他人の荷物

 

1人で電車に乗っていたら、向かいの席に30代と見られる男性2人組が座った。少し小柄なヒゲの人と、少したくましいメガネの人。それぞれトレーナーとネルシャツで、カジュアルな服装だ。

 
前を向いているとつい視界に入ってしまうのでなんとなく見ていたら、ヒゲの人がおもむろにリュックから小さな袋を出した。ユニクロのウルトラライトダウンかな?と思っていたら、生地を少し引っ張り出して触り心地を2人で確認するように指で擦っただけで、すぐリュックにしまった。電車の走行音が大きくて、話の内容は全然聞き取れない。今のは何だったんだろうと思って積極的に見ていたら、ヒゲの人が今度は30センチくらいの、半透明の青いプラスチックの筒を取り出した。たぶん直径4センチくらい。何に使う物なのか全くわからない…!片方には緑色のキャップがついていて、全体がネジのように規則的にデコボコしている。本当に何に使う道具なのか、あるいは部品なのか全くわからず、かなり惹かれてしまった。この人たちは何者なんだ。
 
コントみたいだなあと面白がって見ているわたしをよそに、ヒゲの人はまたすぐリュックに謎の筒をしまって、それからは何も取り出さずに話を続けていた。
結局どんな二人組なのか全然わからなかったが、仲は良さそうだった。(そのあとまた謎の筒を取り出して、貼ってあったシールを剥がしてヒゲがメガネにそれを差し出し、「いらないっす」と言っているのが聞こえた。ヒゲの人はちょっとお茶目だ。ふいにメガネのほうが「お疲れ様した」といってヒゲが「ありがとうございました」と返すのに会釈しながら降りていった。2人はなんらかの仕事を共にしていたっぽい。)
 
 
人のリュックに何が入っているのかってそういえば知るよしもない。友人や家族の鞄にすら、何が入っているのかわたしは知らない。だからだろうか、電車で見るような全然知らない人の鞄の中から何かが出てくると、ちょっと惹かれて見てしまう。ほとんどの人がスマホを操作しているだけの電車内だから、そうではないものを出したりまたしまったりする人がいると、急にその人の個性のようなものが際立つ。
 
今年の1月の初旬には、外国人らしき風貌のおじいさんが、わたしが使っていたのと同じ、ダイソーの赤い水玉のペンケースを使っているのを見た。ガバッと大きく開く形がすごく使いやすくて、わたしもなかなか使い込んだのだけど、そのおじいさんは私よりさらに使い込んでいて、妙に嬉しかった。地図か何かにピンクのマーカーを引いていて、隣には歩きやすそうな靴をはいたおばあさんがいた。
 
また、いつだったか、新聞を読んでいたおじさんが、ふいに自分の鞄からハサミを取り出して、記事の一部を切り抜き、ハサミをしまうと同時に取り出した小さながま口のポーチに切り抜いた記事をしまうのを見たことがあった。がま口の小さなポーチをおじさんが丁寧に触っているのが可愛く見えた。
 
電車で隣に座っていた高校生らしき制服を着た髪の短い女の子が、鞄から手のひらほどの小さな手帳を取り出してシャーペンで何か書きつけていたこともあった。気になって見ていたら、書いているのは全て漢字で、中国語かな?と思ってさらにコッソリ注目していると、右側のページに少し書き込んではすぐページをめくり、また新しい右側のページに書き込む、というのを繰り返していた。5ページくらい書き込んだら済んだらしく、すぐに手帳を閉じて鞄にしまった。
目視できた漢字の意味をなんとなく想像するしかできなかったけど、詩か、あるいは何かの見出しのようだった。ぽく見えただけかもしれないけど、あんな感じに、ポケットサイズの小さな手帳に、漢字の詩を書く若い女の子なんて初めて見たので、新鮮だった。
 
 
日々、電車に乗っている時間が長いと色々なことがある。全然知らない他人の個性的なプライベートが垣間見えて、人間ってほんとうにたくさんいて、それぞれにそれぞれの一生とかがあるんだなあと思うとなかなか感慨深い。こんなに色んな人がいるんだったら、自分が何をやっても良いような気がしてくる。
そういえば高校生の時に帰りの電車で見た、薔薇の花一本だけを手に持って、つり革の取っ手じゃなくパイプ部分を掴んで窓の外を見ていた背の高い黒人のお兄さんは、とても楽しそうにしていたあの人は、今頃どうしているんだろう。あんな映画みたいな様子はなかなか忘れられない。たぶん一生覚えている。上に書いた人たちのことも、書いたからにはきっとしばらく覚えているだろう。
 
わたしももしかしたら何か思われているのかもしれないと思いながら、今日は本を持ってくるのを忘れたのでこれを書いていました。
今日は、夏日だとか言われるほど異常に暖かな陽気の2月21日。油断してジャケット類を羽織らずにセーターで家を出てしまった。少しずつ暮れていく夕陽を車窓から眺めて、帰りはきっと寒い思いをするだろうなあとソワソワ後悔しながら電車に揺られて、横須賀に向かっています。
 
 
 
 
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踊れるかも


先日、自分の書いた作品のなかの言葉について、「〈醤油〉と〈精霊流し(しょうろうながし)〉の「しょう」とか、そういうふうに似た音が、ダジャレとか韻を踏むところまでは行かないけれど、一定の分量のテキストのなかに混在して繰り返されるのを声にしていくと、近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていくような感じがあって、そういうのが楽しいです」というようなことを自ら語っていたことがあって、自分で言っておいて自分で「あ、これだわ」と二重に思った。

言葉の音が意味を超えて繰り返し鳴る感覚は複数の生き物が走っているようだなというところの言語化としての「これだわ」と、自分がこういう身体感覚に基づく比喩を用いた言葉遣いをしがちであることへの「これだわ」だ。


