木を見ることについてと、景色を見たことについて

 
走行中の乗り物から、窓の外を流れて行く景色を見るのが好きだ。昔からずっと好きだけど、異国でのそれは輪をかけて楽しい。
町の看板の文字がだんだん解読できるようになってきたのも楽しいし、人が!あんなところに!?と二度見したくなることも多い。自分で運転ができたらどれほどいいだろうと毎日思う。まあ、景色に関しては本当にあらゆることがおもしろいんですが、今回は木々を見ることについて書きたい。
 
日本にいた時、わたしは集合住宅などの庭の木や花の世話をする会社でバイトをしていた。あんまり日数は働けなかったけど一応三年ほどは続けて、本当によかったと思っている。あの仕事のおかげで、だいぶ、草木を見分ける力がついた。窓の外をビュンビュン流れていく景色のなかの緑色を見る時、その緑が漠然とした一色ではなくて、「さっきもあったあの木だ」とか「もうこの花の季節か」といったように、気候や季節を肌感覚だけではなくて情報っぽく受け取れるのがおもしろい。名前はわからなくても、あの時にあそこにあった、あれと似た種類のあの木……、と覚えておける程度の解像度はある。
 
今年の春に韓国へ行った時、川沿いの公園で梅の花が咲き始めているのを見た。日本はもう桜が咲き出している頃だったけど、韓国のほうが少し寒いので時期がずれる。でも梅はある。わたしは、外国はほぼアジアしか行ったことがないので地球の他の地方のことは知らないけど、少なくともアジアのこの辺りの草木は共通しているものが多くて、国は違っても海を隔てても土地の質感が地続きだというのがわかって、なんとなく嬉しい。台湾へ行った時にもインドネシアへ来た時にも立派なガジュマルがそのへんにたくさんあって、それを見つけては「沖縄以南だな〜」と思っていた。竹にまつわる昔話が残っている地域も、インドネシアやフィリピン、台湾をつたって日本まで伸びているというのをかなり前に先生から聞いた。
植物は「面」という感じが強い。べたーーっと広く、地面にはりついて生きるのは、人間の自分とは全然ちがう。やつらは場所との相性が直に自らの生死を左右する仕組みで生きているので、人間よりもずっと切実に場所と共にある。地面を離れたら自力では生きていけない。木の在り方は、ほぼ場所だ。
 
そして、ここへ来て景色をみている実感として、インドネシアの道端にある草木と、日本で見かける草木とは、意外とかぶっていない。竹はあるし、イネ科っぽい雑草もあるし、山の上へ行くと松もたくさんあって、似ているものもそれなりにあるけど、少なくとも私の今滞在しているAmbarawa周辺の木々は、ほとんどが日本では見かけないものたちだ。そういうわけで珍しがってよく見ているせいか、最近は街で見かける木々の顔ぶれが徐々に把握できてきた。
 
いつも通る道の曲がり角にあるあの木と、校庭にある大きなあの木と、ゲストハウスの中庭にひょろっと高く伸びているあの木とが、みっつともよく似ているな…とある時ふと思って、次に見る時に意識して確認していったら、全部同じものだと先日わかった。名前はわからないけど、傘のようにひょろひょろと垂直に幹を伸ばし、てっぺんでワッと枝葉を広げる形が特徴的だ。
あと、この辺りには、所々にコーヒー畑がある。少し山を登ったところの村に、カフェを併設しているコーヒー畑があって、遠いけど気に入ったので、二回行った。カフェは静かで涼しくて、素人のわたしでもわかるくらいコーヒーが美味い。そこでコーヒーの木(収穫のために背を低く抑えて剪定してある)の姿を見て覚えていたら、後日、時々通る大きい道路のわきにたくさん生えているのが全部コーヒーの木だ!!とわかった。その近くにもやっぱりコーヒーを売りにした観光スポットがある。その知識も備えて引き続き車窓からよく見渡してみたら、そのへん一帯がみごとに全部コーヒー畑だった。なぜかコーヒーに混じって他の背の高い木も植えてあるので、ぱっと見た印象が畑っぽくなくてそれまで気付けなかったのだけど、同じ木がたくさんあるな…と思っていたのが、コーヒー畑だとわかってちょっと誇らしいような気持ちになった。地図に色を塗りたい気分だった。
 
また、果物が生る木はパッと見てすぐわかる。一番よく見かけるのはマンゴーとココナッツとバナナ。ジャックフルーツもよく見る。かなり巨大なトゲだらけの果実は迫力があっていい。ドリアンもそこそこ見かける。ちょっと珍しくて、見かけると「オッ」となるのはカカオだ。木の枝に直接、カカオの実がプリッと生っていておもしろい。
 
日本語の先生が「あそこにドリアンの木があるでしょ」と校舎の2階から遠くを指差して教えてくれたことがあった。庭先の木から小さくてすっぱい赤い実をとってくれたこともあった(しぶくてすっぱくて美味しくなかった)。生物の先生も「僕のうちにはランブータンの木があるよ」とか「あの先生のうちにはドリアンの木があるのでそれをこの時期はみんなで買うんだ」と言っていた。一緒にいただいたそのドリアンは、旬ということもあってか、明確に美味しかった。今までドリアンを食べた時は、慣れない味すぎて好きとも嫌いとも言えないなあと思っていたけど、美味しいドリアンは美味しいんだとわかって、それはけっこう嬉しかった。
ここでは人と木の距離がとても近い。果物の生る木が多いから、木を見分けることがごく普通のことなのだろう。
日本で暮らしていて、わたしはあのバイトをしていなかったら、今ほど木に興味を持っていなかっただろうし、木の見分けなんてついていなかったと思う。日本の街中にあって気軽に実を食べられる木といったら秋のイチョウくらいで、街路樹の名前がわかるとか、そういうことは自分の生活や命とあまり関係がない。でも、ここでは関係がある。一年中、あらゆる木に生る実を食べられるからだ。食べることが、木と人の距離を縮めている。みんな、どんな風に果実が生っているのか分かって食べている。前回、動物と人が近いような感じがするというようなことを書いたけど、こちらの飲食店の看板は料理の写真よりも動物の絵が描いてあることが多くて、みんな自分が食べている肉がもともとどんな生き物だったのかちゃんと分かって食っている感じがする。だいたいの鶏肉は骨つきだし。
 
 
 
 
 
木を見ることとは違う話になるが、先日、少し遠くの釣り堀のようなところへ、友人の家族に連れて行ってもらった。日本でいう川床のような、高床になっているところでナマズを食べ、小さな池でアヒルボートを漕いで遊んだ。食べている途中で強い雨が降り出すし、朝からずっと曇っていてかなり寒くて、わたしは体調もあんまりよくなかったので大変だったのだけど、その帰路がすごくよかった。
 
さっきまでの雨が小雨になって降り続いていて、依然として肌寒い。でも、胃は痛いし悪路も続いていて酔いそうだったので、わたしはメガネに水滴がつくのはすっかり諦めて、顔を雨と風にさらして窓の外の景色を見ていた。
わたしたちを乗せた大きな車は田舎道をガシガシ走って、森のようなところにある古い家々のあいだを抜けて、鶏が歩いているのを轢きそうになったりしながらどんどん進んだ。ひとしきり走った頃、木々や家々の間を抜けると、そこは広々とした田んぼだった。すでに収穫の済んだところとまだのところとが混ざっている。少し遠くのあぜ道にはとても背の高いヤシの木が並んで立っていて、さらに向こうのほうには、山がみっつほど重なり合って彩度の低い青のグラデーションをつくっていた。そこに白っぽい霧のような雲が低く漂って、早朝みたいな静けさだった。山は、どっしりと重たそうに霞んで、巨大だった。
 
