最後の静かな片隅


件の感染症の影響をもれなく受けて、自分もここ最近は仕事や外での用事がほとんど全部なくなり、とにかく家にいる。
幸い家にいるという選択肢をとれる人間として、本気で家にいる。


出かけなくなって約2週間半。親しい人たちに会えない、という寂しさは今のところそんなになく、むしろ1人で電車に乗る時間のことが恋しくなった。自分はいま郊外に住んでいるので、都内へ出かけるには乗車時間がいつも長く、それを煩わしく思ってきた。でも失ってみるとあの時間は、それが満員電車であろうとなかろうと、1人でぼんやり過ごす稀有な時間として、あるいはこの後に会う人のことやこの後やる仕事のことを考えたりして心の準備をする時間として、それなりの役割を担ってくれていたのだとわかってきた。満員電車は最悪だけど、それでも。

今はもう全部が全部、かえってゼロ距離になってしまった。外国にいる友人ともリアルタイムでチャットができてしまうし、仕事の通話もすぐつながる。仲間とのZOOMミーティングやオンラインでのコミュニケーションも、最初は「できるじゃん!」という感じでけっこう楽しかったけれど、だんだんしんどくなってきた。この先に、これが当然の日常になって自分が順応していく段階があるんだろうなー、とは思いつつ、今はまだ慣れず、疲れが勝っている。



こういう状況なので、今の自分にとってはジョギングだけが家の外へ出る口実だ。ここ数週間、雨の日以外は毎日走っていて、その時間が心と体を支えてくれている。同じような人が多分そこそこいるのだろう。どの時間帯に外へ出ても、自分と同様にジョギングやウォーキングをしている人とけっこうすれ違うし、けっこう追い抜く。たまに追い抜かれる。

わたしは、いつも同じコースを走りつつ、毎日数メートルずつ距離を伸ばしている。今日は3m先のあの街灯までいくぞ、明日はあの木までいくぞ、と、折り返す地点を少しずつ遠ざけていくと着実に距離が伸びていくので楽しい。恥ずかしながら、今までにもこういうのを3日に一度くらいのペースで数週間ほど頑張ってはスッカリやめて、という微妙な三日坊主(三週坊主?)を繰り返してきたのだけど、今回は相当着実にやれている。もう少しで2軒目のガソリンスタンドに到達するのだけど、急いで達成すると良くない気がするので欲を抑えてジリジリやっている。

この長い道沿いには桜が咲いている。3月末にはもう満開だったが、ここ2週間ほどですっかり葉っぱに変わった。昨日の雨で花はかなり落ちて、透き通るような美しい若葉が日に日に増している。紫陽花も生命力をメキメキ取り戻してきた。冬に一度枯れきって、またこの季節に急に元気になる紫陽花にはいつもワクワクする。一番好きな季節が近いのが心底嬉しい。早く半袖のTシャツを着たい。そういうことを考える時間を1日の中に少しもつことで、だいぶ救われている。



一方、家にいる時間、というか、自分は今インターネットがけっこう辛い。自分のタイムラインはもはや、情報源やコミュニケーションの場というよりは、バリエーションに富んだ暴力の現場みたいになってきていて、自分が弱っているとダメージをもろに喰らう。書き込んだ人の意図や具体的な内容とは無関係にとにかくガッと喰らう。こちらが疲れている時には、厳しい批評・批判、しょうもない誹謗中傷、クソリプのみならず、美しい景色やかわいい動物や美味しい食べ物の写真、ちょっとしたジョーク、音楽など、あらゆる楽しいものさえ「それにひきかえおれは」とゲッソリした気分で受け取ってしまう!疲れすぎですね。
そして数日前にようやく、自分が家族メンバーに対して不要にキツく当たってしまっている事実と、最近の己の負の感情と疲弊は全部ツイッターから受け取ったものじゃん、ということに気づいたので、お知らせがある時以外はツイートせずしばらくはガチのログアウトを決めこむことにした。やり方が不器用すぎるが、ちょっと今の自分はこういう方法しかとれない。


そして、実際いい。なんか気づいたらロフトベッドを購入していた。

配送業者の仕事を増やしてしまう、という事実にそわそわするけど、睡眠環境の改善をもって悪夢を見る回数を減らすことのほうが自分にとって切実だと判断した。

複数の人と話してだんだん分かってきたが、自分はわりと睡眠が下手っぽい。寝る前にいきなり憂鬱になって数時間寝付けないまま静かに泣くことや、見る夢が概ね悪夢であること、寝ても寝た心地がせず寝起きのコンディションが最悪なこと、日中頭が覚醒している時間が少なすぎることなどがある。とはいえ、自分の程度はそれによって健康に害を及ぼす、社会生活に支障をきたす、というところまでは至らないので全然かわいいものだ。加えてこれは花粉症の薬のせい説もあるし、今後ばっちり是正される予定である。

ともかくベッドは近々届くので、この機会に自分の生活環境をめっちゃいい感じにする。他に歌などを録音する案件が複数あったり、ちょっとだけ仕事もあるので、なんとか「生活」という状態が成立している。
あとは友人にそそのかされて音楽を編集するソフトの90日無料のものをインストールしたので、それも毎日開いて地道に動かしている。立ち上げるたびに「無料期間はあと87日ですが買いますか?」という英語のメッセージが表示されてカウントダウンされていくのがなんだか可笑しい。超初歩ですがエレキギターをライン入力で録音できるようになりました()



まだ2日しか脱ツイッター生活をしていないけど、インターネットに全部を吸い取られていく感じがただの錯覚であったというのが、やっと体感できるようになってきた。失いかけていたものが戻ってきた。
こうしてダラダラとブログにしか書かないような文体でブログにしか書かないようなことを書くのも大事っぽい。これは自分にとって、体を吸い取らせずにインターネット上に痕跡を残す原始的な最後の手段のような気がする。140字で終わらせたり区切ったりせずに書ききるところまでしつこく言葉を探し、実感がのると思えるリズムで、でも気楽に支離滅裂になりながら、ダーッと書く。お気に入りもリツイートもいいねもない、静かな自治区だ。ここには、声を録音してアップロードするとか、演奏している様子が映像になって Youtubeにあがっている状態よりも、もっと強く自分の何かが刻まれていると思える感触がある。
 
まあ、こんなに長い独り言が必要って冷静にヤバいのだが、でも、きっと誰かが見ていると思って書く文章は、こんな文章でも紙に書く日記よりは少しよそ行きで、ちゃんと希望に向かえる。大げさかもしれないけど、これは自分が健康でいられる文体なのだと思う。インドネシアに半年いてインドネシア語に囲まれていた時も、たまに日本語でブログを書くことで、どろどろ落ち込むのではなく、1人で前向きに落ち着く時間を確保していた。

それと、ここにだけは、かつて自分が信頼していたインターネットの静かな片隅といった感じが、かろうじて残っている気がする。
Youtubeに張り付いて音楽を聴き漁ったりアニメやニコニコ動画を観たり、好きな漫画の絵を真似して描いたりグダグダと黒歴史でしかないブログを毎日のように更新していた高校生や中学生や小学生のころの自分が好いていた、あのひっそりとした居心地だ。
 
創作以前の、ただオタクかネクラっぽいだけの静かな興奮が、秘密っぽさが、かつて自分が1人で好いて遊びに来ていたインターネット上にはあったと思う。でもツイッターにはもうない。たぶん他の場所にもほとんど残っていない。というか、わたしが今からそういう場所を探して出向くことはもうなさそうだ。さすがに大人になって、顔も名前も出して表現とか考えていて、あの時とまるっきり同じものが必要なわけではない。

でも、とにかく体は続いていて、自分は同じ顔で、化粧だけ変えて生きている。
たぶん今後もここにはお世話になります。ベッド楽しみだなー。
 
 
 
追記:
はてなブログ、記事の下部に「いいな」機能があるんですね、笑っちゃった。
この機能はオフにできたらしておきます。
 
 

専門性と、純金のプライド


先週、ここしばらく制作を共にしているダンサーの小山さんと一緒に、ジャワ舞踊家の佐久間新さんのWSに参加した。今制作している作品や今後の制作(夏にジャワへ滞在制作しに行く予定)のための取材ということで、午後からのWSの前に、じっくりお話を聞かせていただくことができた。とてもいい話をたくさん聞けたのだけど、その後のWSも含む1日の中で、個人的に特に感動というか、前向きに反省したことがあったので書きたい。

佐久間さんへのインタビューは、わたしと小山さんがそれぞれジャワの踊りや文化、身体について気になっていることを雑多に聞くという、形のない形で進んだ。10時に開店したばかりのサイゼリヤに入って、お茶を飲みつつお昼のピークまでノンストップで話し続けてしまった。(すみません)話題は、伝統舞踊と地元のトランスダンスの関係(あんまりないっぽい)や、伝統的な踊りの型のなかで身体の精度を上げていくこと(何年も同じ型を踊るなかでその究極的な細部がどんどん更新されていく)、その伝承や伝播、ジャワに残っている魔術と市民の距離感、必然性をもって踊るための意識の持ち方、音に反応して体が動いていくことについてなど、様々に及んだ。
そのなかで、「常に踊っていると次第に全てが踊りに通じてくる」といったような話が、かなり自分に響いた。

佐久間さんは「踊りをやるようになってからは、それまで演っていたガムランをしばらく触らずにいたのだけど、久しぶりに触ったらガムランが上達していた」という。歌う声も以前よりよく出るようになったとおっしゃっていた。
単純にフィジカルなレベルが上がったということもありそうだけれど、どうやら踊りには「楽器の音が鳴るのに合わせるのではなくて、体が音を演奏している」としか言いようのないような境地があって、そういうことになってくると、楽器をやるより踊った方が簡単に音楽を「鳴らせる」のだそうだ。かなりの境地だと思うので、おいそれと真似できないのだけど、でも、コーヒーを一口飲むという行為を、ダンスと別の日常としてやるのではなくて、ダンスの続きにあるものとしてできるようになっていくと、ダンスも日常もどんどん磨かれていく、と、言い方を変えていただいたらわかってきた。わたし達に話をしてくださる佐久間さんの、「たとえばさ…」と言ってカップを手に取るしなやかな動作が、全てを物語っていた。

