4 フェスティバルサバイバル

7月28日
ちょっと寝坊したけど、今日は帰ってこないつもりの荷造りをして家を出た。帰るつもりで買ってしまっていたドラゴンフルーツとキウイを慌てて食べて、食パンは冷凍庫に入れた。ちょっと大きい荷物(リュックとバッグ)をしょって、徒歩で20分くらいの友人宅へ向かう。もうすっかり覚えた道なのですんなり到着した。
ムティアと3人でご飯を食べに行った。屋根のあるフットサルコートに併設くらいの距離感で店を構えている、カンビン、たしかヤギの肉の屋台。わたしはカレーみたいなのを頼んで食べた。ジョグジャの屋台の氷はもしかして大丈夫なのかもしれない気がしていて、もう普通に冷たいジュースを飲んだ。カレーみたいなのは、確かナシゴドッというやつ…甘辛くて美味しかったけど、あまりにも量が多くて残してしまった。
お腹いっぱいだったので、友人の家で次の目的地へのチャーターしている車が到着するまで軽く昼寝をさせてもらった。

チャーターしていた車は、30分くらい遅れて来た。運転手さんはお祈りをしていて遅れたらしいのだけど詳しくはよくわからない。その後合流した、インドネシア暮らしの長いマダムたち曰く「二度とこんな運転手を呼んではいけない」とのことだった。いまどき、仕事の時間に遅れてくる人なんて滅多にいないらしい。

車で山へ向かう。リマグヌンフェスティバル、というのが今回の目的だ。リマが5、グヌンが山という意味で、年に一度、5箇所の山村のうちの1箇所の村を会場にして、毎年場所を変えながら行われている、音楽とダンスのフェスだそうだ。今日から三日間開催されるのだけど、マダムの勧めでわたしは三日間とも見ることになった。雑魚寝で良ければ泊まれるしご飯もタダで食べられるよ、息子も行くと思う、と言われて、じゃあ泊まります!と伝えていたのだけど、一緒に来てくれると思っていた日本語もできる息子さんが泊まらなくなったと聞いて内心ビビりつつ、開催地の村へ向かうことになった。

村は本当に山の上にあった。
いわゆる山道は、生えている植物が巨大であること以外は日本の山道とそんなに変わらない。舗装された細い道が続く。車でガンガン登って行くと、藁のようなものでできたオブジェが所々に立ててあった。それが目印になっていて、村へたどり着くと、同じような飾りが沢山あり、メインステージには、同じ素材で作った巨大なガルーダ(鷲)の彫刻が置かれ、向かいの客席背中側にはナガ(龍)の彫刻があった。どちらも巨大で迫力がある。
村は、山なのでずっと坂道がつらぬいていて、両側に家々が並んでいる。けっこうたくさん人が住んでいる。坂の下の方は畑があって、タバコの葉っぱとトウガラシが栽培されているのが見えた。  
フェスが始まるまで待っていたら、低い声でゆっくり話す画家の男性が、わたしたちを湧き水があるところへ案内してくれた。畑のさらに下の方へ石段を降りて行くと、少し広い空間があって、完全に虫の声しか聞こえない、ここが自然か、みたいな場所に出た。両側が湿った土と木々で、ちょっとした谷のようになっているので、全く音が響かず、自分たちの声が妙に近くに聞こえた。湧き水は土の壁の5箇所くらいから出ていて、竹の管と、そこから水を受ける水瓶が置かれていた。水は冷たかった。

再び道を戻る。マダムがフェスティバルの関係者だからなのか、スタッフ控え室みたいな建物に案内され、自由に食べて良いご飯と惣菜があり、わたしたちはそれを食べた。とても美味しかった。お茶を飲んでノンビリしたり、そのへんを散歩してミートボールのカマボコ味みたいなオヤツを屋台で買って食べたりして時間をつぶした。
やがて、ウキルの一行が到着した。去年の夏に瀬戸内芸術祭で友人になった、好きなミュージシャンだ。今回来るというのは今日知ったのでかなりビックリ嬉しくて、ワァーイみたいな感じで挨拶をした。そうしたらマダムが、この子が今夜ここの村に泊まりたいけどロクに喋れないのに1人になってしまうので面倒を見てやってくれと話をしてくれた。そしてあっさり承諾してもらえた。嬉しい。みんなが適当に泊まるところに泊まることになるけど何か困ったらウキルに聞きな、と言ってもらったしウキルのグッドサインももらった。

やがてフェスティバルが始まり、いろいろな演目を次々見た。
途中、やたらギラギラした半袖の衣装にサングラスをかけて、ショートパンツにスニーカー、軍手、という謎の格好をした若い男の子たちが20人くらいで踊り、バンドも大所帯でちょっと間抜けなくらい明るい音楽を演奏、曲は変わってるぽいんだけどほとんど同じ曲調、という謎の演目があった。可愛かった。

伝統的な踊りらしきものも、二つの演目で見ることができた。かなりかっこよかった。
一つが終わった段階で、わたし以外の日本人の皆さんは車に乗って下山していった。わたしはほとんど言葉も通じないところに1人置き去りにされるのが、さっきまでは怖かったけど、いざそうなるとなんかもう面白くなってしまって、ニヤニヤしながら手を振り車を見送った。
1人になってから客席に戻ると、もう日付も変わるるほどの深夜ということもあって、さっきまで鮨詰めだった席がガラリと空いており、かなり前の方で見ることができた。

前の方で見ていたら、自分の近くのポジションによく回って来る踊り手の左足に、ガーゼのようなものが紐でくくりつけられているのが見えた。怪我をしているのだと思う。それを見たら、なんだか途端に、この目の前のすごく煌びやかな衣装と濃い美しい化粧に身を包んだ彼が、性別や性格を持ったひとりの人間という風に思えてきた。そりゃあそうなのだけど、さっきまで遠くの席から見ていたものだから、ギャップがあって、ぐっと見入ってしまった。人種も話す言葉も違うけど、ケガするしそれを我慢して踊ったりするんだよなあと思ったらいきなり勝手に親近感がわいて、それからは彼ばかり目で追っていた。



最後の演目も終えて、30分くらいウキルの友人とお互い(わたしのほうが圧倒的に)モタモタした英語でおしゃべりをしたりした。結構色々話して楽しかった。
そろそろ寝ようかなという時間になって、挨拶をしてその場を離れ、歯を磨きたいと伝えたら、案内されたのがトイレだった。
このトイレ、ジョグジャで滞在していた時に使っていたトイレの、もっとガチなやつで、床にある便器と水を溜めた釜までは同じなのだけど、トイレットペーパーがない。手桶で汲んだ水で洗うスタイルである。しかもそこで歯を磨けという。わたしは化粧をしていたから顔も洗いたい。

結局、奇跡的に持参していたペットボトルの水でうがいをし、顔は諦めて気持ちを切り替えて、化粧落としだけ顔に塗って、ホースから出る水で拭うように洗い流した。なんとかスッキリはできた。
また山小屋と比較するけど、その時も、山の下から上まで背負って運んだ2リットルペットボトルの水でうがいと洗顔をしたのを思い出した。でも、その時は自然の中だったけど今回は中途半端に建物の中なので、不潔指数が圧倒的に高い。まあなんというか、今回を経て、自分がひとつ強くなった気がした。

しかし、さらに強くなってしまう展開が待っていた。わたしが「そこに寝たらいいよ」といってもらえた部屋は、ばーんと広い二階建ての二階で、ゴザが敷いてあるだけのコンクリ打ちっ放しだった。まず寒い。そして、そこへ登る階段が、薄い。登った先の床も、20センチもないくらい薄い。そしてメチャ硬い。何故、よりによって。こんなに硬い床で。