自分の言葉の使い方は、けっこう極端なほどに身体寄りだと思う。もう少し丁寧に言うなら、体と近いところにある声を基準にしている。一人称視点という意味ではなくて、声が音として体と関係していて、高めの密度をもって、独立してそこに在る、というような感覚だ。あまりにもうまく言えなさすぎるのだけど、とりあえずこのまま進めてみたい。



最近は、ZOOMなどを使って、音声と自分の姿の映像を通して人とやりとりをする機会が増えて、自分が人と話す時に体や表情をどう使っているのかを以前よりも強く自覚させられるようになった。それによって、どうやらこれまで自分で思っていた以上に、わたしは手や表情に任せて表現している部分が多い、体も顔もよく使っている、とわかってきた。

人と話す時、目や顔ベースの人と、声ベースの人がいるとわたしは考えている。極端に目や顔ベースの人は、実際に会って話していても、よく目が合うし、表情が豊かだ。普通にいわゆるコミュニケーション能力が高い、という印象だ。しかし、電話に変わるとどうもコミュニケーションの感触が物足りなくなったりすることがある。一方、すごく声ベースの人は、実際に会って話していても、なんかあんまり目があわなかったりするのだが、それがあまり気にならない。そして場が電話に変わった時のギャップが少なく、むしろ電話のほうがうまく色々と話せたりする。声ベースの人は、電話で話す時に目や顔が使えないことがマイナスにならないので、電話の時には声ベースの人のほうが、いつも通りちゃんと話せる感じがある。これは、極端な例のようだけど、ぶっちゃけていうと両者ともにわたしの身近に実在している。(電話が得意な人とそうでもない人というだけで、人としてどちらがどうとかいうことは全然ない。)

そういう考えが以前から自分のなかにあったし、わたしとしては声を使うのが自分の仕事だし自分も声ベースのコミュニケーションの人だとなんとなく思い込んでいた。だが、ここ半年くらいで突然使う頻度が増えたビデオ通話の、画面の中の小さい自分と向き合い続けながら会話をしていくという体験が見せてくれた自分の話す姿は、想像していた以上に、表情や身振りが豊かだった。まあかなり気を遣って意図してやっているのだけど、話す時や声を出す時に体も巻き込んでいくことが、すごくおもしろいような気がしてきた。


先日、自分が過去に発表したパフォーマンス作品を、改めて映像に撮った。その後になって撮り終えたデータを観るのがけっこう面白かった。今まで自分がパフォーマンスしている姿を、ひとつの遠めの定点カメラで見直すことはあったけれど、カメラが3つも、それも顔に注目して手ブレを伴って追いかけ続けているのを見たのは初めてだった。自分の表情がすごく豊かに変化していくのが客観的に見えて、おもしろかった。基本的には自分でも知っている顔なんだけど、たまにすごいブサイクな瞬間とか、稀にめっちゃカッコいい瞬間もあって、興味深さ半分、可笑しさ半分だった。それは、表情で見せてやろうという気概や狙いは特になく、声を出すことを基準にして顔が動いていった結果だった。つまり、表情で表現していたのではなく、声の表現のために表情を経由していて、それがたまたま面白かった。声の表現の幅のぶんだけ、表情にも幅があった。

そして、表情よりも少し引いた視点で、ダンス未満のような、踊ってしまうような身体が自分にあるのも最近改めてわかった。

ここ1ヶ月くらい、ダンサーの友人の誘いにのって、カメラを携えて即興的に踊ったり歌ったりしながら移動したりして遊んでいくのを撮ることを繰り返している。1回目の時には、わたしは「え〜!わたし踊りませんよ」とか笑いながら言って、まあビビっていたのだけど、ぎゅんぎゅん踊っていく友人に触発されて次第に、声を出すことにも踊りの気分がある!とか言って、全然かっこよくないながら、体を動かすようになってきた。
日をおいて、2回目、3回目、と同じルールで繰り返していくごとに、わたしも走ったり、腕を持ち上げてみたり、足を高くあげて葉っぱを蹴ってみたり、飛び跳ねるように歩いたり、摺り足になったり突然立ち止まったり腰を低く落としたり、そういうことをやるようになった。映像に写す「踊り」として出力しようとは思いきれないが、「歌」を発するのに付随する、声のために身体を経由する、という攻め方でなら動けた。

たぶんこれは「ノリノリ」というやつだ。「よっとお〜」と言う時に、体が静止した状態でそう言ってももちろん良いのだけど、例えば、なんとなく持ち上げた右腕を少し曲げて、肘を下げるように腰のほうへ15cmくらい素早く引いたところで腹筋を使ってグッと止めて、その止まるエネルギーを開放するように頭上へ、手を放るみたいに伸ばしていきながら、「よっ(停止)、とお〜(解放)」と言ってみると、なんかめっちゃ楽しい。シックリくる。ノリノリである
おそらく、平井堅とか声楽家の人とかが音程を正確にとるために歌いながら手をメーターの針みたいに上下に動かすアレとかと、近いものだと思うのだけど、言葉を音にした時の非言語的なシックリとか、音が身体と交わる部分が、まだ「ノリノリ」とか「こうするとなんか音程とりやすくなる」みたいな、フワッとした言葉でしか説明できないことにわたしはワクワクします!(自分が知らないだけでこれの科学的な研究とか普通にありそう)