その後のジャワ舞踊のWSでは、歩く練習にけっこう長い時間をつかった。歩くことは日常の基本でもあるし、舞台の基本でもある。舞台の中央で踊るためには絶対にソデからそこまで歩かないといけないからねとおっしゃっていた。(初心者にとって車の運転では駐車がいちばん難しいけど毎回駐車はしないといけないからね…というのと同じだ…。)WSの終盤で習ったジャワの宮廷舞踊の演目の最初にも、座った姿勢でしばらく待つところがあって、きっと超基本の姿勢なのだけど、その時の座り方がやっぱり佐久間さんはハチャメチャにかっこよかった。「しっくりくる」という言い方をされていたけど、まさにそういう感じだった。「しっくり」きているのが、はたから見ただけでもわかった。確信のある体はかっこいいのだ。

そういえば、朝、佐久間さんと駅で待ち合わせた時、少し早めについた自分は、映像や写真でしか拝見したことのない彼に似た背格好の男性を見つけるたびに「あの人か?」「ん?あの人か?」と一人でキョロキョロしていたのだけど、全員ぜんぜん違う人で、時間になって改札に現れた佐久間さんが、それまで見たどのおじさんよりも、明確にかっこいい出で立ちをしていて、すぐに「この人だ!」とわかった。それがけっこう嬉しかった。姿の説得力って一瞬だし、強い。その時の印象は最後まで一貫していた。



日常の全てが踊りを磨く、という話とあわせて、ジャワの人のマルチスキルさについての話になった。すごくかいつまんで言うと「日本の人は自分の技術を専門性を持って尖らせていって、こだわりの道具を駆使して隅々まで統制のとれた完璧な仕事をこなす、といった職人ぽい気質の人が多いが、ジャワの人は、いろいろなことを器用にこなしたり、ありあわせの素材を工夫してバッチリにする、というような傾向があるよね」という話。

確かにそうで、お金がないということも関係しているとは思うけど、わたしがジャワで出会った多くの人も、素材や道具にこだわるより先にとにかく「やってみる」「工夫して実現する」というタイプだった。そういう人は突然の予定変更などにも対処が早い。イラストを描いている友人はウィンドウズのノートPCとマウスでその仕事をバリバリこなしていたし、路上で開催されているライブでは、途中で雨が降ってきたらミュージシャンの横や機材の周りにスタッフが立って傘をさしていた。それでいいのか…?と思ってしまうこともあったけど、いいのだ。ペンタブがないので描けませんとか、雨天対策のテントが立てられないのでイベントは実施しませんとか、そういう風には全然ならず、とにかく実行していく姿にはかなり感銘をうけた。




そうだというのに、彼らに刺激を受けたはずなのに、ああいう生き方かなり良いな、と思っているつもりだったのに、自分は、どうやら性根が真逆、かなり頑固だ、ということに改めて気づき、猛反省した。
頑固で失うものや得そびれるものって、かなり多い。少し前、自分のこだわりや情熱が空回ってヤキモキしたことがあった。わたしは「声」に興味を絞って活動してきたつもりだったので、その時は「いくつかの得意なことのうちのひとつとして歌もやる」という人と自分のパフォーマンスを並べられることに、納得ができなかった。自分の力が60%くらいしか必要とされていない感じがして、120%くらい提供する気合いでやっているのに、違う人でもいいような仕事ならやりたくない、などと思っていた。無駄なプライドで「だったらいっそ圧倒的なクオリティで完遂してやる」などと意気込んだりしていた。(今思うとめちゃくちゃ恥ずかしい。粛々と100でやるべきだったのだけど、そういう器用さがない。。)

きっと、基本的にはそういうこだわりとか、強い意志はあってしかるべきだけど、こういう心の姿勢は他人にすぐバレて、なんかギスギスしたりする。そして何よりも、残念ながら、自分の歌や声の技術は、そういうパワーで押し切れるほどのハイパーな実力には到底、達していない。ただ小型犬がキャンキャン喚いているだけみたいな情けなさだ。(虎になりたい…)

その案件は終えて、別の制作が始まってからも、その邪魔なプライドはやっぱり残っていた。今一緒に制作している人は、歌ではなくてダンスを専門にしている人だから、ダンスのことはお任せします〜という感じで、いい意味でお互いに信頼しあって進めて行けていると思っていたが、しかし、先日のジャワ舞踊のWSの時にも、わたしはちょっと卑屈になっていて、
「わたしはダンスはてんでだめなので」
「全然動けない参加者なんて自分くらいですよね」
などとのたまっていた。最後に感想を述べ合う時にまで、その遠慮というかビビりが発動してしまって、あまりちゃんと感想が言えなかった。
帰り道、小山さんに「いうて田上は体の感覚いいよね」と言ってもらえてもはぐらかしていた。相当ビビっている。

つまり、専門性とか言って自分で自分のやれることを狭めて、その他のことについてはビビって手を出さない、という状態になっていた。なんかこういうの本当に、すっげえ情けない!



さて。

サイゼのコーヒカップをとてもしなやかに持ち上げたり、話の途中で、上半身だけでスッと踊るように言葉のニュアンスを表現したりする佐久間さんのことを思い出して、わたしは、こういうことをやりたかったんじゃないのか、と、昨日くらいに改めて思ったので、自戒をこめてこれを書いている。

歌というものが、音楽だけの特権ではなくて、歌手の特権でもない、誰もが持てる楽しみとしてあって欲しいと思っていたことを思い出した。喋る言葉やただの呼吸までもに、歌を感じられたら、それは、日常がミュージカル映画のようになるなんてことではなく、もっと普通にそばにあるものとして、歌を再発見できるのではないかと。特別なこととしてではなくて、「自分の声が出るのを聞く」ということを肯定できさえすれば、声は歌になるんじゃないかと、難しいこと抜きにしてそれってすごい楽しいじゃんと。そういうことを思っていたはずだ。自分が自分を守っていくために「自分は歌の人」と思ってきたことがすごくしょうもなく感じた。

一番大切なものをひとつ持っておくのは当然に大事だ。でもそれを大事にするために他のことができなくなったり、他の人に対してビビったり逆に攻撃的になったりするのは本当にダサいし、大事なものを見る目さえ曇らせるだろう。専門家じゃなくても、下手くそでも、料理を作っていいし、文章を書いていいし、外国語を喋っていいし絵を描いていいし写真を撮っていいし、山に登ってみたり海に潜ってみたりしていい。というか、生活ってそういう風に成り立っている。あらゆることが、自分にとって一番大事な何かを高める糧になったり、ならなかったりしていくのだから、ビビってサボっている場合ではない。へっぴりごしでは獲れるドジョウも獲れない…(??)


最近おなじ現場になった音楽家のかたも、彼にしては意外な道具を使ったりしていたので、こういうのも使うんですねと言ったら、「自分の目的ははっきりしていて、方法はけっこうなんでもいい」と言っていて、え、めっちゃかっこいいなと思ったのを思い出した。

自分の中に軸を持っていればいい。油断するとその軸が外側に出ていってしまって、自分が振り回されたりするのだけど、毎回正しく戻してこられるようになろうと思いました。
それでちゃんと軸の周りに充実した実がついてきたら、本当の専門性とか、ちゃんとした格好良さにつながる価値あるプライドが生成されていくんだろうと期待して。そんなものは40年とか50年先にならないとわからないだろうとも思いつつ、柔軟に続けていきたい。








いい秋の1日目みたい

乱暴なくらい音の大きなライブを楽しんだ帰り、iPhoneに繋がないままのイヤホンで耳栓をしながら電車に乗っている。
 
イヤホンから音を鳴らしていないのに、耳の中を圧迫するようにピーーーーという微妙な音程の細い持続音が鳴り続けている。よく聞くと2つくらい鳴っている。疲れていたりして鳴ることはあるけど、爆音でこうなるのは久しぶりだ。きっと耳に悪いんだろうけどまあしかしすごく楽しかったからあんまりどうでもよくて、いつ鳴り止むのかが知りたくて、ピーーーーに耳を澄ましている。経験の余韻(これは疲労どころか多分ほぼ傷)がこんなに明確に残っている。楽しかった。
 
 
この電車に乗り換える前は、わたしは本を読んでいて、目や体が楽で心地よかった。(わたしは今いい具合に疲れて酔っ払っているのでかえって感覚が冴えていて、そんなこともいちいちクリアに感じる。)
読書はスマホで色々やっているよりも1つのことにグッと集中できるのがすごくいいと最近実感する。パソコンで作業をするよりもペンで紙に書いた方が捗ったりするのと同じだ。本も紙も、それ以外のことができないのが、気が散りやすいわたしにとって有難い。
さっき一緒にライブハウスにいた友達と、ある程度閉じた空間というのは必要だね、みたいな話をしたのも思い出す。主にSNS上で遭遇するような、あまりにもしょうもなかったり民度が低すぎる言葉とか雑な悪意とかは、本当の本当に完全無視していい存在だが(ある、ということを知るくらいで充分)、ライブハウスみたいに正しく閉じた場所にはそういうのがいない。みたいなことだったと思う。(違ってたらごめん)かつてライブハウスで痴漢ぽいのに遭ったことも思い出すとわたしは100同意ではないけど、でもライブは現場で起きていて、そこには一定以上の情熱のある人達が来ていて、ちゃんと作法や目的を共有できているから野暮なことは誰も言わない。いわゆる茶番も成立する。それは愛しいしクールだ。いろんな考えなきゃいけないことは一旦置いておいて、今はとにかく笑って踊る。昨日のイベントにはそれがあって、素晴らしかった。なるべく真摯であろうとすることは人として大切だし、ポリティカルコレクトネスとか大事だけど、正しさを過剰に求めるのは毒だ。
最近は、バカになるのにもワルくなるのにもおちょくるのにも勇気を要するような感覚が自分のなかにあって、それをシンドく思っているのを自覚した。オフラインで、ちょっとワルいくらいのパーティーがしたい。
 
 
 
 
読んでいたのは図書館で借りた本だったので、「〜までに返却してください」という紙をしおりにしている。たまに「これは」という箇所があるとそれを小さく破って挟むのだけど、束ねられた紙を神聖なくらい丁寧に見つめ印刷された言葉を味わいながら、別の紙をビリビリちぎっては挟む、というのはなんだか罪悪感に似た違和感があっておもしろかった。紙の世界にもヒエラルキーがあるみたいだ。
 