急に景色が開けてそれらが目に入った瞬間、すごく気持ちが良くて、ワア〜〜!と声がでた。続けてわたしは「indah...!」と低めの声で呟いた。自分の口からふわっと出て来たそのインドネシア語が、なんだかじんわりとした質感をもっていて、心がちょっと立ち止まった。
 
 
少し前に「indah」は景色に使う「美しい」で、人には使わないんだよ、と友達が教えてくれた。(人が美人だとかいう時には「cantik」という。)その後、すでに何度か景色が見事だった時に「インダァ!」と言ってきたけど、あの車窓からの眺めを前にした時、あれが、わたしにとって、初めてちゃんと本当の「indah」が言えた瞬間だった。
 
正しい発音ができたかどうかとかは全然わからないし運転をしていた友人の父も助手席にいた友人の母も、「そうだねえ山だねえ」みたいな反応だったけど、わたしは一人でけっこうグッときていた。
インドネシア語の「h」の発音は日本語にはないのでちょっと難しくて、意識して丁寧に発音しようと心がけてきたのだけど、この時ほどこの「h」の存在感がしっかりと胸に染みたことはなかった。なんというか、その景色を前にした感動が、語尾の「h」の、ため息みたいな低い声にまでのった気がした。口から出た音と、目で見た景色とが、ついにちゃんと結べたような感触があった。「インドネシア語で景色が見えた」と言ったら言い過ぎかもしれないけど、それくらいの感動だった。
 
 
その、ほんの一分くらいの出来事に、わたしはすっかり心をもっていかれて、道が変わって景色が見えなくなるまでの数十秒、顔にあたる小雨と風の強さに目を細めていた。体だけじんわり暑くて、顔は雨と風で冷たいのがちょっと可笑しかった。
 
 
 
 
 
 

各々、たくましく

 
先日、ゲストハウスのオーナーとなんとなく立ち話をしていたら、1時間たっていた。
 
1時間も笑いながらあれこれ他愛のない日常の話ができたという大きな進歩があまりに嬉しくて、その後はオーナーと話すハードルがいっきに下がり、毎日なんとなくいい感じで話せるようになった。最初のころ、話しかけられるのが怖くて、怖いあまりつっけんどんな声で返事をしたりしてしまっていた自分が恥ずかしい。
 
このゲストハウスの庭には、果樹が数本あって、そのうちのひとつにsirsakというのがある。トゲトゲしていて緑色で、ゲンコツ三つぶんくらいの大きな実ができる。ズッシリと重たく、皮を剥くと果肉は白くてヌルッとしていて、甘味と酸味が効いている。冷やして食べると美味しい。カタカナではサワーソップと呼ばれる熱帯のフルーツで、調べてわかったのだけどかなり栄養豊富らしい。
 
最近わたしに仕事関係の来客があった時に、二人でお食べ、とオーナーが大きなsirsakをひとつくれたのだが、その皮にビッシリと白いカイガラムシがついていた。日本で見るのと同じだった。バイトで散々駆除してきた虫に、インドネシアでも再会してしまった。ただでさえトゲトゲしていて見た目はちょっと怖い果物なのに、それに加えて、これでもかという数のカイガラムシ。ちょっと前までの自分だったら、うええええキモい〜〜という気持ちが勝って尻込みをしてしまったであろうグロテスクな様相だった。でもその時は、すんなり受け取って部屋へ持って上がり自分のナイフで切って皮を剥きひとくち大に切りながらグラスにいれてスプーンで食べるまでに迷いやビビりがなくて、ちょっと誇らしかった。以前、切ってもらってビクビクしながら食べた時よりも美味しく感じた。(この食べ方は前回、オーナーの奥さんが教えてくれた。)
 
 
 
 
先週末に動物園へ行った時、あまり元気ではない動物も表にいたのが印象に残った。怪我でもしたのか、片足が変形していて歩きにくそうなヒクイドリもかなり長い時間をかけて見てしまったけど(太い3本指の足や青いデコボコした顔、そして硬いコブと嘴が恐竜のようでとてもカッコ良くてわくわくした)、一番ショッキングだったのは、絶不調のビントロング(クマジャコウネコ)だった。
遠くから檻がみえた時には、おっ、寝ている黒いのがいるぞ!たぬきかな?と、かわいい姿を期待して近づいたのだけど、近寄ってみたら、彼は寝ているわけではなかった。鉄格子の囲いのすぐそば、地面から170センチくらいの高さにちょっとした木の床が設えてあり、たぬきよりもふた回りくらい大きな黒い毛の動物が一匹、その上で腹ばいになっていた。首から先をその床からダラリと宙ぶらりんにして、顔は力なく真下を向いていた。首の付け根が痛くなりそうな姿勢だ。どんな寝顔をしてんだろうと覗き込んだ瞬間、びっくりして思わず鳥肌がたった。
真っ赤に充血した両方の目玉が、重力による圧のせいだろうか、大きく見開かれたまぶたの外に飛び出しかけていた。一点を見つめているようでもなく、見えてすらいなそうな、生気のない顔だ。かなり長い時間この姿勢のままなのだと思われた。開きっぱなしの口から時々よだれが垂れる。歯茎も腫れていて、時々舌が動いて鼻先を舐めるのだけど、それ以外には呼吸しかしない。長いヒゲもひょろひょろしていて覇気がない。苦しそうだった。
 
ビントロング、なんて全然わたしには馴染みのない生き物だけど、それでも、目の前のその生き物が明らかに何かの痛みに耐えているのはすぐにわかった。一緒に見て回っていたマダムも、「寝てるのさぞかし可愛いじゃろ〜^^」とニコニコしながらわたしに追いついたのだけど、その動物の異常な様子を見てすぐに「うわあ…病気だね…」と心配そうな顔に変わった。二人でしばらく檻の前に立ち尽くしていた時、わたしは「生き物って、言葉も種も何も関係なく、調子が良いか悪いかはわかるんだなあ」ということに妙に感心していた。
 
動物園で調子の悪い動物も晒しておくというのは、きっと本来的には、その動物にとっても、見にくる我々の衛生的にも良くない。でも、動物園というのはもう「動物園である」という時点でけっこうな残酷さがある、というのをかなり強烈なビジュアルで目の当たりにしたら妙に納得してしまって、その感じはもはや不快ではなかった。もうあれから一週間ちかくたったけど、あのビントロングは今頃どうなっただろうと今だに思い出して、痛いような想像がついてきてしまってソワソワする。
 
 
インドネシアに来てから、調子の悪い動物とか、死んだ動物を見る機会が多い。人間も、死んだ人はさすがに見ていないけど、調子が悪そうな人は何人か見た。病気をもっていそうな痩せた猫も時々いるし、道でさっき轢かれたばかりの大きめのネズミも見たが、目を背けたくなる鮮度だった。アスファルトの上でセンベイ状になっているカエルや小さいネズミなどは、毎日のように見る。
だが同時に、生きている動物を見る機会もとても多い。そのへんの道では脚の長い鶏がひよこと一緒に歩いているし、屋台でカラーひよこや殻に絵を描いたヤドカリも売っている。すぐ近所の市場では毎週、大きな牛がたくさんトラックで連れられて来て売られている。鳥や猫を飼っている人も多い。市場では馬車も走っている。
 
そういう場所だから、人間がトラックに溢れそうなほどたくさん乗って仕事へ向かうのとか、そのへんで居眠りしているのとか、バイクが器用に車のあいだをすり抜けていく姿なんかが、他の動物の営みと、あんまり遠くないような感じがする。入院している人を見舞いに行った時、その人のベッドの周りにマットを敷いて、家族たちが床でだらだらお菓子を食べたり寝ころがって喋ったりしていて賑やかで、なんだか元気な人と元気じゃない人の差が歴然と見えていて不思議だった。どちらもそれぞれの調子で生きていた。
 
