被暴言体験と反省


寒さのせいかなんなのか、最近とても心が厳しい。
 
二週間くらい前に限界の精神状態で帰っていた自転車で、暴言に近いひとりごとを絶叫しながら帰ったら、なんかちょっとスッキリしたということがあって、それからちょっとそのハードルが下がってしまった。以後、ひとりごとを大声で言う、ちょっとでもムカつくことがあったらすぐ舌打ちをしたり人を睨む、など、1人でいる時限定で、しばしば別人みたいに感じ悪いヤツになっていた。それがちょっとクセになりかけていることを思い悩んでパートナーに話したら「やめたほうがいいよ」と言われた。ですよね。でも、そうでもしないと、なんかぶっ倒れそうというか体が爆発しそうで、物とか壊してしまいそうなんだよ、簡単にやめられたら苦労しないぜ…、と思っていたけど、今日、さすがにマジでやめたほうがいいと思った出来事があった。


昼に近所をジョギングしていた時のことだ。ランニングコースのある大きな公園までチャリで15分行くのが億劫だったので近所の、わりと長くまっすぐな比較的走りやすい道を走っていた。自転車用と歩行者用で半分に色が分かれている幅の広い長い道だ。そこをひとしきりいって、折り返して帰る向きで走っていた時、道沿いの家の玄関に座って路上を眺めていたおばあさんが、突然、明らかに私に向かって「〜〜勘違いしてんじゃねえぞバカが」みたいなことを言った。びっくりして振り返ると、目が合った。まさか振り返られると思っていなかったんだろうか、しっかり目があって、向こうも驚いていたように見えた。そして、そんな暴言を吐くにしては、おばあさんはずいぶん小さくて、自信のなさそうな姿勢で、それが輪をかけてわたしを混乱させた。

とりあえず顔を前に戻して走り続けた。突然のことで衝撃ではあったけど戻って問い詰めるほどではない。あの人が言っていたのは、ここは運動場じゃないんだぞ、勘違いしてんじゃねえぞ、ってことだろうかと想像して、わりと幅の広い道だし人通りの少ない時間帯だけど、迷惑かけてることになるのか…?と釈然としないまま、少なからずイライラしたので、「ふざけんなクソババア」ととりあえず言ってみた。

でも、口喧嘩なんか普段やらないし、おばあさんが言い返してくるわけでもないので後が続かず「可哀想なやつだな」とか、キレの悪い下手くそな暴言しか言えなくて、自分の声もやたらモゴモゴ濁っていて、ぜんぜん気持ちよくなかった。
それでも、もうひとこと、ふたこと、くらいまで、ひどい言葉をひどい声色で声に出していたら、情けなくなってきて、ボロボロ涙がでてきた。音を出さずに息を強く3回くらい吐き捨てて誤魔化そうとしたけど無理だった。手に持っている家の鍵をぶん投げたかったけど、昔祖母にもらった木製のキーホルダーが壊れたら困ると思って我慢した。何かものを殴りたいと思ったけど、それも、どうせ手が痛くなるだけだからとやめておいた。もっとスピード上げて走ってやろうか、もっと大きい声で叫んでやろうかとも思ったけど、全部我慢した。でも涙は止められなかった。


走ったらきっと気分よく1日過ごせるぞ!と思って走りに出たのに、なんであんなこと言われなくちゃならないんだ!ジョギングも気持ちよくできない町はクソだ!ええい!子供の頃は「おばあさん」って皆やさしいような気がしていたけど、全然そんなことない!歳は関係なくロクでもない奴はロクでもねえ!老人の精神病ってめちゃくちゃしんどそうだな、何があのおばあさんをあんなクソババアにしてしまったんだ………、というところまで考えたら、わたしもおばあさんも同じだと気づいて、走れなくなってしまった。

人のことを悪く言ったり軽々しく暴言を吐いちゃだめだなんて子供でもわかるのに、ぜんぜん自分をコントロールできないで他人を巻き込んでいるのは、最近のわたしもそうだった。きっとあのおばあさんも色々しんどくて、自分をコントロールできないくらい疲れていて、元気に走っている若い女が恨めしかったんだろう。そういうことにしよう。ていうか、元気に走れるくらい元気なはずの自分がぜんぜん元気じゃないのは、なんで?とか、トボトボ歩きながらボロボロ泣いて、そういうことをぐるぐる考えた。日除けのためのマスクみたいな布を顔に巻いていたので、その頬のところがびしょびしょになって冷たかった。とりあえず、1人で悪態をつきながら歩いたりするのは、人に迷惑をかけるというレベルを超えて、普通にすごい暴力行為になりうるので、金輪際やめよう、ということだけは心に誓った。



