しゃがみこみ思考


ここ数日、学校の中の今まで気にしたことがなかった場所を気にしてみている。というのは、来月の学内での展示へ向けて、作品を発表する場所を考え直すことになったからだ。
用意されている会場は他の人の作品でいっぱいになってしまっていて窮屈なので、新しく場所を見つけて申請を出して使おうという心算だ。うまくいくかわからないけど。

校舎の外の、地面に敷かれた煉瓦みたいなタイルの隙間から小さい草がたくさん生えているところがある。そこにしゃがむと、手が地面に近くなって、わたしは興味がわいたので、なんとなくひとつ抜いてみた。根っこからごっそり抜けた。気持ちいい。
調子に乗ってどんどん周りの草も抜く。右手の指先二本で、どんどん草たちの将来を奪っていく!別に頼まれてやっていることでもないから、ゆっくりテキトーに、でも次から次へと。楽しい。昨日切ったばかりの短い爪だから、あいだに泥が入ることもない。雨上がりの湿った草と泥が指先に触れては離れていく。抜いた草がひとつの小さな山になる。手が届く範囲の草を一通り抜いてしまうと、しゃがんだまま少し移動して、またさらに草取りを続けた。
途中で一度、近くを人が通って、なんとなく恥ずかしくなって立ち上がり、指をこすり合わせて泥を落として知らないふりをしようとしたけど、その人たちがいなくなったら、またすぐしゃがんで草取りを再開した。しゃがんで地面を見ていると、世界が簡単に広くなるというか、草取りの世界に人間は巨大なわたしだけ、みたいな気分になって楽しいのだけど、それが、単なる主観の話なので、なんだかバカみたいで恥ずかしいのかもしれない。
ただ、ひとつ思うのは、ここでの細かい時間や季節の変化やアリの生活に、わたしの鈍感なアンテナはたぶん追いつけない。追いかけ方もまだわからない。

しゃがんで考えることと、高いところに立って考えることは似ている。いつもの自分の目は、小さい頃から成長をして高くなり続けるも、いつしか止まってしまった地面から155センチくらいのところを、フワフワ歩いている。わたしという人間の基準になる高さである。
それに比べたら、数十センチの積み重ねでできた階段をドンドン上がった、例えば20メートル上空からの眺めは、人間ひとりの成長の成果物では決してありえないし、しゃがみこんだ50センチくらいの高さには、人間ひとりでは支配も破壊もしきれない想定外の命がたくさんひしめいている。どちらの世界においても、そこを構成するわたし以外の生き物の存在感のおかげで、わたしはひとつの、ただの生き物になれる。基準の高さが失われて、命だけになる。
しゃがんだ時の巨大なわたしは、巨大なようでいて、実はたいした影響力はない。抜いても草は生えるし、虫も無限かというくらいたくさん出てくる。高い時も同じだ。その景色に対するわたしの影響力なんてたかが知れている。それが良い。

ただ、高いところには道具や建築物の力を借りないと、一人では行けないけれど、しゃがむことは一人でもできる。これは希望なのかもしれない。机に向かって何か考えている時に、膝を立ててしまう行儀の悪いくせも、ちょっと関係あるような気がしてくる。
しゃがむことがどう未来へ向かっていくかまだわからないけど、しゃがむことで見えるものに今は惹かれる。
家にいる時だってできる。普段ならしゃがみこまないキッチンの床に座りこんで爪を切ったりするのが気持ち良かったりする。床のわずかな凹凸とか傾き、細かいゴミのひとつひとつが何であるのかとかが、言葉じゃないセンサーで体にくる。
あと、あの、秘密な感じ。
両腕のなかにおさまる世界をひとりで楽しむ感覚。
明日の朝ちゃんと起きることを目指して、布団の中でひとり目を瞑る時とか、秘密度が高い。大切だ。明日もバイトでしゃがむと思うから、期待と秘密を少しかかえて行こう。