漢字で、中国語かな?と思ってさらにコッソリ注目していると、右側のページに少し書き込んではすぐページをめくり、また新しい右側のページに書き込む、というのを繰り返していた。5ページくらい書き込んだら済んだらしく、すぐに手帳を閉じて鞄にしまった。
目視できた漢字の意味をなんとなく想像するしかできなかったけど、詩か、あるいは何かの見出しのようだった。ぽく見えただけかもしれないけど、あんな感じに、ポケットサイズの小さな手帳に、漢字の詩を書く若い女の子なんて初めて見たので、新鮮だった。
 
 
日々、電車に乗っている時間が長いと色々なことがある。全然知らない他人の個性的なプライベートが垣間見えて、人間ってほんとうにたくさんいて、それぞれにそれぞれの一生とかがあるんだなあと思うとなかなか感慨深い。こんなに色んな人がいるんだったら、自分が何をやっても良いような気がしてくる。
そういえば高校生の時に帰りの電車で見た、薔薇の花一本だけを手に持って、つり革の取っ手じゃなくパイプ部分を掴んで窓の外を見ていた背の高い黒人のお兄さんは、とても楽しそうにしていたあの人は、今頃どうしているんだろう。あんな映画みたいな様子はなかなか忘れられない。たぶん一生覚えている。上に書いた人たちのことも、書いたからにはきっとしばらく覚えているだろう。
 
わたしももしかしたら何か思われているのかもしれないと思いながら、今日は本を持ってくるのを忘れたのでこれを書いていました。
今日は、夏日だとか言われるほど異常に暖かな陽気の2月21日。油断してジャケット類を羽織らずにセーターで家を出てしまった。少しずつ暮れていく夕陽を車窓から眺めて、帰りはきっと寒い思いをするだろうなあとソワソワ後悔しながら電車に揺られて、横須賀に向かっています。
 
 
 
 
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踊れるかも


先日、自分の書いた作品のなかの言葉について、「〈醤油〉と〈精霊流し(しょうろうながし)〉の「しょう」とか、そういうふうに似た音が、ダジャレとか韻を踏むところまでは行かないけれど、一定の分量のテキストのなかに混在して繰り返されるのを声にしていくと、近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていくような感じがあって、そういうのが楽しいです」というようなことを自ら語っていたことがあって、自分で言っておいて自分で「あ、これだわ」と二重に思った。

言葉の音が意味を超えて繰り返し鳴る感覚は複数の生き物が走っているようだなというところの言語化としての「これだわ」と、自分がこういう身体感覚に基づく比喩を用いた言葉遣いをしがちであることへの「これだわ」だ。


自分の言葉の使い方は、けっこう極端なほどに身体寄りだと思う。もう少し丁寧に言うなら、体と近いところにある声を基準にしている。一人称視点という意味ではなくて、声が音として体と関係していて、高めの密度をもって、独立してそこに在る、というような感覚だ。あまりにもうまく言えなさすぎるのだけど、とりあえずこのまま進めてみたい。



最近は、ZOOMなどを使って、音声と自分の姿の映像を通して人とやりとりをする機会が増えて、自分が人と話す時に体や表情をどう使っているのかを以前よりも強く自覚させられるようになった。それによって、どうやらこれまで自分で思っていた以上に、わたしは手や表情に任せて表現している部分が多い、体も顔もよく使っている、とわかってきた。

人と話す時、目や顔ベースの人と、声ベースの人がいるとわたしは考えている。極端に目や顔ベースの人は、実際に会って話していても、よく目が合うし、表情が豊かだ。普通にいわゆるコミュニケーション能力が高い、という印象だ。しかし、電話に変わるとどうもコミュニケーションの感触が物足りなくなったりすることがある。一方、すごく声ベースの人は、実際に会って話していても、なんかあんまり目があわなかったりするのだが、それがあまり気にならない。そして場が電話に変わった時のギャップが少なく、むしろ電話のほうがうまく色々と話せたりする。声ベースの人は、電話で話す時に目や顔が使えないことがマイナスにならないので、電話の時には声ベースの人のほうが、いつも通りちゃんと話せる感じがある。これは、極端な例のようだけど、ぶっちゃけていうと両者ともにわたしの身近に実在している。(電話が得意な人とそうでもない人というだけで、人としてどちらがどうとかいうことは全然ない。)