家に帰って、あまりにショックだったので床に座って数分じっとしていた。後のほうは歩いていたので心拍数はけっこう落ち着いていたけどそれなりに早くて「これだと毒が回るのが早い」とぼんやり思った。そして、さっきまで動き続けていた脚の筋肉がじわじわと熱を持っているのを感じながら、シャワーを浴びようとのろのろ立ち上がって、あ〜、と息を吐いて、「歌うこと」の真逆のことをやってしまっていたんだなと思い当たった。大袈裟にいったら呪いみたいな、そんな声の使い方をやっていた。情けない。歌も暴言も、人に聞かせるとか聞かせないとかいう以前に、ひとつ残らず自分が聴いているわけで、そこで乱暴なことをやって自分に良い影響があるわけがない。
もしすっごく疲れていたら、心がバッドでいっぱいになってしまったら、ハッピーな歌を歌ったほうがいい。まあ、それもよくやっていて、ハッピーな歌ほど苦しい気持ちになるのは実証済みなので、しょんぼり帰り道のためのセットリストはちょっと真剣に考えたほうがいいかもしれない。いっそ、どちゃくそに暗い歌謡曲とか歌うのもいいかな。


ただ、なんでこんなに毎日つらいのかは正直よくわからない。憂鬱と元気の高低差が、常に見上げるほどあって、そこを駆け上がったり急に転げ落ちたりを1日の中で何度も繰り返していて、気圧の変化とか重力みたいに体に負荷がかかっている。見上げるほど、と書いてしまうあたりに、我ながら表現力がある。常に憂鬱のほうの底にいるイメージです。

寒さのせいかな。まだあと4ヶ月も寒い季節が続くことを思うと、ちょっとなんとかしないとな。
あと、こういう人間にはデジタルデトックスがマジで有効なので、限界まで耐えてからiPhoneを柔らかい布団の上にぶん投げるのはやめて、外から帰ってきたら引き出しにきちんとしまったりしてみようと思います。






ちょっと「目がいい」


今朝は午前指定のギリギリにやってきた宅配便で正午に目が覚めて、思いついて久しぶりに走りにいった。いつもはちょっと遠い大きい公園まで自転車で行ってそこを走っているし、このあたりで何か用事があるといえばそれはたいてい食品などの買いものなので荷物の重さで周りを見る余裕がないし、銭湯に行くのは夜だしで、明るい時間のこのあたりの様子をゆっくり見られるのは休日の特権だ。

昼間って、本当に何もかもよく見える。良い。銭湯に行く途中にあるお宅の庭に、皇帝ダリアが咲いているのを見た。家の2階の窓をゆったり超えていてちょっと感心した。元来背の高さが1番の特徴の花だけど、あそこまで高いのは少し珍しい気がする。ひょろりと伸びた茎とザクザクした葉っぱの先に、これも鋭い形の花びらが薄い紫色をして咲いている。「皇帝ダリア」(コダチダリア)という名前はやっと最近覚えた。たまに電車や車で通り過ぎる時に見つけるとギョッとするほど背が高いので、こんな季節にあんなに背の高い茎で花が咲いているのは妙な感じがするし、ちょっと不気味だなあと思って印象に残っていて、数日前にまた電車から見つけて、一緒にいた人と話題にしたくてやっと名前を調べたのだった。メキシコ辺りからきた外来種らしくて、不気味さの根拠を得たようで腑に落ちた。


最近(前提を省略するけど)初めて会う人と一緒に昼間のほとんど知らない町をのんびり歩いたことがあった。よく晴れていて、各自が見つけたものを報告しあうような会話が1時間くらい続いていて、ふと「花が好きなんですね」と言わた。花だけじゃなくて、イチョウはすっかり黄色くなっているのとまだ緑色のとがあるのとか、木の畑に小さい実がひっそりなっているのを見つけたり、赤い実がびっしりなったサンザシにてんとう虫を見つけたりもしていたので「花」とは思っていなくて、そう見えるんだなと意外だった。シュロとソテツはどっちも「ヤシの木みたいなやつ」だけど違う木です。そして、その人もわたしにとっては意外なところで立ち止まって写真を撮ったりしていて、ああここで立ち止まるんだとそのたび思った。変な言い方だけど、これまでの人生のなかでいろんな人と一緒に歩いたり景色を見たりした経験を振り返ってみても、まあ大抵の人が、いや、たぶん全員、わたしとは全然違うところを見ておもしろがっている。それが重なると嬉しいし、ずれていても楽しい。先日「えっ!」と言ってチカチカしている居酒屋の看板を指さした友人に、気づいていたけど気にしていなかったわたしは不思議な気分で「え?」と返してしまった。つまんないこと言ってゴメンみたいに言われてしまって申し訳なかったけど、えっ!とかあっ!とか思うもの、注視するものが全然ちがうってことが、当たり前だけど素晴らしいことだとしみじみ思う。言葉を使えば互いに共有できるということも含めて。


かなり前に、知人の映像作品の撮影を手伝った時にも、見ているものが違うのを実感した。あれは山での撮影だった。画面に映ってしまう隠したいものがあったので、そのへんで草を摘んできてカモフラージュに使うことになった。カメラが向いている場所は少し日陰になった急な斜面で、一帯はじめっとしており、当然、植物もそういうところで育つものばかりだった。笹みたいなのとかシダとか、色の濃い葉がずっしりびっしり生えている。道がなく足場は悪い。そんななかで、ディレクターが「隠すための草は、そっちで摘んできたら?」と、日向のほうを指して言った。摘んだ跡も絶対にカメラに映らないし坂になっていないから摘むのもラクだよ、という意図があったと思う。しかし、そっちの日当たりの良いひらけた草っぱらは、撮影場所からほんの数メートルいっただけだけど植生が全然違った。細くてサラサラした乾いた葉っぱしかない。この草ではカモフラージュにならない。論外の提案だ!まあ別にそんな草なんかどこで摘んだっていいので「そっちは生えている草が全然違うからダメです」と伝えて、最終的には画角のなかに入る草と同様の草を集めて、違和感なく隠すことに成功した。ディレクターに「植生が違うとか考えてもみなかった、そのディティールが見えてるのは素晴らしい」と言われて嬉しかったのでよく覚えている。