ノリノリ続きで最後にマイクの話、というよりマイクの前にいる時の話がしたい。この数ヶ月、人前でパフォーマンスをする機会が減り、自宅でマイクを前に声を出している時間が増えた。それは歌の録音であったり、朗読の録音であったり、それこそ先述の発見を促したZOOM会議であったりしたけれど、その時のわたしの身体は、けっこう楽しく踊っていた。この音をのばしていく時には目がカーテンのあのあたりを見ていると良い感じだ、とか、朗読をしながらちょっと腕が踊ったりするのが心地良かったりとか。短編小説をノリノリで朗読していたら「面白いねえ。」という象のセリフがあり、その時に自分が目を細めていて、続きを読んだらその象が目を細くしていたという描写があり、シンクロしていた!ということもあった。体が丸ごと文章に浸かっていたのが分かったような、心地よい喜びがあった。
この文章の初めに書いたことーーー複数の言葉のあいだにある共通の音(ex.「しょう」)が何度か鳴るたびに、それらの音が近い距離ですれ違ったり追い抜いたりしていく感じがする、というすごく身体的な言葉の選び方、聞き方、発し方ーーーと、すごく親和性がある。なんかちょっと頭がよくなったような気がしてきた〜ァ

たぶん、わたしはそういうノリノリ、つまり体が全部つながって、一斉に何かに反応している状態のことが楽しくて、好きで、これを信頼している。人と会って話したり、同じ場所に集まって一緒に何かをする時にはそういうことが普通だった。でかい音で音楽をかけて踊るようなことが、定義を少し広くとってみれば日常に溢れている。




記録メディアは、せっかくノリノリになっている身体であっても容赦無く切り刻むし、ZOOMの画面ミュート機能はコミュニケーションとしてはしっくりこない。自分の場合は電話は楽しいし、録音という方法ならば比較的しっくりくるのだけど、それでも、何らかのメディアを間にはさんだ時の、片腕が肩からゴッソリ切り落とされているような、痛いくらいの激しい「片手落ち」を感じる。マイクと出会って、録音されて、きれいに整えられた自分の声は、もうわたしの声ではなくなる。

でもそのゴッソリ片手落ちの声が、楽しくなってきた。録音したり、他の人の声と重ねたりを繰り返して自分の声を客観的に把握していくと、だんだん「こういう器官」というような割り切った感覚になってくるし、自分の声のこのざらっとした感じがいい感じに聴こえるように録音したいとか、そういう考えも浮かぶようになった。
身体表現は、自分の体が自分の体になりすぎて突き抜けて離れてしまうまでいって初めて、誰かの何かになれるのではないかと思う。手を貸すみたいに声を、貸しだす、というより、もはや晒すとか捧げるみたいなギョッとするような言葉がしっくりくる。聴く人の耳を喉に招待する、とも言ってた(わたしが)。(気持ち悪いですね)
それを今の自分が肯定できるのは、逆説的なようだが、踊りながら歌ったり喋ったり呼んだり読んだりしてしまうこの肉体だけは、誰にも譲らずに済んでいる!俺のだ!という確信があるからだろう。基地があるから出発できる少し無謀な旅というのがあります。こっち側の端っこを、手綱をしっかり握れているというような。

そういう感性が育ってきたので、以前はあまりそう思えなかったけれど最近は、誰が書いたどんな歌でも歌えるような、どんな文章でも読めるような、そういう気がしている。
まあ、気がするだけで実際は決してそんなことはなく、わたしには到底歌うことができないような歌、読めないような文章やセリフがあるのだけど、それでも少しずつ、わたしの声がわたしの声ではなくなっていくようなことを肯定できる回路が見つかった気がする。いよいよシャーマンか、トランスか………







弾き語りもやります

今日は、言い訳をします!オオウ!

自分で弾き語りしたものをインターネットにUPすることを、ひっそりと自分に解禁した!
これについての言い訳をします。(ギャグに思えてくる「だ、である」調で)


アカペラで録った歌とかただの鼻歌なんかは、これまでにも平気でどんどんUPしたりCDに焼いて売ったりしてきたくせに、弾き語りだけはどうしても勇気が出ずにいた。端的に自分の弾くギターがへぼいというのが大きい理由だ。それに、ずっと「自分が弾き語りを前面に押して活動していくのはなんか違う気がする」と思い続けてきたので(それは今もそうですが)、人前で自分の歌を弾き語りで演奏したのは、今年の初めにやったパフォーマンスが初めてだった。
(これのことです。)




それで、実際やってみて、実はかなり勇気を振り絞ってやっていたあの演奏について、「ギターヘタクソ〜」とか、なんかわかんないけどそのような批判を受けることは特になく(少なくとも耳には入らず)、ちゃんと作品の感想をもらうことができた。あっけないような気持ちになった。
この何日かめの上演の時に、ギタリストの方が聴いてくれたので、終演後に「いやあギターが下手で恥ずかしいです」と言い訳気味に話したところ「いやいいんじゃないですか」とバッサリ、「その話はしてない」的な返しだった。他にも尊敬している音楽家の方からSNS上で映像みたけどいいじゃんという旨のコメントをいただいた時にはビビり倒したけど、ギターのこととか多分あんまり気にしてなさそうだった。それらを自分に都合よく受け取って、もしかしてこれについては開き直った方がいいんかもしらんと思えてきた。

あと、これはかなり重要なんですが、弾き語りって、もうその時点でちょっと陽気で、それがいい。
先の自分のパフォーマンスについて、爽やかめな印象を受けたという感想をけっこういただいた。言葉で描いている内容自体はあまり明るい話じゃないのに、ギターを弾きながら爽やかな声で歌ったことが、なんとなくそういう雰囲気を作っていたようだ。それに自分で家で歌っていても、アカペラより伴奏があると、リズムに乗るのも簡単だし、なんかニコニコやれる感じがある。ずっとアカペラで、演劇に近いような形でパフォーマンスをやってきた自分にとっては(ヴォイスの即興とかもですが)、どうしてもこの「なんかニコニコやれる感じ」がすごく偉大というか、「音楽」というフォーマットの絶大な効果という感じがする。