とりあえず持っている布をほとんど全て身につけて防寒し、貴重品の入ったカバンを枕にして寝ることにした。



明日を無事に生きて迎えられますように、と祈るばかりです、おやすみなさい。






3 徒歩によい涼しい日

7月27日
今日はそれほど寝坊ではなかったけど、あまり時間を決めた予定もない日だったので、ベッドでノンビリ昨日の日記を書いたり、朝ごはんに食パンを焼いたり(フライパンで焼いたら加減が分からなくて焦がした)ストレッチや身支度を丁寧にやったりして、かなりゆっくりしてから昼頃に家を出た。
部屋にいる時からちらちら降っていたけど、外に出た時にも雨が降っていて、止むまで待とうかとも思ったけど、それでいつまでも家を出られなくなるのも嫌なので、折りたたみ傘をさして歩き出した。古着で安く手に入れたのでかなり雑にはいているけどお気に入りのスカートを、今日の徒歩ならはけるや、と思って着てきた、それが少し嬉しかった。小雨で曇りなので涼しくて、歩いても平気な気温だった。
しかし、とりあえずの目的地の、昨日訪れた、仲間たちがいるギャラリーの場所がわからなかった。歩き出してみたら、思っていたよりもずっとわからなかった。少し歩いてみたけど思い出せず、仕方なく、昨日の夜にバイクで連れて行ってもらった友人宅へ向かった。その道は途中のスーパーマーケット以降を歩いたりしたし単純に記憶が新しいので大体わかった。
迷わずに、進めたには進めたけど、友人宅に着くまでの道は、やたら長く怖く感じた。ジョグジャはとにかくバイクや車の交通量が多いし歩道がほとんどないか崩れているかガタガタなので、不安な気持ちで歩いているとけっこうマジであらゆることが怖くなってくる。言葉もわかんないし。
それでもなんとか友人宅へ辿り着いた。玄関の前にサンダルが脱いであった。誰かいる。ホッとする①。ドアも開いているので覗き込んでみると水の音がする。シャワー中だったら申し訳ない…と思いつつ「ごめんくださーい」と言うと、ほどなくして、歯ブラシを手にした若い女性が現れた。ホッとする②、でも知らない人だ。
知らない人だけど展示の関係者であることは間違いないので、軽く自己紹介をし、「この会場にいきたくて」と事情を説明したら、iPhoneを使って道を説明してくれたのだけど、この時にマップにピンを立てた上で教えてくれた。こんなに素晴らしい道の教え方があるのか、と学びがあったし心からホッとした。これで歩ける。
 
彼女に御礼を言って別れて歩きだしたら、さっきまでと同じ道なのに、全然ちがう気分になっていて自分の単純さが面白かった。観光地なので、わたしのような明らかに現地の人ではない若い女はタクシーやバイクタクシーやその辺のおじさんにとにかく声をかけられる。それに対して、昨日や今朝はかなり焦りをもって必死さを必死で隠しながら真顔で目も合わせず「ノー、いらない」とか言っていたのが、今はもうニコニコしながらハキハキと「ノーセンキュー!」だ。
昨日の晩に、ここの交差点の角にあるバティック屋さんがオススメ、と聞いていたところの近くまできた。おじさんがなにやらインドネシア語で話しかけてくるのだけど、わたしはあの店に行きたいんです、とハッキリ指をさして断ったりした。
そこは日本人のオーナーがやっている店で、アンティークのバティックを中心におしゃれな雑貨が店内所狭しと並べてあった。わたしは昨日すでにバティックのシャツとズボンを購入済みだったけど、布の状態のもイイじゃんと、けろっとハマって見てしまい、わりと大柄のレトロなものを発見して気に入り、ちょっと迷ってすぐ買った。店のおば様はわたしが日本から来たと言うと「うちのオーナーも日本人です」みたいな感じのことを言って微笑んでくれた。
 
目的地のギャラリーまでの途中に、木彫を中心にあらゆる彫刻作品やテーブル、絵画、アンティーク雑貨などの、作品、というレベルのものたちが売られている店があった。ギャラリーと呼んだ方がしっくりくる雰囲気の店だ。なんとなく入ってみたら想像していたよりも店内が広く、イイ感じの作品もいくつかあったりして、彫刻眺めるの楽しいなあ〜と思いながらけっこうノンビリ過ごした。店内がかなり静かなのがとても心地よかった。たまに店主のおじさんが黙って古いオルゴールのネジを巻いてそれが短いあいだ鳴るだけで、あとは沈黙だった。馬車の形のオルゴールのネジを巻き直し、天板がガラス製で他が流木でできている巨大なテーブル(これも商品)の上に戻すとき、テーブルとオルゴールの接地面四点に、紙を折ってクッションにしたものを挟み、丁寧に置く、その所作がかなり素敵だった。
店の奥の方にあった古い油絵の女の身体つきと肌の色と顔が妙に好きだったのと、古いペンがたくさんあったことと、木でできた剣があった(このあとに見たワヤンオランでも演者が小道具として腰につけていた)のと、流木の、もともとそれなりにゾウっぽい形のものを彫ってゾウにした作品が印象的だった。もともとゾウっぽいので「流木のところどころがゾウ」みたいな状態で、なかなかかっこよかった。流木になってしまったゾウなのか、ゾウになってしまった流木なのかよく分からない感じ。
 
そこを出て、若いアーティストたちのイラストや服や細かい雑貨などの作品たちがたくさんある店に入った。店構えからしておしゃれだった。レストランも併設されていたし池みたいな水を張ったところにはコイもいた。そこの壁に「安全第一」と書かれたイラストがあって、ギャグ的にめちゃめちゃ面白かったのだけど、クリアファイルになっている作品カタログを開いたら「safety first」というタイトルで、二度笑った。外国人の着ているTシャツと違ってこの人は分かってやっている…。
 
そういった寄り道を経て、ようやく朝に目的地にしていたギャラリーに着いた。友人が待ってくれていて、お昼を食べたり一緒に散歩でもしようかということになった。わたしがさっき歩いて来た道を戻ってさらに先まで行くコースだった。もちろん行く。
バイキングみたいに自分が食べたいものを皿に盛って、しかしグラムを測るでもなく目で見て会計してもらう、というザックリしたシステムのお店でご飯を食べた。値段も高くなかったので野菜のスムージーみたいなのも飲んだ。氷が入っていなくてぬるかったけど安心して飲めた。料理も美味しかった。何種類か惣菜をとったうちに、ソーセージの天ぷらを食べたのだけど、ソーセージをソーシスと呼ぶのがわからなくて友達にこれは何?と何度も聞き直してしまった。
パン屋にも寄った。明日の朝ごはんにしようと手のひらサイズのお菓子やら蒸しパンみたいなのやら春巻きみたいなのやらを買ってみたりした。試食をさせてくれて、友達と3人で喜んで頂いた。
その後も雑貨を見たり、歩いて売りに来たおじさんがその場で蒸して作ってくれるココナッツの餅みたいなお菓子を買い食いしたりして過ごした。この一帯は観光客向けの通りらしく、欧米人らしき人々がめちゃめちゃたくさんいた。洗練されたおしゃれな店やホテルがずらずら並んでいて見事だった。商品の座布団や服の上でどうどうと猫が昼寝する店があって最高だった。同じ店にそこそこ可愛い指輪があったけどサイズが今ひとつピンとこず、買うのをためらって結局やめてしまった。
来た道を戻るのもなんなので、一本違う道を戻ることにしたけど、その道中もかなりいろいろお店やらあって、昨日のバイクでビュンビュン飛ばすのとは全然ちがう町の見方ができて楽しかった。やっと、今までバイクに乗せてもらって訪れて来たあの店やこの店が、どういう位置関係にあるのか、頭の中の地図ができてきた気がする。バイクも楽しいけど、わたしはこの方法のほうが慣れている。
 