そういう考えが以前から自分のなかにあったし、わたしとしては声を使うのが自分の仕事だし自分も声ベースのコミュニケーションの人だとなんとなく思い込んでいた。だが、ここ半年くらいで突然使う頻度が増えたビデオ通話の、画面の中の小さい自分と向き合い続けながら会話をしていくという体験が見せてくれた自分の話す姿は、想像していた以上に、表情や身振りが豊かだった。まあかなり気を遣って意図してやっているのだけど、話す時や声を出す時に体も巻き込んでいくことが、すごくおもしろいような気がしてきた。


先日、自分が過去に発表したパフォーマンス作品を、改めて映像に撮った。その後になって撮り終えたデータを観るのがけっこう面白かった。今まで自分がパフォーマンスしている姿を、ひとつの遠めの定点カメラで見直すことはあったけれど、カメラが3つも、それも顔に注目して手ブレを伴って追いかけ続けているのを見たのは初めてだった。自分の表情がすごく豊かに変化していくのが客観的に見えて、おもしろかった。基本的には自分でも知っている顔なんだけど、たまにすごいブサイクな瞬間とか、稀にめっちゃカッコいい瞬間もあって、興味深さ半分、可笑しさ半分だった。それは、表情で見せてやろうという気概や狙いは特になく、声を出すことを基準にして顔が動いていった結果だった。つまり、表情で表現していたのではなく、声の表現のために表情を経由していて、それがたまたま面白かった。声の表現の幅のぶんだけ、表情にも幅があった。

そして、表情よりも少し引いた視点で、ダンス未満のような、踊ってしまうような身体が自分にあるのも最近改めてわかった。

ここ1ヶ月くらい、ダンサーの友人の誘いにのって、カメラを携えて即興的に踊ったり歌ったりしながら移動したりして遊んでいくのを撮ることを繰り返している。1回目の時には、わたしは「え〜!わたし踊りませんよ」とか笑いながら言って、まあビビっていたのだけど、ぎゅんぎゅん踊っていく友人に触発されて次第に、声を出すことにも踊りの気分がある!とか言って、全然かっこよくないながら、体を動かすようになってきた。
日をおいて、2回目、3回目、と同じルールで繰り返していくごとに、わたしも走ったり、腕を持ち上げてみたり、足を高くあげて葉っぱを蹴ってみたり、飛び跳ねるように歩いたり、摺り足になったり突然立ち止まったり腰を低く落としたり、そういうことをやるようになった。映像に写す「踊り」として出力しようとは思いきれないが、「歌」を発するのに付随する、声のために身体を経由する、という攻め方でなら動けた。

たぶんこれは「ノリノリ」というやつだ。「よっとお〜」と言う時に、体が静止した状態でそう言ってももちろん良いのだけど、例えば、なんとなく持ち上げた右腕を少し曲げて、肘を下げるように腰のほうへ15cmくらい素早く引いたところで腹筋を使ってグッと止めて、その止まるエネルギーを開放するように頭上へ、手を放るみたいに伸ばしていきながら、「よっ(停止)、とお〜(解放)」と言ってみると、なんかめっちゃ楽しい。シックリくる。ノリノリである
おそらく、平井堅とか声楽家の人とかが音程を正確にとるために歌いながら手をメーターの針みたいに上下に動かすアレとかと、近いものだと思うのだけど、言葉を音にした時の非言語的なシックリとか、音が身体と交わる部分が、まだ「ノリノリ」とか「こうするとなんか音程とりやすくなる」みたいな、フワッとした言葉でしか説明できないことにわたしはワクワクします!(自分が知らないだけでこれの科学的な研究とか普通にありそう)


