東海道新幹線の旅 2

今日もさらに西へ向かう。

昨日は、大阪からぐーっと日本列島を真北へ向かう特急列車に乗り、兵庫県日本海側にある出石というところに行った。海沿いではないけど、山を越えて日本海側だ。

出石には、永楽館という、現存するものでは日本最古といわれる劇場が、山のなか(と言っていいと思う)にあり、そこで年に一度行われている歌舞伎が、今回の目当てだ。誘ってくれた友人(母くらい歳上のひとだけど出会い方が友人なので友人と呼びたい)はこの永楽館歌舞伎が行われるようになってからほぼ毎年通っているそうで、9年も通うと役者が次第に成長していくのがわかって(声変わりしたり急に色っぽくなったり)とても面白いと言っていた。

わたしはそもそも歌舞伎自体、生で見るのは記憶にある限り初めてなので、始まる前も見終わってからも、ツウの彼女の話にはフンフン頷くしかできないのだけど、かなり長い年月を経てきた日本式の劇場で、隣の人にスイマセンネとか言いながら座布団に小さく座って、超間近で見る歌舞伎は、とにかくめちゃくちゃ最高だった。駅から会場近くまで行くバスの運転手さんは、「高尚なものは僕にはわからない」と笑っていたけど、歌舞伎が好きな人がよく言う「歌舞伎って全ッ然高尚じゃない」ってやつを、わたしは聞いてはいたけど、実際に体験してみたら本当にワッハッハだった。語彙が足りないみたいだけど、まじでワッハッハだった。

一部は義太夫狂言、二部は口上、三部は喜劇。一部はかなりかっこいいのだけど、三部はとにかくお笑いだった。でも要所要所でメチャクチャ魅せてくるし泣かせてくる。そして、全体を通して、言ってしまえばダサいくらいのお決まりな演出ばかり、それがワッハッハだ。

素直に自分の好みだったのは、20年の年月がたち、シーンがはさまってさらに20年が経つ、という時間の経過を、絵本みたいなお日様とお月様がでてきて会場をぐるりと踊りながら周るという演出。二度目は、みんなもうわかっているので、会場はおきまりのワッハッハである。時間が経ったり場所が変わったりする表現は全部、舞台とは分かれて客席のほうで起こるので、それがより一層、概念ぽいというか、頭の中で設定を共有していくような感触で良かった。

とにかく、愛しくなってしまうような距離だった。目の前の肉体も、演技のなかの言葉も仕草も、物語も、近いというだけじゃなくて、いい遠さを兼ね備えていた。

ちゃんと目を開くと乱視が効いてしまうので、ずっと目を細めて、少しでもクリアに観ようとした。小学生の頃に日曜の夕方だったか、テレビでやっていた時代劇コントをなんとなくいつも見ていたのを思い出した。書き割りの背景もセットも、「あの」ワッハッハな不自然さだった。

幕間に弁当を食べるのも、「特に腹ペコでもないけどマァとりあえず食べるっしょ」という感じでみんなモグモグしだすのとかも面白かった。

(観劇前に皿蕎麦を食べた。美味しい蕎麦の味がした。)

帰りは、また山を越えて大阪まで戻り、友人宅へお邪魔して、彼女から聞いていてずっと会いたかった黒い柴犬くんをさんざんモフモフしてから寝た。とても静かなところにあるお家で、暗かったので、かなりよく眠れた。寝て起きたら朝だった。自分の普段住んで寝ている部屋は、外のコインパーキングの看板の光とか酔っ払いの声とかがガンガン入ってくるから、もしかしていつも寝過ぎるのはあんまり寝れてないからなんじゃないかとさえ思った。

朝ごはんをいただいて、駅へ向かう道がてら、紅葉の始まった朝の道を犬を連れて散歩した。彼女もこのあと仕事へ出かける。次に会う予定は決まっていないけど、本当にいい時間を過ごさせてもらって、全身がポンと軽い。彼女としばらく話したりして時間を過ごして別れた後は、いつもそうなる。それぞれ生きている、というような軽さだ。

さっき、新大阪の駅について新幹線の改札へ向かっている時、昨日の昼頃に、まさにこの改札を出てこっちの別のホームに降りて兵庫へ向かう列車に乗りにいったのと、同じ場所にすぐまた来て、またすぐ別のところへ行くことがなんとなく面白くて、一人でニヤニヤした。

山陽新幹線で、岡山へ。

特にそのつもりもなかったのだけど、音楽→演劇→美術という流れの鑑賞旅行になっていることに昨日気がついた。これから『岡山芸術交流』を観る。