2 バイク移動につぐ移動と帰宅
インドネシア1 移動
床からの雑感
言葉を歌う感覚のこと
わざとの確かな眺め
歯磨きをする時、洗面台に付属している鏡の両脇にあるプラスチックの棚を眺めていることが多い。
プラスチックの棚はだいたい同じ大きさのものが左右に二つずつ、上段、下段、というふうにわかれて、計4つだ。
左上は、イソジンと保湿クリーム
左下は、化粧落としと保湿オイルと化粧水
右上は、ドライヤーと綿棒とヘアワックス
右下は、箱ティッシュを立てておいて、隙間の空いているところには歯磨き粉とコンタクトレンズの洗浄液がある。
他にも細かいものが隙間にさしてあって、あと少しで使い切りそうな頬紅のコンパクト(持ち歩かないで家で使う用)とか、カミソリとか、ヘアブラシとか、パックとか。
家には似た場所がもうひとつある。台所だ。
わたしの家の台所は正面の壁が大きめのタイルになっているので、そこに吸盤でフックをたくさんつけて、道具をぶらさげている。
一番左は丈夫な吸盤で、大きな中華鍋
その右隣は、小さいフックで、軽量カップ
さらに右は、タコ足的に複数のフックがまとめられていて、そこにはトング、おろし金、缶切り、計量スプーン、茶こし、木べら、箸、菜箸、おたま
その隣はまた丈夫な吸盤で、小さいまな板、ざる、小さいフライパン
一番右は、小さいフックに、水筒を洗う用の、柄のついたスポンジが下げてある。
時々、あんまり使っていないと判断した道具は、ベンチへ下げて、常にスタメンのプライドと士気を保っておく。これがうまくいっていると、なんとなく具合がよい。実際、棚へしまわれて月一回くらいのペースで顔をだす選手もいるくらいのほうが、緊張感があってきりっとする。今のキッチンでは、トングと缶切りが、ギリギリしがみついている状態で、彼らが下がると計量スプーンのすわりが良くなるだろう。これはダジャレだけど全てがわたしのさじ加減で決まる。
まあ、ともかく歯を磨きながら、これらの壁面や棚を眺めるのである。これがけっこう良い。
というのも、今ではない時間軸にも自分が、かつて居た、あるいは、これから居ることになるのがわかって、道具たちの道具っぷりがわかるのだ。変な表現だけれど、コトン、という感じでそれらの道具は確かにそこにあってくれる。そうすると、過去にそれを使ってもとの場所に戻した自分を思い出せる今の自分が、トン、とここに立てる心地がする。もとの場所に戻した、という過去がちゃんと今につながっていることが、腑に落ちるような。足と足が床に立っていることと、棚にドライヤーが収まっていることとが、同じ空間に着地していることにホッとする。
今は、歯を磨いているから、イソジンもヘアワックスもカミソリも使わないわけだけど、たまたま今そうなだけで、イソジンでうがいをしている時は歯ブラシは用無しだし、ヘアワックスを手に出している時にカミソリは持たない。でも、きっとまた自分の順番が巡ってくるのがわかっているから、喧嘩もしないで整然としていてくれる。まずそれが好きなのだと思う。
でもおそらくもう一つ好きな理由がある。
「誰かがわざわざそうしないとそうならない、という物のあり方」は、家のなかの多くのものに当てはまるが、特に使用頻度の高い道具置き場には、めちゃくちゃ濃密に詰まっている。上記の台所の壁なんて最たるものだ。そして、そのあり方が詰まっていることが心地よく思える時、そこにはキッチリとか趣味とかユーモアとかが効いている。たとえば柄のあるスポンジを下げるためだけの小さいフックなんて、割とふざけているし、置物や花瓶を置いたり、壁に絵を飾ったりすることは、こういう行為のいちばんリッチなやつだ。キッチリが1に対してユーモアとか趣味が9ぐらいあると思う。ああいうものに実用的機能はない。というかそもそも図る単位が違う。
以前、デザインの仕事をしている人の家にお邪魔した時、家の隅々まで、飾ったり置いたりといった、「わざわざそうしないとそうならない物のあり方」をコントロールする意識が行き届きすぎていてびっくりしたことがある。実用においても装飾においても、なんか全部ちょうどいいのだ。色も形も、パーフェクトみたいだった。でもそれは息苦しいものではなくて、肩の力が抜けたユーモアのある妥協のなさだった。明らかにちょっと普通じゃないセンスの人が住んでいる空間だったけど、「誰かがわざわざそうしないとそうならない」を楽しんでいる気配がした。いい場所だった。