あれから半年。最近、わたしはその頃よりもさらに景色のディティールが見えるようになった(気がしている)!なんか「目がいい」です。音楽を聴くセンスがいいのを「耳がいい」と評するような感じで、ちょっと「目がいい」。それもちょっと異質な目の「よさ」を身につけつつある気がする。草木のディティールがちょっと分かるのは昔やっていた植栽管理のバイトの影響で、景色を見る特定の観点を新しく得たという話だけど、最近のアップデートはそれとはまったく異質だ。多分、双眼鏡のおかげである。Nikonのちょっといいやつを夏の終わりに買ってから、荷物の少ない日は鞄にいれて持ち歩いて時々取り出してみたり、暇な時にそれだけ持って出かけて工事現場を眺めたりして遊んでいたのだけど、その影響を受けて、この数ヶ月で目の使い方が少しだけ新しくなった。

双眼鏡は、視野を一点(と言っていいほど狭い範囲)に絞ることで景色という全体から部分を抽出する道具だ。その感覚が、目にインストールされつつある。どういうことかというと、景色のなかの気になるものに目がいく時の、目が「いく」速さや圧や、見ると決めた点に瞬時に集中する正確さがあるとしたらそういうのが上がっている、といった感じ。目を、景色という反射光を受け取る穴というだけじゃなく、ビームを撃って捕らえにいくように能動的に使う、みたいな感覚が、新しく生成されつつある。

やっぱりこういうのも1人では自覚できなくて、友達と一緒に歩いている時にわかる。並んで歩いていた友人に「少し先のあのローソンに寄ろう」と言ったら伝わらなくて、少し進んでローソンがかなり近くなってから「ここまで見えてたの?!」と言われたりとか、そういう時にわかる。この時は、道が曲がっていたのでまだ思い切り距離がある特定の瞬間にしか遠いローソンの看板は視認し得なかったのだが、わたしは目がビームになっていたので瞬間のローソンが「見え」た。厨二みたいな言葉遣いになってしまうけど厨二みたいな感覚の話なのでしょうがないです。
ともかく、たぶん日常的に、ちょっとだけ人より「見え」ている。でもこれは天然ではなくて意識的に仕組んでいる。何を隠そう、バキバキに度を強くして乱視補正もかけた悪魔的コンタクトレンズの為せる技である。これは普通にお金がかかるし明らかに眼精疲労と頭痛と肩凝りの原因になっていて代償が重いのだが、本当に見ることがおもしろいし眼鏡より圧倒的に邪魔にならないので手放せない。身軽、かつ、視界のほとんどすべてのものにばっちりピントがあうということは、目が「いく」時に大きなアドバンテージになる。
 
これは数字で測れるものではないけど、わたしなんかよりももっともっとすごい鋭さで目が「いく」人が、いる。狂気を感じるほどに「目がいい」人が。知っている中で一番やばい人は、写真家なのだけど、伝え聞くところによると彼は車道を挟んだ向こうの路地の進行方向がわの壁(つまり歩いていく時に自然に視界に入る位置ではない壁)のドアの前に不自然に配置された自販機を、人と歩きながら発見したりするらしい。目、どこについているんでしょうか…。
 
そういう達人もいるけど、まあ、我々のこれは、目ですから、自分が見たいと思うものを見たり見つけたりできればそれで良い。わたしは自分のその力がだんだん、自分の欲しい方向に先鋭化してきているのが嬉しい。成長しています!



少し話がそれるけど、生きていくうちに更新されるのは目だけではない。今朝のジョギングの時に近くを通り過ぎた建設現場で、釘か何かを打ち込む作業をしている音が聞こえた。言い換えると、釘か何かを打ち込んでいるのが音でわかった。
釘を打ち込む時、一回叩くごとに打撃の音と同時に、響く音も鳴るパターンがある(響くほうはあんまり聞こえないこともあって、どの条件がその差異を生むのかわたしにはまだわからない)のだけど、その響くほうの音は、打ち込むごとに音程が高くなっていく。単純な物理法則で。今日は、それが音を聞いて瞬時に想像されることが妙に嬉しかった。自分が過去に釘を打ち込んだ経験と、ものを叩いた時の音は長いものほど低く短いものほど高くなるという実感を伴った知識が、音を聞いてすぐに思い起こされ、今まさに金属棒が打ち込まれて木に埋まっていく、という様がありありと想像できた。打つごとに次第に音が高くなって、最終的には打撃の音だけになって響く音は聞こえなくなるのだけど、一本、また一本と、細長い鋭利な金属が刺さるべきところへ刺さって作業が進んでいくところを、ジョギングの速さで通り過ぎる10秒にも満たない時間で聞いて想像できたのはとてもおもしろかった。