ギャラリーに戻るともう日が暮れていた。わたしが朝に訪れてバティックを購入したお店の、二号店ができているらしく、そこのオーナーもみんなの仲間だそうで、その店にゾロゾロ行ってみよう、ということになり、タクシーに便乗させて頂いて、お店にいった。
さっきわたしがバティックを購入した時と同じおば様が店にいて、「あらさっきの!youね」みたいに笑顔を交わせた。のんびり眺めていたら好みの色のバティックを見つけてしまって、「これが1000円は完全に安いでしょ、買いでしょ」と仲間のお兄さんにおされてアッサリまた買ってしまった。何に使おう、決まってないけど何にでもできるから良いかなと思う。食費などがとても安く済んでいるので油断して買ってしまう。
 
その後、「ナイトマーケット行く?!」という元気すぎる提案をもらい(すでに19時くらい)、ちょうど家主のお姉さんにも「あの辺で骨董市やってたと思うよおすすめ」とメッセージをもらっていたので、もうノリノリで「いく!」と返し、日本人の友人リョウさん(字で書くと変な感じ)と、ムティアと彼女のお姉さんのバイクに乗せてもらって、少し遠くだけど連れていってもらえることになった。ありがとう過ぎてやばい。
 
食べ物の屋台がかなりたくさん出ていて、広場では演劇(お笑いに近い、ワヤンオランというものらしく、ジャワ語で行われるのでムティアもたまに何言ってるのかわからないらしかった。上手でガムランなどの生演奏がシーンに合わせて行われる。客席ではちょいちょい笑いが起こる。途中、殺陣とかやってた)が行われている。そして奥の方では骨董市も開かれていた。年一回のお祭りらしく、お姉さんは「ユーアーラッキー!」としきりに楽しく言ってくれた。めちゃ気さくかつ超気がきく素敵な人だった。合気道を習っているらしい。 
 
4人で、あれ食べる?!なにこれ?!などと言いながらあらゆる初めて食べる食べ物をシェアしながら食べに食べ、奥の骨董市のほうへ行った。というか食べながら進んで言ったら骨董市に辿り着いた。
台湾で行った「それゴミでは?」みたいなものまで売りまくっている市場と雰囲気が似ていたけど、もう少し上質な印象だった。映画などの映像のフィルムを編集する機械らしきものがあって(切ったりやすったり繋いだりできる穴あけパンチみたいな形のやつ)、初めて見たわたしはかなり感動した。それと、鉛筆の芯だけみたいな鉛筆があって、これも初めて見たので嬉しくて、ちょっと高かったけど買った。うる星やつらの二巻のインドネシア語版のかなり古いやつがあって、汚かったけど嬉しくて買ってしまった。など。エンジョイした。店近くには関係者らしき男たちがダラダラ座っていて、商品を見てキャッキャやっている私達を見て「ジャパン?」とか「コンニチハ〜」とか色々やいやい言ってくるのだけど、わたしたちも機嫌がいいので「ありがとうございまーす」とか「こんばんはー」とか言って笑いあった。遠くに手相占いをやっているコーナーがあった。バリバリの音の、でも軽快な音楽のレコードを蓄音機で流しつつ売ったりしているコーナーもあって、かなりよかった。その近くの店にあった指輪が、さっきと違ってサイズが合ったので、あと、ゴツすぎて笑えたので、買ってしまった。
 
 
ムティアのお姉さんのバイクの後ろにわたしは乗せてもらっていた。そして、行きもそうだったけど、彼女はバイクを運転しながら鼻歌を歌う。それが、わたしはとても嬉しくて、聞き取れた音程だけ真似して歌ってみたり、似た音階で適当に歌ってみたり黙って聞いたりしながら楽しんでいた。
 
夜の、あちこち沢山光ってはいるけど全体的には暗い街で、車もバイクもうるさい中を自分もガーッと走ってうるさく臭くしながら、程よい涼しさの風を全身に受けて鼻歌歌うなんて、もう、めちゃめちゃ気持ちが良かった。
 
軽く感動してしまうくらい良かったから、「あなた運転する時に鼻歌を歌うじゃん、わたしそれとても好き」と英語で伝えたりした。
 
今日はわたしはスカートだったから、昨日と違って横向きに座っていたし、慣れてきたのとバイク自体が乗りやすい大きさだったのもあって、片手は楽にして片足も楽にぶらぶらさせて、という姿勢だった。それも手伝って、とっても良い感じだった。
 
お姉さんは、わたしが泊まっている家まで、わたしの拙い道案内だったけど、丁寧に送ってくれた。感謝してもしきれない、ノリのいい人で、こっちまでノリノリになってしまったそのことについても。
 
 
家に帰ってきて、二度目にしてもう慣れてきた水浴びを済ませて、やっと寝る。明日はまた全然違うことになる予定だ。
 
 
 

2 バイク移動につぐ移動と帰宅

7月26日
寝坊した。起きたら10時とかで、少し慌てて支度をした。でも朝ごはんはのんびり食べた。昨日の晩にコンビニで買ったパパイヤと、いただいた屋台の揚げ物と、お米の茶色い羊羹みたいなお菓子を食べた。ココナッツウォーターも飲んだ。ココナッツの具が入っていた。
食べた後、家主の女性のバイクの後ろに乗せてもらって町の両替所へ連れていってもらった。町のほうがレートが良いとのことだったので到着した空港ではほんの少ししか替えずにおいて、ここでまとまった金額を両替した。たしかにだいぶレートが良かった。つい信頼して数えずに仕舞おうとすると、ちゃんとここで数えて確認するんだよと隣から教えてくれて、その場で数えた。ケタが多すぎて混乱する。

洗濯のお店にも寄った。わたしのぶんの服はないけど、洗濯機がない場合こうしてキロ単位でまとめて洗濯に出すんだよというのを教えてもらった。

そのあと日本人アーティストたちが展示をしているというギャラリーへ連れていってもらった。今回この時期に此処にくる一つのきっかけだったイベントだ。バイクで向かう途中、道を歩いている友人に会った。この人、日本で普通に友達で、まさかここで会うと思っていなかったので、再会にメチャメチャびっくり嬉しくて、今日は彼女と行動を共にすることにした。

彼女はもう1ヶ月くらいこの展示を手伝ってジョグジャに滞在しているらしく、こっちでできたインドネシア人の友人2人を紹介してくれた。大学で建築をやっている女性と作曲をしている男性。4人で遊ぶことになった。
インドネシア人の2人のバイクにそれぞれ乗せてもらって、片道20〜30分くらいの道のりを走りに走って、プランバナン寺院に行った。道中、バイク同士はぐれたりしながらなんとか辿り着いた。サラックを売っているお店が道中やたらたくさんあるね、と、どうでもいい話をしたかったんだけど難しくて、サラックたくさんあるね、と言ったら「買いたい?」と返されてしまった。そうじゃない〜と言った上で、独り言で「サラックまたあらあ」みたいなことを言う演出でなんとなく伝えた。伝わった気がするけどコミュニケーションがギリギリすぎる

プランバナンは前回の旅行の時にも見に来た場所だったけど、その時はどうも急いでいてあまりゆっくり見られなかったし全然二回観れた。二回くると、前は少し夕方で暗かったせいもあって全体のシルエットで認識していたひとつひとつの棟が、どういう部分で構成されているのか、以前よりだいぶ見えて、おもしろかった。4人で「このレリーフどういう意味?」といって話し合うのが楽しかった。わたしは英語もろくに話せないので意思疎通がガタガタだったけど、インドネシア人の友人の1人ムティアは日本語がわかるので、たくさん助けてもらった。ちょっと英語できなさすぎて情けなさすぎて、自分これは失敗②だ。4人でジャンプして写真を撮ったりしてはしゃいだ。