インドネシアにいた時、ギターを弾きながら歌うことは、アカペラで歌うよりも簡単だった。「言葉が体から出ている」というよりも「メロディーがギターと合わさって鳴っている」というほうが、意味が薄れて、深刻にならない。それは良くも悪くもといった感じだけど、ともかくそういう特性がある。そして、その抽象度と陽気さに、わたし自身が救われてきた。
(この時の話です。http://aoi-tagami.hatenablog.com/entry/2018/10/22/005444


まああと、何より、ギターを弾きながら歌うのって、楽しい〜。それでいいのでは?
伴奏を弾いてくれる人と自分がいる、という状態もすごく楽しいのだけど、それとはまた別のものだなというのがようやくわかってきた。自分で自分の伴奏を弾いているというよりは、大げさに言えば、「歌う」体の部位が増えたみたいな感じがある。指で弾いているとわずかな力の加減で音量の操作が、う〜〜ん!色々書けば書くほど、何言ってんだという感じがする!楽しい!ただそれだけです!
 

こんなことをここに書いてしまうのはあまりにもプロ意識に欠ける、などと、思わなくもないですが、宣言みたいなものです、ビビっている状態をグズグズ続けていくよりは100倍いいはず。長年抱いてきた弾き語りライブをやることへの憧れを、最近ついに抑えきれなくなってしまった。「下手」とか「上手い」とかにも疲れてしまった!
 
やりたいからやります、ということで堂々とやっていこうと思います。秋に色々発表の予定があるのでその布石ということで、お手柔らかに何卒…





五月末の雑記


(これは五月末に書いたけど投稿し忘れていたものです、嬉しくなる前)


あっという間に2ヶ月近くたってしまった。

わたしは相変わらず家にいる。でも2ヶ月前のように「本気で家にいる」というほどの強い意志は、もう保てなくなった。今は惰性で家にいるような気がする。

ジョギングだけは順調にその後も続いていて、目標にしていた2軒めのガソリンスタンドより少し先まで、折り返し地点がのびた。地図をみて確認したところ、この往復は約4km。あと1キロ伸びたらキリがいいな〜と思うので、もうちょっと距離を伸ばす方向で続けたい。実際、こんなに出かけていない割には体力の衰えとか、脚が弱った印象もない。なんならちょっと体が軽いし、何より、走って帰ってくると少し気持ちが元気になるのが、本当に救いになっている。

今日も走った。ただ、けっこう心が限界みたいな状態で家を出たせいだろうか。ジョギングコースを6割ほど走ったところで、視界に入る、自分と同じように走ったり歩いたりしている知らない人たちが、ふと、全員すごく憎く思えてきてしまった。これはマズイと思って脇道へそれた。こういう気持ちに取り憑かれていくと通り魔とかやるんだろうか、と想像して恐ろしくなる。たいした理由もなく人を殺す人の気持ちなんて分からない、とは、正直わたしは思えない。たまたま今、ちょっと冷静でそこそこ健康なのでやらないだけというような気がする。


脇道へそれると、全然知らない人の住む、全く馴染みのない住宅街が広がっていた。道の右も左も家ばかりだ。なるべくさっきの道へ戻らないようにしながら自宅へ帰ろうと思って、曲がる道を慎重に選びながら進んだ。いつのまにか走るのをやめて歩いていた。

知らない人の家の前に、初めて見る、名前を知らない草があった。丸くて毛が生えた丸い実が、花のように先端にひとつずつついた草が群生していた。ちょっと気持ち悪いけどおもしろい姿だった。
少し行くと、お爺さんが家の中で電話をしている声が聞こえた。犬を散歩させている人もいた。移転した後の、からっぽになった婦人科があった。「ファミリープラン」の自販機と、「ラーメン缶あります」と書かれているのにラーメン缶は売っておらずコーヒーばかりの自販機が並んで立っていた。
ここで大きな声を出したらみんなが窓から顔を出しそうなくらい、360度、ぐるりと家に囲まれていて落ち着かない。

そのままのろのろ歩いて帰った。軽快に走っていく男性に追い抜かされた。後ろから近づいてくる足音が男性のものである、というのが、聞いただけで分かった。その人が通り過ぎる時、もう少し避けてくれれば良いのにすごく近くを通られて、そんなことに若干の嫌悪感を抱いた。知らない男の人が不要に自分の近くを通り過ぎることに嫌悪感や不信感を抱くのは、もしかして多くの女性がそうかもしれないけど、「多くの女性」にそれについて質問したことがないのでわからない。わたしだけが過剰に警戒しているだけかもしれない。


昨日は、アメリカで起きている状況に関して、ドキュメンタリー映画を観たりインターネットの記事を巡ったりしていたのだけど、ふとツイッターのトレンドに「Kalimantan」と出ていたので(わたしはなかばふざけてトレンド地域設定をインドネシアにしている。カリマンタンは、何事もなければ今年の秋に行く予定だった島だ)調べたところ、ISISのシンパが長い刀で警官を殺し自身も死んだという事件が南カリマンタンで起きたという。
それは、アルファベットの文字と、おまけみたいな写真だけの情報だったが、自分にとってはけっこう鋭利だった。海流が渦巻く大洋のような、誰もが知るアメリカの状況に関する印象とは全く違って、知らない場所の凄惨なひとつの事件は、その長い刀という凶器のせいだろうか、冷たく鋭くわたしの想像を掻き立て、深い傷を負って動かなくなった肉体がどんどん硬くなっていくような場面を想像をさせた。そんなわけはないんだけど、まるで自分しかこの事件を知らないような気がして、ぞっとした。


