グルン待ち

 

最近どうやら身体が疲れている。心はメラメラ燃えている。この状態、悪くないんだけど、あんまり長くは続けられなそうだ。

すじが痛かったり膝がピシッってなったり肩こりしたり擦り傷つくったりしている。それで、一昨日くらい、なんとなく冷蔵庫にあったレモンを切って絞って、甘くない炭酸水でわって飲んだら、とても美味しかった。ちょっと気になって、ネットでレモンの栄養について調べたら、肉体疲労回復とか出てきて、「なんとなく」の本能で、ちゃんと体が欲しがっている成分を取りに行けたような気がして、嬉しかった。

 

ここ一週間くらい、なんだかビシビシ体を働かせていて、気持ち痩せてきた。アタマも睡眠不足なわりにはクルクルまわっている。これ、もう少しペースを落として、睡眠時間もちゃんととれるくらいの状態で続けていけたら、人生が少し良くなる気がする。体力もつきそう。ただ、あともう一歩、グルンと回ってくれないと作品ができないから、今は、どうやってその状態に持っていくか…というところ。

 

 

夏至が過ぎて、もうこれからは日が短くなっていくらしい。

知り合いのおばさんが、「毎日18時にランニングをしているんだけど、最近は18時でも明るいから楽しいワ」と言っていた。毎日同じ時間に同じコースを走ると、季節の移り変わりが感じられて良いとのこと。そうだろうな。いいな。

数週間前に、ひとりで全然しらない町の住宅街に行ったことがあった。目的地について、仲間の到着を待つあいだ、道のわきの段差みたいなところに腰かけていたのだけど、ふと、風が木の葉を揺らす音がして、「あ、風だ」と思った。わたしは足下を眺めていたけど、向かいの家の木が揺れたのだとわかった。そして次の瞬間、自分の頬にその風が到達した。どきっとした。風が、ちゃんと、道の幅のぶんの距離を、それなりの時間をかけて動いたことが、音と肌でわかったのが、妙に新鮮だったのだ。風の速さって、いつも強さみたいなふうに認識していて、確かに風速が速い時には雲が速く動いたりするけれど、「風が強い」という言葉ほどには「風が速い」は聞き慣れない。それに、あまり速くない時の風って、ほとんど意識しないから、木の枝が揺れて木の葉が擦れる音がしてからわたしの頬が風を感じるまでの、あの少しの間は貴重だったと思う。

あの木の枝たちと、わたしのあいだに、道の幅くらいの、たいした距離ではないけど距離があって、その空間を、ふわりと空気が動いたことと、そもそも、そのふわりとしたゆっくりの風が、もっと遠くのいろんな木とか誰かの頬を揺らしたり撫でたりしながらここまでやって来たっていう、時間と距離を持っていることも想像できた。空間は距離を含んでいて、そこに動くものがあれば時間って概念に変換できる。

最近は、なぜか、小学校で習うようなことが、どんどん実体験を通して復習されていて、あと数年したら中学校で習うようなことを復習する日々が訪れるのかな、なんて思った。それは、冗談としても、この、風の届く時差、実態のなさといい一瞬で消え去る潔さといい、とても気に入った。小学生の時に、誰にも見せずに描いていたマンガのタイトルが、漢字一文字で「風」だったことも思い出したりした。森のなかを歩いたり、主人公の女の子の髪が長かったりして、ストーリーには直接関係していなかったし、多分ほとんど意識していなかったけど、あの想像の世界には、風がいつも吹いていたんだと思う。森には風がある、というか、森 の木々はゆっくりの風も速い風も、ドラマチックに彩ってくれるみたいなことが、小学生のわたしが「森」と思い浮かべた時の想像の範疇にあったんだろう。コンクリートと小さい畑の土ぼこりに囲まれて、川も海もない住宅街で生活していた当時のわたしにとって「森」という場所は非日常だった。

 

風がふいたりそれを音で認識したり、距離が時間だったりするような上記のことと、自分が今居る建物とか状況についてと、そうした生活からどうしたら自由になれるか、それに対して想像力は有効なのか、といったような感じのことを考えている。どうにか作品にして発表する予定。。。→https://twitter.com/sentan2016

 

 

先日、ひさしぶりに会った友人とじっくり話をして、自分が、普通のなんら特別ではない日常を過ごしていくことを肯定して、時に祈りすら見いだしている、ということを改めて自覚した。

「生活の仕事」という言葉をわたしは使うんだけど、それは、掃除や洗濯や料理みたいな家事全般はもちろん、寝るとか、自分自身が風呂に入るとか、そういう行いも含んでいる。つまり生活を構成していくために自分がこなす仕事だ。これは、日常がもっとドラマチックだったらいいのに、と小さい頃から変わらず願っていることと、噛み合う。

実際の毎日は、ドラマチックの真逆の、平坦になりがちな仕事ばかりだ。(ちなみに生活の仕事の対価として自分が受けとるのは命とか未来。だからおろそかにしていいわけはない。)そしてその、全然ドラマチックじゃない「生活の仕事」を、ちゃんと肯定して、なんならドラマチックラッピングしてしまえ、くらいのことを、多分ずっと考えている。ブログにただ写真をあげるのに飽きて、文章の日記を書き始めた中学生の頃からきっとそうだ。好きな人と廊下ですれ違ったとか、今日は話せた、嬉しい!狂喜乱舞!みたいな超くだらないことを書いていたと思うけど、完全な妄想ではなくて、現実にちゃんと根拠のあるドラマであることが重要だったのだ。自分のなかだけで起こる感情の激しい浮き沈みは、とりあえず自分の見ている何も起こらない(すれ違ってもぶつかったり会話をしたりしないしすれ違ったあとに遠くから呼び止められることもない)グレーの世界を、キラキラ学園生活に錯覚させるチカラを持っている。そのキラキラの自分に対する説得力は、「すれ違ったのはホント」というところ。

友人には、あなたはよく色んな人に惚れたりときめいたりしているよね、と言われたけど、そういうふうにして自分を生かしてきたのだと気づいた。ドラマチックラッピングの根拠としての恋をしている。

 

セルフィーとかインスタグラムの流行ってる感じって、自分の人生を素敵な感じに仕立て上げたい欲求の現れがあると思うけど、あの空しい感じ。空しいけど、実際に流行っちゃうから真実なんだろうな。多分わたしが今中学生か高校生だったら、インスタグラムとかハマってた。

 

そのへんも、たぶん作品と無関係ではないのでアタマの片隅におきながら、明日からも生活を続けていきます。