この部屋を味方に

 
10月21日日曜日
 
スマランを離れ、アンバラワという町が生活拠点になって2週間が経った。
 
ちょうど1週間前の木曜日は、今回インドネシアへ来て初めての激しい腹痛、下痢、嘔吐と高熱で、真夜中にとてもしんどい時間を過ごした。(次の日の朝に病院へ行って、薬をたくさんもらって飲んで寝たらすぐ良くなったので土曜日には病み上がりのフラフラではあったけれど無理矢理マゲランへ出かけて、ギリギリ無事に観たかった野外フェスを観れた。)
腹痛の原因は、たぶん単純な消化器官の疲れだった。引き金になったのはおそらくワルンのちょっと古かった揚げ物。アンバラワに着いて1週間目は、先生が歓迎の意を込めて、次々と地元の食べ物を食べさせてくれて、興味もあったし遠慮もできずで連日食べすぎていたのだ。インドネシア料理は、辛いもの、脂っこいもの、味の濃いものばかりなので、ひとつひとつは美味しいけどたくさん食べると胃が疲れてしまう。
 
倒れたことで身をもって学習したので、週明けからは遠慮したり食べ残したりするようになった。食べ物による歓迎ムードも落ち着いてきて、体調は今度こそだいぶ落ち着いた。先生たちと一緒に楽器を弾いたり歌ったりバレーボールをしたり、できないなりにお喋りをしたり、食べる以外の楽しみが増えてきた。仕事もなんとか問題なくやれている。
 
アンコットという路上バスにも少しずつ乗れるようになってきた。angkotは、大通りを走る小型バスだが、バス停がない。時刻表も路線図もなく、道で乗りたいことをアピールして捕まえる。あるいは止まっているのを見つけて乗る。乗る時に行き先を確認しないとどこへ行くのかよくわからないし、乗ったら降りる時に「ここで降ります」と伝えて車を止めてもらう必要がある。
ついついタクシーの配車アプリが便利なのでそれを使ってしまうけど、angkotを使ったほうがだいぶ安い。学校と家の間の運賃が、だいたい5分の1くらいになる。反面、システムが完全に地元の人向けなので、言葉が通じないと使えない。わたしは、まだまだ流暢に喋れるわけではないけど、一度生徒に教えてもらいながら一緒に乗って、一人でも数回乗って、家の近くの目印になるものとか、そこまでの道がどう続いているか、単語レベルででもどう伝えれば通じるのか等が分かってきたので、わかる道を走るものなら一応ひとりでもなんとか乗れるようになった。
 
雨はまだ全然降らない。先生曰く、夜中に降っているらしいのだけど全然気づけない。昼間はカラッとしていて町中の土が乾いて埃っぽいくらいだ。夕方は毎日少し強めに風があって涼しい。ちょうどこちらへ旅立つ前の、日本の9月のような、しかしそれよりもカラッとした気候がずっと続いていて、快適だ。もう10月の半ばというのが信じられない。今日なんて、プールに行って泳いだし、田んぼは青々としていたし、雲はモクモクとして陽射しは強かった。
 
 
 
 
2週間前、体調を崩した木曜日の、まだ元気だった夕方に、少し小ぶりのギターを買った。他の必要な買い物のついでに、先生にお願いをして楽器屋に連れていってもらった。日本で時々弾いているアコギは叔父さんにもらったフォークギターだけど、この日、店頭で弾いてみたらガットギターのほうがちょっと軽かったし音も好きな気がしたので、あまり迷わずにそっちを買った。ヤマハの楽器で、中にMade in Indonesiaと書いてあった。
 
家に帰ってきて、すぐベッドに座って、チューニングをした。
覚えているコードを弾いて、覚えている歌を歌ってみようと声を出して、その瞬間、ビックリした。
 
底から水面へ染みわたるような、しっとりとした響きがあった。
声がスイーっと泳ぐような心地がした。
喋る声は何度か出していたはずだけど、歌声はこの時に始めて出した。
いま始めて歌ったんだという事実もそこそこインパクトがあった。 
 