わたしは、こういうことに気づいてウヘヘおもろ〜と喜ぶのをマジで一生やってたい。そのためには好奇心とちょっとの知識、あと、そのベースとして健康が必要だ。ここ一、二週間くらい、そこまで忙しくもないのにめちゃめちゃ体調が悪かったので心が参っていて、仕事中などに、頭の中でずっとなぜか罵詈雑言を絶叫している声のようなものが鳴り響いていた。今にも口から声になって出そうなので歯を食いしばって黙ったりしていたけど、耐えきれず、帰り道で見知らぬ犬に(犬に)吠えたり、会話に夢中で道を通してくれないおじさんに舌打ちしたり、1人で虚空に向かって怒鳴ったり泣いたりしていて、自分じゃないみたいに乱暴者になってしまっていた。でも今日、やっとちょっと余裕があったので朝遅くまで眠った。最近ニュースに聞く数々の凶悪犯罪に、正直ちょっと共感してしまっていたので、休めてよかった。冬の寒さと年末みたいな空気感には、人を焦らせたり狂わせたりする何かがあるんだろう。年が明けたらちょっとは変わるんじゃないかとか、嘘でもそう思いたい。牡蠣たべたい。



今朝は午前指定のギリギリにやってきた宅配便で正午に目が覚めて、思いついて久しぶりに走りにいった。
走るたび、背筋の腰につながるあたりがぶよぶよ動いているのがわかった。冬は、じっとしていると体が石みたいに冷たく硬くなっていってそのまま気分も暗くなっていきがちで、最近まさにそんな感じで落ち込んでいたから、一歩一歩走るたびに意外と背筋とかが軽く動いている!とわかるのが嬉しかった。家に帰ってきてシャワーで汗を流し、洗濯機を回し、オンラインミーティングで来月の企画の話とかして、その人が昔つくった歌を今度一緒に歌おうってことになって、めっちゃいいじゃん、え、楽しい〜なんて明るい気分でぼやぼやしながら、洗濯物こんな午後からで乾くんだろうか?と思いながら干して、ジャンパーの襟元から部屋着のフードを出して一昨日買ったばかりのふわふわのネックウォーマーをして、スボンはスウェットのまま靴下につっかけで牛丼を食べに行った。

もう、ちょっと陽がかたむきだしていて、外の空気はさっきジョギングに出た時よりもヒンヤリしていた。足首だけが寒かった。薬局の前を通り過ぎる時、ガラスに映った自分の姿が、11月の人、って感じだった。

これを書いていて、今はいつもなら夕飯時だけど、変な時間に牛丼を食べたのでお腹が空いていない。楽しいたびに「久しぶりに楽しいな」って思うけど、数えてみたらちゃんと2日に一度以上は楽しい。








路傍の死と詩


1週間くらい前のこと。雨の降っている昼間に1人で赤坂の歩道を歩いていた。大きな道路から少し入った静かな道だった。さっき買った弁当の入ったビニール袋を片手にさげて、借りた傘をさして歩いていると、歩道の真ん中に青虫が落ちているのを見つけた。あと少しで踏みそうだったからギョッとして立ち止まった。左側の生垣から出てきたところを誰かに踏まれたのだろうか。なんの幼虫かはわからないが鮮やかな黄緑色で、体の一部が潰れたような、破けたような形に見え、中身が出てきているっぽくて痛々しくて、しゃがんでよく見る気にはなれなかった。
あの時、立ったままの視点で短いあいだ目を凝らして、破けた青虫だと判断したけど、できればただの太いナイロンの紐とか、わかんないけど何か別のものだったかもしれない。そうだったらいい、と、雨が降っていた一昨日、また思い出していた。

ちゃんと観察しそびれてしまったせいでかえってその出来事が心に残ってしまうことがしばしばある。3日前の夜も、観察しそびれて残ってしまった出来事があった。自転車で帰る道中、坂を下っている時、手のひらサイズほどの密度の高い立体的なものをグンと轢いた感触があった。少し先の路上に何かグレーっぽいぐちゃっとした塊があるのは視認できたのにハンドル操作が間に合わなくて、轢いてしまった。その途端、ドッと心拍数が上がった。すでに死んでいたネズミをさらに轢いてしまったんだと思った。呼吸が浅くなる。動物の轢死体を見ることはしばしばあるとはいえ毎回新鮮にショックだし、今のところはまだ自分で哺乳類を轢き殺したことはない。ネズミかどうか確証はなかったけど横隔膜は下がらないし、ブレーキをかけることも、振り返ることも怖くてできなかった。
結局、どうしようもない気分のまま、やがて上りに変わった坂を今度はぐいぐいのぼって家まで帰った。わたしはこういう感じで生き物の死に遭遇した(と思った)時、とにかく「祟り」とか「呪い」が怖くて、軽薄に「南無阿弥陀」とか唱えたりするんですけど、この時もぶつぶつ声に出して10回唱えていた。帰宅してからパートナーに話したら「ネズミじゃないでしょ」と笑われた。次の日、明るい時間に同じ道を通った時には何も見つけられなかったけど、やっぱりあれは、残念だけどネズミだったと思う。3日たって何もないので多分呪われずに済んでいる。