 
この2ヶ月のあいだ、自分にも色々なことがあったといえばあった。
ベッドを買って、睡眠の環境がよくなった。
花の手入れをマメにやるようになったおかげで、ベランダが盛り上がってきた。
バジルとパクチーと大葉の種を植えたら芽が出た。
桜は完全に葉っぱに変わって、紫陽花が色づき始めた。
友人が誘ってくれて朗読を録った。
結局またツイッターは見始めてしまって、日々じわじわダメージを食らっているけど、ツイッターごしに連絡をいただいて配信ライブに出演したりもしたし、ちょっとした嬉しいこともあるにはあった。
風の谷のナウシカの漫画版を全部読み終わった。
全部嫌になって自転車に乗って、知らないほう知らないほうへ行くんだけど途中で怖くなってしまって、結局田んぼの脇に座ってカエルの鳴き声を録音して帰った日もあった。

フィールドレコーディングが、おじさんに話しかけられたりしてビックリして終わることが時々ある。むしろ、あの感じが好きなのであまりイヤホンでモニターしないで録ることが多い。
今回もそうで、少し遠くに停めたわたしの自転車が、近くの駐車場へ入る車の邪魔をしてしまっていたらしく「どかしますね」と穏やかに声をかけられてビックリして終わった。

https://soundcloud.com/aoi-tagami/200524a


嬉しいこと!


先日、3ヶ月ぶりくらいにライブをした。
とても規模の小さい演奏会で、荒いところもあったしMCを完全に失敗してしまった(ごめんなさい…)けど、本当にやらせてもらえてよかった。こんなに軽い足取りで終電に乗るのなんていつぶりだろうか、と思った。そうだ、3ヶ月ぶりだ。帰りの電車で1人になってから、わたしはああいう場での振る舞いと、自宅(実家)にいる時の振る舞いが、表情が、体の軽さが全然違うな、こっちのほうが好きだな…と自分で思った。本当にありがとうございました。


ここ数ヶ月のあらゆる中止に、思っていた以上に自分がダメージを食らっていたのが、この日よくわかった。
自分の企画やワンマンライブ(!)や演奏予定が中止(延期)になったことだけではなく、自分が観客として楽しみにしていた舞台やライブがなくなったり、仲間に会って一緒に練習することさえできない時間が続いていて、とにかく「できない」という圧が、じわじわとかかり続けていたらしい。それでも家でできることは沢山あって、それなりにやったし、まだまだこれからも家でできることはあるし、やるんだけど、それでも結局つらかったみたいだ。まあそうだよね…。



その日に一緒に演奏した友人とも話したけど、ライブで演奏している時の一番いい時間は沈黙だと思った。
録音では、演奏していない時間は編集してしまって完全な無音を生成したりするけど、ライブの時の沈黙は、その場にいる全員が作る時間だ。演奏している人だけではなくて、聞いている人もそこに加担している。感想がにじむ終演後の拍手とは性質の違う、もっと愚直な、生きた時間だ。好きだ。
中止や延期や、練習できない、という日々をやっとくぐり抜けて、できる、できている!と一番に実感できた時間が、音を出している時間ではなくて沈黙だった、というのはちょっと自分でも意外だったけど嬉しい。

実は今回のライブも、もし当日まで予約がゼロだったら中止にします、会場の方から言われていて、しかも直前まで予約が入らなかったので、当日までハラハラしながら準備していた。当初から内容を変更したのもあって告知が遅かったし、まだまだ都内の状況は良くないので、ちょっと人を誘いにくい、仕方ないのかもしれない、でも、もしまた中止になってしまったら、めちゃくちゃにショックを受けてしまいそうで、立ち直れないとまではいかないまでも、だんだん「中止」に慣れてしまうんじゃないか、それでは何かが麻痺していきそうだ、という恐怖があった。でも規模の小さいところから少しずつでも再開していかなければ取り戻せないので、もうしばらくは、こういうハラハラを感じながらやっていくのだろう。



ついでに、ライブの前の数日、カラオケへ行き楽器を持たずに歌う練習をしたのだけど、それがものすごくよかったことも書いておきたい。久しぶり一度めで、気持ちが高ぶり過ぎて4時間くらいカラオケで歌い続けてしまった。それくらいずっと立って動きながら歌っていると、わたしは一番最初に脚がへばってしまうのだが、この日は全然へばらなかった。感動した。ここ3ヶ月くらい、イマイチ体の変化を感じないまま季節の確認か動物の習性みたいにジョギングを続けていたのとか、ここ2年くらいなんとなく続けていた歯を磨く時に腰を落とす筋トレなどが(?)ついに報われた気がした。これはさすがに成果だ。嬉しい。

でかいステージを端から端まで走りながら歌う、みたいなライブを自分がやることは当分なさそうだけど、高校生の頃に憧れていた歌手はそういう人だった。彼女は陸上部出身とのことだったので運動を全然していなかった当時のわたしは「かなわねえ」と思っていた。今だって全然、何もかもかなわないけど、その後、事故で足首を痛めたり、頑張りすぎて膝を痛めたり腰痛に悩んだりして、足腰が弱いのが悔しい悔しいと思い続ける大学生時代を過ごしたので、やっと今「まあまあ丈夫」ってことでもいいんじゃないのと思えたことがすごく嬉しい。嬉しい、で終わる文章ばっかりになったけど嬉しいんだから嬉しい。








最後の静かな片隅


件の感染症の影響をもれなく受けて、自分もここ最近は仕事や外での用事がほとんど全部なくなり、とにかく家にいる。
幸い家にいるという選択肢をとれる人間として、本気で家にいる。


