踊れるかも


先日、自分の書いた作品のなかの言葉について、「〈醤油〉と〈精霊流し(しょうろうながし)〉の「しょう」とか、そういうふうに似た音が、ダジャレとか韻を踏むところまでは行かないけれど、一定の分量のテキストのなかに混在して繰り返されるのを声にしていくと、近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていくような感じがあって、そういうのが楽しいです」というようなことを自ら語っていたことがあって、自分で言っておいて自分で「あ、これだわ」と二重に思った。

言葉の音が意味を超えて繰り返し鳴る感覚は複数の生き物が走っているようだなというところの言語化としての「これだわ」と、自分がこういう身体感覚に基づく比喩を用いた言葉遣いをしがちであることへの「これだわ」だ。


自分の言葉の使い方は、けっこう極端なほどに身体寄りだと思う。もう少し丁寧に言うなら、体と近いところにある声を基準にしている。一人称視点という意味ではなくて、声が音として体と関係していて、高めの密度をもって、独立してそこに在る、というような感覚だ。あまりにもうまく言えなさすぎるのだけど、とりあえずこのまま進めてみたい。



最近は、ZOOMなどを使って、音声と自分の姿の映像を通して人とやりとりをする機会が増えて、自分が人と話す時に体や表情をどう使っているのかを以前よりも強く自覚させられるようになった。それによって、どうやらこれまで自分で思っていた以上に、わたしは手や表情に任せて表現している部分が多い、体も顔もよく使っている、とわかってきた。

人と話す時、目や顔ベースの人と、声ベースの人がいるとわたしは考えている。極端に目や顔ベースの人は、実際に会って話していても、よく目が合うし、表情が豊かだ。普通にいわゆるコミュニケーション能力が高い、という印象だ。しかし、電話に変わるとどうもコミュニケーションの感触が物足りなくなったりすることがある。一方、すごく声ベースの人は、実際に会って話していても、なんかあんまり目があわなかったりするのだが、それがあまり気にならない。そして場が電話に変わった時のギャップが少なく、むしろ電話のほうがうまく色々と話せたりする。声ベースの人は、電話で話す時に目や顔が使えないことがマイナスにならないので、電話の時には声ベースの人のほうが、いつも通りちゃんと話せる感じがある。これは、極端な例のようだけど、ぶっちゃけていうと両者ともにわたしの身近に実在している。(電話が得意な人とそうでもない人というだけで、人としてどちらがどうとかいうことは全然ない。)

そういう考えが以前から自分のなかにあったし、わたしとしては声を使うのが自分の仕事だし自分も声ベースのコミュニケーションの人だとなんとなく思い込んでいた。だが、ここ半年くらいで突然使う頻度が増えたビデオ通話の、画面の中の小さい自分と向き合い続けながら会話をしていくという体験が見せてくれた自分の話す姿は、想像していた以上に、表情や身振りが豊かだった。まあかなり気を遣って意図してやっているのだけど、話す時や声を出す時に体も巻き込んでいくことが、すごくおもしろいような気がしてきた。


先日、自分が過去に発表したパフォーマンス作品を、改めて映像に撮った。その後になって撮り終えたデータを観るのがけっこう面白かった。今まで自分がパフォーマンスしている姿を、ひとつの遠めの定点カメラで見直すことはあったけれど、カメラが3つも、それも顔に注目して手ブレを伴って追いかけ続けているのを見たのは初めてだった。自分の表情がすごく豊かに変化していくのが客観的に見えて、おもしろかった。基本的には自分でも知っている顔なんだけど、たまにすごいブサイクな瞬間とか、稀にめっちゃカッコいい瞬間もあって、興味深さ半分、可笑しさ半分だった。それは、表情で見せてやろうという気概や狙いは特になく、声を出すことを基準にして顔が動いていった結果だった。つまり、表情で表現していたのではなく、声の表現のために表情を経由していて、それがたまたま面白かった。声の表現の幅のぶんだけ、表情にも幅があった。

そして、表情よりも少し引いた視点で、ダンス未満のような、踊ってしまうような身体が自分にあるのも最近改めてわかった。

ここ1ヶ月くらい、ダンサーの友人の誘いにのって、カメラを携えて即興的に踊ったり歌ったりしながら移動したりして遊んでいくのを撮ることを繰り返している。1回目の時には、わたしは「え〜!わたし踊りませんよ」とか笑いながら言って、まあビビっていたのだけど、ぎゅんぎゅん踊っていく友人に触発されて次第に、声を出すことにも踊りの気分がある!とか言って、全然かっこよくないながら、体を動かすようになってきた。
日をおいて、2回目、3回目、と同じルールで繰り返していくごとに、わたしも走ったり、腕を持ち上げてみたり、足を高くあげて葉っぱを蹴ってみたり、飛び跳ねるように歩いたり、摺り足になったり突然立ち止まったり腰を低く落としたり、そういうことをやるようになった。映像に写す「踊り」として出力しようとは思いきれないが、「歌」を発するのに付随する、声のために身体を経由する、という攻め方でなら動けた。