わたしが客として人の家にお邪魔した時も、その家族のお母さんは、ひととおりご馳走の用意が終わると床に敷いたマットに寝転がってテレビをみていて、そのマイペースさを前にしたら、こちらも気を遣い過ぎずにくつろげた。嬉しかったし、ありがたかった。
いろんな友人が、一緒に出かけたりした時に「ちょっとお祈りをしてくる」と言って5分か10分くらい姿を消すのにも最初は戸惑ったけど、各々が一人一人で考えたり信じたり祈ったりして生きているのを日常の中で感じられるのは良いなと思う。
 
各々が各々できちんとやっている、というのが大事だ。バス停のないアンコットだって、使っている人たちがルールをわかって守っているから成立している。飲食店も、伝票を使わない店は自己申告制で「これとこれをいくつ食べました」といってお金を払う。
なんとなく、その場に連帯感がある感じなのがいい。みんな知らない人とよく話す。
 
さっきも、暗くなってから家までの少しの道を歩いていた時、前方におばあさんがいて、あ、おばあさんだなあ、帰る方向が同じなのかなあ、と思いながら自分の影が彼女の足元まで伸びているのを見つつ、ちょっと足音を気にしながら歩いていたら(なぜか怖がられてしまうような気がしていた)、ふとこっちを振り返って挨拶をしてくれた。
ちょっとびっくりしたけど挨拶を返したら、なんとなく会話が始まって、あんまり聞き取れなかったのだけど「コレア」と聞こえたので、察して、日本から来ました、と伝えたあたりで、行く道が別れた。なんでもなく、またねえ、みたいに別れた。
 
こういうなんでもない会話をする機会が本当に多い。言葉が下手くそなわたしでもそうなのだからすごい。
ここでは、違う宗教をもった違う民族同士が一緒に暮らしている。それをみんなが自覚している。異邦人である今のわたしでもそれなりに居心地がいいのは、そういう理由もあると思う。
つい、一人でやる、一人で行く、という方向性で日々の活動をしがちな人間としては、動物までも含めて、各々が各々で、でも連帯感をもって協力しあってやっている、この雰囲気は好きだ。人間関係のいざこざとか、もっと入っていけば面倒なこととかも出て来るんだろうけど。
 
思い切ってインドネシアに移住してしまう、という未来は、全然想像できないから多分ないけど、日本で楽しく暮らすためにここで考えられることは、まだまだたくさんある。引き続き、とりあえずは春までお世話になります。
 
 
 
 
 
 

近況報告

 
11月9日 金曜日 
 
あっというまに11月になった。日毎に日本との気温差が開いていくのを、実感はないけど想像している。カレンダーは11月なのに暑いので、日本で二十数年かけて11月に任せてきたイメージと噛み合わない。日付がただの数字然としてくる。
 
最近ようやく雨季らしくなってきて、毎日雨が降る。夕方や夜に一気にくるのが基本だけど、一昨日の昼間には、バケツどころかプールをひっくり返したような、ものすごい雨が降った。とにかく勢いと音がすごいので、つい楽しくなってしまう。でも昼の雨はすぐにあがる。降る前よりも涼しくなるので、日本の梅雨とは全然違って爽やかだ。
日本から持ってきたものを使い切ったのでこちらで新しく買ったボールペン(種類の違うのを3本買ったうちの一本)も、もうほとんどインクがなくなった。日記や会話の時のメモ、勉強など、紙に文字を書く量が以前よりもかなり増えていて、この感じは心地がいい。シャーペンや鉛筆よりもサラサラと軽い力で細かく濃く書けるのが好きで、そういうボールペンを選んで使っているけど、この半年で何本使うことになるだろう。
 
数えてみたら、もう48日目になるようだし、ぼちぼちインドネシア語の上達を感じていたいところなのだけど、むしろまだまだだという気持ちがどんどん強くなる。
耳が慣れて相手の言葉を聞き取れるようになってきたのはとても実感している。さっき、偶然ごはん屋さんで会ったジャワ語の先生と、かなりギリギリな言葉と身振り手振りと辞書を組み合わせてではあるけど、なんとか途切れずに、したい会話ができて、かなり成長を感じた。でも、聞き取れているだけに、スピーキングが追いつかない悔しさが大きくなってきた。
そういうわけで、もっと真面目に勉強をやろう思う。心や体力の余裕も出てきたし、その日に新しく知った単語を小さいノートに書いて、細かい時間で暗記をしていくのを昨日から(昨日から!)始めた。実際の出来事の記憶と一緒に覚える作戦。あと今日から、インドネシア語の日記もじりじり書く。Google翻訳を使わないで友達のメッセージに返信するのはできるようになりつつある。綴りを間違えるけど。頑張ります。
 
 
自分の滞在している部屋はゲストハウスの一室なので、他の客やオーナーに会うのが怖くて最初は自室に引きこもり気味だったけど、だんだんオーナー夫婦と笑顔で会話ができるようになってきた。もう最近は10分だけの近所の散歩にも出るし、気軽にお湯を沸かしたり冷蔵庫にヤクルトを取りに行ったりもする。日頃インドネシア人とだけ接しているので、自分にとっての日本語が、人を相手に喋って使う言語ではなく、文字で書いたり読んだりするための言語になりつつあって、ちょっと暗号とか秘密みたいだ。引きこもる言語というか、内側の言葉という感触。
 
暮らしに関しては、歯を磨くのを外の手洗い場ですればいいんだ!!と、ある時ふと気づいて、それからは歯磨きが楽しい。風を感じながら歯磨きと簡単な筋トレをするという良い日課ができた。なぜ外で歯を磨くことになったのかというと、自室に洗面台がなく、シャワールームは「トイレの壁にシャワーもついています!」というつくりでバスタブがない(シャワーと同時にトイレもびしゃびしゃに洗われるのでいっそ清潔な感じがする)ため、排水は床の角の排水口一箇所で、歯磨き後のうがいを床に吐くのとトイレに吐くのと、どっちがいいのかわからず、どっちも試してどっちもなんか嫌だったからだ。外で爽やかに歯磨きをするようになって、グッとQOLが上がった。
 
オーナーのおじさんとは毎日顔をあわせる。先日、ついに「ギターいつも弾いてるの聴いてるよ〜」と言われた。やばい、夜も時々弾いてしまっているし、根本的に歌の声が大きい。他のお客様のご迷惑となります、かな、ごめんなさいすみません、、と一瞬でワッと考えて胃がギュッとなった。でも、恐る恐る「ぼ、boleh………?(〜してもいいですか?)」と聞き返したら、「Boleh!Boleh!(いいよ!全然いいよ!)」といい笑顔で言われた。近所の音楽教室とか、アザーンとか、雨とか、かなりうるさいし、ギターと歌くらい、いいだろう!と正直けっこう遠慮なくやっていたけど、よかった。でも、まあ事実としては完全にご指摘だし、夜の音量には気をつけようと思った。インドネシアの人ってこんな音環境で、どのくらい近所迷惑とか思うんだろうか、というのは以前から気になっていることなので、この件に関する第一歩が始まったなと思った。
 
 
かねてから気になっていた、トランスの受け入れられようについては、想像以上に収穫があった。まずは絶対に見たかったジャワのトランスダンスが観れた。
自宅から歩いて5分程度の場所に、家々に囲まれて小さな広場があり、そこでジャティラン(竹製の馬の盾のようなものや鞭をつかって踊る)やレオグ(大きくてグロテスクな被り物をして足に大量の鈴をつけて踊る)といったジャワの踊りをやっていた。日曜日の午後だった。地元の人ばかりが集まっているようで、観客は70人程度で、パッと見た感じ外国人は自分以外に一人もいなそうだった。子供たちも踊りやガムランを披露していた。食べ物の屋台がいくつか出ていて、それの客寄せのための安っぽい電子音楽が踊りの音楽と混ざってしまってうざかったけど、でも、そうだ、こういうとこだ〜と思った。この、無神経な感じは、ここで半年眺めたいと思っていたもののひとつだ。(そうは言ってもあらゆる場で耳にするPAのバランスがことごとく酷くて、それは堪え難いものがある。必ず低音をきかせ過ぎてモワモワしているし絶対的音量もかなり大きいので、テンションの高い司会者が大きく息を吸ったのを見るとわたしはこっそり耳をふさぐようになった)
 