 
今日はすごく楽しく過ごした。偶然バッタリ久しぶりの友達にも会ったし、偶然ではなくて予定していた久しぶりの友達にも会った。初めての串カツ田中にも行った。
 
都内で目的地が4箇所くらいある日だったので、メトロの一日乗車券を買って使った。600円で24時間有効だとわりと簡単にお得になるから良い。ピ!じゃなくてカシャン!という音と一緒に改札機を通すのは、ちょっと懐かしさもあり楽しいのでおススメです。
 
 
 
 
 
 
 

日記190624


最寄りの駅から、いつも使っている駐輪場まで、歩いて2分くらいだ。走ると1分。その途中、アパートの一階部分がごっそりコインパーキングになっているところを通り抜ける。ここには張り紙があって、曰く「通り抜け禁止」だ。でも、駐輪場を使っている人の多くはここを通っていて、わたしもそうだ。電車通学を始めた中学生の時からいつも。ここを通るのが近道だからだ。なお、近道をしない場合、30秒くらい余分にかかる。
わたしはいつもここを通る時、車と車のあいだを通り抜けながら、車の持ち主とかコインパーキングの管理をしている人に遭遇したくないな、と軽く思っている。一度もそういう人に会って怒られたことはないけど、ここを人がたくさん通り抜けていくことのデメリットが一応想像できるから、ちょっと罪悪感がある。

今日の帰り、そのコインパーキングにさしかかるところで、目の前にとまっていた車のヘッドライトがピカピカ、と二回光った。どうやら鍵を開けたか閉めたかしたようだった。鍵はけっこう遠くから操作されたのだろう、とりあえずわたしの視界には車の持ち主らしき人物はいなかったが、ビビってちょっと早足になってしまった。


コインパーキングをぬけた先には数件の飲食店がある。どれも個人経営っぽいこじんまりとした店で、居酒屋とか洋食屋とかカラオケスナックがあるが、わたしはネパール料理屋以外は入ったことがない。ここを通る時は、居酒屋の隣の白っぽいアパートの入り口のところの低い木に、黄色い花が咲いていたり咲いていなかったりするのをいつも見る。今日は同じ株の先に、黄色の他に小さい赤いのも咲いていて、え?と思ったが、あえて確認しません、という気持ちが勝ったのでそのままの歩調で通り過ぎた。(あえて確認しないことによって心に残すというのをけっこうやってしまう。)

地下駐輪場の入り口にも、少し前は黄色い花が咲いていたが、今はもうない。
蛍光灯で照らされた緑色の階段を降りる。ここの壁には「不審者に注意!」という張り紙が以前からあるのだが、最近これが、怖い表情をした男性の目と眉のあたりだけを切り抜いた写真を使ったものに変わっていて、なんだか生々しくて気持ち悪い。リュックのポケットから出して手に持っている鍵がチャリチャリ鳴るのを聴きながら降りていく。最近ちょっと調子に乗ったので脚が筋肉痛だ。階段を三段降りたぐらいから、音の響きが明確に変わり始める。家の鍵と、自転車の鍵と、木のキーホルダーと金属のキーホルダーをカラビナでまとめているのだけど特に木のキーホルダーがいい仕事をする。好きな音だ。階段を降りきる。


この地下駐輪場は、地上が暑い日でもヒンヤリしていて、湿度が高くて、静かで、かなり音が響く。自分の足音とか鍵をはずす音とか、そういう細かい音がいちいち遠くまで広がるのがいつもちょっと楽しい。床はぜんぶ緑色で塗られていて、しばしば結露で濡れている。

とまっている自転車のうちのいくつかに、レインコートが広げてかけてあった。黄色とか、ピンクや薄いミントグリーンもあったけど青いのが多い。少し珍しい光景だった。今朝は強い雨が降っていたから、レインコートを着てきた人が多かったのだろう。わたしもその1人で、派手な柄の黄色いレインコートを自分の自転車にかけてきていた。レインコートはすっかり乾いていた。わたしより先に出かけた母の自転車も近くにとめてあって、青いレインコートがやっぱりかけてあった。

昼に会った友人と「雨の日にレインコートを着て傘をささずに歩くのいいよね」という話をしたのを思い出した。そういう人ってそんなに多くないから、歩いていてそういう人とすれ違うとちょっと同志みたいな気分に、勝手になったりするよね。

ここはいつもはほとんど満車になる駐輪場だが、今日は強めの雨だったので自転車を諦めた人が多かったらしく自転車の数がいつもよりも少なかった。そのいつもより少ない自転車の一部にレインコートがかけてあったので、やっぱりちょっとの同志がいるぞ、という気分になった。



乾いたレインコートを畳んでリュックに入れるのが面倒だったので、雨はもう止んでいたけどとりあえずガバッと頭からかぶって、自転車をおして地上に出た。
なぜか気がつくと下がっているサドルを昨日上げたばかりだったので、快適な乗り心地だった。夜風も気持ちいい。交差点のところで、前を歩いている人との兼ね合いがうまくいかず少しオロオロする。信号が変わるのを待ってふと左の空を見ると、けっこう明るい光が、ギューンという感じの、鳥くらいの、そこそこの速さで東のほうに飛んで行った。低めのところを飛んでいる飛行機だ、とすぐわかった。
同時に、2ヶ月くらい前のことを思い出した。その日も同じように駐輪場を出て自転車をこぎだして、機嫌がよかったので「ピカピカぼうや〜」とテキトーなデマカセを歌いながら顔をあげたら、ちょっとハッとするくらい明るい光が、目の前の空をやっぱり東のほうへギューンと過ぎていった。歌った言葉とちょっとシンクロしたのが嬉しくて、ピカピカぼうやじゃん!!と思ったんだけど、あれも飛行機だったんだろうなと今日、わかってしまった。

5月に、目の前をぐわっ!と大きな飛行機が通り過ぎたこともあった。飛行機は実際には普通の大きさだったのかもしれない。でも、デカ!と思った。浜松に行った時だ。あの時は、たしか遅めの午後で空はまだ明るく、車は国道を走っていて、わたしは助手席に座っていて視界はひらけていた。その視界の大部分を占めていた青い空が、突然、なんの前触れもなくぜんぶ飛行機でいっぱいになった。びっくりした。突然壁が現れたみたいだったけど、まばたきくらいの短い瞬間の後にはもう消えていた。いきなり気が狂って幻を見たのか異世界に飛んだのかCGかと思ったけど、運転していた友人も目撃していたので現実だった。後部座席に座っていたメンバーは見逃していた。それくらい一瞬だった。あれは左手にある航空自衛隊の基地に着陸せんとする飛行機だったようで、浜松では時々見る光景らしい。とはいっても車の運転中にあんなふうに遭遇するのはちょっと珍しいですね、と聞いて、わ〜い単純にラッキー、と思った。でも総合的にはけっこう怖い体験だった。

近くを飛ぶ飛行機は速い。飛行機に自分が乗っている時とか、遠くの空に飛行機が見えている時には、「あ〜、飛行機だな〜」と眺めるくらいの余裕がある。でも、近くで見るとあれはけっこう速い。浜松の時はショックなくらい速かった。駅前で何度か目撃してきた光も、まさに「ぎゅーん」という言葉くらいの速さで視界から消えた。たぶん飛行機の速さそのものはそんなに変わっていないんだろうけど、はるか上空を飛んでいる時には、ぼんやり眺めたりできるのに、目の前の空を飛ばれるとけっこうビビる。



飛行機って、速いんだな、ピカピカぼうやは、ちょっと近い飛行機だったんだな〜、、と思いながら、青になった信号を渡った。ちょっと行って、家のあるほうへ道を曲がると、歩いている姉がいた。帰りの時間がこんなふうにかぶることは珍しいので、自転車がギリギリ倒れないくらいのノロノロ運転に切り替えて、イヤホンで音楽を聴きながら歩いている姉の視界に、えい、えい、と入って、気づかせて、少し喋った。音楽が途中だから聴きたいんだけど、という雰囲気を若干感じたが、彼女のその気持ちには気づいていないふりをして会話をした。
夕飯どうするか考えてる?考えてない、卵と牛乳は買ったよ、あと、ネギがあったのは覚えてる。ネギか〜。そのレインコート買ったの?いいじゃん。いや、だいぶ前に買ったやつ。


帰宅して、空腹と体の疲れで調理をやる気がでないので、冷蔵庫にあったチョコパイをキッチンの床に座って食べた。姉と、チョコパイって美味しいけどなんか正直そこまででもなくない?という会話をした。冷蔵庫で冷やしすぎたチョコパイはちょっとゴムっぽい。
ネギを切り始めた時に思いついて、一度手を洗って部屋へ行き、スピーカーを持って来て音楽をかけた。ネギをまる2本ザクザク刻んで、水と小麦粉と卵と、中華スープの元とキムチを刻んだのをぐちゃぐちゃ混ぜて、ごま油で焼いた。まあまあ食えるものができた。これはビール欲しいやつだな?と頭をかすめたけど、最近ちょっとお酒を飲まないでいてみているので、シークワーサーの甘くないジュースを炭酸で割って飲んだ。一口飲む?と姉にすすめたが、酸っっぱ!と笑いながら不味そうな顔をされた。わたしはこのバカ酸っぱいのをけっこう楽しんで飲んでいるのだけど、他の家族が全然飲まないのでなかなか減らず、傷んでしまいそう…という懸念をしていた。やっと今日で飲みきった。






Terimakasihhhhhhh

 
日本に帰ってきてちょうど2週間がたった。
2週間前、29日に朝の羽田に着いて、空港の外に出た時の第一印象は「木がショボい」だった。空港の周りだし、まだ寒い季節というのも手伝って葉っぱのない木ばかりで、植物の迫力がインドネシアとは全然違って、曇り空の下、冷たい風に揺れていて、寒々しかった。それに、どうやら自分はよりによって寒い日に帰ってきてしまったらしかった。でも、この季節の日本のにおいが確かにした。噂に聞いていた醤油の匂いではなくて、冷たくてツンとしていて、淋しくなるような春のにおいだ。
 