作曲を勉強しているランガ(カタカナで書くとなんか合ってない感じ…)は、わたしが歌を歌うというとどんなのと聞いてくれて、ガタガタの説明だけど色々話をしたりiPhoneに入っていたのを聞いてもらったりした。共通の知ってる日本人が何人かいる(わたしが去年の春に鳥取に行った時にたまたまそこで知った瓦を叩いて演奏する人とか)ことがわかって盛り上がった。ジャワ島の伝統的な歌唱に、ポエトリーリーディングと歌が混ざったようなものがあるそうで教えてくれた。マチャパ。モンゴルにホーミーがあるみたいに日本にも伝統的な歌唱のテクニックがあるの?と聞かれたけど、どれのことなのかわからず、一番庶民的に知られているのは演歌のコブシかなあと答えた。

プランバナン寺院をひととおりみて、お腹が空いた!ということで、もう夕方だし、帰り道でナシゴレンを食べることにした。またバイクの後ろに乗せてもらう。さすがに一日中乗せてもらっていると慣れてきて、最初は腕が痛くなるくらい緊張して持ち手を掴んでいたのが、片手を離して膝に乗せていても平気なくらいにはなった。腕よりも脚で支えたほうがちゃんと乗れる感じ。運転手の背中に寄りすぎてヘルメットをゴツゴツぶつけてしまうのは直りきらなかったけど、顔に風が当たるのには慣れて来て、日が暮れはじめてからはヘルメットの顔のカバーもあげて景色を楽しんだ。

寄ってもらったお店は、かなり地元っぽいところだった。お腹も空いていたし、あまり迷わずナシゴレンを頼んだ。氷でお腹を壊すことがあるよと聞いていたけどウッカリ冷たいオレンジジュース(ジュル)を頼んでしまった。
調理している様子を見ていたら、これにはビックリしたんだけど七輪に炭を入れてそこに小さい鉄のフライパンを置いて作っていた。ガスどころじゃなかったし、七輪と同じくらいの大きさの小さい扇風機で、炭に風を送っていた。扇風機はいろんな油やカスでドロドロにコーティングされてしまっていて、年季を感じた。
ナシゴレンは、とても美味しかった!!少し辛いのにしてもらったら丁度よかった。ジュルはあまり甘みのないオレンジジュースに底の方にザラザラと砂糖が入っていてなかなか斬新だった。氷を警戒してさっさと飲んでしまったけど美味しかった。ナシゴレンとジュルで、日本円にして130円くらいだった。空港で飲んだスープの値段のバカ高さがわかってきた。

またバイクに乗って、日本人の友人(もう1ヶ月いるけど明後日あたり帰ってしまう)がお土産を買いたいとのことで、マリオボロというところに行った。立体駐車場の坂をバイクで登る頃には「ンァーー!(きついの意)」と2人で言って盛り上がったりできるくらいにはなった。
マリオボロは渋谷とか原宿か、あるいは浅草みたいなところだった。お店がたくさん並んでいて、人で賑わっていて、屋台も出ていて馬車が走っている。映画館のあるショッピングモールもあった。わたしたちはバティックを物色して、それぞれ目当てのものを購入した。めちゃめちゃたくさんバティックの店があった。安いものから信じられないくらい高価なものまであった。

最後にジェラートを食べようといってまたバイクでひとっ走りしてもらった。あとから聞いたら地元の人にも観光客にも人気のお店らしい。名前はたしかテンポジェラート、店内にはイケイケな音楽が大きい音量で流れていて若いお客さんがたくさんいた。わたしはレモングラスラズベリージェラートをあんまり迷わずに頼んでしまったけど、友人たちは一口味見システムを使って色々試していた。アッしまった、と思った。ジェラートは200円くらいして、さっきのナシゴレンが二回食べられる…と思ったけど、かなり美味しかった。

ジェラートを食べてLINEのIDを交換して、帰路に着いた。自転車を借りることになっていたのでギャラリーに一旦戻り、そこで1人解散して3人で日本人の友人が泊まっているというお宅へ(なんとなく)向かった。バイクの後をチャリで追いかけて車道を走った。こんなヤンチャして大丈夫なのかとだいぶハラハラした。
少しスーパーマーケットで買い物をして、友人宅でそこの家主のお兄さんと少しお喋りもして、ようやく帰路に着いたのだけど、夜で1人で、あんまりわかっていない国の街で、チャリである。1人になった途端かなり不安になった。しかも借りたチャリにはライトが付いていなかった。でも、日本で家を出るときに玄関でなんとなく手に取った、自分の自転車用のLEDライトが鞄にはいっていて、試したらかなりアッサリ取り付けられた。すごく助かった。奇跡だと思った。本当に持って来てよかった。

「治安はぶっちゃけクソいい」と聞いてはいたものの、あんまりわかっていない風でいると悪い人に狙われる気がしたので、さも分かっている感を醸し出しながらグイグイ走ったら案の定、道に迷った。
グーグルマップで確認しながら修正して、なんとかこっちかなというふうに家に近づいていく。ここのような気がするという道を曲がって走っていたら、道のはしにあるお店の角にお婆さんが座っていて、わたしに向かって片手を挙げた。?!?!!と心底ビックリしたけど、よく見たら昨日の晩に、家主のお姉さんと晩御飯を食べようとして混んでいたからやめたお店のお婆さんだった。家主のお姉さんが、「この子は日本から来たのよ〜」みたいに少し話をしてくれて、「そうなのね〜」「そうです〜」みたいに笑顔をかわした、あのお婆さんだ。
なんと言ったかあんまり覚えていないけど、わたしは「ワァー!サンキュー!ちょっと道に迷ってたの本当にほっとした!テリマカシー(ありがとう)!!」みたいなことをチャリを止めずにお婆さんに向かって叫んで、お婆さんも「イェア〜」みたいな返事をくれた。わたしは手を振って家路を急いだ。もうすぐそこだ大丈夫だ、という安心で元気になっていた。



家に着いたら家主のお姉さんはまだ帰宅していなくて、わたしはやっと(昨日浴びそびれた)シャワー、はないので水を浴びて体を洗って、ついでに服を脚で洗濯して、すっきり眠りについた。

また明け方の3時にお祈りの声に起こされたけど今度は電気をつけたまま寝落ちしていたから助かった。ちゃんと支度してちゃんと寝直した。

インドネシア1 移動

7月25日
日本から飛行機に乗って、インドネシアのジャワ島の、ジョグジャカルタに来た。

初めて1人で海外に行くので、早朝からけっこうハラハラしていて、リアルに自分の心臓の音がうるさかった。胸と腹のあたりをドクドクと血が流れていくのを感じた。
そんな調子でいるところへ追い討ちをかけるように、成田空港が混んでいて思いのほか搭乗予定時刻ギリギリになってしまい、出国審査のゲートの向こうで最終呼び出し?ですよ、お客様〜と声をかけている航空会社のお姉さんにむかって挙手をして「はい!デンパサール行きます!」って大きい声で伝えることになって恥ずかしかった失敗①をやった。