広場には、木のチップを敷いて竹の柵で囲まれた20m四方くらいのアクティングエリアが作られており、その向こうにしっかりとしたステージが組まれ、ガムランの音楽隊が座っていた。トランスにはいるダンスはプログラムの最後で、10代くらいのとても若い男の子たちが七人くらいで激しく踊ってトランスにはいり、術師たちの力をかりて気絶して舞台裏へ運ばれて行く、というのを、ひたすら続け、全員が終わるまで観客みんなで見守った。最後の一人が運ばれて行くとすぐにお開きになった。
トランスにはいっている時は口にものをいれたくなってしまうと2年前にインドネシア人から聞いたことがあったけど本当らしかった。カゴにいっぱいの花(術師がダンサーに向かって蒔いたりする)をムシャムシャ食べだす者、何かの根っこ?芋?のようなものを生のままボリボリかじる者などもいた。トランスにはいっているわけではないんだけど、直径30センチくらいある木ノ実を両手で持って、口で豪快に固そうな皮をバリバリ剥いて中のジュースを飲んでいる男の子がいて(みんなそうしていた)それもけっこう迫力があった。3つくらいそのようにして剥いて食べていた。歯が強い。
途中から来た友人やゲストハウスのオーナーにも「怖かった?」と聞かれたけど、トランスそのものよりもむしろ、術師が男の子たちの額に触れたり首や頭をちょっとグッとやるとスッと気絶するのが一番怖かった。彼らの家族たちはどんな気持ちで見ているんだろう。術師は男の子たちにタバコを咥えさせたり小粒の何か(薬だったのか、謎のまま)をポケットから取り出して一人ずつに手渡して食べるよう促していたりもしていて、厳密に音楽と踊りとお面だけでトランスにはいっていたわけではなさそうだ。帰国までにできればあと二回くらい遭遇したい。
 
あと、派遣先の高校で、悪い霊に取り憑かれてしまった女子生徒の除霊をするという事があった。今週の月曜日だった。授業と授業の合間、図書室の一角で日本語の先生とお喋りしていたら、女子生徒たちが大勢で一人を抱えてやってきて、近くのソファにその子を寝かせた。悪魔が入ったんだという。見ると、夢にうなされている時のように、目はつぶったまま汗をたくさんかいて、ずっと、うーーーーと低い声で唸っている。涙も流している。ここはイスラム教の学校なので女子生徒は全員ジルバブ(ヒジャブ)をしているのだけど、運ばれて来た生徒はそれを外していたので、ジルバブの日焼けのあとがあらわになっていた。目尻から耳にかけての、いつもは人にも太陽にも晒されていない肌はとても綺麗で、ついちょっと見惚れてしまった。ムスリムの女性たちは、きっとメガネ焼けや水着焼けならぬジルバブ焼けをしちゃうんだろうな、ちょっとヘンなの、と勝手に想像してそんな風に思っていたけど、実際にみたらその日焼けのコントラストは美しく思えて、そう思ったことが意外で、こんな時に不謹慎かもしれないけど、密かに嬉しかった。
一緒にいた日本語の先生が、女子生徒の足の指や手の指を爪で強く掴んだり、顔を叩いて名前を呼んだりしたけれど、ほとんど反応がなく、やがてお祈りが始まった。先生がその女子生徒の額に右手を当てて、とても小さい声でブツブツと唱えるのを、周りの生徒たちもみんな真剣に見守っている、かと思うと、そうでもない。普通に冗談を言って笑いあったりどつきあったりしている。どのくらいの深刻さでここに立っていたらいいのか、よくわからない。それでもちゃんと心配はしているようで、30~40分くらい、お祈りをしたり顔を叩いたり鼻をつまんだり、みんなで口々に名前を呼んだり、紙と鉛筆を持たせて名前を書かせようとしたり(今彼女の体に入っているのは彼女ではなくdedemit(妖怪、悪霊)なので、なんとかして本人を呼び戻す必要がある)、お茶を飲ませようとしたり、生徒たちも色々試みていた。その女子生徒は20分くらいしたところでなんとか起き上がって座れるようにはなったけど、先生の力では除霊しきれなかったらしく、授業も始まってしまうので、学校の近所に住んでいるもっと除霊が得意な人に続きを任せることになり、またその女子生徒は運ばれていった。
先生によると「学校にはわたしの他にもう一人、除霊ができる先生がいます」「運ばれていった女子生徒のクラスの教室のすぐ外はお墓になっているからそれかな〜」「去年と一昨年はほとんどなかったんだけど、なぜか今年はもう3人目です」とのことだった。突然取り憑かれてしまう生徒がいる、とは聞いたことがあったけれど、いざ目の当たりにするとさすがにビビるし、普通に高校の教師なのに「簡単な除霊ならできる」なんて、かっこいいけど、どういう感覚なんだろう。同じようなことは日本でもありますか?と聞かれ、あんまりないですと答えた。答えつつ、まあ、日本にもあるんだよなと思った。
 
 
 
 
心に負荷の大きい事件もあった。
最小の文字数で要約すると、ここへ来てすぐ仲良くなったインドネシア人の友人(男性)に恋愛的な好意を寄せられあまりにグイグイ来られ心が限界になり「そういうのは無理です」と伝える、ということがあった。彼の名誉のために言っておきたいのだけど、その友人に落ち度はないし暴力的なことも一切ない。ただ、わたしが勝手に、めちゃくちゃ傷ついて疲れてしまって、丸一日、全ての気力を失って寝込んだ。
彼はその後もケロっと「じゃあ友人てことで今後ともヨロシク!」と今までと変わらない調子のメッセージを寄越すし、会っても普通だったので、わたしが一人で勝手に落ち込んでいるみたいに思ってかなり情けなかった。
 
かなりのダメージを受けてしまっている理由がよくわからなくて散々悩んだけど、理路整然と分析しようとすればするほど嘘になっていくので、そういうふうに理由を考えるのはやめた。わたしからはこう見えていて、あなたからどう見えているのかわからない、という、ただただそれだけのシンプルな断絶って、そういえばこんなに苦しいんだった。そう気づくのに三日くらいかかってしまった。渦中にいると分かっているはずのことが分からない。
(そして今日たまたま「内部(dalam)」という単語を調べたら、深さという意味もあるらしく、ドンピシャっぽいことわざが載っていた。「Dalam laut dapat diduga,dalam hati siapa tahu.(海の深さは測れるけれど人の心は測りがたい)」)
 
 
人からの好意には、圧と呼びたくなるような強いエネルギーがある。自分からにせよ人からにせよ、強い好意が苦しかったことは今までにも何度かあった。(あれってなぜか、言葉で言わなくても、目や肌でビリビリとわかるから不思議だ。)逆に、それが自分の原動力になったことも、たくさんあった。恋愛なんて人間の一番愚かな部分がやらせる困ったものだけど、でも、愚かなぶん、他に拠るところもないので、めちゃくちゃ強い。相手をも巻き込んで愚かにするようなところがある(このように)。
だいたい始まったばかりの時には片思いだし、性的なこととか暴力とかが絡んできがちだし良いことばかりではないけど、とにかく大好きだ、というシンプルなエネルギーが動き出したら向かうところ敵なしで、食べなくても眠らなくても枯渇しない。好きなものは好き、は、すごく強い。そこから始まるものはたくさんある。
 