たぶんこれは「ノリノリ」というやつだ。「よっとお〜」と言う時に、体が静止した状態でそう言ってももちろん良いのだけど、例えば、なんとなく持ち上げた右腕を少し曲げて、肘を下げるように腰のほうへ15cmくらい素早く引いたところで腹筋を使ってグッと止めて、その止まるエネルギーを開放するように頭上へ、手を放るみたいに伸ばしていきながら、「よっ(停止)、とお〜(解放)」と言ってみると、なんかめっちゃ楽しい。シックリくる。ノリノリである
おそらく、平井堅とか声楽家の人とかが音程を正確にとるために歌いながら手をメーターの針みたいに上下に動かすアレとかと、近いものだと思うのだけど、言葉を音にした時の非言語的なシックリとか、音が身体と交わる部分が、まだ「ノリノリ」とか「こうするとなんか音程とりやすくなる」みたいな、フワッとした言葉でしか説明できないことにわたしはワクワクします!(自分が知らないだけでこれの科学的な研究とか普通にありそう)


ノリノリ続きで最後にマイクの話、というよりマイクの前にいる時の話がしたい。この数ヶ月、人前でパフォーマンスをする機会が減り、自宅でマイクを前に声を出している時間が増えた。それは歌の録音であったり、朗読の録音であったり、それこそ先述の発見を促したZOOM会議であったりしたけれど、その時のわたしの身体は、けっこう楽しく踊っていた。この音をのばしていく時には目がカーテンのあのあたりを見ていると良い感じだ、とか、朗読をしながらちょっと腕が踊ったりするのが心地良かったりとか。短編小説をノリノリで朗読していたら「面白いねえ。」という象のセリフがあり、その時に自分が目を細めていて、続きを読んだらその象が目を細くしていたという描写があり、シンクロしていた!ということもあった。体が丸ごと文章に浸かっていたのが分かったような、心地よい喜びがあった。
この文章の初めに書いたことーーー複数の言葉のあいだにある共通の音(ex.「しょう」)が何度か鳴るたびに、それらの音が近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていく感じがする、というすごく身体的な言葉の選び方、聞き方、発し方ーーーと、すごく親和性がある。なんかちょっと頭がよくなったような気がしてきた〜ァ

たぶん、わたしはそういうノリノリ、つまり体が全部つながって、一斉に何かに反応している状態のことが楽しくて、好きで、これを信頼している。人と会って話したり、同じ場所に集まって一緒に何かをする時にはそういうことが普通だった。でかい音で音楽をかけて踊るようなことが、定義を少し広くとってみれば日常に溢れている。




記録メディアは、せっかくノリノリになっている身体であっても容赦無く切り刻むし、ZOOMの画面ミュート機能はコミュニケーションとしてはしっくりこない。自分の場合は電話は楽しいし、録音という方法ならば比較的しっくりくるのだけど、それでも、何らかのメディアを間にはさんだ時の、片腕が肩からゴッソリ切り落とされているような、痛いくらいの激しい「片手落ち」を感じる。マイクと出会って、録音されて、きれいに整えられた自分の声は、もうわたしの声ではなくなる。

でもそのゴッソリ片手落ちの声が、楽しくなってきた。録音したり、他の人の声と重ねたりを繰り返して自分の声を客観的に把握していくと、だんだん「こういう器官」というような割り切った感覚になってくるし、自分の声のこのざらっとした感じがいい感じに聴こえるように録音したいとか、そういう考えも浮かぶようになった。
身体表現は、自分の体が自分の体になりすぎて突き抜けて離れてしまうまでいって初めて、誰かの何かになれるのではないかと思う。手を貸すみたいに声を、貸しだす、というより、もはや晒すとか捧げるみたいなギョッとするような言葉がしっくりくる。聴く人の耳を喉に招待する、とも言ってた(わたしが)。(気持ち悪いですね)
それを今の自分が肯定できるのは、逆説的なようだが、踊りながら歌ったり喋ったり呼んだり読んだりしてしまうこの肉体だけは、誰にも譲らずに済んでいる!俺のだ!という確信があるからだろう。基地があるから出発できる少し無謀な旅というのがあります。こっち側の端っこを、手綱をしっかり握れているというような。

そういう感性が育ってきたので、以前はあまりそう思えなかったけれど最近は、誰が書いたどんな歌でも歌えるような、どんな文章でも読めるような、そういう気がしている。
まあ、気がするだけで実際は決してそんなことはなく、わたしには到底歌うことができないような歌、読めないような文章やセリフがあるのだけど、それでも少しずつ、わたしの声がわたしの声ではなくなっていくようなことを肯定できる回路が見つかった気がする。いよいよシャーマンか、トランスか………