地元に戻ってすぐ、母と近所の回転寿司屋に行った。インドネシアにいるあいだ、寿司が食べたいという気持ちを意図的に捨てて寿司のない生活になんとか耐えていたけど、久しぶりに食べたら泣けてくるくらい美味しくて、飢えている人みたいな勢いで食べてしまった。晩にはスーパー銭湯に行った。久しぶりの湯船に浸かって、体が溶けそうに気持ちよかったのには、さすがに半年を感じた。寿司と風呂があるってサイコーだ。その日から、毎日あたふた楽しく過ごしているうちに、もう4月も半ばにさしかかる。
 
ここ2週間は、いろんな場所でいろんな人と、花見をしたりご飯を食べたりして、久しぶりの友人たちに次々会った。先週は即興的なパフォーマンスのイベントに参加したり、この前の火曜日には友人の営む店でインドネシアで撮ってきた映像や写真を見せて話す会を開かせてもらったりした。来月にある演劇の稽古も始まった。寒さのせいか気が緩んでいるのか、寝ても寝ても眠くて毎日寝過ぎるのを早くなんとかしたい。
 
 
 
 
インドネシアにいるあいだに仲良くなった友人達とは、インドネシアにいた頃より(来週の待ち合わせはこうしようとか、今度ここに行ってみない?といった話をしないから)頻度が激減してしまったけど、インターネットを通して普通にコンタクトが取れるので、拍子抜けするほど淋しくない。日本にいたって一年以上会わない人がたくさんいるんだから、それと同じだ。
 
ただ、インドネシアで半年間住んでいた町を離れて2日ほど手続き等のためにジャカルタにいた時とか、日本への飛行機に乗っている時などは、さすがに淋しかった。
 
 
26日、ジャカルタに行くために空港へ向かっていた時、タクシーの運転手とした短い会話の時の感触をよく覚えている。以前にも一度お世話になっておしゃべりをしたことのある運転手だったので、半年の滞在の最後の日だというのをすぐに理解してくれたようだった。わたしがゲストハウスのオーナーと別れる時に思わずちょっと涙ぐんでしまって、車に乗ってからも遠い目をしているのを察したのか、「たくさん勉強した?」「うん、たくさん」と短いやりとりをしただけで、あとはほとんど黙っていてくれた。
 
わたしは、「banyak(たくさん).」と、この半年間ほぼ毎日のように使ってきてすっかり口に馴染んだ単語を、噛みしめるみたいに低く、少しゆっくり発語してそれを自分で聞きながら、100キロ超の猛スピードで景色が流れていくのを目で追った。あと何回、残り数日のインドネシア滞在でbanyakって言うかな、と月並みなことが頭をかすめた。何かを逃したくない、みたいな、切ない気分でいた。何を逃したくないのかは、よくわからないのだけど。
昨夜、荷物をまとめると帰ってしまうことが現実になるようで、いやでいやで仕方がなくて、だらだらと明け方頃まで荷造りをしていたので寝不足だったけど、ぜんぜん眠くなかった。さっきの涙が下のまぶたにちょっと残ったまま、鮮やかな緑色の山とか煉瓦色の家々とかよく晴れた空を見ていた。なんだか目がよく見えた。でも、初めて通る高速道路の景色は、あまり感動的ではなくて、残った涙はすぐに乾いていった。
 
以前にも、同じように引き裂かれるような呆然とした気分でタクシーに乗っていたことがあったのを思い出していた。気持ちと関係なくドンドン前に進んでくれる乗り物のおかげで、わたしは次に移っていける。人が運転してくれる乗り物は強い。徒歩や心ならこうはいかない。
 
 
 
空港やジャカルタでは、半年間、わたしとは違う町や島で同じ仕事を頑張っていた仲間たちに再会できた。それは嬉しかったけど、以降、突然バチンとインドネシア語を聞かなくなってしまって、日本人に囲まれて、もう日本に帰ってきたみたいだった。いやいや、待ってくれよ、まだ、まだインドネシアにいるだろうが、、、だから、ひとりの時には友人に教えてもらったインドネシアのバンドを聴いたり、「もうジャカルタについた?」とメッセージをくれたジョグジャの友人とくだらない話題でしばらくチャットしたりして、インドネシア語の質感とか、確かにそれに付随する色んなことを、体にとどめようとするみたいにしていた。思い返すとけっこう必死だった。
 
わたしは日本へ帰る飛行機に乗っているあいだじゅう殆どずっと、紙のノートに細い黒いボールペンで隣の人には読めないくらいの小さい字で、詳しすぎる日記のようなものを書いていた。特に、23日にライブをしたことその前にご飯屋さんを探して弱い雨のなか傘もささずに友達と4人で散歩したことバカな写真を撮ったのを見せてもらって笑ったこと結局一番近いお向かいの屋台で食べたこと(その屋台は1月に同じ場所でのライブを観に来た時に食べたのと同じ屋台で店のお兄さんは後で娘を連れてちょっと演奏を見にきてくれた)合間に話した沢山のことAditが面白いTシャツを着てたことRanggaが2年前と同じサンダルをはいていたこと準備した時のことライブ中のことライブの合間のことライブ直後のこと一回コンビニに行ったこと帰りの車が高台の坂を登れなくてみんなで押したけどわたしは押す役ではなくタイヤに挟むための大きい石を探してくる役を任されたことその時振り向いたら見事に町の夜景が見えたこと小さい雷という意味の言葉を3人がかりで教えてもらったこと仲間のシェアハウスにみんなで泊まったことジャワの甘すぎる濃いお酒を飲んだことワヤンのポーズの話をしたこと寒さと疲れと興奮でなかなか寝つけなかったこと朝ごはんにジャンクすぎる揚げ物とソトを食べたことその時Aditが肉抜きでと注文していたこと笛を吹いて遊んだことATMでお金を下ろすのを待ったことプレゼントをもらったことそして大好きな友人たちと別れたバス停までの、
 
までの、、
 
メチャクチャ楽しかった約2日間の、全ての出来事とその時に思ったことを絶対に忘れたくなくて、馬鹿みたいだけど思い出せる限りの全部を詳細に言葉にしてノートに書きつけた。文章が時々ぶっ壊れていたけど誰かに見せるわけでもないのでそのままにして先へ先へ書き進んだ。手が追いつかなくて字も汚い。全部なんて絶対に残せないと分かっているし、こんなの何にもならない無駄な行為だけど、それでも書くなら今が最後だと思っていた。日本に着いてしまったら書けなくなる気がした。
 
 
深夜23時半くらいに出発して朝に羽田空港に着く便だったので機内は暗く、本来は寝ておくべきだし他のほとんどの乗客は寝ているのだけど、わたしは「ごめんなさいあとちょっとだから」と思いながら自分の手元を照らすランプをつけて、時々目と手を休ませつつ、結局朝の6時ごろまで書き続けた。左隣の座席には、外国人技能実習制度で日本へ行くとおぼしき青年が座っていた。きっと彼にとっても、今夜は特別に孤独で、でも楽しくてワクワクで、いや、やっぱり寂しくて、グラグラと心の落ち着かないフライトだろうなと想像したりした。いや、わたしがそうだっただけだ。
 
右隣の席の日本人のおじさんが、機内食が配られるタイミングなどに少しコミュニケーションを要する際、初対面なのにこちらをナメきって下に見て接しているのが見え見えでわりと不愉快だったのだけど、その不愉快さはちょっと懐かしくすらあって、ああ日本に帰るんだなと思ったりした。
 
 
 
 
 
 
 
メチャクチャ楽しかった二日間の最後24日の昼の、大好きな友人たちとの別れは、けっこうあっけなかった。学校の先生たちはプレゼントを次々にくれたり送別会を開いて写真をたくさん撮ったり歌を歌ってくれたりボロボロ泣いてくれたりしてしっかりと別れを味わわせてくれたけど、彼らは普通だった。わたしも「まあまた会うでしょ」という気分が強くて全然泣かなかった。
 
Aditは超嬉しいプレゼントをくれたけど、出発する前にみんなでお喋りしている場面でこっそり「みんなの前で開けられると恥ずかしいので後で開けて」とメッセージを送ってきて、わたしがスマホでそれを確認したのを見届けたうえで片手で雑に渡されてしまったので、全然本人の前でちゃんと喜ばせてもらえず、だいぶ戸惑った。でも、重要なところで変な感じになっちゃうのがあまりにも彼らしくて、マジ好きだなと思った。友人として大変に愛しい。
AditとRanggaが一緒にジョグジャへ帰っていくのをバス停で見送った時もなんだかヘタクソだった。バス停にバスが来て、さあ乗るぞ!というタイミングになって、ウワアア〜〜!もうバス来ちゃった早〜〜!!という感じで思い出したように大急ぎで、でもお互いにそうすると決めていた迷いのなさで、バッ!とハグしてシンプルに「またね」と言った。前に彼らに教えたのだった。Sampai jumpa lagi は「さよなら」じゃなくて「またね」だよ、と。
 
慌てて2人が乗り込んだバスはドアを開けたまま発車(※インドネシアでは普通)して、3秒くらい手を振ったらもう、ドアは閉まって2人の姿は見えなくなった。ついさっき抱き合って「うわあやっぱり肩の位置が高い」と思うほどの距離にいた人が、5秒とたたずに、何メートルも遠ざかってしまった。早すぎた。友達をバスにさらわれたみたいだった。昨日からさっきまで、ずーーっと聴こえていた笑い声とか見えていた表情とかあった仕草とかそういうのが、こんなに一瞬で、もう跡形もない。
 
 
わたしは軽くため息をついて伸びをして、一緒に見送りに来ていた友人Bambangと、ジョグジャに行くためにはあのバスだとどこで乗り換えることになるの?など関係ない話をしながら3分くらい歩いてシェアハウスに戻った。
 
 
次の日、25日にはわたしも同じバスでさらわれたのだけど、その時もKartunさん(今回音楽周りで超お世話になったおじさま)と、やっぱりハグして別れた。Kartunさんは痩せていて少し背が低い。静かな細い目をして、またね、と落ち着いて一言言ってくれた。こういうシーン、彼にとっては今までにも幾度となくあったんだろうなあ、となんとなく思った。昨日の夜にライブ会場から(24日の夜にもライブをした)シェアハウスへ戻る時、スマラン中心部からひとしきり走ったから、最後に馴染んだ街の夜景がじっくり見られて嬉しかったです、と言いたかったけど言葉が間に合わないのでそういう目だけしておいた。
 