最近、見知らぬ誰かに配慮をしようとし過ぎたり論理が破綻するのにビビったりして自分の動きが鈍く小さくなっていたので、先週はこの件で理屈抜きのしんどさに身を浸せてよかった。理屈抜きのしんどさにぶち当たって心を削られるのと、理屈抜きで大好きなことに対して根拠なしに勇気が膨らむのとは、たぶん裏表になっている。だから、ああやって寝込んで落ち込んでいたのは今の勇気を出すのに必要な時間だった、と思うことにした。(そうでも思わないと情けなくてやってられない)
 
ちょっとこじつけるみたいだけど、最近はそういう熱をもって、ギターを弾くのがめちゃめちゃ素朴に楽しい。毎日のように弾いていると、抑えにくいコードのうまく鳴らせなかった弦が鳴らせるようになったり、ぎこちなかった手の動きがこなれてきたりするのがわかる。指先も手首も腕もずっと座っているのでお尻も痛くなるけど、上達の楽しさが勝つ。下手なので上達する以外にないというのが実際のところだけど、真面目にやるとちゃんと上手くなる段階は、ただただ楽しい。
昨日、かなり集中できた時間があって、ずっとギターで弾き語りがしたかった曲に頑張ったら手が届く気がして、気がしただけだしかなりダサくてクサいけど、夢が目標に変わったぞという思いでニヤニヤしてしまった。寝る前に頭のなかでめちゃくちゃな歌が鳴りまくるのも久しぶりで嬉しかった。調子に乗っています。
 
昨日と一昨日、夕飯を食べずに空腹で寝たら、朝の寝覚めが最高によかった。多少の睡眠時間の足りなさは気にならなかったし、体が軽いし、肌の調子もたった二日でググッとよくなった。インドネシアに来てから、こんなに体が軽い日が二日も続くのは初めてだ。運動不足とか、油分過多、塩分過多、水分不足、ビタミン不足、など、いろいろ疑って対策を講じていたけど、とても簡単なことだった。
健康を確保する方法が掴めたら、なんとかなる気がする。
 
この、夜ご飯を食べない作戦、実はけっこうこの季節の理にかなっている。夜になると雨が振るから外へ食べに出るよりも空腹のまま寝てしまって、朝早く起きて食べたり遊びに行ったりして、雨を避けて午後には家に帰る。天気のサイクルとばっちり噛み合う。天気を味方に生活を整えられるのは気持ちがいい。
 
 
 

この部屋を味方に

 
10月21日日曜日
 
スマランを離れ、アンバラワという町が生活拠点になって2週間が経った。
 
ちょうど1週間前の木曜日は、今回インドネシアへ来て初めての激しい腹痛、下痢、嘔吐と高熱で、真夜中にとてもしんどい時間を過ごした。(次の日の朝に病院へ行って、薬をたくさんもらって飲んで寝たらすぐ良くなったので土曜日には病み上がりのフラフラではあったけれど無理矢理マゲランへ出かけて、ギリギリ無事に観たかった野外フェスを観れた。)
腹痛の原因は、たぶん単純な消化器官の疲れだった。引き金になったのはおそらくワルンのちょっと古かった揚げ物。アンバラワに着いて1週間目は、先生が歓迎の意を込めて、次々と地元の食べ物を食べさせてくれて、興味もあったし遠慮もできずで連日食べすぎていたのだ。インドネシア料理は、辛いもの、脂っこいもの、味の濃いものばかりなので、ひとつひとつは美味しいけどたくさん食べると胃が疲れてしまう。
 
倒れたことで身をもって学習したので、週明けからは遠慮したり食べ残したりするようになった。食べ物による歓迎ムードも落ち着いてきて、体調は今度こそだいぶ落ち着いた。先生たちと一緒に楽器を弾いたり歌ったりバレーボールをしたり、できないなりにお喋りをしたり、食べる以外の楽しみが増えてきた。仕事もなんとか問題なくやれている。
 
アンコットという路上バスにも少しずつ乗れるようになってきた。angkotは、大通りを走る小型バスだが、バス停がない。時刻表も路線図もなく、道で乗りたいことをアピールして捕まえる。あるいは止まっているのを見つけて乗る。乗る時に行き先を確認しないとどこへ行くのかよくわからないし、乗ったら降りる時に「ここで降ります」と伝えて車を止めてもらう必要がある。
ついついタクシーの配車アプリが便利なのでそれを使ってしまうけど、angkotを使ったほうがだいぶ安い。学校と家の間の運賃が、だいたい5分の1くらいになる。反面、システムが完全に地元の人向けなので、言葉が通じないと使えない。わたしは、まだまだ流暢に喋れるわけではないけど、一度生徒に教えてもらいながら一緒に乗って、一人でも数回乗って、家の近くの目印になるものとか、そこまでの道がどう続いているか、単語レベルででもどう伝えれば通じるのか等が分かってきたので、わかる道を走るものなら一応ひとりでもなんとか乗れるようになった。
 
雨はまだ全然降らない。先生曰く、夜中に降っているらしいのだけど全然気づけない。昼間はカラッとしていて町中の土が乾いて埃っぽいくらいだ。夕方は毎日少し強めに風があって涼しい。ちょうどこちらへ旅立つ前の、日本の9月のような、しかしそれよりもカラッとした気候がずっと続いていて、快適だ。もう10月の半ばというのが信じられない。今日なんて、プールに行って泳いだし、田んぼは青々としていたし、雲はモクモクとして陽射しは強かった。
 
 
 
 
2週間前、体調を崩した木曜日の、まだ元気だった夕方に、少し小ぶりのギターを買った。他の必要な買い物のついでに、先生にお願いをして楽器屋に連れていってもらった。日本で時々弾いているアコギは叔父さんにもらったフォークギターだけど、この日、店頭で弾いてみたらガットギターのほうがちょっと軽かったし音も好きな気がしたので、あまり迷わずにそっちを買った。ヤマハの楽器で、中にMade in Indonesiaと書いてあった。
 
家に帰ってきて、すぐベッドに座って、チューニングをした。
覚えているコードを弾いて、覚えている歌を歌ってみようと声を出して、その瞬間、ビックリした。
 
底から水面へ染みわたるような、しっとりとした響きがあった。
声がスイーっと泳ぐような心地がした。
喋る声は何度か出していたはずだけど、歌声はこの時に始めて出した。
いま始めて歌ったんだという事実もそこそこインパクトがあった。 
 
この部屋は、決して広くはないけれど天井は高く、素材が硬い。床は東南アジアのあのツルツルとした硬いタイルだ。暮らし始めてすぐで、物も少ない。そういう部屋だからだろう、日本で自分の過ごしているごちゃついた狭い部屋よりも、声がずっとよく響いた。そしてその質感がすごく良かった。大袈裟みたいだけど、ちょっと目の奥がジンとするくらい嬉しかった。
 
 
前回ここに書いたように、インドネシアへ来てから、どうも歌を歌うのが難しくて、歌えていなかったのだ。
 
自分の歌を歌おうとすると、アカペラで、歌詞があるので、どうしても歌が言葉に寄りすぎてしまって、しっくりこず、歌えないでいた。昼間は必死でインドネシア語の海の中でもがいているので、この場に対して日本語を与える、というのも、まだ腑に落ちない。
でも、体は、とにかく歌が歌いたい・声が出したいと思っていて、不満の重さですっきりしない。今は、まだ言葉が上手くいかなくてつらいから、言葉から一旦離れたところで、歌が歌いたかった。それで、とにかくギターを買ってきて、言葉というより音楽、という姿勢になって、他人の歌を歌った。そうしたら、なんてことなく楽しく歌えた。
 