ノリノリ続きで最後にマイクの話、というよりマイクの前にいる時の話がしたい。この数ヶ月、人前でパフォーマンスをする機会が減り、自宅でマイクを前に声を出している時間が増えた。それは歌の録音であったり、朗読の録音であったり、それこそ先述の発見を促したZOOM会議であったりしたけれど、その時のわたしの身体は、けっこう楽しく踊っていた。この音をのばしていく時には目がカーテンのあのあたりを見ていると良い感じだ、とか、朗読をしながらちょっと腕が踊ったりするのが心地良かったりとか。短編小説をノリノリで朗読していたら「面白いねえ。」という象のセリフがあり、その時に自分が目を細めていて、続きを読んだらその象が目を細くしていたという描写があり、シンクロしていた!ということもあった。体が丸ごと文章に浸かっていたのが分かったような、心地よい喜びがあった。
この文章の初めに書いたことーーー複数の言葉のあいだにある共通の音(ex.「しょう」)が何度か鳴るたびに、それらの音が近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていく感じがする、というすごく身体的な言葉の選び方、聞き方、発し方ーーーと、すごく親和性がある。なんかちょっと頭がよくなったような気がしてきた〜ァ

たぶん、わたしはそういうノリノリ、つまり体が全部つながって、一斉に何かに反応している状態のことが楽しくて、好きで、これを信頼している。人と会って話したり、同じ場所に集まって一緒に何かをする時にはそういうことが普通だった。でかい音で音楽をかけて踊るようなことが、定義を少し広くとってみれば日常に溢れている。




記録メディアは、せっかくノリノリになっている身体であっても容赦無く切り刻むし、ZOOMの画面ミュート機能はコミュニケーションとしてはしっくりこない。自分の場合は電話は楽しいし、録音という方法ならば比較的しっくりくるのだけど、それでも、何らかのメディアを間にはさんだ時の、片腕が肩からゴッソリ切り落とされているような、痛いくらいの激しい「片手落ち」を感じる。マイクと出会って、録音されて、きれいに整えられた自分の声は、もうわたしの声ではなくなる。

でもそのゴッソリ片手落ちの声が、楽しくなってきた。録音したり、他の人の声と重ねたりを繰り返して自分の声を客観的に把握していくと、だんだん「こういう器官」というような割り切った感覚になってくるし、自分の声のこのざらっとした感じがいい感じに聴こえるように録音したいとか、そういう考えも浮かぶようになった。
身体表現は、自分の体が自分の体になりすぎて突き抜けて離れてしまうまでいって初めて、誰かの何かになれるのではないかと思う。手を貸すみたいに声を、貸しだす、というより、もはや晒すとか捧げるみたいなギョッとするような言葉がしっくりくる。聴く人の耳を喉に招待する、とも言ってた(わたしが)。(気持ち悪いですね)
それを今の自分が肯定できるのは、逆説的なようだが、踊りながら歌ったり喋ったり呼んだり読んだりしてしまうこの肉体だけは、誰にも譲らずに済んでいる!俺のだ!という確信があるからだろう。基地があるから出発できる少し無謀な旅というのがあります。こっち側の端っこを、手綱をしっかり握れているというような。

そういう感性が育ってきたので、以前はあまりそう思えなかったけれど最近は、誰が書いたどんな歌でも歌えるような、どんな文章でも読めるような、そういう気がしている。
まあ、気がするだけで実際は決してそんなことはなく、わたしには到底歌うことができないような歌、読めないような文章やセリフがあるのだけど、それでも少しずつ、わたしの声がわたしの声ではなくなっていくようなことを肯定できる回路が見つかった気がする。いよいよシャーマンか、トランスか………







弾き語りもやります

今日は、言い訳をします!オオウ!

自分で弾き語りしたものをインターネットにUPすることを、ひっそりと自分に解禁した!
これについての言い訳をします。(ギャグに思えてくる「だ、である」調で)


アカペラで録った歌とかただの鼻歌なんかは、これまでにも平気でどんどんUPしたりCDに焼いて売ったりしてきたくせに、弾き語りだけはどうしても勇気が出ずにいた。端的に自分の弾くギターがへぼいというのが大きい理由だ。それに、ずっと「自分が弾き語りを前面に押して活動していくのはなんか違う気がする」と思い続けてきたので(それは今もそうですが)、人前で自分の歌を弾き語りで演奏したのは、今年の初めにやったパフォーマンスが初めてだった。
(これのことです。)