あと、これは大学の近くに同級生がたくさん住んでいて自分もその1人だった頃、夜に自転車で帰路についていたら、通り過がりのゴミ捨て場に馬の生首が捨ててあったことがあった。茶色っぽい表面が街灯に照らされててらてらと艶をもっていて、生々しくてゾッとした。まさか馬の生首なわけがない、本当にそんなわけがほとんど絶対ないんだけど、わたしは恐怖で冷静さを失って、泣きそうになりながら急いで通り過ぎた。まずいものを見たと思った。事件に巻き込まれたような気分だった。そこは、いつも猫除けの機械の音と思しき高周波が鳴っている一角で、すごく居心地が悪い道だと以前から感じていたから、あそこに馬の生首が捨ててあるという状況は自分のなかで整合性がとれていた。しかし、友人にそれを伝えると面白がられてしまい、説得されて一緒に見に行くことになった。先に正体を知って笑っている友人に急かされながら恐る恐る近づくと、馬の生首は古着が沢山詰まった合成皮革の茶色いバッグだったことがわかった。正体がわかってもなんとなく不気味だった。


路上で何かを見つけたりびっくりしたり謎に出会ったりすると(怖いことが多いし、だいたい間違っているんだけど)頭がフル回転するというか、想像力が総動員されて、脳の普段あまり使わない部分が働き出す気がする。
生活には、まっしぐらに進む基本の流れがある。ある場所へこの時間に行くとかこの日までにこれをやるとか、スケジュール帳に文字として書ける、そういうものがある。その流れに従っているだけの時は、路上がどんな様子であろうと、順調に駅まで行くし家にも帰る。前方、フロントガラスの中央に向かってまっしぐらに、適切なフォームと速度で硬い車体が進んでいく。決めたことはそういうふうに流れていくので、点をつなぐ線の部分にディティールはいらない。でも、ふいに見間違えたり見つけたりすると、色んなことが全く当たり前じゃなくなって、前だけ見ていた視野がバーッと広がる。ディスプレイのように前方だけを写すフロントガラスの外側に、目的地以外のあらゆる上下左右があるのを思い出して、「前だけ見て予定をこなす車体」みたいなのがフワーッと溶けて、生きているわたしが露出する。そして、その生きているわたしが見る景色には、嘘とか想像の入る余地がたっぷりある。横道に逸れるというよりは別のレイヤーを重ねるように、目の前の事実に想像の奥行きが生まれ、「これなに?」「こういうことかも?」と言葉で思索し、イメージを手繰り寄せようとする時、景色は詩情をたたえはじめる。こうなったらもう、事実が実際どうであっても関係ない。太いナイロンの紐は青虫に、濡れて固まった手袋はネズミに、古着の詰まったバッグは馬の生首になる。

1人でいると、こういう発見や思い込みの、速さと深さが強まる精神状態になりやすい。特に旅行している時などは、ほとんどずっとこの感じだ。少し怖いけどワクワクしている。初めて会ってきっともう二度と出会わない人に嘘を名乗ったって良いし、夕飯を食べなくても良いし、いきなり立ち止まっても良い。いつもより女っぽく振舞っても良いし、めちゃくちゃ大人ぶっても良いし子供みたいになってもいい。1時間なんとなくここにいてもいい。景色が鮮やかに見えてきて、地に足がつく。風の温度がわかる。ひとり旅にはそういうのを許してくれる時間があるから、何かに気づいたり驚いたりしやすい。
その心地が欲しくて自分は時々一人で遠出していたけど、最近は時勢的に以前のようには行けていなかった。その代わり、散歩したり、二人くらいの少人数で友人と近場の路上を歩くことが増えた。自分は元々そういう遊びを人よりやっていたほうだとは思うけど、このところ以前にも増してそういうことをやっています。そして、こういう過ごし方を人と一緒にできる、というのがしみじみ嬉しい。

先日そんなふうに友人と高田馬場あたりを歩いていた時だ。道路と私有地を隔てるフェンスの向こうに、大きな細長い白い板が立てかけてあるのを見つけた。細長い穴が規則的に空いていて、暗いのでその穴は黒く見え、ピアノの鍵盤のようだった。しかし良くみると穴だし、まあ全然違って、洗濯板とか排水溝にはめる板に近い。プールに置くベンチみたいな質感?なんだろう。わたしがそこまで考えたタイミングで、一緒にいた友人が「こんなところに鍵盤が捨ててある!」と言ったのでおもしろかった。いやそれわたしもそう思ったけど違うんだよ!!うわ本当だ?!と笑いながらもう一度よく見たけど、2人がかりで観察しても一体何なのかわからなかった。何かの部品だろうか。そのフェンス沿いにしばらく行くと、同じものが同じようにいくつか捨ててあってますます謎だった。