そういえば日本にいた時だって、どうしていいか分からないけどとにかく声が出したい、という時はカラオケに行って半ば筋トレのように延々歌いまくったりしていた。自分が歌を作る、自分の歌を歌う、という以前に、たくさんの先人の歌に体と心を助けられてきたのを重く実感したし、かなり単純に、言葉を離れても歌があることが嬉しかった。口や体が喜ぶのがわかった。歌うのは単純に楽しい。
 
 
町に出て自分の言葉で歌う、ということについてはまだ困惑しているけど、少なくともこの部屋で歌うことはできるようになった。部屋にこもって歌う、この部屋と一緒に暮らす、ということに関しては、やっていける気持ちが湧いた。好きな響きの部屋、という点で愛せる。まだ出会って間もないこの部屋の、新たな、しかし大事な側面を知れた気がした。
 
歌うと、部屋の質感が耳や肌に届く。部屋のどこでどこへ向いて声を出すかでも響きが変わるので、自分の体と部屋との関係もわかる。家具の配置を自分の使いやすいように変えたり、生活雑貨の収納場所と方法を決めたり、棚がないのでカゴを吊るしたり、といった具体的な生活環境の構築だけではなくて、やっぱり自分には歌が必要だ。自分がどこにいるのか、自分がどんなところにいるのかを、一つの感覚器官だけではなくて、他のいくつかの器官も通して知れた時、いまここに「いる」な、と思える。その場所で声を出して、この耳と肌で聴いてわかるようなことが、わたしはやっぱり好きだし信じられると思った。
 
 
 
このあと体調をめちゃめちゃに崩したのだけど、病院から帰ってきてベッドに寝ているあいだ、家の外の音がたくさん聞こえた。耳はずっと仕事をしている。言葉はまだだいぶ怪しいけど、耳は今までと同じようにちゃんと機能している。ほとんど全身が動かないくらいしんどくても健康なパーツがあるのはシンプルに希望だった。
 
 
元気を取り戻して次の週には、学校(勤務先)の職員室で、楽器の得意な先生と一緒に日本の歌を歌ったりインドネシアの歌を歌ってもらったり、ギターを教えてもらって弾いたり、ヴィオラジャンベも加わってセッションになったりした。教室で、ちょっと歌ってよと言われて歌ったりもした。歌に歌詞はあったけれど、意味はほぼ通じていないので、実感として、あれらは全部、音や音楽だった。
 
歌唱を許された時にはその都度きっちり今できる全てを注いで歌っているので、たまに自分でもこれは!という瞬間がある。歌不足になるなんて心配は不要だった。部屋でもがんがん歌っている。買ってから毎日ギターを弾いているので久しぶりに左手の指先が硬くなってきた。ようやく生活に慣れて、歌が歌えるようになって、目下のところインドネシア語がわかりやすく課題だけれど、どうなっていくだろう。わかりやすいことのほうが多いんだから頑張れるだろう、頑張らないと。頑張ります。
 
 
 
 
 
 

まだ呼べない

 
10月2日火曜日
 
雨だ。いま、雨が降ってきた。粒が大きそうだ。
ホテルの窓を叩く音が、ポツポツというよりもぼつぼつという感じだ。
 
1週間前の月曜日にインドネシアに到着して、しばらくジャカルタに滞在したのち、今はスマランという街にいる。
もうあと数日、これから半年間住む村の部屋ではなく、この街のホテルで過ごす。
 
 
 
 
1週間経って、お金を払うのに慣れてきた。3日ほど前に改めて、両替した金額や出費した額をアプリに記録してお金を数えた。そうしたら、ようやく「この色のお札がいくらで、いくらの小銭があって、それらをインドネシア語でなんと呼ぶか」が整理されて、さっき細々とした買い物をした時には、店員さんの言った金額をちゃんと聞き取って、迷わず理解して、素早く正しく支払いができるようになっていた。嬉しい。
 
 
 
(ここまで書いたら、さっきの雨がもう止んでしまった。誰かがシャワーを浴びている音が天井の隅のほうから聞こえる。
ホテルの壁は薄い。他の部屋の誰かが話したり笑ったりする声もテレビの音も、小さく聞こえる。さっきは廊下を歩く誰かが口笛を吹いていて、短いフレーズを繰り返しながらゆっくり歩いていくものだから、まるで何かの合図をしているみたいで怖かった。自分は他人にこんな思いをさせたくないからホテルの廊下では口笛を吹かないようにしようと思った。)
 
 
 
食事にも慣れてきた。2週間目に入ったけど、まだお腹は壊していない。警戒して屋台にはまだ行っていないというのもあると思うけど、去年何度か屋台で食べて無事だったので、大丈夫のような気がする。目が痛くなるほど辛いものも一度だけ食べたけど、あえて辛いものを選んだりしなければ平気なものがほとんどだ。ただ、脂っこさと味の濃さだけは、何を食べてもついてくる。日本にいても、わたしは脂っこいものや味の濃いもの、甘いものはたくさん食べられない人間なので、自分がつらくならない量を、かなり意識して調整している。こういうことが苦じゃないので、体調管理とか好きでよかったなと思う。
 
そういう調子なので基本的に元気だけれど、唯一、おとといから喉の調子があまり良くない。腫れていて痛い。昨日が、バッドのピークだった。疲れ、空気の汚れ、ホテルの乾燥、味の濃い食事など、思い当たる要因はとてもたくさんある。でもおそらく一番大きな要因は、ここしばらく全然歌えていないことだ。自分の場合、マスクをしても喉スプレーをしても、うがい薬でうがいをしてものど飴を舐めてもとれない違和感がある時は、歌うと治る。今までにも何度かそういうことがあった。特に言葉や歌のことを気に病んだり鬱憤がたまると調子を崩すみたいで、言いたいことが言えたり歌が歌えたりすると、すっと良くなる。何度かあったので、そろそろ「本当」認定をしていいと思う。
 
 
それで、やばいなと思って、あまり乗り気じゃないまま、やっと昨晩ホテルの部屋で少し歌ってみた。ちょっと嬉しかったけどでもすぐ違う感じがしたので、散歩に出ることにした。道を歩きながら小声で歌った。
大きい声が出せるわけではないけど車の通りが多いのでその音でかき消されるし、歩道橋の上にあがればすれ違う人もほとんどないので、そこそこ自由だった。雨が降ったらもっと良いけど、まだ乾季だ。
 
しかし、いざ歩き出して歌い出してみても、全然言葉が出てこなかった。景色は見える。交通量の多い幅の広い車道をヘッドライトをつけた車やバイクがたくさん流れていたり、ガソリンスタンドやコンビニやカフェの看板があったり、歩道橋やいたるところにグラフィティがあったり、道が崩れていたり、描写されうる現実は、バッチリ目の前にある。足も健康に立って歩ける。それでも、日本語でそれを声を伴って描写することに、なんとなく違和感があった。この景色に日本語が通じる感覚がなかった。この場でわたしだけがわかる言葉を与えたところで、現実の景色さんには全然通じないんじゃないかと思った。
 
これまで日本でそんなふうに考えたことはなかった。むしろ、自分の呼びたい呼び名で、自分勝手に現実を呼ぶ、というような、そういう感覚でいた。現実はこちらから呼ばれるがまま、とまで言わないが、少なくとも現実とこちらとが噛み合わないなんて事態は想像していなかった。でも、昨晩のスマランの景色には、自分の今まで使ってきた言葉の感覚が全然しっくりこなかった。
 
今までの1週間、あらゆるインドネシア人に言葉が通じなくてしんどかったから、つい考えてしまう。きっと考えすぎだろうけど、でも、例えばここでは車はmobilだし、バイクはmotorだ。車って呼ぶのはわたしと日本人だけだ。mobil、motorじゃないと通じない。それは事実で、現実としてここにある。
 