乗りこんだバスは平日の昼らしく空いていて、めずらしく音楽もかかっていなかった。一番後ろの席に座って、景色を目で追うでもなくただただ揺られた。クーラーが入っていなくて車内の気温は高めだったのだけど、寝不足ゆえに暑さをあまり感じなかったから、ずっと上着を着ていた。あんまり何も考えられないまま、ゲストハウスまで帰った。あの部屋に「帰る」のは、この日が最後だった。次の日、26日にはジャカルタへ向かうのだ、というのが全然信じられないくらい、荷造りの進捗はゼロだった。
 
家に帰ってから、さっきAditが片手で渡してきたプレゼントを開けたら、彼が描いた絵をプリントしたトートバッグとおすすめのCDと、当たり障りのない内容の、ノートの切れ端に書いたと思われる短い手紙が入っていた。思わず「ええええ〜〜〜」と声が出た。こんな嬉しいプレゼントだったのかよ雑に渡しやがって!と思った。

簡単なインドネシア語で書いてくれていたのだろう、手紙は最後まで辞書不要でさらさら読めた。そして、一番最後にひらがなで「またね〜」と書いてあった。慣れない手書きのひらがな三文字と、最後の「〜」が、とても愛しかった。そっか、わたしも手紙書けばよかったな、とちょっと後悔しながら、すぐ、お礼のLINEを、超ハイテンションで送った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


夜が明けても続くもの

 
3月9日の土曜日の晩、ワヤンクリを観た。ソロの芸大でダラン(ワヤンクリの人形使い)の勉強をしている岸さんという女性に案内をしていただいて(岸さんが招待されていたのに便乗させていただいた形)、結婚式にあわせての、山で行われる上演を観にいった。彼女とは少し前に知り合ってから、ワヤンクリの上演の情報をいただいたり時々一緒に見たりしている。年が明けてからわたしがほとんど毎週のようにワヤンを観に行けていたのは彼女の情報提供や案内によるところがとても大きい。本当にありがとうございます。
 
この日は、岸さんが住んでいるコス(シェアハウスのような小規模の集合住宅。大学生や単身で働きに来ている人などがしばしば住む)に一度お邪魔して、そこから仲間と一緒に車で出発するということになっていた。わたしの家からだとバスを使って計3時間弱くらいのところにある街・ソロは、観光地としても有名でけっこうな都会だけれど、そのコスは大通りから少し入った、静かで落ち着いた雰囲気の場所にあった。
 
着いてすぐ、台所に続くとても広い部屋に案内してもらった。そこには、ワヤンクリのスクリーンやガムランや、その他の太鼓や弦の楽器が置かれていた。びっくりして、つい「わあ〜」と声が出た。これらは、岸さん個人のものではなくて、このコスのオーナーの所有物らしい。ここには他にも彼女と同じようにガムランやダランのことを学んでいる留学生が住んでいて、この楽器や道具は彼らと共有で使って、練習をしているそうだ。彼女は、いつでも練習ができて幸せですと言っていた。文字通り寝ても起きてもワヤン漬けだ。すごい。修行だ。向かう方向や熱量が似ていたり同じくらいだったりする仲間がいつもそばにいるというのも、すごく心強そうで良い。
 
出発までの少しの時間、岸さんが自分の私物のワヤンを見せてくれた。ワヤン専用の鞄(大きくて平べったい、カルトンバッグみたいなもの)というのがあって、それに入っていた。自由に見てください、と言って鞄を広げてくれた。岸さんはすぐ出発の支度にとりかかったので、わたしは1人でワヤンと対峙することになった。数を数えたけど忘れてしまった、たぶん10体くらいあったと思う。自分で買ったり、先生からもらったりして集まったものたちらしい。授業で使う予定のワヤンが手元にない時には、買えれば買うけど、大きさが同じくらいのものを代用して練習したりもすると言っていた。
わたしは、ワヤンを近くで見たことは今までにも一応あったけど、リラックスして触りながら見れたのは初めてで、嬉しかった。服の模様が、ほとんど網のような、かなり細かい透かし彫りになっているものを手にとったら、向こうの壁とかドアが透けて見えて、1人で「うおお〜」と小さく感嘆しながらウキウキ写真を撮ったりした。こんなに精緻な透かし彫りで、繊細なふうに見えるけど、あんなに振り回したり叩いたりしてんだよなあ皮は丈夫だなあ、とか、ただでさえそれ単体で見応えのある人形をさらにパフォーマンスで使うってそりゃ表現として強いよなあと嬉しく納得したりした。人形を支える骨の折れたところが直してあったのにも、今まで人形が使われてきた年月を感じた。
 
 
今晩ワヤンクリを観にいく一行はけっこうな大所帯で、大きな車に7人乗って出発した。途中で、今回の上演に私たちを誘ってくださったマダムたちと合流して車は2台になった。シンガポールとかアメリカとかメキシコとか色々なところから集まった人たちが一緒になっていて、自分が「外国人一行」の一員になっているのが不思議な感じがした。ここへ来てからは、だいたいの場で私1人だけが外国人だったので、それとは居心地がだいぶ違った。みんなだいたい英語とインドネシア語ができるので、おしゃべりは英語になったりインドネシア語になったりを行き来していて、なかなか混乱した。お菓子を食べたり、お喋りしたり、飽きて全員黙ったりしながら、三時間くらい車は走って、上下にグニャグニャ左右にグニャグニャの山道を登って、真っ暗な木々の間を抜けて、ようやく、と思うころ、村にたどり着いた。今まで見た村でのワヤンクリと同じように、道の両側にビカビカの屋台が並んで、大人も子供も沢山いた。ここを抜けた先がワヤンの会場だ。
 
控え室で、今夜のダランであるMantebさんに挨拶をした。彼は、とても有名なダランだ。(相当有名な人らしい。音楽の先生は当然、ゲストハウスのオーナーも名前を知っていて、彼は名人だよねえと言っていた)わたしは正直に言ってあんまり今回の上演の細かい事情を知らないまま半ば強引について来てしまったし、インドネシア語も英語も皆ほど流暢ではないので、ちょっと小さくなってずっと半歩後ろから様子を見ていた。岸さん始め、ここへ来たガムランやダランを勉強している留学生たちは、Mantebさんのことを大変に尊敬している。それは一応知っていたけど、彼らの挨拶の感じとか、岸さんがずっとキラキラした笑顔で「嬉しい…」と興奮気味にしているのとかを見ていて、だんだん今夜の特別具合がわかってきた。
彼女にとってMantebさんは一番好きなダランらしい。というか、大尊敬する師匠なのだそうだ。留学に来る前から映像資料で彼の芸に触れて感動したり勉強したりしてきていて、今はソロの芸大で会うこともあるし名前も覚えてもらっていて、とても嬉しいと言っていた。みんなで写真を撮ろうという時も、一緒に写真をだなんて!と喜んでいて、岸さん、かわいいし、その喜びようや今までの会話から、彼女が歩んできた道を勝手に想像して、かっこいい人だなあ…と思った。あの頃は夢みたいな場所にいた人が今目の前にいる、というのは奇跡的なことだけど、ラッキーなんかではない。これは彼女が自分で積んできた頑張りの続きにある今なのだ、という感動があった。ざっと言うと、多分わたしは人の夢が叶う瞬間みたいな、そういうものを見たのだと思う。
Mantebさんは、とても気さくな感じでお話される方で、横で聞いているわたしでも聞き取れるようなきれいなインドネシア語を話してくださっていたことからしても、お人柄が想像できた。二箱ぶんがくっついたような巨大な箱からタバコを出して吸っていた。タフだ。5歳くらいだろうか、男の子の孫が懐いていた。
今日は、結婚を祝うワヤンクリだそうだけど、こうして結婚式にワヤンクリを呼ぶということは、今時かなり珍しい。とてもお金がかかるのだ。しかも超名人のMantebさんを呼ぶというのは、相当なことだと思われる。きちんとしたバティック(こちらではバティックが正装なのできちんとした格好をする時にはバティックの服を着る)を着てこなかったことを申し訳なく思った。何も考えずに無地の服で来てしまった、Tシャツで来なかっただけ良かったけど…。
 
挨拶を終えて、少し食事も頂いて、Mantebさんが伝統衣装に着替えるのも終わり、いよいよ始まるということで我々はステージのほうへ向かった。留学生である我々(わたしは違うけど)は、ステージの上のガムラン隊の隙間に座らせてもらった。1月にワヤンを見た時、突然「ステージに乗って良いいよ!」と言われた時はビビったが、(もちろん特別ではあるけれど)案外こういうこともアリなんだ、というのがわかってきた。生理中の女性はステージに登れない、という厳粛さはあったけれど、この晩もやはり、私が今まで見たワヤンクリと同様、リラックスした雰囲気だった。ワヤンクリの時、ガムランなどの演奏者が演奏の合間にものを食べたりタバコを吸ったりしているのは、わたしにとってはとても大きな魅力のひとつだ。舞台上での演奏や演技に、観客が不要な緊張を強いないのは健康的な気がする。スーパーマーケットでレジの人が座ってても良いみたいな世界観と通じると思っている。
 
 
ワヤンの上演中、わたしは留学生たちの少し後ろに座っていたので、岸さんや彼らが時々メモを取ったり、ICレコーダーを回していたり映像や写真を撮ったりしているのが見えた。時々、何か確認するように隣の仲間と短い会話をする。そういう熱心な姿を見ていると、ああ、勉強した上で観られたなら、入ってくる情報量が段違いだろうなあ、絶対100倍面白いだろ〜〜、と羨ましかった。そして、さっき岸さんがすごく嬉しそうにしていたことを知っているので、顔が見えなくても、今発揮されているであろう熱い集中が想像できた。誰かが何かに心の底から惹かれて本気で愛したり夢中になったりしている姿をはたから見る機会って、そんなにしょっちゅうない。あれは勇気をくれる背中だった。好いて学ぶというのは勇敢なのだと思った。
 