約7時間のフライトは、本を読んだり眠ったり、近くの席の家族連れの2〜3歳くらいの女の子がメチャメチャに泣いて騒ぐのを聞いたりしていたらあっという間だった。でも、けっこう尻が痛くなったりして、体は7時間を感じていた。エアアジア機内食は買わないと無いというのが、意外と全然耐えられなくて、周りの乗客の食べる匂いにつられて、高い割に美味しくない弁当をアッサリ買ってしまった。
わたしの左隣の席をひとつあけて、そこにはお爺さんが座っていて、彼の足元には杖が横たえてあった。時々、熱心に小声で何か唱えてお祈りしていたり、わりと大きい声で通路を挟んだ席に座っている知人と会話していたので印象に残っていて、空港に降りてから見かけた時も「あの人だ」とわかったのだけど、彼は車椅子に乗っていた。健康でも足の具合が良くなかったりしても、とりあえず飛行機に乗ったら海外に行けるんだなあとシミジミ思った。

バリ島デンパサールの空港で、乗り継ぐ次の飛行機まで5時間くらい時間があった。でもそれもけっこうあっという間だった。
国際線から国内線までの移動距離がけっこうあって、でも春に旅行に来た時にも一度歩いた道なので迷わずに進めた。この旅の帰り、一番最後の飛行機だけEチケットが印刷できなかったので大丈夫なのか不安だったのを窓口で聞いたり(英語が出てこなさすぎて困ったけど「アイハブ ディス ペイパー オンリー OK?」で確認をとれた、OKだった)、本屋でバリの家屋の写真集やホコリまみれになった旅行用の小さい辞書を眺めたり、薬局でユーカリオイル?を見つけて何に使うのかiPhoneで調べたり、牛の内臓のスープ(メニューを指差して店員さんが説明してくれる中であんまりオススメしてなかったものをつい頼んでしまった)を飲んだり、本を読んだり、絶対に買わない服とか鞄とかオモチャとか香水とかを眺めたりしていたらあっという間だった。時差があるので自分の体感よりもさらに1時間長く暇だったけど、朝の成田空港の時みたいに走らなくて済んだからよかった。空港が基本的に寒い。
デンパサールからジョグジャカルタへの国内線は、さっき乗った国際線よりもちょっと良い航空会社だったので、頼んでいないけど機内食のパンが食べられた。美味しかったし、寝ていたのに隣の空いている席に置いておいてくれたのが嬉しかった。

ジョグジャカルタに着いてからが、一番未知の行動計画だったので、かなり緊張するだろと思っていたけど、疲れも手伝ってか、もはや全然ハラハラしなかった。両替も難なく済んだし、トランクも問題なく回収できたし、タクシーも事前に聞いていたやり方で予約というか前払いに成功し無事に乗り込み、夜のジョグジャカルタの町を車窓から眺めているうちに、今回お世話になるお宅に着いた。相当ほっとして泣くぐらい感動するだろうなと思ったけど、疲れのせいもあって感動どころではなかった。(大感謝をしてます)

家主の女性(日本人)と少しお喋りをしてから近所のレストランへご飯を食べに、バイクの後ろに乗せて連れて行ってもらった。 バイクのヘルメットを何故かわたしが変な付け方をしていて、そのせいでコメカミがメチャメチャにキツくて痛くて、これの持ち主の人、小顔過ぎでは?と思っていたけど途中で間違いに気づいて直した。普通の大きさのヘルメットだった。バイクの座席のふちを右手で掴んでバランスをとっていたのだけど、バイクの風のせいだけじゃないと思う、町は静かでちゃんと暗くて、とても涼しい夜だった。日本の夏よりも涼しくて過ごしやすい気がする。

レストランではさっき空港で飲んだスープの半分くらいの値段で美味しいナシゴレンが食べられた。屋台やもっと庶民的な店はさらに安いらしい。その帰りにコンビニに寄ったら、レジがトラブっていて少し待たされた。カットパパイヤとフルーツジュースを買った。わたしは今回こそ果物を沢山食べるつもりだ。南国に来たからには南国の果物を食べたいのに、台湾に行った時も前回インドネシアに来た時も、食べたには食べたけどあまり満喫しきれなかったので、今度こそと、フルーツに関しては初日から意識を高くもつことにした。


お世話になるお家はインドネシアらしい一戸建てで、床や壁が白くてかたい。天井も高い。開けないタイプの天窓もついている。
風呂はお湯が出ないしシャワーもない。風呂場の隅に設置されている50×50×100くらいの大きさのタイル張りの水槽に水を溜めて、そこから手桶で汲んで使う式だ。トイレは、和式のさらに簡易版みたいな便器が床についていて、使用後は手桶で水を汲んで便器に注いで流す、という人力水洗式だった。こういうトイレは使ったことがなかったので、最初こそ「こんなのわたしにできるのか?!」と思ったし緊張したけど、やってみたら案外なんてことない。数年前に山小屋で経験した、用を済ませた後に自転車を漕いでおが屑と混ぜる式のものよりも、ずっと分かりやすくてやってみたらスンナリ腑に落ちる仕組みだった。

わたしがお借りしている部屋は背の高いベッドがある。足の裏が真っ黒なのにベッドにあがることに、この時は気が引けていたけど、次の日にはどうでもよくなった。
そのベッドで寝ていたら夜中、否、早朝3時くらいにご近所さんのお祈りの声が聞こえてきて、目を覚ますことになった。寝ぼけていてあんまり覚えていないけど、確かに起きた。
日本とは違う国に来たなあと思った。

床からの雑感

 
わたしは、床のことが好きみたいだ。
好みのタイプがあるし、しょっちゅう気にしてしまう。
 
床にはいろんなものが置けるし、人も立ったり座ったり寝たりできる。
一番安定していて可能性の開かれた場所だと思う。それなのに、一番「低い」というだけで、見下ろされたり、汚いものとされることもあるのはどうも不思議というか、物理的に実際汚いことが多いとわかっていても、汚いって曖昧でよくわかんないし、それが当然だとはあまり思えない。
地面については、生き物が死んで行き着く先、の、実際のほうって感じに思っている。物質としての肉体が、ただ物質として地面に還っていくその先。で、その地面と、生きた我々を隔てているのが建物の床だ。床のしている仕事はどうやらかなり多い。
 
 
 
まずは、床に関して自分の印象に残っている出来事をいくつか書いてみる。
わたしの印象に残っている床は、たいてい、板張りの床ではなくて、畳も絨毯もない、石やピータイルやリノリウムの床だ。硬い床。そこに雑に座った時の、接地面が少し汗ばむ感じが好きだったりする。
硬い床に雑に座った自分の記憶はいくつかあるけど、けっこう思い出せる。たぶん床に座るってたいてい「座り込んでしまった」ということで、その時の自分は、激しい疲労だったり超ゴキゲンだったり、体調が悪いなどの、ちょっと普段と違う状態にある。そんな状態の自分も、避けたりしないでバッチリ受け止めてくれる最後の相手が床だ。重力のあるこの地球においては。
だからいろいろ覚えている。大失恋して、ひとりで数時間めちゃめちゃに泣き続けた時も、自分の部屋の床にへたりこんでいたし。貧血で立っていられなくなって電車を降りて駅のホームに座り込んだら少しほっとしたということもあった。
特に自分にとって印象的なのは、高校の文化祭で初めてバンドをやって人前で歌い、終わったあとのこと。丸一年くらい準備して臨んだ本番だったから、終わったら完全に燃え尽きてしまっていた。高校一年生の秋で、その時とても仲良くしていた女友達(今も仲いい)が、黙って隣にいてくれていてとても安心したのをすごく覚えている。
高校の校舎の、木の床とリノリウムの床のちょうど変わるくらいの場所で、たしか白いリノリウムのほうに座って、次のバンドの演奏が始まるか始まらないかくらいの雰囲気のガヤガヤを、息をしながら聞いていた。汗をかいていて、でも秋なので空気はわりとすっきりとしていて、裸足で。火照った体を休めるのに、床は圧倒的に味方だったと思う。その友人もわたしと同じ高さの同じ床にいてくれて、たしか彼女はしゃがんでいた。
 