これに関しては、3年くらい前に気づいてからずっと重要だと思っていることがあるので改めて書く。
 
わたしの生まれて育った日本は、地球でいうと北半球にある。インドネシアのジャワ島は、南半球だ。だから、ジャワ島で「北」というと、赤道・太陽のあるほうになる。日本にいて太陽が見えるのは「南」なので、地上の人間の皮膚感覚的にいうと言葉とイメージの関係がアベコベっぽくなっている。日本では北風が涼しいけれど、インドネシアでは南風が涼しく、北風が熱い。北風っていうか、「Utara」からの風が熱い。つまり、地球における方角という辞書的な意味では「北=Utara」だけれど、地上でそれぞれの人間が言葉で指そうとしているイメージが明らかに違う。
 
朝の挨拶として「おはようございます」とか「Good morning」とか「Selamat pagi」は並列されるけど、考えてみたら全部ちょっとずつ意味が違う。別の場所のそれぞれの現実に、それぞれで対応している。本当はひとつもイコールで結べない。
まあ、そんなことを言い出したら、外国語の習得ってなんなんだ?というか言葉が通じるってなんだ?!翻訳とか不可能では??という話になってしまって、それはちょっとズレてくるので置いておくけど、でも、少なくとも、昨晩の道路を走っていたのは「mobil dan motor」だったことは確かで、わたしはそれらをまだ「車とバイク」だと思ってしまう。
 
 
 
それでも、ここで生活をするからには、その実感を無視しない歌が作りたいし歌いたい。
というか生きるために必要だ、今の自分にとっては歌わないで半年も生活するのは死ぬのと同じだ。いつのまにかそんな風に思うようになった。
 
わたしは、自分の内側にあることと外側にあることを繋げたり混ぜたりできる、というのが、歌というメディアの特性の一つだと思っている。それは物理的に声が体内で発されて、内と外とで同時に震えるっていう話、と、言葉は常に現実ではなくてこちら側にあって、そこをつなぐのは言葉が音になった瞬間なのではという意味とで、二重に。
 
これが、今、日本語と異国の地、というふうに、バッサリ別れてしまっている。自分と現実とのあいだにある谷が深い。
今考えていることを外に出せていないし、外にあるものが素直に中に入ってこない。滞っている。
 
こんなふうに言葉で整理するとけっこうスッキリしているけど、解決策が全然わからないのでやばい。
 
とりあえず、音に音程や音色があることが救いだと思っていて、昨晩は、言葉が出てこないので音を聞いて真似してみたり影響されたりしながら歌っていた。まず、そういう歌から歌っていくのかもしれない。それに、案外もうちょっと時間がたてば、こんな悩みはなんでもなくなって、いつもの日本語で歌っているような気もする。まだわかりません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

祖父の愛の話


先日、一ヶ月ほどの関西滞在を終えて千葉へ帰る前に、京都市外の祖父母の家に一晩泊まった。


そこは、電車が1時間に2、3本の、まあまあの田舎だ。田んぼと家と学校と病院があって、コンビニもあるけれど大きい商業施設はない。遠くの空は全方位、ビルではなく山に落ちる。

祖父母の家は、わたしが小さい頃に建て替えている。瓦屋根の二階建てだ。和室と縁側と、でも洋間もあって、なぜかトイレが三つある。家の周りには小さい畑があって、祖父はそこで自分たちの食べる野菜を作っている。


その日わたしが最寄りの駅に着いたのは夕方の6時半過ぎだった。日はすでに暮れている。祖父に「駅についたのでタクシーを拾って行くね」と電話をかけた。小雨が降っていて、大きいトランクを持っていたし、疲れていたし、徒歩15分程度の道だけど歩きたくなかった。

しかし、タクシーが駅前にいない。10分くらい待ってから、タクシー会社の看板の電話番号にかけたけれど「今日はもう行けません」「呼ばれて駅前に行くことはできないですがもしかして行くかもしれないので待っていてもらえればあるいは…」などと言われてしまい、理屈はよくわからないがとにかく今すぐに来てくれないということだけはわかった。それからもう10分くらい、偶然に賭けて、小腹が空いたら食べようと思っていたジャガリコを鞄から出してボリボリ食べながら待ったけど、タクシーは来なかった。


ぼちぼち7時になる。タクシーが来てくれないので歩いて行くね、と改めて祖父に電話をいれた。すると祖父は「では自転車で迎えに行くのでそのまま駅で待っていろ」と言う。いやいやいや、自転車で迎えにきてもらってもトランクは大きすぎて載せられないし、雨もほとんど止んだし、道もわかるし、自動車なら助かるけど、自転車での迎えは必要ないです。

そこでわたしがけっこう強めに「迎えはいりません」と言っても祖父は譲らず、何度か「来なくていい」「いや行く」「いらない」「行く」「来ないで」「行く」を繰り返した。祖父は頑固だ。これはたぶん愛だな、と思いつつも正直ちょっとイライラしながら、わたしは歩き出すことにした。駅前のでこぼこした舗装の上でトランクを転がすと大きい音がする。イライラに見合った音量だ。たぶん病院と小学校の前を通る道で、祖父とはちあわせるはずだ。駅舎の屋根を出ると、顔に小さい雨粒が申し訳程度にピトピトあたった。


思った通り、小学校の前の道にさしかかった頃に、向こうのほうからライトが二つみえて、ゆっくり走ってくる自転車だとわかった。自転車のライトに加え、片手に懐中電灯を持っているみたいだ。祖父だ。「迷子を探している人」みたいなスタイルにちょっと笑ってしまった。わたしは手を振って「こん(↑)ばん(↓)わあー(→)」と、祖父母とのあいだだけで使う関西風のイントネーションで、声をかけた。「なんや、歩いてきたんか」といって自転車が止まった。


やっぱり祖父の自転車にわたしのトランクは載りそうもなかった。「機械が入っているから」と念を押して断り、トートバッグだけカゴに乗せてもらった。

祖父は自転車にまたがって先を少し進んで、「あっ、先に行っちゃうのか?!そういう感じ?!」とわたしが思った頃にキュッとブレーキをかけて止まった。ちょっと笑いながら「歩くか」と言って、自転車を降りて、わたしの隣を歩いてくれた。


小雨は止んで、涼しい風に変わっていた。


星の全然見えない真っ暗な空と左右の闇に囲まれて、少しの街頭が照らす道をゆっくり歩いた。

虫の声とわたしのトランクのゴウゴウいう音と、あとは祖父の押す自転車がカラカラ鳴るだけで、まだ七時なのに静かだった。はるか遠くの音も聞こえそうだ。お盆にあわせてほとんど毎年遊びに来ていた町だけど、今はこりゃあ夏じゃないなと思った。日付だって九月の一日で。


祖父は耳が遠いので、わたしはゆっくりと大きい声で喋る。もう、九月だね。涼しいね。

せやなあ、みたいな返事が聞こえたので続けて、ゆっくり、かつ、どんどん喋った。

今度、インドネシアに行くんだ。そのためにちょっと勉強してたの。

テリマカシー、やろ。

え、そうだよ!よく覚えてるね。


祖父は昔、仕事でインドネシアに滞在していたことがある。ジャカルタを拠点にジャワ島各地に調査に行ったりしていたらしい。インドネシアにいたことがあるという話は前にも聞いたけど、細かい話をしてもらったのはこの時が初めてだったし、自分が行くのもジャワ島なので、祖父もジャワ島にいたと知ってちょっと嬉しかった。