それで、実際やってみて、実はかなり勇気を振り絞ってやっていたあの演奏について、「ギターヘタクソ〜」とか、なんかわかんないけどそのような批判を受けることは特になく(少なくとも耳には入らず)、ちゃんと作品の感想をもらうことができた。あっけないような気持ちになった。
この何日かめの上演の時に、ギタリストの方が聴いてくれたので、終演後に「いやあギターが下手で恥ずかしいです」と言い訳気味に話したところ「いやいいんじゃないですか」とバッサリ、「その話はしてない」的な返しだった。他にも尊敬している音楽家の方からSNS上で映像みたけどいいじゃんという旨のコメントをいただいた時にはビビり倒したけど、ギターのこととか多分あんまり気にしてなさそうだった。それらを自分に都合よく受け取って、もしかしてこれについては開き直った方がいいんかもしらんと思えてきた。

あと、これはかなり重要なんですが、弾き語りって、もうその時点でちょっと陽気で、それがいい。
先の自分のパフォーマンスについて、爽やかめな印象を受けたという感想をけっこういただいた。言葉で描いている内容自体はあまり明るい話じゃないのに、ギターを弾きながら爽やかな声で歌ったことが、なんとなくそういう雰囲気を作っていたようだ。それに自分で家で歌っていても、アカペラより伴奏があると、リズムに乗るのも簡単だし、なんかニコニコやれる感じがある。ずっとアカペラで、演劇に近いような形でパフォーマンスをやってきた自分にとっては(ヴォイスの即興とかもですが)、どうしてもこの「なんかニコニコやれる感じ」がすごく偉大というか、「音楽」というフォーマットの絶大な効果という感じがする。

インドネシアにいた時、ギターを弾きながら歌うことは、アカペラで歌うよりも簡単だった。「言葉が体から出ている」というよりも「メロディーがギターと合わさって鳴っている」というほうが、意味が薄れて、深刻にならない。それは良くも悪くもといった感じだけど、ともかくそういう特性がある。そして、その抽象度と陽気さに、わたし自身が救われてきた。
(この時の話です。http://aoi-tagami.hatenablog.com/entry/2018/10/22/005444


まああと、何より、ギターを弾きながら歌うのって、楽しい〜。それでいいのでは?
伴奏を弾いてくれる人と自分がいる、という状態もすごく楽しいのだけど、それとはまた別のものだなというのがようやくわかってきた。自分で自分の伴奏を弾いているというよりは、大げさに言えば、「歌う」体の部位が増えたみたいな感じがある。指で弾いているとわずかな力の加減で音量の操作が、う〜〜ん!色々書けば書くほど、何言ってんだという感じがする!楽しい!ただそれだけです!
 

こんなことをここに書いてしまうのはあまりにもプロ意識に欠ける、などと、思わなくもないですが、宣言みたいなものです、ビビっている状態をグズグズ続けていくよりは100倍いいはず。長年抱いてきた弾き語りライブをやることへの憧れを、最近ついに抑えきれなくなってしまった。「下手」とか「上手い」とかにも疲れてしまった!
 
やりたいからやります、ということで堂々とやっていこうと思います。秋に色々発表の予定があるのでその布石ということで、お手柔らかに何卒…





五月末の雑記


(これは五月末に書いたけど投稿し忘れていたものです、嬉しくなる前)


あっという間に2ヶ月近くたってしまった。

わたしは相変わらず家にいる。でも2ヶ月前のように「本気で家にいる」というほどの強い意志は、もう保てなくなった。今は惰性で家にいるような気がする。

ジョギングだけは順調にその後も続いていて、目標にしていた2軒めのガソリンスタンドより少し先まで、折り返し地点がのびた。地図をみて確認したところ、この往復は約4km。あと1キロ伸びたらキリがいいな〜と思うので、もうちょっと距離を伸ばす方向で続けたい。実際、こんなに出かけていない割には体力の衰えとか、脚が弱った印象もない。なんならちょっと体が軽いし、何より、走って帰ってくると少し気持ちが元気になるのが、本当に救いになっている。

