各々、たくましく

 
先日、ゲストハウスのオーナーとなんとなく立ち話をしていたら、1時間たっていた。
 
1時間も笑いながらあれこれ他愛のない日常の話ができたという大きな進歩があまりに嬉しくて、その後はオーナーと話すハードルがいっきに下がり、毎日なんとなくいい感じで話せるようになった。最初のころ、話しかけられるのが怖くて、怖いあまりつっけんどんな声で返事をしたりしてしまっていた自分が恥ずかしい。
 
このゲストハウスの庭には、果樹が数本あって、そのうちのひとつにsirsakというのがある。トゲトゲしていて緑色で、ゲンコツ三つぶんくらいの大きな実ができる。ズッシリと重たく、皮を剥くと果肉は白くてヌルッとしていて、甘味と酸味が効いている。冷やして食べると美味しい。カタカナではサワーソップと呼ばれる熱帯のフルーツで、調べてわかったのだけどかなり栄養豊富らしい。
 
最近わたしに仕事関係の来客があった時に、二人でお食べ、とオーナーが大きなsirsakをひとつくれたのだが、その皮にビッシリと白いカイガラムシがついていた。日本で見るのと同じだった。バイトで散々駆除してきた虫に、インドネシアでも再会してしまった。ただでさえトゲトゲしていて見た目はちょっと怖い果物なのに、それに加えて、これでもかという数のカイガラムシ。ちょっと前までの自分だったら、うええええキモい〜〜という気持ちが勝って尻込みをしてしまったであろうグロテスクな様相だった。でもその時は、すんなり受け取って部屋へ持って上がり自分のナイフで切って皮を剥きひとくち大に切りながらグラスにいれてスプーンで食べるまでに迷いやビビりがなくて、ちょっと誇らしかった。以前、切ってもらってビクビクしながら食べた時よりも美味しく感じた。(この食べ方は前回、オーナーの奥さんが教えてくれた。)
 
 
 
 
先週末に動物園へ行った時、あまり元気ではない動物も表にいたのが印象に残った。怪我でもしたのか、片足が変形していて歩きにくそうなヒクイドリもかなり長い時間をかけて見てしまったけど(太い3本指の足や青いデコボコした顔、そして硬いコブと嘴が恐竜のようでとてもカッコ良くてわくわくした)、一番ショッキングだったのは、絶不調のビントロング(クマジャコウネコ)だった。
遠くから檻がみえた時には、おっ、寝ている黒いのがいるぞ!たぬきかな?と、かわいい姿を期待して近づいたのだけど、近寄ってみたら、彼は寝ているわけではなかった。鉄格子の囲いのすぐそば、地面から170センチくらいの高さにちょっとした木の床が設えてあり、たぬきよりもふた回りくらい大きな黒い毛の動物が一匹、その上で腹ばいになっていた。首から先をその床からダラリと宙ぶらりんにして、顔は力なく真下を向いていた。首の付け根が痛くなりそうな姿勢だ。どんな寝顔をしてんだろうと覗き込んだ瞬間、びっくりして思わず鳥肌がたった。
真っ赤に充血した両方の目玉が、重力による圧のせいだろうか、大きく見開かれたまぶたの外に飛び出しかけていた。一点を見つめているようでもなく、見えてすらいなそうな、生気のない顔だ。かなり長い時間この姿勢のままなのだと思われた。開きっぱなしの口から時々よだれが垂れる。歯茎も腫れていて、時々舌が動いて鼻先を舐めるのだけど、それ以外には呼吸しかしない。長いヒゲもひょろひょろしていて覇気がない。苦しそうだった。
 
ビントロング、なんて全然わたしには馴染みのない生き物だけど、それでも、目の前のその生き物が明らかに何かの痛みに耐えているのはすぐにわかった。一緒に見て回っていたマダムも、「寝てるのさぞかし可愛いじゃろ〜^^」とニコニコしながらわたしに追いついたのだけど、その動物の異常な様子を見てすぐに「うわあ…病気だね…」と心配そうな顔に変わった。二人でしばらく檻の前に立ち尽くしていた時、わたしは「生き物って、言葉も種も何も関係なく、調子が良いか悪いかはわかるんだなあ」ということに妙に感心していた。
 