この日は英語の字幕がスクリーンに映されていた。そんなの初めて見たので、びっくりしてインドネシア人の友達に写真を送ったら「わたしも初めて見たwww」とウケていた。おそらくリアルタイムで誰かが打ち込んでいた。誰だか知らないけどめっちゃ凄い。わたしは最初は「これならお話がわかる!!」と喜び勇んで文字を追ったけれど、ジャワ語とガムランを聴きながら英語を読むのはなんだか変な感じがしたし、かなり速いしそもそも英語下手なので大変すぎて、なかなか内容が頭に入ってこず、途中で諦めた。文字を集中して読んでしまってワヤンも見えずガムランも歌も聴こえなくなるのは本末転倒だ…、と思って、頑張って追うのはやめた。それでも、チラチラ目に入る英文から今キャラクター同士がどういう会話をしているのかがざっくりでもわかるのは大変ありがたかった。
いつもは、打ち上げ花火を見るみたいな鑑賞しかできない。音を聴き、スクリーンや舞台上の景色を眺めながらボウっとしていて、ワッと演奏や演技が変わったりすると嬉しい!楽しい!という見方だ。話がわかっていないので、次に何が起きるのか全然予想できないけど、何が起きても楽しいのだ。こんな素朴すぎる観客でも十分楽しいんだからワヤンクリは凄い。この日も基本的にはそうだったけど、そこにちょっとだけ「今は結婚の話をしている、彼は彼女を愛している」などの情報が入ると、人形の表情まで想像できて、見え方が深くなって良かった。
 
 
わたしは基本的に、なにかの鑑賞に関して貧乏性というかガメツイので、観るなら全部観たい。演劇などを観に行ってつまらなかった時にも、耐えて座り続けてしまうし、できるだけ最初から最後まで観たい。映画のエンドロールが終わって明かりがつくまで立ち上がりたくない。そういう性格なので、この晩も、留学生たちは玄人なので力の抜き方を知っていて各自一度はトイレに立つのだけどそれが真似できず、朝まで一度もトイレに行かずに座り続けた。素人っぽいしダサいな…とちょっと思いながらも、やっぱり立ちたくなくて、時々座り方を変えたり、水分摂取をちょっと控えたりしながら過ごした。というか、もしかしたらこの滞在で最後のワヤンクリ鑑賞になるであろう晩だったこともあって、だんだん終わっちゃうのが悲しくなってきて、もっとずっとここにいたい、この晩は終わらなくていい、、と、夜が朝に近づくにつれてヒリヒリした気持ちになっていた。
 
だって、あまりにも良い心地だった。まず、過言でなく絶えず目から脳へ快感が流れ込んでくる。
この日に使われていたグヌンガン(山などを象った抽象的なワヤン)は、彩色があるのは片面だけで、もう片面はすべて金一色に塗られたものが使われていた。「全部金色なんて職人の手抜きでは?」という超失礼な気持ちが若干あったのだけど、金色のワヤンって、実は視覚的な快感がすごいのだとこの晩よくわかった。まず、金色ってあれ、色じゃないです。光だ。わたしは今、光を観ている!という快感がある。目が気持ちいいのだ(赤とか青とかの色も光といえば光なのでこれはバカ発言なのですが、でかくて金色というだけで気持ちよくて、俺は今!光を観ているぞ!と言いたくなる)。そして、普段は画面の左右の脇に固定されているそれら(木や山なので?基本動かない。物語の最初と最後、またはシーンが変わる時や登場人物が死んだ時などにフワフワと動き出す)が、ダランの手によってダイナミックにはためく段になると、透かし彫りの精緻な影が突如ユラユラッと画面をいっぱいにする。スクリーンにぴったり当てて固定されている時は影が出ないので全部がただただ金色で、透かし彫りはよく見えないのだが、スクリーンを離れて踊りだした途端、かなり大きな、そして美しく複雑な形の影が現れて、全然違う美しさを見せてくれるのだ。これはけっこうグッとくる。こういうギャップを狙って全面金色のやつを作っているのか!?!と勝手に納得した。さっき、岸さんの私物のワヤンを見せてもらった時に、透かし彫りスゴイ!と感動したばかりだったので、余計に嬉しかった。始まる前、会場に並んだワヤンを観た時だったか、岸さんが「Mantebさんの私物の上等なワヤンばかり並んでいる…、凄い…」とため息をつくようにおっしゃっていたので、目に快感が流れ込み続けていたのも頷ける。良いワヤンはやっぱり良いし、名人がそこにさらに魔法をかけているんだろう……
 
もちろん、目だけではなくて耳も気持ちいい。演奏それ自体も、だんだん聴き慣れてきて曲を聴いている感じで聴けるようになってきていたし、好きなアンサンブルになるとついニヤニヤしたり(Rebabの音が好き)、力一杯ガムランを叩いてウワーッと演奏が加速する時にも「そんな全力で叩くか!」と心の中でツッコミながらニヤニヤしていた。合唱みたいに歌がたくさん重なる時も嬉しくなってしまう。つまりずっとニヤニヤしている。そして、大きなうねりを鋭く刺すようなシンデン(女性歌手)の歌声にギューッと興奮する。
演奏の静かになった時に、すぐ隣の暗い木々のほうから虫の声がたくさん聞こえてくるのにもかなり感動した。最初それを認識した時、嬉しくて、ちょっと泣きそうになった。演奏ではなく環境音が耳に入ると、自分がここに座って、今まさにここで鳴っている音を聴いているんだという事実がひしひしと実感される。どこだよここ、というくらいの、始めてくる遠い場所の山の中で(※グヌンキドゥルなのでここはジョグジャカルタ)、夢みたいな時間だけど、でも確かに座ってんだ物理的に今ここに、と、思う。それが嬉しかった。
今日まで生きてきて今晩はここに在るこの体で、観て聴いている、異国のこの場所で、こんな夢とか魔法みたいな時間を過ごしている、という事実が、特別すぎる現実が、染み込むみたいに心にくるのだ。生きているのが嬉しかった。足は痺れるし、タバコの煙は臭かった。
 
 
 
 
 
さすがに一晩山の上かつ屋外で過ごすのは寒いだろうと思い上着を持ってきていたけど、それほど冷えず、むしろ途中で暑くなってきて脱いだくらいだった。過ごしやすくてよかった。
 
朝4時前くらいに演奏は終わり、素早く撤収作業が始まった。私たちはまたしても軽い食事をいただいてしまった。本当にありがとうございます…でも、一晩じゅうなんとなくイモやお菓子をつまんでいたのでお腹は空いていなくて、むしろ体は疲れて重く、ほんのちょっとだけ食べるにとどめた。他の留学生たちがモリモリ食べていてタフだなと思った。
 
チャーターしている車の到着を待つあいだ、村の道を、みんなで少し歩いた。来た時にはあんなに沢山あったビカビカの屋台が全部すっかり片付いて、違う場所のように静かだった。岸さんたちと「さっき車で通ったのはこんな道だったんだ…」などと話しながら、きつい坂を、疲れた体に鞭打って登った。まだまだ暗いので、足元に気をつけながら歩くのだけど、星がちょっと見えるので、上にも気を取られながら歩いた。そうやってフラフラともう少し進むと、左手にトウモロコシの畑があった。
 
トウモロコシ畑の向こうは空だった。山の上で景色が開けているから、見上げなくても空が見えるのだ。すごい。見上げずに星を見たのは初めてかもしれない。むしろちょっと見下ろすくらいの感じだ。星座の名前はわからないけど、細かい星が、色の違いとか大きさの違いとかまでよく見えた。ここにくる前にメガネを作り直して本当に良かったと思った。虫の声がたくさん聴こえる。色々なのが鳴いている。皆そこでしばらく車を待つようだったので、わたしはもう少し先へ道を歩いて、ちょっと怖かったけど街灯のない真っ暗なほうまで行ってみた。木々が茂っていたので星は隠れてしまったけど、レコーダーを手に持って虫の声を録音した。静かに息をしながら、真っ暗な木々の合間を眺めたりした。手前の木々のほうが真っ黒で、その向こうの空の方がぼんやり明るい。小雨が降り始めていた。遠くで何度かニワトリが鳴いた。
 
 
 
 
車に乗ってから少しした頃、日が昇って来た。でもピカピカの日の出ではなくて、雲が滲みながら色を変えていくような空だった。さっきまで星を見ていたのに、天気がどんどん変わる。ソロへ戻る道のりは、来る時よりもだいぶ速かった。寝て起きたらもうソロの市街にはいっていて、眠い頭のまま「このままバスターミナルから直接帰ります」と岸さんと仲間たちに伝え、ターミナルまでちょっと遠回りになったりしながら送ってもらった。ちょっとくらい自分で歩けばよかったのだけど、若干お腹が痛くて体も重かったので甘えてしまった。いたバスにすぐ乗って帰った。
 
 
バスを降りると、もう日が高かった。眩しいし暑いし体が重い。排気ガスにむせそうになる。車の音が煩い。あまりにもさっきまでと空気感が違って、雑雑とした日常に帰ってきたことが無性に情けなく思えて、誰も何も悪くないのにちょっと不愉快な顔になった。マスクと帽子で隠しつつ、ひどい顔のまま早足で歩いた。
途中でコンビニに寄って、グァバのジュースとポカリを買って帰った。寝不足の時は固形物は食べずにしばらく内臓を休めると疲れを持ち越さない気がしているので、この日はほとんど何も食べなかった。
 
 
わたしは、楽しかったことの後に体がグッタリしている状態って証拠っぽくて、信用できると思っている。これは誰かに提出するための証拠ではなくて、自分が、自分自身のさっきまでの体験をより深く自分のものとして体に刻んで覚えておくためのヒントだ。今の自分にとって、さっきまでの自分は、油断するとすぐに他人みたいになってしまうし、楽しかった時間ほど嘘みたいに思えてきてしまうので、さっきまでの自分と疲れている今の自分がつながっていると思うために、疲れる体は一役買ってくれる。疲れてんだからホントだろ、と思える。
 
疲れると一時的に憂鬱になったり不機嫌になったりするから、疲れること自体は全然好きではない。でも、疲れは体験の余韻であり証拠だから、本当に楽しかった日は、そこまでを「楽しかったこと」に含めてしまいたい。夢みたいに楽しかった時間も、それに起因する疲労をちゃんと味わうことで、確かな現実として噛み締められる気がする。
 