今日も走った。ただ、けっこう心が限界みたいな状態で家を出たせいだろうか。ジョギングコースを6割ほど走ったところで、視界に入る、自分と同じように走ったり歩いたりしている知らない人たちが、ふと、全員すごく憎く思えてきてしまった。これはマズイと思って脇道へそれた。こういう気持ちに取り憑かれていくと通り魔とかやるんだろうか、と想像して恐ろしくなる。たいした理由もなく人を殺す人の気持ちなんて分からない、とは、正直わたしは思えない。たまたま今、ちょっと冷静でそこそこ健康なのでやらないだけというような気がする。


脇道へそれると、全然知らない人の住む、全く馴染みのない住宅街が広がっていた。道の右も左も家ばかりだ。なるべくさっきの道へ戻らないようにしながら自宅へ帰ろうと思って、曲がる道を慎重に選びながら進んだ。いつのまにか走るのをやめて歩いていた。

知らない人の家の前に、初めて見る、名前を知らない草があった。丸くて毛が生えた丸い実が、花のように先端にひとつずつついた草が群生していた。ちょっと気持ち悪いけどおもしろい姿だった。
少し行くと、お爺さんが家の中で電話をしている声が聞こえた。犬を散歩させている人もいた。移転した後の、からっぽになった婦人科があった。「ファミリープラン」の自販機と、「ラーメン缶あります」と書かれているのにラーメン缶は売っておらずコーヒーばかりの自販機が並んで立っていた。
ここで大きな声を出したらみんなが窓から顔を出しそうなくらい、360度、ぐるりと家に囲まれていて落ち着かない。

そのままのろのろ歩いて帰った。軽快に走っていく男性に追い抜かされた。後ろから近づいてくる足音が男性のものである、というのが、聞いただけで分かった。その人が通り過ぎる時、もう少し避けてくれれば良いのにすごく近くを通られて、そんなことに若干の嫌悪感を抱いた。知らない男の人が不要に自分の近くを通り過ぎることに嫌悪感や不信感を抱くのは、もしかして多くの女性がそうかもしれないけど、「多くの女性」にそれについて質問したことがないのでわからない。わたしだけが過剰に警戒しているだけかもしれない。


昨日は、アメリカで起きている状況に関して、ドキュメンタリー映画を観たりインターネットの記事を巡ったりしていたのだけど、ふとツイッターのトレンドに「Kalimantan」と出ていたので(わたしはなかばふざけてトレンド地域設定をインドネシアにしている。カリマンタンは、何事もなければ今年の秋に行く予定だった島だ)調べたところ、ISISのシンパが長い刀で警官を殺し自身も死んだという事件が南カリマンタンで起きたという。
それは、アルファベットの文字と、おまけみたいな写真だけの情報だったが、自分にとってはけっこう鋭利だった。海流が渦巻く大洋のような、誰もが知るアメリカの状況に関する印象とは全く違って、知らない場所の凄惨なひとつの事件は、その長い刀という凶器のせいだろうか、冷たく鋭くわたしの想像を掻き立て、深い傷を負って動かなくなった肉体がどんどん硬くなっていくような場面を想像をさせた。そんなわけはないんだけど、まるで自分しかこの事件を知らないような気がして、ぞっとした。


 
この2ヶ月のあいだ、自分にも色々なことがあったといえばあった。
ベッドを買って、睡眠の環境がよくなった。
花の手入れをマメにやるようになったおかげで、ベランダが盛り上がってきた。
バジルとパクチーと大葉の種を植えたら芽が出た。
桜は完全に葉っぱに変わって、紫陽花が色づき始めた。
友人が誘ってくれて朗読を録った。
結局またツイッターは見始めてしまって、日々じわじわダメージを食らっているけど、ツイッターごしに連絡をいただいて配信ライブに出演したりもしたし、ちょっとした嬉しいこともあるにはあった。
風の谷のナウシカの漫画版を全部読み終わった。
全部嫌になって自転車に乗って、知らないほう知らないほうへ行くんだけど途中で怖くなってしまって、結局田んぼの脇に座ってカエルの鳴き声を録音して帰った日もあった。

フィールドレコーディングが、おじさんに話しかけられたりしてビックリして終わることが時々ある。むしろ、あの感じが好きなのであまりイヤホンでモニターしないで録ることが多い。
今回もそうで、少し遠くに停めたわたしの自転車が、近くの駐車場へ入る車の邪魔をしてしまっていたらしく「どかしますね」と穏やかに声をかけられてビックリして終わった。

https://soundcloud.com/aoi-tagami/200524a


嬉しいこと!