そんな調子で歩くと、例えば滝へ続く山道も、終電後の隅田川沿いも、郊外のショッピングモールも、土曜日の新宿の喧騒も、無法地帯みたいな裏路地も、人の多い公園も、全部それぞれに、それぞれの場所に特有の「なにあれ」があるからすごい。変な色の虫とか、エイゴリアンで見たみたいなキノコとか、マンションのベランダに下がっている万国旗とか、ビルとビルのドアと窓が通路でつながっているのとか、屋上から腕が飛び出たまま止まっているフォークリフトとか、何に使うのか全くわからない売れ残りの生活用品らしきものとか。何なのかわからないもの、なぜそうなっているのかわからないものって本当にいっぱいある。自分で見てその理由や経緯までわかるものなんて実際ほとんどなくて、わかった気分になっているだけだとよくわかる。夜、川が終わって海に開く湾岸の橋を渡りきるあたりで、シュレッダーにかけた細かい紙片が大量にばら撒かれていた時は、事件のにおいがして怖くって嘘みたいで、でも一緒に歩いていた友人とちょうど「事実は小説よりも奇なりですよね〜」みたいな話をしていた時だったから、現実マジ最高に狂っててたまんね〜!と大笑いした。


こうなってくると、目をはじめとした感覚器官はすごい。理解できなくてもとりあえず見て捉えることができる。いや、本当は、言葉と目の前の現実は常にそういう関係だ。ただ、びっくり事故みたいに勘違いしたり、その正解がわからないというだけで一気に普段の言語の運用、日常バイアスが無効化されるのがおもしろい。人間に想像力があってよかったと思う。いつも見ているお馴染みのビルをいきなり「硬そうなでっかい箱!」と表現するのにはちょっと心の準備が必要だけど、見慣れないものは見間違えやすい。もう、何年も前の晩にあのゴミ捨て場にあったのは馬の生首だったし、シュレッダーにかけた細かい紙が小雨で濡れて路面にこびりついているのは誰かが証拠を隠滅しようとして失敗した痕跡だった。犯人どうなっちゃったんだろう。


自分で見たり感じたりした時、その対象と自分は一対一になる。そういう時がわたしは心地よい。そして、幸運なことに、隣にいてもわたしをそういう「ひとり」にしてくれる親しい人が何人かいる。あの人たちは、自身も少なからず「ひとり」でそこに居るのだと思う。油断しながらアンテナを張っているみたいなモードで、知らない路地にふらふら迷い込んでいける、ちょっとした勇気と好奇心のある軟らかい人たち。好きです。

どちらかの「あれなに?」に、「どれ?」と重ねた時から、発見は2人の遊びに変わっていくけど、見つめあったりしない2人は、ふたりというより1人と1人だ。もし突然はぐれても、あっさり次の区画で合流して、あんなの見つけましたと笑って話せる気がする。
全然まとまらないし度々いつも言っているけど、わたしには良い友達がいます。






袖なしで電動キックボードに乗るシーン

 
先日、電動キックボードに乗った。恋人の乗る自転車に先導してもらって、夜の都内を目的地まで10分くらい走っただけだったけど、昔漫画で読んだ未来を今生きているみたいで、まるでひとつ夢が叶ったような気持ちになった。思い描いて望んでいたわけでもないから、夢の中にいたような、といったほうが正しいのかもしれない。でもとにかく、よかった。


最近、さすがに人生のフェーズが変わってきているのを感じる。「アラサー」がいつのまにか自分のことになった。結婚した友達も多くて、子供を育てている子も何人かいて、え?子供を育てている”子”……?子じゃねえ〜〜!親〜〜!!
アラサーって言葉が使われ出した頃に私は高校生だったような気がするので、え、いつの間に、と、ポカンとしてしまう。とにかく、自分の若さの臨界点はぼちぼちこの辺なんだろうな、という感じがしている。
自分なりに鍛えて、手入れをして、気を使って生活をして、ようやく体力とか肌の調子が人並みのところに、自分のなかでは最高の状態に保てている。でも、ちょっと気を抜いたらもう崩れちゃいそうだ。そんな気の張り詰め方をしていたら心がもたないよと、自分でも思うし、たまに人にも言われる。

ここしばらく、いろんなことが全然うまくいかない。こんなんじゃだめだということだけは頭でボンヤリわかるけど、思い切って行動に出ても空回るし、どんどんやるせない気分が押し寄せてくる。負けていられないと奮起したいところだけど、人生の短さや自分の何もできてなさ、これからのできそうになさ、その他いろんなことが情けなく思える!絶望的だ〜!こういう、暗くて卑屈な考えに落ち込んでいってしまうことは本当によくあって、ぜんぜん特別なことではないから、家で肉を焼いて山盛りの牛丼に卵を割り入れて、初めて飲んでみるビール(Asahiの富士山)なんか開けてみたりして誤魔化そうとするけど、当然、それじゃ何も解決しない。ビールは麒麟が好きだな…。

とにかくずっとぼんやりそんな気分で生活を続けていて、なんだか気持ちがアガらないことにも、やばすぎるコロナの状況にも政治のひどさにも、自分自身にも、すっかり飽きてしまったような憂鬱さだったので、生まれて初めて電動キックボードに乗った数分間が、突然、予想外に鮮やかで、特別な何かに思えたのだった。