わたしの部屋はああいうタイプには絶対なれないけど、箱ティッシュを立てて棚に置くのはナイスだと自分で思っているし、キチンの洗い場の右の水が飛ぶとちょっと嫌なところに開いた牛乳パックでカバーをしつつそれを砂糖のビンで抑えるのもこうして字面にするとかなり貧乏くさいけど見た目はそんなに悪くないし汚くなったらいつでも交換可能という機能性もあってこれもベリーナイスだと思っているし、国立奥多摩美術館の鉄のチケットを棚のふちギリギリのドアとの微妙なデッドゾーンのきわに置いてそこに傘の持ち手がちょうど引っかかって具合良く収納できているのとかも正直天才だと自負している。
そういうナイスは、ナイスだった日から決め事になる。そうしたら今度は、日々、それが決めポーズみたいに、こちらを合わせていくのだ。
計量カップのためだけのフックに計量カップを戻す。ドライヤーのためだけのスペースにドライヤーを戻す。
ちょっとしたキッチリは、わたしにとっては手グセでありユーモアですらあって、そうやって描いたのが、例えば洗面所と台所の道具の並びなのだと思う。時々、洗った皿やスプーンをそのまま乾かせるように隙間をあけながら積んでいてかっこよくキマると嬉しくて写真を撮ったりしてしまう刹那的なパターンもあるけど、洗面所と台所はもっと長いスパンで作られて更新され続けている。
それがわたしにとっては時々、眺めるに値するのだ。
絵画や窓の外の世界には到底かなわないし、小さくて見逃しそうなほどの、しかし、とても確かな眺めだ。
鼻とリンゴ、耳とゼンマイ式の出会い
昨日、夜遅くに家に帰ってきた時、甘いにおいがした。
原因はよくわかっている。その日、家を出る前にリンゴを煮て食べたのだけど、はちみつを少し焦がしてしまった、あの残り香だ。鍋は洗ったのに、においはまだ残っていた。いやではない不意を突かれた。
ここは自分ひとりが暮らす家だから、この中で起こる出来事はほとんどすべて把握している。あそこの角に埃がたまっている(→明日掃除機をかける)とか、使い切った化粧水の霧吹きのボトルを昨晩洗ってから乾かしている(→内側の雫がなくなったらプラゴミの袋にいれる)とか、排水溝の掃除はいつやったからそろそろまたやろうとか。使いかけの野菜をどう食べようとか賞味期限とか。その把握の実感はけっこう悪くない。調子のいい時は、部屋の中のあちこちへ意識の糸がのびて、それぞれがちゃんと絡まらずに結ばれているような感じがする。だから、時々、姉と母の暮らす実家に帰ったりすると、自分ではない誰かが散らかした服とか、使って洗っていない皿とか、そういうのに出会って、「ああ、人と暮らすあるあるだ」と思う。友人と四人でのシェアハウス生活から打って変わってのひとり暮らしだからか、未だにいちいち実感してしまうのだけど、この生活にはあの煩雑さがない。片付けて外出すれば、帰ってきた時には片付いた部屋が待っている。逆も然りだ。ひとり暮らしにとっての「帰宅」とは、「家を出た時の状態に再会すること」だ。淡々としていて悪くない。
しかし、案外、ひとりで暮らしている家でも予想外の出来事に出会える時があって、そのひとつがにおいだ。
あの日、家を出る時には、はちみつを焦がしたにおいなんて意識していなかった。焦げている、と思った時にはちょっときついくらいのにおいがしたからその時だけ換気扇を回したけど、ずっと回していると寒いしうるさいから、少ししたら止めた。それで換気されきらなかったにおいが、数時間かけて、ちょっと驚くくらいやわらかくなって、嬉しい不意打ちの香りになっていた。
一度に沢山もらったリンゴを、戸を隔てたキッチンではなく、寝ている部屋の机の上に置いていた時も、小さい驚きがあった。カバンから出してポンと置いてそのままにしていただけなのだが、後になってその部屋に入ったら、とたんに、ふわりと微かだが爽やかな香りがした。いいじゃんと思ってしばらくそこに置いていたけど、知って狙ってしまうと、もうあの爽やかには出会えなかった。