動物園で調子の悪い動物も晒しておくというのは、きっと本来的には、その動物にとっても、見にくる我々の衛生的にも良くない。でも、動物園というのはもう「動物園である」という時点でけっこうな残酷さがある、というのをかなり強烈なビジュアルで目の当たりにしたら妙に納得してしまって、その感じはもはや不快ではなかった。もうあれから一週間ちかくたったけど、あのビントロングは今頃どうなっただろうと今だに思い出して、痛いような想像がついてきてしまってソワソワする。
 
 
インドネシアに来てから、調子の悪い動物とか、死んだ動物を見る機会が多い。人間も、死んだ人はさすがに見ていないけど、調子が悪そうな人は何人か見た。病気をもっていそうな痩せた猫も時々いるし、道でさっき轢かれたばかりの大きめのネズミも見たが、目を背けたくなる鮮度だった。アスファルトの上でセンベイ状になっているカエルや小さいネズミなどは、毎日のように見る。
だが同時に、生きている動物を見る機会もとても多い。そのへんの道では脚の長い鶏がひよこと一緒に歩いているし、屋台でカラーひよこや殻に絵を描いたヤドカリも売っている。すぐ近所の市場では毎週、大きな牛がたくさんトラックで連れられて来て売られている。鳥や猫を飼っている人も多い。市場では馬車も走っている。
 
そういう場所だから、人間がトラックに溢れそうなほどたくさん乗って仕事へ向かうのとか、そのへんで居眠りしているのとか、バイクが器用に車のあいだをすり抜けていく姿なんかが、他の動物の営みと、あんまり遠くないような感じがする。入院している人を見舞いに行った時、その人のベッドの周りにマットを敷いて、家族たちが床でだらだらお菓子を食べたり寝ころがって喋ったりしていて賑やかで、なんだか元気な人と元気じゃない人の差が歴然と見えていて不思議だった。どちらもそれぞれの調子で生きていた。
 
わたしが客として人の家にお邪魔した時も、その家族のお母さんは、ひととおりご馳走の用意が終わると床に敷いたマットに寝転がってテレビをみていて、そのマイペースさを前にしたら、こちらも気を遣い過ぎずにくつろげた。嬉しかったし、ありがたかった。
いろんな友人が、一緒に出かけたりした時に「ちょっとお祈りをしてくる」と言って5分か10分くらい姿を消すのにも最初は戸惑ったけど、各々が一人一人で考えたり信じたり祈ったりして生きているのを日常の中で感じられるのは良いなと思う。
 
各々が各々できちんとやっている、というのが大事だ。バス停のないアンコットだって、使っている人たちがルールをわかって守っているから成立している。飲食店も、伝票を使わない店は自己申告制で「これとこれをいくつ食べました」といってお金を払う。
なんとなく、その場に連帯感がある感じなのがいい。みんな知らない人とよく話す。
 
さっきも、暗くなってから家までの少しの道を歩いていた時、前方におばあさんがいて、あ、おばあさんだなあ、帰る方向が同じなのかなあ、と思いながら自分の影が彼女の足元まで伸びているのを見つつ、ちょっと足音を気にしながら歩いていたら(なぜか怖がられてしまうような気がしていた)、ふとこっちを振り返って挨拶をしてくれた。
ちょっとびっくりしたけど挨拶を返したら、なんとなく会話が始まって、あんまり聞き取れなかったのだけど「コレア」と聞こえたので、察して、日本から来ました、と伝えたあたりで、行く道が別れた。なんでもなく、またねえ、みたいに別れた。
 
こういうなんでもない会話をする機会が本当に多い。言葉が下手くそなわたしでもそうなのだからすごい。
ここでは、違う宗教をもった違う民族同士が一緒に暮らしている。それをみんなが自覚している。異邦人である今のわたしでもそれなりに居心地がいいのは、そういう理由もあると思う。
つい、一人でやる、一人で行く、という方向性で日々の活動をしがちな人間としては、動物までも含めて、各々が各々で、でも連帯感をもって協力しあってやっている、この雰囲気は好きだ。人間関係のいざこざとか、もっと入っていけば面倒なこととかも出て来るんだろうけど。
 
思い切ってインドネシアに移住してしまう、という未来は、全然想像できないから多分ないけど、日本で楽しく暮らすためにここで考えられることは、まだまだたくさんある。引き続き、とりあえずは春までお世話になります。