少しごついハンドルには、右手の親指で操作できるレバーのようなものがあり、これを押すと加速する。ブレーキは自転車と同じ。まがりなりにもナンバープレートのついた、運転免許証の提示が求められる乗り物なのでけっこう緊張する。指だけでレバーを押すとキックボードだけぐーんと先に行ってしまいそうになるので、全身を使って重心をうまく調整してその速さにのる必要があった。初めはちょっとこれは怖いぞと思ったけど、覚悟を決めて道を進むなかで加速と減速を何度か繰り返したらすぐにわかってきた。わかってきてからは、中途半端な速さでこうして車道を、ヘルメットもしないで(義務はない)走っているのはきっと自動車からしたら相当うざいだろうなあという想像を半分くらいしつつも、新しい遊びを、生まれて初めてやる体の使い方をやっていることの新鮮さと喜びのほうが勝っていた。スケボーに乗るみたいに両足のつま先を右に向けて、膝は少し曲げて、腰から上の背筋をすっと伸ばしてボードの上に立つと気持ちよかった。

こうやって新しい遊びにすぐに適応できる自分のちょっとした運動神経の良さが妙に誇らしかった。今まで何人かの友人に「きれいな服だね」「いいね」と言ってもらえた袖のないお気に入りの服から出た生身の腕が、排気ガスやらいろんなもので汚染されたグロテスクな都会のベタベタした空気を、ぎりぎりの感じでかろうじて「キラキラと風を切って」いけることが嬉しかった。
袖のない服はわたしにとって普通にできる格好のなかで一番裸に近い。開放的な気分になって気持ちが良いので夏になるとこれでもかと着てしまうのだけど、これで電動キックボードに乗ったら、こんなんで転んだらすごく痛い思いをするだろうな、という出血の想像と緊張感が肌の表面に魔法をかけて、開放感がMAXまで振り切れてしまった。そして、こんなことを言うのは自分でもどうかしてると思うけど、いろんなリスクの上にやっとのバランスで成立している、ぎりぎりの美しさが纏えているような気がした。きっとあの時の自分は、街に肌を許しているような危うさとともに「キラキラと風を切って」、若くてちょっと美しかった。でっかいバイクにビキニのギャルがまたがっている、みたいなのの超超下位互換みたいな感じ、といったら伝わるでしょうか!

台風の近い夜の、ぬるい風。次々に現れる信号。街灯。言葉は聞きとれない大量の人々の声。漠然としたざわめき、車のヘッドライト、店の明かり、視界には光るものがたくさんある。前方を走っていく自転車に乗った恋人。代々木のはずれから、新宿・歌舞伎町を通り抜けて新大久保まで。こんな状況だけど東京の繁華街には想像以上に大量に人がいて、今この瞬間、自分もその構成員だからとやかく言えないけど、あれはソドムだった。そして、焼かれてなくなってしまえと思うわけじゃなくむしろわたしは滅びゆくオワった都市で生活することを眉を顰めながら面白がっている。あたしに生産性なんかないでーす、と、ワルぶって、カワイくてダサいのを誇って堂々と背すじを伸ばした、明日に続かない、愛すべき新鮮な体。ダメな奴ですがなにか!
次々にすれ違い通り過ぎるあまりにも多くの人たちと決して目は合わないけど、おそらくほんの少しの物珍しさの視線をちらちらと感じながら、中途半端なスピードでぎゅ〜っと進む。さっきテイクアウトして食べた大きくて美味しい、ちょっといい値段のハンバーガー!人のいない駐車場みたいなところで、こっそり悪いことしているみたいに、口内炎を我慢してゆっくり食べたやつが胃の中にある。信号で止まったら、毎週片道1時間半くらいかけて予備校に通っていた高校生の頃にドキドキしながらローファーで歩いた大通りだった。相変わらず高いビルばかりがあって、ハイブランドのショップとか看板とか、カフェとか、電気屋とかごちゃごちゃあって、横断歩道があって、ぜんぜん空気がおいしくない。空なんか見えない。でもこんなに楽しい。わたしはあの10分間だけ、映画の中にいるような、始まれば必ず終わる時間の中にいた。
 
 
 

手動の都市生活

雨などを言い訳に色々と諦めたことで微妙に時間ができたので、雨音を聴きながら最近のことを書きます。

今朝は早く起きて、パートナーが仕事に行く前に手早く自作の棚を組み立てる(今日の他にできる日がないので、昨日の深夜にもベランダでパーツの塗装をしていて、その延長線上の早朝強行)のを一緒にやった。けっこう良い感じの棚ができて、家に1人になってから、さっそくちょっと物を並べてみた。暮らしって感じがする〜!久しぶりのゆっくり過ごせる午前中を、朝食後のコーヒーなんか入れたりして優雅に過ごしています。これだけ強い雨が降っていると、いろんなちょっとしたことは諦めてしまえる。



そう、引っ越しました。この春、と各所で言ってきた春がいつのまにか終わって、夏と呼んでいい頃になってしまったけど、この初夏にようやく引っ越しをしました。

「この春」は、去年の春と比べてけっこう色々と状況が変わった。一つは、新しい仕事を始めて、働く日がこれまでよりも増えたこと。もう一つは、引っ越して、人と一緒に2人で暮らし始めたこと。まだこの生活は軌道に乗ったばかりでどうもガタガタしているけど、一応なんとか動いて進んでいる。まだフォークと鍋敷きがないけど。ああ七味唐辛子も買えてない
(と言っていたらIKEAに行った友人がついでにとフォークやナイフのセットを買ってきてくれた。ありがとう!)