この部屋は、決して広くはないけれど天井は高く、素材が硬い。床は東南アジアのあのツルツルとした硬いタイルだ。暮らし始めてすぐで、物も少ない。そういう部屋だからだろう、日本で自分の過ごしているごちゃついた狭い部屋よりも、声がずっとよく響いた。そしてその質感がすごく良かった。大袈裟みたいだけど、ちょっと目の奥がジンとするくらい嬉しかった。
 
 
前回ここに書いたように、インドネシアへ来てから、どうも歌を歌うのが難しくて、歌えていなかったのだ。
 
自分の歌を歌おうとすると、アカペラで、歌詞があるので、どうしても歌が言葉に寄りすぎてしまって、しっくりこず、歌えないでいた。昼間は必死でインドネシア語の海の中でもがいているので、この場に対して日本語を与える、というのも、まだ腑に落ちない。
でも、体は、とにかく歌が歌いたい・声が出したいと思っていて、不満の重さですっきりしない。今は、まだ言葉が上手くいかなくてつらいから、言葉から一旦離れたところで、歌が歌いたかった。それで、とにかくギターを買ってきて、言葉というより音楽、という姿勢になって、他人の歌を歌った。そうしたら、なんてことなく楽しく歌えた。
 
そういえば日本にいた時だって、どうしていいか分からないけどとにかく声が出したい、という時はカラオケに行って半ば筋トレのように延々歌いまくったりしていた。自分が歌を作る、自分の歌を歌う、という以前に、たくさんの先人の歌に体と心を助けられてきたのを重く実感したし、かなり単純に、言葉を離れても歌があることが嬉しかった。口や体が喜ぶのがわかった。歌うのは単純に楽しい。
 
 
町に出て自分の言葉で歌う、ということについてはまだ困惑しているけど、少なくともこの部屋で歌うことはできるようになった。部屋にこもって歌う、この部屋と一緒に暮らす、ということに関しては、やっていける気持ちが湧いた。好きな響きの部屋、という点で愛せる。まだ出会って間もないこの部屋の、新たな、しかし大事な側面を知れた気がした。
 
歌うと、部屋の質感が耳や肌に届く。部屋のどこでどこへ向いて声を出すかでも響きが変わるので、自分の体と部屋との関係もわかる。家具の配置を自分の使いやすいように変えたり、生活雑貨の収納場所と方法を決めたり、棚がないのでカゴを吊るしたり、といった具体的な生活環境の構築だけではなくて、やっぱり自分には歌が必要だ。自分がどこにいるのか、自分がどんなところにいるのかを、一つの感覚器官だけではなくて、他のいくつかの器官も通して知れた時、いまここに「いる」な、と思える。その場所で声を出して、この耳と肌で聴いてわかるようなことが、わたしはやっぱり好きだし信じられると思った。
 
 
 
このあと体調をめちゃめちゃに崩したのだけど、病院から帰ってきてベッドに寝ているあいだ、家の外の音がたくさん聞こえた。耳はずっと仕事をしている。言葉はまだだいぶ怪しいけど、耳は今までと同じようにちゃんと機能している。ほとんど全身が動かないくらいしんどくても健康なパーツがあるのはシンプルに希望だった。
 
 
元気を取り戻して次の週には、学校(勤務先)の職員室で、楽器の得意な先生と一緒に日本の歌を歌ったりインドネシアの歌を歌ってもらったり、ギターを教えてもらって弾いたり、ヴィオラジャンベも加わってセッションになったりした。教室で、ちょっと歌ってよと言われて歌ったりもした。歌に歌詞はあったけれど、意味はほぼ通じていないので、実感として、あれらは全部、音や音楽だった。
 
歌唱を許された時にはその都度きっちり今できる全てを注いで歌っているので、たまに自分でもこれは!という瞬間がある。歌不足になるなんて心配は不要だった。部屋でもがんがん歌っている。買ってから毎日ギターを弾いているので久しぶりに左手の指先が硬くなってきた。ようやく生活に慣れて、歌が歌えるようになって、目下のところインドネシア語がわかりやすく課題だけれど、どうなっていくだろう。わかりやすいことのほうが多いんだから頑張れるだろう、頑張らないと。頑張ります。