出かけなくなって約2週間半。親しい人たちに会えない、という寂しさは今のところそんなになく、むしろ1人で電車に乗る時間のことが恋しくなった。自分はいま郊外に住んでいるので、都内へ出かけるには乗車時間がいつも長く、それを煩わしく思ってきた。でも失ってみるとあの時間は、それが満員電車であろうとなかろうと、1人でぼんやり過ごす稀有な時間として、あるいはこの後に会う人のことやこの後やる仕事のことを考えたりして心の準備をする時間として、それなりの役割を担ってくれていたのだとわかってきた。満員電車は最悪だけど、それでも。

今はもう全部が全部、かえってゼロ距離になってしまった。外国にいる友人ともリアルタイムでチャットができてしまうし、仕事の通話もすぐつながる。仲間とのZOOMミーティングやオンラインでのコミュニケーションも、最初は「できるじゃん!」という感じでけっこう楽しかったけれど、だんだんしんどくなってきた。この先に、これが当然の日常になって自分が順応していく段階があるんだろうなー、とは思いつつ、今はまだ慣れず、疲れが勝っている。



こういう状況なので、今の自分にとってはジョギングだけが家の外へ出る口実だ。ここ数週間、雨の日以外は毎日走っていて、その時間が心と体を支えてくれている。同じような人が多分そこそこいるのだろう。どの時間帯に外へ出ても、自分と同様にジョギングやウォーキングをしている人とけっこうすれ違うし、けっこう追い抜く。たまに追い抜かれる。

わたしは、いつも同じコースを走りつつ、毎日数メートルずつ距離を伸ばしている。今日は3m先のあの街灯までいくぞ、明日はあの木までいくぞ、と、折り返す地点を少しずつ遠ざけていくと着実に距離が伸びていくので楽しい。恥ずかしながら、今までにもこういうのを3日に一度くらいのペースで数週間ほど頑張ってはスッカリやめて、という微妙な三日坊主(三週坊主?)を繰り返してきたのだけど、今回は相当着実にやれている。もう少しで2軒目のガソリンスタンドに到達するのだけど、急いで達成すると良くない気がするので欲を抑えてジリジリやっている。

この長い道沿いには桜が咲いている。3月末にはもう満開だったが、ここ2週間ほどですっかり葉っぱに変わった。昨日の雨で花はかなり落ちて、透き通るような美しい若葉が日に日に増している。紫陽花も生命力をメキメキ取り戻してきた。冬に一度枯れきって、またこの季節に急に元気になる紫陽花にはいつもワクワクする。一番好きな季節が近いのが心底嬉しい。早く半袖のTシャツを着たい。そういうことを考える時間を1日の中に少しもつことで、だいぶ救われている。



一方、家にいる時間、というか、自分は今インターネットがけっこう辛い。自分のタイムラインはもはや、情報源やコミュニケーションの場というよりは、バリエーションに富んだ暴力の現場みたいになってきていて、自分が弱っているとダメージをもろに喰らう。書き込んだ人の意図や具体的な内容とは無関係にとにかくガッと喰らう。こちらが疲れている時には、厳しい批評・批判、しょうもない誹謗中傷、クソリプのみならず、美しい景色やかわいい動物や美味しい食べ物の写真、ちょっとしたジョーク、音楽など、あらゆる楽しいものさえ「それにひきかえおれは」とゲッソリした気分で受け取ってしまう!疲れすぎですね。
そして数日前にようやく、自分が家族メンバーに対して不要にキツく当たってしまっている事実と、最近の己の負の感情と疲弊は全部ツイッターから受け取ったものじゃん、ということに気づいたので、お知らせがある時以外はツイートせずしばらくはガチのログアウトを決めこむことにした。やり方が不器用すぎるが、ちょっと今の自分はこういう方法しかとれない。


そして、実際いい。なんか気づいたらロフトベッドを購入していた。

配送業者の仕事を増やしてしまう、という事実にそわそわするけど、睡眠環境の改善をもって悪夢を見る回数を減らすことのほうが自分にとって切実だと判断した。

複数の人と話してだんだん分かってきたが、自分はわりと睡眠が下手っぽい。寝る前にいきなり憂鬱になって数時間寝付けないまま静かに泣くことや、見る夢が概ね悪夢であること、寝ても寝た心地がせず寝起きのコンディションが最悪なこと、日中頭が覚醒している時間が少なすぎることなどがある。とはいえ、自分の程度はそれによって健康に害を及ぼす、社会生活に支障をきたす、というところまでは至らないので全然かわいいものだ。加えてこれは花粉症の薬のせい説もあるし、今後ばっちり是正される予定である。

ともかくベッドは近々届くので、この機会に自分の生活環境をめっちゃいい感じにする。他に歌などを録音する案件が複数あったり、ちょっとだけ仕事もあるので、なんとか「生活」という状態が成立している。
あとは友人にそそのかされて音楽を編集するソフトの90日無料のものをインストールしたので、それも毎日開いて地道に動かしている。立ち上げるたびに「無料期間はあと87日ですが買いますか?」という英語のメッセージが表示されてカウントダウンされていくのがなんだか可笑しい。超初歩ですがエレキギターをライン入力で録音できるようになりました()



まだ2日しか脱ツイッター生活をしていないけど、インターネットに全部を吸い取られていく感じがただの錯覚であったというのが、やっと体感できるようになってきた。失いかけていたものが戻ってきた。
こうしてダラダラとブログにしか書かないような文体でブログにしか書かないようなことを書くのも大事っぽい。これは自分にとって、体を吸い取らせずにインターネット上に痕跡を残す原始的な最後の手段のような気がする。140字で終わらせたり区切ったりせずに書ききるところまでしつこく言葉を探し、実感がのると思えるリズムで、でも気楽に支離滅裂になりながら、ダーッと書く。お気に入りもリツイートもいいねもない、静かな自治区だ。ここには、声を録音してアップロードするとか、演奏している様子が映像になって Youtubeにあがっている状態よりも、もっと強く自分の何かが刻まれていると思える感触がある。
 