先日、3ヶ月ぶりくらいにライブをした。
とても規模の小さい演奏会で、荒いところもあったしMCを完全に失敗してしまった(ごめんなさい…)けど、本当にやらせてもらえてよかった。こんなに軽い足取りで終電に乗るのなんていつぶりだろうか、と思った。そうだ、3ヶ月ぶりだ。帰りの電車で1人になってから、わたしはああいう場での振る舞いと、自宅(実家)にいる時の振る舞いが、表情が、体の軽さが全然違うな、こっちのほうが好きだな…と自分で思った。本当にありがとうございました。


ここ数ヶ月のあらゆる中止に、思っていた以上に自分がダメージを食らっていたのが、この日よくわかった。
自分の企画やワンマンライブ(!)や演奏予定が中止(延期)になったことだけではなく、自分が観客として楽しみにしていた舞台やライブがなくなったり、仲間に会って一緒に練習することさえできない時間が続いていて、とにかく「できない」という圧が、じわじわとかかり続けていたらしい。それでも家でできることは沢山あって、それなりにやったし、まだまだこれからも家でできることはあるし、やるんだけど、それでも結局つらかったみたいだ。まあそうだよね…。



その日に一緒に演奏した友人とも話したけど、ライブで演奏している時の一番いい時間は沈黙だと思った。
録音では、演奏していない時間は編集してしまって完全な無音を生成したりするけど、ライブの時の沈黙は、その場にいる全員が作る時間だ。演奏している人だけではなくて、聞いている人もそこに加担している。感想がにじむ終演後の拍手とは性質の違う、もっと愚直な、生きた時間だ。好きだ。
中止や延期や、練習できない、という日々をやっとくぐり抜けて、できる、できている!と一番に実感できた時間が、音を出している時間ではなくて沈黙だった、というのはちょっと自分でも意外だったけど嬉しい。

実は今回のライブも、もし当日まで予約がゼロだったら中止にします、会場の方から言われていて、しかも直前まで予約が入らなかったので、当日までハラハラしながら準備していた。当初から内容を変更したのもあって告知が遅かったし、まだまだ都内の状況は良くないので、ちょっと人を誘いにくい、仕方ないのかもしれない、でも、もしまた中止になってしまったら、めちゃくちゃにショックを受けてしまいそうで、立ち直れないとまではいかないまでも、だんだん「中止」に慣れてしまうんじゃないか、それでは何かが麻痺していきそうだ、という恐怖があった。でも規模の小さいところから少しずつでも再開していかなければ取り戻せないので、もうしばらくは、こういうハラハラを感じながらやっていくのだろう。



ついでに、ライブの前の数日、カラオケへ行き楽器を持たずに歌う練習をしたのだけど、それがものすごくよかったことも書いておきたい。久しぶり一度めで、気持ちが高ぶり過ぎて4時間くらいカラオケで歌い続けてしまった。それくらいずっと立って動きながら歌っていると、わたしは一番最初に脚がへばってしまうのだが、この日は全然へばらなかった。感動した。ここ3ヶ月くらい、イマイチ体の変化を感じないまま季節の確認か動物の習性みたいにジョギングを続けていたのとか、ここ2年くらいなんとなく続けていた歯を磨く時に腰を落とす筋トレなどが(?)ついに報われた気がした。これはさすがに成果だ。嬉しい。

でかいステージを端から端まで走りながら歌う、みたいなライブを自分がやることは当分なさそうだけど、高校生の頃に憧れていた歌手はそういう人だった。彼女は陸上部出身とのことだったので運動を全然していなかった当時のわたしは「かなわねえ」と思っていた。今だって全然、何もかもかなわないけど、その後、事故で足首を痛めたり、頑張りすぎて膝を痛めたり腰痛に悩んだりして、足腰が弱いのが悔しい悔しいと思い続ける大学生時代を過ごしたので、やっと今「まあまあ丈夫」ってことでもいいんじゃないのと思えたことがすごく嬉しい。嬉しい、で終わる文章ばっかりになったけど嬉しいんだから嬉しい。