床に座ると椅子が邪魔をしないので、人と近くにいられるというのも実感としてある。最近、人の家で、床に座ったり寝そべったりしてワイワイごろごろ映画を見ていた時、椅子に別々に座っていたらこうはならないな、と思う距離感で隣に友人がいて、実際仲良いと思うけど、それ以上になんか姿勢が仲が良いような感じがして、ちょっと照れくさかった。
むしろ姿勢から仲良くなっていったりする部分あるんだろうか、あるんだろうな、と思ったら、床に座って多人数で演奏するインドネシアとかあの辺の音楽と人の感じが思い浮かんだりした。
 
 
 
 
床というより地面だけど、高さの話でまずひとつ。わたしは肉体労働と呼んでいいタイプのバイトをしていて、その仕事の一環で地面に生えた雑草をむしる(手取り除草と呼んでいる)というのがあって、この作業の日はマジで地面の高さにほぼ丸1日いることになる。基本的に楽しくてやっているのだけど、たまに犬かなにかのフンに遭遇したり、ゴミが落ちていたり、ごくごく稀に、道行く人の見下したような視線を感じることもある(ほとんどの 通りすがりの人は「ご苦労様〜」と言ってくれる)。この仕事をやらせてもらうようになって小学生以来にこんなに低い目線を得たら、いろんな感触が興味深くて、もうバイトも三年目だけど、低いということが気になり続けている。
 
高さについてもうひとつ、高校の部活で吹奏楽をやっていた時のこと。クラリネットを吹いていたので楽器を組み立てる段階があるのだけど、先輩が「楽器は机や椅子の上ではなくて床で組み立てろ、 万が一手が滑って落とした時のダメージが最小で済む」と言っていたのが印象に残っていて、まあ慣れてくると椅子に座ったまま膝の上で組み立てたりしてしまうんだけど、自分が先輩になって後輩に教える時にもそう伝えていたと思う。その時、そうか、確かに床ならそれ以上下に落ちないな、というのがおもしろかったので覚えている。
「それ以上落ちない」ということは、「それより高い」のほうが多いということで、地面に近いところから見上げると木や空はとても高く見えるし、人や建物はすごく大きく見える。地面のことを仮に大地とか地球って呼べるのだとしたら、その地球の実感に近いのは、高いところからよりも、低いところからの景色や触感のような気がする。低いと近いから触ることができる、高いと遠くて触れない。地球のことを自分の命の側だと思うか、対象だと思うかという考え方の違いなのか。
 
 
 
 
まだ床について気になっていることがある。
 
わたしには好きな床のタイプがある。硬い床が好きだ。そのなかでも特に、白くて光ってるのが好みで、出会うとつい嬉しくなる。
 
自分は何故かピカピカの床に惹かれるようだ、と自覚したのは一年か二年くらい前だと思う。近所のSEIYUに行くと、ちょっと間の抜けたBGMもあいまって、いつも楽しくなってしまって買い物しながらこっそりちょっと踊ったり音楽に合わせて床と靴でキュッキュッと音を出しながら歩いたりしてしまうのを、よく一緒にいく人に指摘された。
それで、わたしはなんでああいうの嬉しくなってしまうんだろうと思ってずっと気にしていたら、ピカピカの床はSEIYUだけじゃなくて、いろんな場所にあるのがわかってきた。ドラッグストアとか電気屋さん、コンビニ、ディスカウントスーパー、ホームセンターなどの商業施設で特によく見られる。たまに地下鉄のホームなんかもそうだったりするのだけど、とりあえずピカピカの床は、清潔に保ちやすいということと、蛍光灯の光が床で反射するので空間が明るくなって気分がアガる、ひいては購買意欲を高める効果?がたぶんあるような気がする。(この説でいくならライブハウスやクラブの壁や床も、黒じゃなくて白のほうがみんなバカになれるのでは、なりすぎちゃうのかな)
 
さらに、台湾やインドネシアに旅行に行った時、ホテルやアパートの床を始め、村の中にある半屋外の寺のようなところも、王宮の伝統的な踊りが行われる広い舞台も、床が白っぽい石やタイルでできており、日本よりもピカピカの床にたくさん出会えたことから、ピカピカの床は冷たくて涼しいので南国に多いのではないか、という風にも思っている。
 
まだこれについては、「南国のピカピカの床で、陽気な音楽を聴いたら、完全に最高な気分で踊れるしなんでも買っちゃう気がする」というところまでしかわかっていないけど、現段階の、ピカピカの床に対する雑感はそんなところだ。
 
 
 
あと、音の響きについても、高さが低いと変わってくる。(低くても高さっていうの不思議)
先日、耳にバイノーラルマイクをつけて自分の声や環境音を録音していた時、声を出したりしつつ床にねそべったら、途端に音の聞こえ方が変わって、おもしろかった。まあ普通に頭の後ろからの音が少なくなったり変わってくるから、そりゃ当然なんだけど、普段、布団にはいって眠りにつく時に、立っている時よりも少し静かになるってことを考えたことがなかったなと思った。
さらに床と自分のあいだに布団を敷くことによってますます音を吸収するから、耳に届く音にはけっこうな差があるような気がする。あんまり乗ったことがないけど、ハンモックってマジで相当落ち着かないと思う。
 
 
 
で、そういった雑感をふまえて、建物の機能から逸脱する楽しみについて、
 
以前、なぜだったのか完全に忘れたのだけど、家のキッチンの床に座って足の爪を切ったことがあった。それを知人に話したら「なんかエロい」という感想をもらった。何がエロいのかはよく分からない(し、たぶんその人もあんまり考えていないと思う)んだけど、キッチンの床で爪を切るっていうシチュエーションは自由でいいなとわたしは後から思った。
風呂場で歌を歌うとかと似ていて、家や部屋の本来の機能から少しずれたことをするのは基本的に楽しい。果汁がこぼれてしまうから、と台所の流しに立ったままプラムをかじるのとかも、なんとなく楽しい。「なんかエロい」ってそういうことなのかもしれない。ちょっと本能とか動物に近いような行動。理性的にいったら、足の爪を切るなら ---(…足の爪ってみんなどこで切ってるんだろう?)ーーー寝室の床とかだろうか、わかんないけど少なくともたぶんキッチンの床ではないし、ものを食べる場所は本来は台所の流しではないし、べつに家のどこで歌を歌ったっていいけど風呂場はそのための場所として作られてはいない。押し入れで寝る子供やドラえもんがちょっと可愛いのとかもそれな気がする。あらかじめ定められた目的からさりげなく逸脱するのはエキサイティングだ。
 
床をはじめ家をもっと自由に使うっていうのは、定住に抗う方法のひとつなんじゃないかと思う。なんで定住に抗いたいのかというと、いろいろあるけど、まず定住によるクセみたいなものが、わたしは自覚しないまま自分の体にどんどんついていくことがなんとなく嫌だというのがある。毎日自分の右側にある窓から朝日が入る向きで眠るとか、右手でトイレのドアをあけるとかいったこと、それ自体は別に悪いことではないんだけど、なんだろうこれと思う。
知らないうちに建物や環境から影響をただただ受け続けるのに抵抗がある。実は自分の今寝ている部屋の床が、地面から何十メートルも高いところにあるとか、そいうこと考えたら、わたしなら怖くてタワーマンションになんて住めないんだけど、都内の巨大なタワーマンションの高層階に住むことがステイタスみたいになっていたりする世界観の人は、一体、こわくないんだろうか。階段を走って降りられないレベルの高さって、え〜?って感じだ。
 