まあ、こんなに長い独り言が必要って冷静にヤバいのだが、でも、きっと誰かが見ていると思って書く文章は、こんな文章でも紙に書く日記よりは少しよそ行きで、ちゃんと希望に向かえる。大げさかもしれないけど、これは自分が健康でいられる文体なのだと思う。インドネシアに半年いてインドネシア語に囲まれていた時も、たまに日本語でブログを書くことで、どろどろ落ち込むのではなく、1人で前向きに落ち着く時間を確保していた。

それと、ここにだけは、かつて自分が信頼していたインターネットの静かな片隅といった感じが、かろうじて残っている気がする。
Youtubeに張り付いて音楽を聴き漁ったりアニメやニコニコ動画を観たり、好きな漫画の絵を真似して描いたりグダグダと黒歴史でしかないブログを毎日のように更新していた高校生や中学生や小学生のころの自分が好いていた、あのひっそりとした居心地だ。
 
創作以前の、ただオタクかネクラっぽいだけの静かな興奮が、秘密っぽさが、かつて自分が1人で好いて遊びに来ていたインターネット上にはあったと思う。でもツイッターにはもうない。たぶん他の場所にもほとんど残っていない。というか、わたしが今からそういう場所を探して出向くことはもうなさそうだ。さすがに大人になって、顔も名前も出して表現とか考えていて、あの時とまるっきり同じものが必要なわけではない。

でも、とにかく体は続いていて、自分は同じ顔で、化粧だけ変えて生きている。
たぶん今後もここにはお世話になります。ベッド楽しみだなー。
 
 
 
追記:
はてなブログ、記事の下部に「いいな」機能があるんですね、笑っちゃった。
この機能はオフにできたらしておきます。
 
 

専門性と、純金のプライド


先週、ここしばらく制作を共にしているダンサーの小山さんと一緒に、ジャワ舞踊家の佐久間新さんのWSに参加した。今制作している作品や今後の制作(夏にジャワへ滞在制作しに行く予定)のための取材ということで、午後からのWSの前に、じっくりお話を聞かせていただくことができた。とてもいい話をたくさん聞けたのだけど、その後のWSも含む1日の中で、個人的に特に感動というか、前向きに反省したことがあったので書きたい。

佐久間さんへのインタビューは、わたしと小山さんがそれぞれジャワの踊りや文化、身体について気になっていることを雑多に聞くという、形のない形で進んだ。10時に開店したばかりのサイゼリヤに入って、お茶を飲みつつお昼のピークまでノンストップで話し続けてしまった。(すみません)話題は、伝統舞踊と地元のトランスダンスの関係(あんまりないっぽい)や、伝統的な踊りの型のなかで身体の精度を上げていくこと(何年も同じ型を踊るなかでその究極的な細部がどんどん更新されていく)、その伝承や伝播、ジャワに残っている魔術と市民の距離感、必然性をもって踊るための意識の持ち方、音に反応して体が動いていくことについてなど、様々に及んだ。
そのなかで、「常に踊っていると次第に全てが踊りに通じてくる」といったような話が、かなり自分に響いた。

佐久間さんは「踊りをやるようになってからは、それまで演っていたガムランをしばらく触らずにいたのだけど、久しぶりに触ったらガムランが上達していた」という。歌う声も以前よりよく出るようになったとおっしゃっていた。
単純にフィジカルなレベルが上がったということもありそうだけれど、どうやら踊りには「楽器の音が鳴るのに合わせるのではなくて、体が音を演奏している」としか言いようのないような境地があって、そういうことになってくると、楽器をやるより踊った方が簡単に音楽を「鳴らせる」のだそうだ。かなりの境地だと思うので、おいそれと真似できないのだけど、でも、コーヒーを一口飲むという行為を、ダンスと別の日常としてやるのではなくて、ダンスの続きにあるものとしてできるようになっていくと、ダンスも日常もどんどん磨かれていく、と、言い方を変えていただいたらわかってきた。わたし達に話をしてくださる佐久間さんの、「たとえばさ…」と言ってカップを手に取るしなやかな動作が、全てを物語っていた。

その後のジャワ舞踊のWSでは、歩く練習にけっこう長い時間をつかった。歩くことは日常の基本でもあるし、舞台の基本でもある。舞台の中央で踊るためには絶対にソデからそこまで歩かないといけないからねとおっしゃっていた。(初心者にとって車の運転では駐車がいちばん難しいけど毎回駐車はしないといけないからね…というのと同じだ…。)WSの終盤で習ったジャワの宮廷舞踊の演目の最初にも、座った姿勢でしばらく待つところがあって、きっと超基本の姿勢なのだけど、その時の座り方がやっぱり佐久間さんはハチャメチャにかっこよかった。「しっくりくる」という言い方をされていたけど、まさにそういう感じだった。「しっくり」きているのが、はたから見ただけでもわかった。確信のある体はかっこいいのだ。

そういえば、朝、佐久間さんと駅で待ち合わせた時、少し早めについた自分は、映像や写真でしか拝見したことのない彼に似た背格好の男性を見つけるたびに「あの人か?」「ん?あの人か?」と一人でキョロキョロしていたのだけど、全員ぜんぜん違う人で、時間になって改札に現れた佐久間さんが、それまで見たどのおじさんよりも、明確にかっこいい出で立ちをしていて、すぐに「この人だ!」とわかった。それがけっこう嬉しかった。姿の説得力って一瞬だし、強い。その時の印象は最後まで一貫していた。



日常の全てが踊りを磨く、という話とあわせて、ジャワの人のマルチスキルさについての話になった。すごくかいつまんで言うと「日本の人は自分の技術を専門性を持って尖らせていって、こだわりの道具を駆使して隅々まで統制のとれた完璧な仕事をこなす、といった職人ぽい気質の人が多いが、ジャワの人は、いろいろなことを器用にこなしたり、ありあわせの素材を工夫してバッチリにする、というような傾向があるよね」という話。