 
もうあと1週間くらいでインドネシアを去るのだけど、帰国した時に、朝の羽田空港で味わう疲れを想像してみる。寝たら取れるような疲れにそんなに多くのことを託せないし、疲れるためにやってるんじゃないけど。お腹を壊したりしていなければ、きっと爽やかだろうな。というか、なるべく爽やかに帰りたいので、ここからは輪をかけて体調管理に全力を投入していきます。




 
 

夜に息をしている

 
もうだいぶ前になるが、ジョグジャカルタにあるワヤンクリ博物館に行った。さすがに何度もワヤンクリを観ていると、「あの時のあれか!!」というのがたくさんあった。物がただ置いてあるだけで何の解説もなかった(追加料金でガイドを頼む仕組み)ソロの王宮博物館とは違って、一応英語とインドネシア語のキャプションもあったので、小さい博物館だったけれど時間をかけて楽しく見て回った。連れて来てくれたインドネシア人の友人は、わたしが度々ジャワの魔術の名前とか女神の名前を出して「アレのコレですね?!」と言うので「なんでそんなの知ってるんだw」と笑っていた。今わたし「変なガイコクジン」みたいな感じなんだろうな〜と思った。
 
そのワヤンクリ博物館で、色々な「ワヤン・なんとか」を紹介しているコーナーがあり(ここにあったような伝統的なもの以外も含めれば「ワヤン・なんとか」はほぼ無限にありそうだ。ゴミで作ったワヤンで上演をするワヤン・サンパとかもやってる人がいる)そこに、ワヤン・カンチルというものの展示があった。
ここへ来る直前に「今度ワヤン・カンチルがあるけど観に行く?友達がダラン(人形使い)やるんだ」とAndriさんから聞いて、よく知らないまま「行く」と即答していたので、あ!これが!今度観るアレね!と、思えて嬉しかった。情報を得るタイミングがベストだった。
ワヤン・カンチルは、通常のワヤンクリと違って登場するキャラクターがみんな動物である。主人公は子供のシカで、ストーリーも子供向けのものがかかる。博物館の展示には、シカとカブトムシ?とワニとトラと、他にも色々いたけど、木もいた。日本の学芸会にも時々「木の役」があるよ、同じだね、ガハハ、と友人と笑ったりした。物語は、だいたい、賢いシカがトンチで困難を切り抜けていく、みたいなものらしい。一休さんみたいな感じだろう。でも、学校の先生やゲストハウスのオーナーに「今度ワヤン・カンチルを観に行くよ」と自慢しても「何それ?初めて聞いたけど」と全員に言われたので、けっこうマイナーなのだと思われる。
 
 
 
 
そのワヤン・カンチルは土曜だった。さすがに子供向けの演目を、通常のワヤンクリのように朝までやるわけはないだろうと思いつつ、けっこうしっかり昼寝をして万全のコンディションで夕方ごろに家を出た。
上演の情報をくれたAndriさんに連れて行ってもらうことになっていたので、Andriさんの住んでいる隣町までバスに乗った。家を出た時から向こうの空に黒い雲があって、わたしがバスターミナルに着いたとたん物凄い豪雨になった。肌寒いくらいだったけど、バスに乗っているうちに雨は弱くなり、降りる頃には小雨に変わった。
ほどなくしてAndriさんと合流して、出発した。今日の会場は、グーグルマップで見ると市街からけっこう離れたところにある。さては「desa(村)」だな、と思った。村で行われるワヤンのイベントには、以前もAndriさんに教えてもらって行ったことがあったけど、木々や田んぼに囲まれた夜の村に行く、ということがもうすでに楽しいので、嬉しい。
 
 
出発した頃には小雨だったけれど、それもどんどん弱くなって、いつのまにか日がすっかり暮れ落ちて雨はやみ、わたしたちは田舎の道を進んでいた。
雨が上がったばかりの、まだ霧雨がふんわり続いているような湿った空気にはなんとなくコクがあって、東南アジアにいるのだ、と思い出さされるが、標高が高いので全然暑くない。長袖のシャツにレインウェアを羽織ってちょっと寒いくらいだ。
 
この道すがら、ついに心の底から確信したけど、わたしはこの土地の夜のことがとても好きだ。
 
ここの夜は、東京や千葉の夜と違って、人間ではない動物や植物や、魔術や魔物が優勢の時間、という感じがする。
夜空の手前、ここからは遠い向こうのほうには、山や、背の高いヤシの木が真っ黒な影になって黙って並んでいる。自分たちの行く道沿いの木々は、その大きな葉っぱの裏側や樹皮を、ヘッドライトによって下から照らされて、カメラのフラッシュをたいてピントが合っているみたいな質感でハッキリと見える。でもそれは今この瞬間に照らされているだけ、といった感じで、その葉っぱや樹皮のすぐ裏側はもう真っ暗闇なのだ、という凄みを含んでいる。とにかく葉っぱが巨大なので、葉っぱと自分の距離が近いような錯覚すらする。それらに視線を吸われてつられて睫毛がのびるような目つきになる。
 
目的の村に入る直前、だだっぴろい田んぼのあぜ道を抜ける、1分もないくらいの時間があった。
こんなに暗い夜でも、空というのは真っ黒にはならない。手前の山や森のほうがずっと黒い。遠くで雷が光っているのが見える。ガタガタの道を運転しながらAndriさんが「Sawah sawahだね(田園が広がっているね的ニュアンス)」と言ったので、わたしは「sawah sawah…」とオウム返ししながら、ああ、sawahって二回言う表現もあるんだ、「ざわわ」みたいだなあ、と思った。あれはさとうきび畑だけど…
ちょっとその場に止まって味わいたいくらい、「sawah」という言葉のシックリくる具合が嬉しかった。だいぶ前に、美しい山と田んぼの景色を前に「indah(美しい)」が言えた時のことを思い出していた。広くて遠い景色には、語尾のため息のような「h」がやっぱり似合うと思った。
 
 
迷ったわけではないけど、目印がゼロなので途中で何度も村の人に道を尋ね、本当にワヤンやってるのか?と思い始めたくらいの頃に、ようやく会場にたどり着いた。村の集会所だろう、屋根と床と柱だけでできた(プンドポみたいな)建物に、暗幕で壁を作ってあった。テントのようになっていて、みんな靴を脱いであがり、床に座って見るスタイルだった。ワヤンは椅子じゃなくて床に座って見るのが多分、本来の形式だよなあ、と思っていたので、床だ!!!!!!!!と嬉しくなった。
 
この日の演目は、基本は影絵人形を使ったワヤン・カンチルだったけど、たまにワヤン・オラン(人間がやる演劇)に切り替わったりまた人形劇に戻ったりしながら進んだ。シカが…なんか大変そうだな…、ということ以上のストーリーはわからなかったけど、スクリーンのこちらと向こうでシカとワニが会話をしたり、途中でダランの他の2人の俳優も一緒にスクリーンの前に出て来て踊ったりしていて、けっこう楽しかった。人間が演じる劇を久しぶりに見た。俳優たちが顔をまだらに白く塗っていて体の使い方もコミカルだったので、人間がやっているけど人形劇っぽさがあって、愛しかった。演劇やダンスの上演は、その作品以前に、生きている人間を穴があくほど観つめても良い、という珍しい時間でもある。人間を見つめるのは面白いので、上演の時にはわたしはここぞとばかりに穴があくほど見つめてしまいがちなのだけど、それが許されるような観劇の機会を得たのは、そういえば久しぶりだった。大阪の民俗学博物館で様々な民族衣装を見た後にインドネシアに行き、あそこで観たような衣装を実際に人が着て踊っているのを観て「ああ!中身が!ある!」と感動したのは一昨年のことだ。そう、ここは「現地」…。
 
そして、何より、この上演では、ダランがすごく魅力的だった。彼はかなり小柄(頭が大人の腰の高さくらい)で、顔も丸くて声もハスキーな少年のようだった。小学生みたいな容姿(というかわたしはずーーっとメチャクチャすごい子役なのだと思っていたけど、終わった後に他の人に彼の年齢を聞いたら20歳と言っていた。ソロの芸大で勉強をしたという。)も端的に言って可愛かったし、泣いたり笑ったりする彼の姿や声にずっと気持ちを掴まれていた。時々客席に向かって「そうだろ?」みたいにふって、子供や大人からウェーイとレスポンスをもらったりしていた。スターだな〜と思った。観ていて気持ちが良かった。
 
客の多くは子供だったので、上演中も騒がしくて時々セリフが聞こえないくらいだったけど、リラックスした雰囲気は地元っぽくていい感じだった。大人は後ろの方に少しいる程度だった。ワヤン・カンチルの前に、地元の小学生たちが出演する短い自主制作映画と、彼らによるちょっとした演劇が披露されたのもなかなか楽しそうで良かった。客席は大変盛り上がっていた。ワヤン・カンチルは21時くらいに始まって22時半には終わっていたと思う。途中でみんなに食べ物が配られた。床に落ちていたお米を踏んだりして靴下が汚れたけど、寒かったので脱がないでいた。
 
演目が終わると、大人たちがマイクを順番にまわして、演劇に関しての意見交換会を始めた。ジャカルタで俳優をやっているというお兄さんが来ていて、鈴木メソッドがどうとか(聞き取れず)、今度「第九回シアターオリンピックス」に参加するので8月に日本に行くぜ、日本で会おうぜ、と言っていた。目つきとか身のこなしが都会っぽくて、グローバルな現場の人間です!という感じの勢いがあって、おお、ジャカルタの風…とちょっとタジタジしてしまった。
途中、その20人くらいが見ている前で「なぜインドネシアの数ある芸能のなかでワヤンクリに特別惹かれているのか」という質問をふられて、英語でもいいよと言われたけど余計わけわからなくなりそうだったのでインドネシア語で頑張って答えた。あんまり上手く話せなくて悔しかった。
数回お会いしているダラン(人形使い)のお兄さん(Andriさんの友人)も来ていて、彼は今夜はgender(ふわふわした音の、両手で叩くガムラン、ダランの相棒的な役割で今喋っているキャラクターの声の高さを定める手伝いをしているらしい、ダランがセリフを言っている時に他の楽器がみんな休んでいてもこの楽器だけは常にうっすら鳴っている)を演奏していた。でも楽隊の他の楽器は全然ガムランじゃなくて、genderの他にはウッドベースアコースティックギターがいた。
 