でも、そういうわたし自身だって、実際、生まれた時からマンションとアパートと、最も低くて一戸建ての二階にしか住んだことがない。今までの自分の生活に違和感があったわけではないけど、ここ地面じゃない、浮いてる、と、ある時に思ってから、怖くなった。津波で窓がすっかり流されて、壁に四角い大きい穴が空いているだけの建物になった家を、写真でだけど、見たらすごく怖くて、なんだ、壁とか床とか天井とか、たまたまあるだけじゃん、と思ったこともあった。
 
動物は自分で自分の生活する巣を作るけど、わたしは自分で自分の生活をする家を建てない。たまたま出会って住み着いてしまった巣の形に、どうしてもなんらかの影響は受ける。床や歌を使って抗うにせよ、その巣を愛して暮らすにせよ、だ。
 
 
あと、床でPCとかの作業や勉強をするのがわりと苦手なので、床はやっぱり少なくとも自分にとっては理性より本能に近いんだろうなと思ったりもする。床の高さで勉強したり論理的に考えようとしたりすると大体いつのまにか寝ている(この文章はテーブルの高さで書いている)
 
 
雑雑と書こうと思って書き出したらきりがないことがわかったのでここらで切り上げます。
 
床については引き続き考え続けたい。が、床や町と関わることを考えるにあたって、脚が気になっていて、絶対必要だと思っていて、だけど床だけでこんな感じだから脚のことも考えようと思ったらますますまとまらない気がする、先は長い…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

言葉を歌う感覚のこと

もうひと月近く前のことだけど、友人と話をしていて、言葉の、発語の時の認識みたいな感覚を再確認することがあった。
 
わたしは歌を歌ったり、詩を読んだりすること、言葉を発することをしばしばやっていて、それを日々の根本的なモチベーションにしている。その、歌を歌ったり詩を読むような、意識的な発語をする時、それらの言葉に対して自分の持っているすごく具体的なイメージを、逐一持ち出しているような感覚があることに気がついた。(意識してやっている時もあるけど、あまり意識しないでそうなっていることも多い。)
 
「言葉に対する自分なりのすごく具体的なイメージ」というのは、たいていの場合、誰しもが持っている。そもそも、言葉とイメージが結びついていないと、言葉というもの自体が成立しないんだから、これはごく当たり前のことだ。(それをどの程度の緻密さで、どれくらい頻繁に呼び出しているかどうかは、かなり人によると思うけれど。)
幼い頃、言葉を覚え始めた頃に、きっとわたしたちは、ひとつひとつの言葉に初めて出会っている。例えば「春」という言葉に初めて出会う。その瞬間のことは、今ではもう全く覚えていないけど、「これが春と呼ばれるものだ」といつかの時点で知って、それをその後何度もあらゆる場面で確認して、体感して、体得してきたのは確かだ。その期間を経て、今わたしは「春」という言葉を使えている。使うといってもあらゆるレベルがあるけど、少なくとも普通の意味で、他人と同じように「春」という言葉を、意味をわかって適切に使うことができる。そして、「春」についてのあらゆる記憶やイメージを、春に出会うたびに、今も繋ぎ加え続けている。更新し続けている。
 
もうひとつ例をあげて、「僕」とか人称を表す言葉について考えてみる。人称代名詞は、他の名詞と比べて出会う頻度が高いし、代名詞なので、「春」と違ってことが少し複雑だ。今までに読んだあらゆる文章の中の「僕」の数だけ、いろんな僕を、わたしは「僕」に代入してきている。これが、小説を読むときにいつも気になってしまう。全然ちがう小説を読んでいるはずなのに、単に「僕」という記号で人称代名詞が使われているというだけなのに、他の今まで出会ってきた「僕」が、チラチラ見えてしまうのだ。「僕」に今まで託してきたたくさんのイメージからなる影のようなものだ。わたしが小説を読んでいる時の「僕」は、わたししか知らない「僕」として、いつのまにか輪郭を、独特の質感を持ってしまっている。
 
この仕組みが、たぶんほとんどすべての言葉に当てはまる。人称代名詞の質感はどうもひっかかるけど、この仕組みは基本的に好ましい。わたしは、今までの人生のなかで、自分とその言葉が出会うたび毎に紡いできた関係とかイメージといったものが、だんだん更新されたり累加されたりしながら、ただの記号ならざる言葉をつくっていくんだと思っている。とてもエキサイティングだ。それに、歌の歌詞は、音のレベルで記憶に残っているものが多いから、他の場所で出会った時に、この感じのこの言葉はなんの歌で出会ったんだっけ?と脳内で検索を始めてしまうことがあって、楽しい。自分の口からでた「〜でしょ」という語尾が、あの歌の「〜でしょ」に似ていた、みたいな細かい気づきが時々あって、歌う気持ちがつのる。
ただ、わたしは記憶喪失になったりしたことがないから、経験が積み重なっていくことを疑っていない、それゆえの楽しみだろうと思うから、将来、ボケるのが怖い。
 
 
さて、こんなふうに言葉にたくさんの、自分の経験に基づくイメージが具体的に結びついていると、特に歌を歌ったり、意識的に発語をする時に、自分の心に湧き出てくるものが強い。単語ひとつひとつの容量が大きいような感じだ。見えはしないけれど確かに強めに心に現れてくる。どこからともなく季節が香る時みたいなキュンとした強い感触。これは、現れさせるように意識してもいるけど、勝手にうまくいっていることもある。そういう発語はとても楽しい。歌が自分の歌として「歌えている」と感じるし、言葉が自分の言葉として「話せている」と感じる。
 
逆に、自分には歌えない歌というのがやっぱりあるということに、ここ数ヶ月のいろいろな本番を経て気付かされた。最近、他人の書いた歌や、他人の書いたセリフを歌ったり読んだりする機会がたまたま続いた。「この歌は歌える」「歌えない」という判断をしてコンサートで歌う歌を選んだり、セリフにおいてこの言葉はなんか引っかかってうまく言えないからこう書き換えてみよう、と手を加えてみたりした。手を加えずそのまま読んだ時は、そのまま読むつもりでいたのに、自分の読みやすいように読み間違えてしまったこともあった。
歌える歌えない、読める読めないというのは、技術的にこの音が出ないとかそういうことではなくて、その言葉の組み合わさった織物に、うまく自分のイメージが乗らないということなのだと思う。
 
例えば「地球の夜更けは淋しいよ、そこからわたしが見えますか」という歌詞がある。(「冬隣」という歌、吉田旺氏の作詞でちあきなおみの歌、最近のお気に入り曲です)これを歌うとなった時、この「地球」とか「夜更け」とか「淋しい」とかいう言葉たちが、それぞれのイメージを持ち寄るみたいにして、景色のようなものをわたしのなかに作る。それも、全部、隣の言葉と溶けあっているので、たとえば「淋しい」は単体ではなくて「淋しいよ」まで含んでそのイメージを作ってくる。今までの人生のなかで出会ったあらゆる「淋しいよ」を参考にしながら、地球の夜更けは淋しいよ、という言葉がそこに居られる景色を作るのだ。そうして、言葉と景色がちゃんと腑に落ちている時は、歌うことができる。腑に落ちる落ちないが何で決まるのか、まだよくわかっていないけど、わたしはこの歌詞の一節はとても好きで、いつ本当に歌えるようになるかはまだわからないけど、ぜひこのまま歌いたいと思う。
 
ここまではよい。ここまでは、歌を歌う人として何の問題もない。むしろこれからも言葉と付き合うにおいて、大事にしたい感覚だ。だけど普段の会話は、なかなかこんなに丁寧にできない。丁寧にできないけど、多かれ少なかれこの感覚があって、それがちょっと喋りにくさに繋がっている気がする。
 