確かにそうで、お金がないということも関係しているとは思うけど、わたしがジャワで出会った多くの人も、素材や道具にこだわるより先にとにかく「やってみる」「工夫して実現する」というタイプだった。そういう人は突然の予定変更などにも対処が早い。イラストを描いている友人はウィンドウズのノートPCとマウスでその仕事をバリバリこなしていたし、路上で開催されているライブでは、途中で雨が降ってきたらミュージシャンの横や機材の周りにスタッフが立って傘をさしていた。それでいいのか…?と思ってしまうこともあったけど、いいのだ。ペンタブがないので描けませんとか、雨天対策のテントが立てられないのでイベントは実施しませんとか、そういう風には全然ならず、とにかく実行していく姿にはかなり感銘をうけた。




そうだというのに、彼らに刺激を受けたはずなのに、ああいう生き方かなり良いな、と思っているつもりだったのに、自分は、どうやら性根が真逆、かなり頑固だ、ということに改めて気づき、猛反省した。
頑固で失うものや得そびれるものって、かなり多い。少し前、自分のこだわりや情熱が空回ってヤキモキしたことがあった。わたしは「声」に興味を絞って活動してきたつもりだったので、その時は「いくつかの得意なことのうちのひとつとして歌もやる」という人と自分のパフォーマンスを並べられることに、納得ができなかった。自分の力が60%くらいしか必要とされていない感じがして、120%くらい提供する気合いでやっているのに、違う人でもいいような仕事ならやりたくない、などと思っていた。無駄なプライドで「だったらいっそ圧倒的なクオリティで完遂してやる」などと意気込んだりしていた。(今思うとめちゃくちゃ恥ずかしい。粛々と100でやるべきだったのだけど、そういう器用さがない。。)

きっと、基本的にはそういうこだわりとか、強い意志はあってしかるべきだけど、こういう心の姿勢は他人にすぐバレて、なんかギスギスしたりする。そして何よりも、残念ながら、自分の歌や声の技術は、そういうパワーで押し切れるほどのハイパーな実力には到底、達していない。ただ小型犬がキャンキャン喚いているだけみたいな情けなさだ。(虎になりたい…)

その案件は終えて、別の制作が始まってからも、その邪魔なプライドはやっぱり残っていた。今一緒に制作している人は、歌ではなくてダンスを専門にしている人だから、ダンスのことはお任せします〜という感じで、いい意味でお互いに信頼しあって進めて行けていると思っていたが、しかし、先日のジャワ舞踊のWSの時にも、わたしはちょっと卑屈になっていて、
「わたしはダンスはてんでだめなので」
「全然動けない参加者なんて自分くらいですよね」
などとのたまっていた。最後に感想を述べ合う時にまで、その遠慮というかビビりが発動してしまって、あまりちゃんと感想が言えなかった。
帰り道、小山さんに「いうて田上は体の感覚いいよね」と言ってもらえてもはぐらかしていた。相当ビビっている。

つまり、専門性とか言って自分で自分のやれることを狭めて、その他のことについてはビビって手を出さない、という状態になっていた。なんかこういうの本当に、すっげえ情けない!



さて。

サイゼのコーヒカップをとてもしなやかに持ち上げたり、話の途中で、上半身だけでスッと踊るように言葉のニュアンスを表現したりする佐久間さんのことを思い出して、わたしは、こういうことをやりたかったんじゃないのか、と、昨日くらいに改めて思ったので、自戒をこめてこれを書いている。

歌というものが、音楽だけの特権ではなくて、歌手の特権でもない、誰もが持てる楽しみとしてあって欲しいと思っていたことを思い出した。喋る言葉やただの呼吸までもに、歌を感じられたら、それは、日常がミュージカル映画のようになるなんてことではなく、もっと普通にそばにあるものとして、歌を再発見できるのではないかと。特別なこととしてではなくて、「自分の声が出るのを聞く」ということを肯定できさえすれば、声は歌になるんじゃないかと、難しいこと抜きにしてそれってすごい楽しいじゃんと。そういうことを思っていたはずだ。自分が自分を守っていくために「自分は歌の人」と思ってきたことがすごくしょうもなく感じた。

一番大切なものをひとつ持っておくのは当然に大事だ。でもそれを大事にするために他のことができなくなったり、他の人に対してビビったり逆に攻撃的になったりするのは本当にダサいし、大事なものを見る目さえ曇らせるだろう。専門家じゃなくても、下手くそでも、料理を作っていいし、文章を書いていいし、外国語を喋っていいし絵を描いていいし写真を撮っていいし、山に登ってみたり海に潜ってみたりしていい。というか、生活ってそういう風に成り立っている。あらゆることが、自分にとって一番大事な何かを高める糧になったり、ならなかったりしていくのだから、ビビってサボっている場合ではない。へっぴりごしでは獲れるドジョウも獲れない…(??)


最近おなじ現場になった音楽家のかたも、彼にしては意外な道具を使ったりしていたので、こういうのも使うんですねと言ったら、「自分の目的ははっきりしていて、方法はけっこうなんでもいい」と言っていて、え、めっちゃかっこいいなと思ったのを思い出した。

自分の中に軸を持っていればいい。油断するとその軸が外側に出ていってしまって、自分が振り回されたりするのだけど、毎回正しく戻してこられるようになろうと思いました。
それでちゃんと軸の周りに充実した実がついてきたら、本当の専門性とか、ちゃんとした格好良さにつながる価値あるプライドが生成されていくんだろうと期待して。そんなものは40年とか50年先にならないとわからないだろうとも思いつつ、柔軟に続けていきたい。