意見交換会は1時間半くらい続いたので、終盤になるにつれて、みんながだんだん飽きてきているのがよくわかって可笑しかった。一人ずつがマイクをもらったら一気にぶわーーっと言いたいことを言う、というスタイルで、あまりディスカッションという感じではなかったのでわたしもよくわからなくて飽きてしまった。それがお開きになると一気にバラシが始まった。さっきの小柄なダランもめちゃくちゃ小柄なのだけどかなりこなれた感じで暗幕をテキパキ畳んでいた。暗幕などがひとしきり片付くと、かえって少し空間が狭くなったような感じがした。
また降り出してしまった雨が止むのを待つため、さらにおしゃべりをして時間をつぶし、ようやく帰った。帰りは少し違う道を仲間たちも一緒に通ったので、「ここは昼間に来たら田んぼが見事で景色がいいんだけどなあ」「おれ昔このへん住んでた」「これは競馬場だよ」など、色々教えてもらった。暗くてあんまり見えなかったけど。
 
 
 
 
 
 
繰り返しになるが、わたしは、この土地の夜のことがとても好きだ。日本の夜も好きだけど、それとは全然違う。ここの夜は時々、人間の時間というよりも、他の何かのための時間という感じがする。
人間よりも圧倒的に大きくて生々しい木々、濃い暗がり、人間ではない生きものたちの声。
 
 
それに、夜には、わたしにとって面白いものや、素敵なことが多い。「なんていい昼なんだろう」と思うことはあんまり多くないけど、「これはいい夜だな」と思うことはとても多い。
 
まず、滞在初日に、真っ暗な村を葬式の行列がゆくのを見て、よりによって夜にやるのかよ、怖いわ!と思ったことがあった。ここの夜の第一印象はそれだった。だから、住み始めてしばらくは、日が暮れたら出かけるのはよしていた。歩道には時々穴が空いているし、街灯も少ないので夜はちゃんと暗くて、霊的なことを抜きにしても怖い。
 
また、部屋の外の水道で歯を磨くようになってからは、毎晩必ず、遠くの山の村の明かりがキラキラするのを見ている。晴れていれば月も見えるけど、雲が多くて山の村の明かりさえ見えない日もある。そして、いつも日本の9月の夜みたいな涼しい風が吹く。時々なんとなく何かがちょっと怖いし、雨の時は歯を磨くのが億劫になるけど、そこでの歯磨きは好きな習慣になっている。部屋でギターを弾いて歌うのもたいてい夜で、その時間の静けさのなかで、笛を吹くみたいにほんのり歌を歌ったり弦を爪弾いたりするのはとても心地がいい。
加えて、家の前でいつもトッケーが鳴く。この声がとても可愛い。先日友達に「トッケーが7回鳴いたらオバケを呼ぶんだよ」と教えられてからは不気味さが加わってしまったけど、むしろちょっと不気味なほうがしっくりくる。だってメチャクチャでかくて全身に斑点のあるトカゲだもんな、そりゃ不気味だ。オバケくらい呼んだっておかしくない、、(以後、トッケーが鳴くのが聞こえるたびに何回鳴いたか数えるようになってしまって、先日珍しく6回目まで聞いた時には恐ろしくて鳥肌がたった。オバケは無理)
 
夜に見て印象的だった芸能もたくさんある。ワヤンクリがあるのは絶対に夜だ。ゲストハウスのオーナーと、「わたしインドネシアの夜がとても好きです」「なんで」「ワヤンクリがあるから」「がはははは」「……(そんな笑う?)」という会話をしたこともあった。
バリで見た、オダランという村のお祭りも夜だった。ヤシの葉でできた白っぽい飾りや大量にぶら下げられたオレンジ色の花や黄色い布などの飾りは、暗い夜空とのコントラストによって、より一層輝きを増し、見事な眺めになっていた。客席もガムラン隊も、全員がギュウギュウに集まって中央でバロンが舞うのを見つめていて、ざわざわしているけれどワアワア騒がしいのではなくて、密度の高いような熱狂があった。明け方までこの祭りは続いて、最後には少女たちのトランスダンスがあるのだそうだ。今回は最後まで見ることが叶わなかったけれど、いずれ見てみたい。
 
そして、これは個人的な話だけど。すっかり仲良くなった何人かの友達が、彼らのアトリエや家に連れて行ってくれるのもだいたい晩だ。音楽のライブがあるのも晩だ。しかも例えば20時スタートと聞いてその時間に間に合うように行くと21時に始まるし、終わった後にみんなたっぷりお喋りをするので、たいてい深夜に及ぶ。
 
夜、友人のシェアハウスの庭の木のランブータンを、長い棒を使ってとってもらっては食いとってもらっては食いしたこともあった。美味しいランブータンだからだろうか、アリがたくさんたかっていて、暗くて見えなかったのでうっかり一匹食べてしまったらすごく酸っぱくて、虫を食べて気持ち悪いとかいう以前に笑ってしまった。酸っぱいというか、唇のごく一部がちょっと痺れた。ランブータンの皮を剥く前に、ゆで卵の殻を剥く時のように床で何度もトントン叩けば簡単にアリが落とせる、という、日本ではまず使わない技を教えてもらった。違う品種のランブータンが一本ずつ植わっているので、それらを食べ比べた。しっかり甘くてやわらかいものと、さっぱりしていて食感もシャキッとしたもの。どちらも美味しかった。
このシェアハウスに来ると、だいたいいつも深夜まで、グダグダとおしゃべりをして過ごすことになる。でもみんなムスリムなのだろう、酒は飲まない。温かいお茶を飲みながら、タバコを吸ったり、時々楽器を弾いたりする。何人かはそのへんで寝る。
 
先日泊まった時は、気を使っていただいて、わたしは部屋とマットレスを使わせてもらった。布団はないので、着てきた上着をかけて寝た。電気を消して、真っ暗ななかでさらに目を閉じ、虫の声と、時々鳴く鶏か何かの声と、まだ部屋の外で友人たちがモソモソおしゃべりをしているのを聞きながら眠りにつこうという時、数年前までしていたシェアハウスのことを思い出して、こういうの大好きだなあ、と気持ちがあたたかくなった。
自分は、さすがに大人なので、一人だと寂しくて寝られない!ということはないけど、一人じゃない生活は心の健康にいいと思う。すごく疲れたりしていても、誰かと少しでも笑いつつ言葉を交わせれば、暗い気持ちに飲み込まれずに済む。
先日、学校でけっこう気持ち的にキツイことがあった後、泣いたり怒ったりしないギリギリの表情(真顔)で職員室に戻ったら、AndriさんがYoutubeで音楽をかけながら歌っていて、わたしもよく聞いている好きな歌だったのと、陽気すぎるだろwwというのとで、一気に気が緩んで、なんか笑えてしまって、すごく楽になったということがあった。ギューと縮んでいた体が軽くなったみたいだった。
 
人と話したり笑ったりするのをうまくやれると心が良いコンディションに保てる、という人生の基本が、こっちにきてからすごく重要になった。1人で外国にいて油断をするとすぐ孤独な気分になるので、言葉や笑顔を交わす相手がいるありがたみがすごく沁みる。
そして、言葉が全部はわからなくても話す時にたくさん笑ってくれる人というのが何人かいる。日本語がよく通じるけどあんまり笑ってくれない仕事先の人よりも、インドネシア語か英語しか通じない彼らのほうが、よっぽど深くわたしの心を助けてくれている。たぶん、人と人の間において、知識とか技術としての言葉はさほど重要じゃない。大事なのは笑顔と優しさ……。
 
 
 
いきなりここで友達自慢タイムですが、最近仲良くなったAditという友人も、そういう感じで心を助けてくれる人たちの1人だ。彼は顔が変形するくらい思い切りのいい笑顔をする。日本語は話せない。ジョグジャに住んでいる彼とはライブ会場で知り合っただけあって(他の人に誘われて聴きに行ったライブの企画に関わっていた)、共通の話題が多い。共通の友人もいて、えっあいつと友達なのかよ!というのもあったし、映画や音楽のこと、ジャワやバリの文化のことなど、いろんなことが話題に上がる。歳も近いし、大変人間のできた頭の良い奴で、話しやすい。多分、彼が日本人で、日本で出会っていたとしても、こういう感じで仲良くなれただろうと思える人だ。
 
その彼と話すようになってようやく、わたしは一人称として最もよくインドネシア人が使う「aku」が使えるようになった。「aku」のほうが、「saya」よりも口が早い感じがする。そして語学の授業で習ってから仕事の場で使っている「saya」というフォーマルな一人称で話す時よりも、ずっとずっと楽しく話せる!!
多分、話している内容が楽しいということも大いにあるんだけど、話している感触が全然違うということに、けっこう感動してしまった。話している相手が自分のことを「aku」と言っているのと同じ温度で、同じ速さで、わたしも「aku」と言えるのが、嬉しい。彼の友人と3人で雨宿りをして喋っていた時、彼らの速さに合わせてパパパパ、と喋れる瞬間が何度かあった。あれは「saya」じゃなくて「aku」の速さだった。「いや、それ違うでしょw」とか「わたしも!」とか、そういう短いコメントをパッと挟みたい時には、ある程度、一人称の速さが必要なのだ。
 
 
最近ようやく2年ぶりに会えたインドネシア人の友人がいる。彼は2年前に会った時の英語も早口だったけどインドネシア語で話すことになったら輪をかけて早口で、すごく聞き取るのがギリギリだった。それでもなんとか「aku」の速さなら会話ができて、すごく嬉しかった。やっと自分が、日本にいる時とあまりギャップなく、自分としてここにいて、自分として人と接することができているような気がした。やっとここまで来た、という気分だ。(とはいえまだまだボロボロ語なんですが)
 
もっと長くここにいられたら、きっともっと楽しいんだろう。でも、彼らのインドネシア人同士での会話とか、SNSでの振る舞いとか、いろんなものを見ていて思うけど、私はまだまだこの人たちの世界の外にいる。一緒に過ごす時間が増えるほど、仲良くなるほど、「それでもわたしは一時的にここにいるだけの異邦人なのだ」という切なさがこみあげてくる。体が二つあれば良かった。
 
「aku」と「わたし」がせっかく一つになってきたのに、変な話だ。でも本当に体が二つあれば、片方はここに住みたい。ひとつなので帰りますが。