家に着いて、祖母と3人で食事をした時も、ビールを飲みながら50年前のジャワの話をたくさんしてくれた。調査で行った村には電気もガスもなかったけど灯油を使った明るいランプが庭にあったんだとか、ロウソクをつけると料理に寄ってくる虫がちょっとだけ減るからそのスキに食べるんだとか、床に落としたものに関しては3秒ルールで食べていたとか、わしは一度も腹を壊さなかった(自慢)(本当に一人称が「わし」)とか、実験器具などを大量の段ボールで持っていった話とか、ボゴールに実験のための施設があったんだとか、ソロ川はずっと濁っていたとかドリアン食べたとか。

話術に長けた話し方ではないけれど、覚えている限りのジャワ島エピソードを次々と得意げに話す姿は、孫から見ても可愛げがあって、好きだな、と思った。祖父に会うとけっこう毎回そう思う。祖父はいつもちょっと斜視なので、笑って目が細くなると顔の印象がずいぶん変わる。


一週間前に「来週、遊びに行くので一晩泊めてください」と連絡をいれた時、「いいよ、気をつけておいで」という電話口の声がなんだか優しくて嬉しかったのを思い出した。遠慮せずに来てよかった。


たくさん昔の話を聞いたら、変な言い方だけど「おじいちゃん」が、1人の人間なのがよくわかった。最近は自分の両親についても、「おかあさん」とか「おとうさん」というのは、単にわたしと彼らとの関係性における呼び名であって、この人たちは「わたしの親」以前にこの人間、という感覚が腑に落ちる。人生が各々にあります。


夕飯になると冷蔵庫から缶のアサヒビールを出してきて、何でもないのに毎度毎度乾杯をするこの人、朝になると近所の猫を餌で寄せて愛でるこの人、ウンコをしてくるぞとわざわざ報告してからトイレに行くこの人、迎えはいらないと言っても行くと言って絶対に来るこの人が、夏休みの自由研究を手伝うというか殆ど全部やってくれたことがあった、この人が、たまたま祖父で、わたしはたまたま孫だ。そして僭越ながら人間と人間でもある。


かなり前に、ことの成り行きで深い意味もなく恋人を連れていった時に、彼に対して祖父がはっきりと言った言葉が、まだ記憶に残っている。

「かわいい娘の娘が、かわいくないはずがない」と。

だから、大事な孫だから、くれぐれも大切にしてくれと、そういうようなことをかしこまって言ったのだ。わたしは、気が早いぞ!!と焦ったけど、でも、そういうことを言ってくれるこの人がおじいちゃんでよかった。その時もそう思ったし、今でもそう思う。











深夜、あったものとなかったもの


昨日の夜、家に帰れる最後の電車を、寝てもいないのにボンヤリしていたせいで乗り過ごした。
午前中から都内をあちこち移動した日だったけど、体はそれほど疲れてはおらず眠くもなかった。タクシーで千円くらいの家までの道を歩くかどうか迷う余地がある、そういう程度の疲労で、どちらかというと色んな思いや考えで頭がボンヤリしていることのほうが深刻だった。

改札を出、階段を降り、駅のロータリーに着くと、タクシー乗り場には6人くらいの列ができていた。わたしはとりあえずその最後尾にはいり、iPhoneのアプリで、ここから家まで徒歩何分なのか調べる。30分。たぶん自分の早足なら23分ほどだ。振り返ると、わたしの後ろにもすでに8人くらい、おひとり様たちの列がのびている。やっと一台到着したタクシーに、先頭の1人が乗り込み、列が進み、少し時間をおいてまたタクシーが来て、また次の人が1人で乗り込んで、というのを3回見てから、わたしは歩くことにした。


連絡の不行き届きで人を怒らせてしまった夜だった。その人にこれ以上こちらからマヌケな連絡をしないでおくためにLINEのトークは非表示にしてポケットへ、手と一緒につっこんだ。
夜道を一人で歩くときの、一番本気の早足で進む。坂道を繰り返すが曲がり角のない道だ。右手には車道と、自衛隊の演習場があり、フェンスの向こうは暗い。景色のなかに見えるものが少ない。さっきまで会っていた友人と交わしたやるせない話を思い出し、これから1週間の過ごし方を考え、5年以上先の過ごし方を妄想して、タバコの煙のにおいがして少しの時間差で、火が消え切らないままの吸い殻が舗装のこの足元に落ちていて、それを踏まずに避けてスピードを上げ、タバコの落とし主らしい人を追い抜いた。スーツを着た男性。3日くらい前に会った時に夢を語ってくれた仕事先の大人の友達が本当にかっこよかったなとか、わたしは自分が女だってことと、それなりに上手く付き合っているつもりだけど時々直面するそれを考えざるをえない状況には基本ウンザリで、あれ、こんなところにコンビニあったんだファミマ、と思ったその、200メートルくらい先には、入ったことのない、しかし見慣れたセブンがあって、さらに先のバーミヤンの交差点へ入っていく直前に、あ、この先に、閉店して解体されている最中のイトーヨーカドーがある、と頭をよぎった。けっこう前に閉店したし、そろそろ解体が始まっている頃だろうと。
そして、このまま曲がってイトーヨーカドーの跡を見たら、ちょっとグッと来ちゃうんじゃないかと思った。ショックとかノスタルジーみたいな気持ちを感じてしまうんじゃないかと、見るよりも先に、そう思った。

小さい頃、週末になると家族4人でよく出かけた場所だった。近いけど車に乗って行って、たくさん買い物をした。ポケモンのソフビを買ってもらえた時は帰りの車に乗り込むやいなや開封して遊んだ。なぜかどうしても欲しくて欲しくて泣きついて、魚のロボットのおもちゃを買ってもらったこともあった。最初のブラジャーを買ったのもここだ。初めて自分でマンガを買った本屋も、カーディガンのボタンだけ変えるのがおしゃれだと思っていて金色のボタンを買った手芸屋さんも、ローファーの踵を何度も修理した店も、ここにあった。食品売り場のカートに、一部が車のかたちをしていて小さい子供が乗れるようになっているものが導入された時には、自分はギリギリ乗れない年齢と体格で、密かに悔しかった………

あと少し歩いた先の場所では、過去の思い出のたくさん詰まった建物がきっと解体され始めている。今まで目にしてきた解体中のビルを想像の参考にしながら、そんなものを見たら素直にエモくなっちゃいそうな自分が、簡単で単純でつまらなく思えた。しかもこんなふうに先回りをして「どうせ感動しちゃうんでしょ」なんて斜に構えた姿勢もダサくてウワー、と思っていたけど歩くのをやめなかったので、すぐにヨーカドーの角にさしかかった。ヨーカドーは無かった。そこは真っ暗だった。夜空だった。工事現場で見かけるあの白い仮設の壁で地面は見えないが、どうやら建物はもう完全にない。大きなシャベルカーが黒いシルエットになって広い敷地の向こうのほうで止まっていた。ヨーカドーは想像以上に跡形もなかった。

感情の先回りに失敗したわたしは、結局、グッとくる以前で止まってしまって悲しくも寂しくもなく、ただ何もない暗い空の低いところをしばらく見ていた。


その後の家までの道は、車も人も誰も通らないし暗くて単純に怖かったので、角のヨーカドーがなくなった、と陽気なメロディーをつけて歌いながら帰った。



帰宅して玄関の鍵をあけて、うっかり電気をつけっぱなしだったので部屋が明るくて、ちょっとギョッとした。部屋は朝出た時のままだった。流しには今朝の朝ごはんの皿とコップが、わたしが置いた形で残っている。いろんなものが知っている形でちゃんとあった。生活においては、たいていの物事が、突然なくなったりはしなくて、ある。いつも保存と持続を繰り返している。片付けないと散らかっていく。

お湯を沸かして最近ハマっているハイビスカスのお茶を飲んで、皿を洗って、風呂に入ろうとてきぱき動いている時には、帰りの電車で、普段信じてもいない星座占いなんか調べて無理に勇気をもらったりしていた深刻なボンヤリは、もうなかった。