鼻の体験は、内側に吸い込む息と共にあるせいか、どうも秘密の質が強いと思う。普通、鼻から意思を発するということをあまりやらないせいもあるだろう。自分から語らないという点と空気を媒介とする点で耳と似ている。加えて、たとえば鼻の速さと目の速さは違っている。人を相手に出会う時には、お互い目を見たりするから、鼻よりも先に物理法則とは違う次元で出会ってしまう。体が近づくよりも先に、目の出会いは生まれる。しかし、鼻がにおいに出会う時は、体はもうそこにある。言い換えると、鼻はここに来る空気を吸うだけだ。目や声みたいに、少し遠くへ伸びることはできなくて、ここへ来たものにだけ、ひとりだけで、受け身で出会う。
ただ、空気は、自分の手や風によって、動く。鼻が付いている自分の顔だって、動く。動ける。そうして動いて、ドアが開いたり、風がふいたり、すれ違ったりグッと近づいたりした時に、鼻は、出会う。空気が変わった時に出会うのだから、それはドラマチックだ。まわりの空気の動きによる変化、それを選り好みせずにとにかく一先ず捉えるのが、鼻だ。鼻は慣れやすいから、一度出会った空気を確かめ直すのは苦手だ。つまりそれは逆を返せば、鼻が「出会うための器官」だということだ。顔のいちばん先頭で、密かに堂々と「出会う」のを待っているのだ。
ひとりで、疲れと空腹でフラフラの状態でレストランに入って、待ちに待った料理が届いた時に、つい、ウエイターが今まさにテーブルに置くか置かないかという皿を覗き込んで、鼻から思い切り深く息を吸ってしまったことがある。後で恥ずかしくなったけど、その時は、ようこそ!ペペロンチーノ!という気分が羞恥心よりも先に前に出てしまった。あの時、ペペロンチーノが目の前に登場した感動と、空腹に染み渡るようなにおいはよく覚えている。鼻から吸った空気は肺に入っていくのに空腹に染み渡るんだから可笑しい。まあでもあれは間違いなく、鼻から「出会った」瞬間だった。
人との出会いにもある。緊張しながら待っていた人が現れて、目を合わせて会釈したあと、椅子に案内された時に、その人の香水がふっと香って、あ、と思った。香水なんて完全にずるいのだけど、見事に効いた。その人が違う空気を持ってきたみたいで新鮮で、その後その人と話をするあいだ、自分が妙に集中しているのがわかった。つまりその時は、目と鼻とで、わたしにとって二段階の出会いが発生していて、なるほど人と会う時に香水をつけるのはこんなに有効なのだと、わたしは深く学んだのだった。(実践できていませんが)
部屋に帰ってくる時は、必ず扉を開ける。扉の外と中では、当たり前のように何もかもが違っている。その、王道ドラマチックな行為には、文字通り、空気が変わるということが織り込まれている。そういう意味で、やはり出会っているのだ。
つまり、わたしが毎日帰宅する時に出会うのは、「家を出た時の状態」ではなかった。そこから数時間を経た、「家を出た時の状態’」だったのだ。だから、例えばにおいが、変わったり分かったりするのだ。そしてわたしも、「家を出た時の状態’」だ。外の空気のなかを歩いてドアの前まで帰ってくるのだから、当たり前だ、全然違う。
リンゴは、沢山あるので日持ちさせてくて、冷蔵庫に入れてしまった。冷蔵庫からはブーンという音だけが発されていて、においはしない。なんのにおいもしない台所は静かだ。家で料理をする楽しみは時にはもしかして、それを食べ終わって家を出て、帰って来た時にまで長くのびうるんじゃないかと思えてくる。
今は部屋にいて、わたしにはこの部屋のにおいがわからない。ただ、今までなかったものがある。昨日、世田谷のボロ市にでていた店で出会って、つい心惹かれて買った、古いゼンマイ式の置き時計だ。その、音である。
その時計は、古いけれどとてもマトモに動く。台所にいる時に時計が見えないのがいつも気になっていたから、台所から見えるところに置いたのだけど、けっこうチクタク音が大きい。戸を一枚隔てた部屋で、自分が少し動くのをやめて音をたてないでいると、すぐにせわしない音が聴こえだす。
まあ、思っていたよりも音が大きいってただそれだけなのだけど、台所のチクタクが聴こえると、家のなかが前よりも静かに感じる。彼は時間を知らせること以上に、夏の窓辺の風鈴みたいな仕事をしれくれているのだ。わたしは好きです、そういう仕事。これから、宜しくお願いします。