わたしは、発語することは好きだけど、人と話すのが苦手だと感じることが多い。
会話のなかで、今思っていることを伝えるために使いたい的確な言葉(的確、という時点で厳しい、相手に伝わって失礼じゃなくて自分の伝えたい意思や意味も満たすなんてすごい条件!)が見つけられなくて、それを探してしまって次の言葉を出すのに時間がかかる、ということがよくある。だから、会話としては、ゆっくりになるのだけど、その速さで考えているわけではない。めちゃめちゃ考えている。だけど、言葉で考えているというよりイメージに合う言葉を探している状態だ。言葉って少なすぎるなとビシビシ思う。たくさん使って、どんどん補足していくこともできるけど、パーーーッと、次々に言葉を出して、合っていないイメージを持った言葉をどんどん上塗りし続けて近づけようとするのは(そういうスタイルの人もいる)なんだかゴテゴテしてみっともなく思えてしまって、完成形がすっきりしないような気がして苦手だ。これは完全に話し方の趣味の話で、そういう人が苦手ということでも、ないんだけど。
 
こういう時、歌だったらいいのにと思ってしまう。その会話の中で、突然出せない言葉ってけっこうたくさんある。唐突すぎて自分さえ戸惑ってしまうような言葉だけど、いま心に浮かんでいて、イメージとしてはそれなんだ、というような時。そういう時、歌だったら、詩だったら、それをもう少しすんなり出せる気がする。人との会話を芸術だと思ってしている人はあんまりいないと思うけど、歌や詩だったら、戸惑いながらも受け入れてもらえそう。もっと人とうまく話せていたら、きっとこんなに歌ったりしていない。人と普通に話すんじゃうまく伝えきれないものがあって、わたしはそれを歌に任せている。
こうやって言葉と声が使えるうちは、なるべく納得のいく形で使っていたいと思う。限りある限り。
 
 
 
 
 

わざとの確かな眺め

歯磨きをする時、洗面台に付属している鏡の両脇にあるプラスチックの棚を眺めていることが多い。

プラスチックの棚はだいたい同じ大きさのものが左右に二つずつ、上段、下段、というふうにわかれて、計4つだ。

左上は、イソジンと保湿クリーム

左下は、化粧落としと保湿オイルと化粧水

右上は、ドライヤーと綿棒とヘアワックス

右下は、箱ティッシュを立てておいて、隙間の空いているところには歯磨き粉とコンタクトレンズの洗浄液がある。

他にも細かいものが隙間にさしてあって、あと少しで使い切りそうな頬紅のコンパクト(持ち歩かないで家で使う用)とか、カミソリとか、ヘアブラシとか、パックとか。

家には似た場所がもうひとつある。台所だ。

わたしの家の台所は正面の壁が大きめのタイルになっているので、そこに吸盤でフックをたくさんつけて、道具をぶらさげている。

一番左は丈夫な吸盤で、大きな中華鍋

その右隣は、小さいフックで、軽量カップ

さらに右は、タコ足的に複数のフックがまとめられていて、そこにはトング、おろし金、缶切り、計量スプーン、茶こし、木べら、箸、菜箸、おたま

その隣はまた丈夫な吸盤で、小さいまな板、ざる、小さいフライパン

一番右は、小さいフックに、水筒を洗う用の、柄のついたスポンジが下げてある。

時々、あんまり使っていないと判断した道具は、ベンチへ下げて、常にスタメンのプライドと士気を保っておく。これがうまくいっていると、なんとなく具合がよい。実際、棚へしまわれて月一回くらいのペースで顔をだす選手もいるくらいのほうが、緊張感があってきりっとする。今のキッチンでは、トングと缶切りが、ギリギリしがみついている状態で、彼らが下がると計量スプーンのすわりが良くなるだろう。これはダジャレだけど全てがわたしのさじ加減で決まる。

まあ、ともかく歯を磨きながら、これらの壁面や棚を眺めるのである。これがけっこう良い。

というのも、今ではない時間軸にも自分が、かつて居た、あるいは、これから居ることになるのがわかって、道具たちの道具っぷりがわかるのだ。変な表現だけれど、コトン、という感じでそれらの道具は確かにそこにあってくれる。そうすると、過去にそれを使ってもとの場所に戻した自分を思い出せる今の自分が、トン、とここに立てる心地がする。もとの場所に戻した、という過去がちゃんと今につながっていることが、腑に落ちるような。足と足が床に立っていることと、棚にドライヤーが収まっていることとが、同じ空間に着地していることにホッとする。

今は、歯を磨いているから、イソジンもヘアワックスもカミソリも使わないわけだけど、たまたま今そうなだけで、イソジンでうがいをしている時は歯ブラシは用無しだし、ヘアワックスを手に出している時にカミソリは持たない。でも、きっとまた自分の順番が巡ってくるのがわかっているから、喧嘩もしないで整然としていてくれる。まずそれが好きなのだと思う。

でもおそらくもう一つ好きな理由がある。

「誰かがわざわざそうしないとそうならない、という物のあり方」は、家のなかの多くのものに当てはまるが、特に使用頻度の高い道具置き場には、めちゃくちゃ濃密に詰まっている。上記の台所の壁なんて最たるものだ。そして、そのあり方が詰まっていることが心地よく思える時、そこにはキッチリとか趣味とかユーモアとかが効いている。たとえば柄のあるスポンジを下げるためだけの小さいフックなんて、割とふざけているし、置物や花瓶を置いたり、壁に絵を飾ったりすることは、こういう行為のいちばんリッチなやつだ。キッチリが1に対してユーモアとか趣味が9ぐらいあると思う。ああいうものに実用的機能はない。というかそもそも図る単位が違う。

以前、デザインの仕事をしている人の家にお邪魔した時、家の隅々まで、飾ったり置いたりといった、「わざわざそうしないとそうならない物のあり方」をコントロールする意識が行き届きすぎていてびっくりしたことがある。実用においても装飾においても、なんか全部ちょうどいいのだ。色も形も、パーフェクトみたいだった。でもそれは息苦しいものではなくて、肩の力が抜けたユーモアのある妥協のなさだった。明らかにちょっと普通じゃないセンスの人が住んでいる空間だったけど、「誰かがわざわざそうしないとそうならない」を楽しんでいる気配がした。いい場所だった。

わたしの部屋はああいうタイプには絶対なれないけど、箱ティッシュを立てて棚に置くのはナイスだと自分で思っているし、キチンの洗い場の右の水が飛ぶとちょっと嫌なところに開いた牛乳パックでカバーをしつつそれを砂糖のビンで抑えるのもこうして字面にするとかなり貧乏くさいけど見た目はそんなに悪くないし汚くなったらいつでも交換可能という機能性もあってこれもベリーナイスだと思っているし、国立奥多摩美術館の鉄のチケットを棚のふちギリギリのドアとの微妙なデッドゾーンのきわに置いてそこに傘の持ち手がちょうど引っかかって具合良く収納できているのとかも正直天才だと自負している。

そういうナイスは、ナイスだった日から決め事になる。そうしたら今度は、日々、それが決めポーズみたいに、こちらを合わせていくのだ。

計量カップのためだけのフックに計量カップを戻す。ドライヤーのためだけのスペースにドライヤーを戻す。

ちょっとしたキッチリは、わたしにとっては手グセでありユーモアですらあって、そうやって描いたのが、例えば洗面所と台所の道具の並びなのだと思う。時々、洗った皿やスプーンをそのまま乾かせるように隙間をあけながら積んでいてかっこよくキマると嬉しくて写真を撮ったりしてしまう刹那的なパターンもあるけど、洗面所と台所はもっと長いスパンで作られて更新され続けている。

それがわたしにとっては時々、眺めるに値するのだ。

絵画や窓の外の世界には到底かなわないし、小さくて見逃しそうなほどの、しかし、とても確かな眺めだ。