新しく住んでいる町は、悪臭漂う繁華街からチャリで少しいった静かな所だ。建物は古いので、何も防音施工をしないまま家で大きな声を出すとおそらく近所迷惑になる。外が騒がしいほどの、今日みたいな大雨の日に小声で歌うくらいならきっといいけど、夜中に外の道をおしゃべりしながら歩く若者たちがなんの話をしているのか興味を持てばギリギリ聞き取れてしまうくらいには全ての音がありのまま届くので、きっと楽しく歌ってしまおうものなら通りの先の家まで聞こえるだろう。わたしは以前ほかの場所で、どれくらい建物の外に歌声が聞こえてしまうのか友人達の立ち合いのもと実験した時に、自分が想像していた以上に聞こえているとわかってから若干ビビっています。
豪快な人に憧れているので少し残念なんだけど、わたしは自分で自分に期待しているほど図太くないし強くない。他人のことを気にしだすと途端に動きが鈍る。一人暮らしをしていた時は、他の大きなストレス要因があったとはいえ、暮らしにおいて少し過剰な神経質を発揮していて、自分の生きている様子がすべてバレてしまうような気がして日々のゴミを捨てることすら怖かった。思い出すと意味不明ですけど、日中のスーパーのエレベーターと駅前の交差点にて短時間で三度も目があった女性が怖くて怖くて、妖か霊などの類だと信じ切ってしばらく怯えていたこともありました。(昼に見る幽霊が一番怖いよね!)ともかく、わたしの神経はそこそこ細くて、日頃からしょうもないことやどうしようもないことがちまちまと気になる。

そんな神経が細くて怖がりの自分にとって、まだ家であんまり声も出せない新しい都会暮らしは、かなりストレスフルだ。緊張する。過敏な状態の心に全部バンバン飛び込んでくる。例えば、高速道路の入り口とか高架がかなり身近になったのだけど、あの緊張感はちょっときつい。遠くに見る風景としてなら心地よいけど、隣で生活するとなると迫力があり過ぎる。
あれを目の前にすると、高速道路を自分が運転する時の、カーブをぐーっと曲がる緊張感を思い出して、見知らぬ運転手のそれが伝わってくるような心地がする。今まさに、頭上のこのコンクリートのレールの上を、それなりの緊張感を持った運転手と、それに従う重くて大きな鉄の車が、ガーッ!という音とともに次々通過している!速い!弾丸が頬のスレスレのところを飛び交っている?!死と隣り合わせだ?!というような、ビリビリした想像が、チリチリと神経系を引っ掻く。


都会と呼ぶのは田舎者で、ずっと東京に住んでいるような人は都会じゃなくて都市って言うんだよ…、と長野出身の友人が言っていた。「都会」はビジョンで、「都市」は事実、みたいなニュアンスだろうか。そのあたりの言葉としての真偽はわからないけど、都市は人と一緒に生きている器官という感じがする。郊外や田舎は土地が先にあってそこに人が住みついているので放っておいても大丈夫そうだけど、都市は、人が毎日メンテナンスしないとたちまち働かなくなるような、巨大だけど繊細な化け物みたいだ。みんなで「都会」を演じているような、共謀して「都会」というプロジェクトをやっているみたいな。社会ってそういうものだよと言われてしまえばその通りなんだろうけど、ちょっと手に負えなくなって主従が逆転しているような感じがするのも含めて、化け物っぽい。トシ。

ここだって、都会を都市と呼ぶ人たちからしたら全然たいした都市じゃないんだろうけど、深夜にも人がたくさん外を歩いていたりジョギングしたりしていて、自転車でいける圏内になんでもあって、川はなくて、海はなくて、空の手前にはビルや高速道路の高架や大きな看板、いくつもの道に分岐する立派な歩道橋、そういうのがすごい密度で交差している。道を道が超えて、ビルにビルが覆い被さって、線路が家を越したり地下に潜ったり、このあたり一帯の全ての土地が200%くらい活用されていて、空間に対して人間の意思の密度が高すぎる。

たまに自転車で通る、少し高くなっている高架があって、そこから街を見下ろすたびに、こういう場所で生活することの不気味さが迫ってくる。ここではキラキラがぜんぶ電気なんだよ。燃える火とか、雨が降ってあがったあとの雫とか朝露が陽光でキラキラしているような時の、顕微鏡でのぞけば無限に深まっていくようないろ・かたちとは全然違って、街の明かりひとつひとつが四角い一個のピクセルみたいな、そういう荒い画面だ。命の数と光の数はぜんぜん違うのに、こうやって高いところから見下ろすと、まるで暗い部分には何もないような気がするだろ?そういうのが怖いよ。


駅に向かう途中にたくさんある高架の下、あるいは仕事から帰る途中の自販機の横などで、おそらく家がない人とか、うまく家にいられない人が、寝そべっていたり、タブレットでゲームをしていたり、何かを拾っていたりするのを目にすることが多々ある。老若男女いる。わたしが以前まで住んでいた郊外ではほとんど見なかった光景だ。彼らはたいてい暗いところで静かにしているので、気づいた瞬間はついギョッとしてしまうのだけど、都市の救いと絶望を同時に見るような思いがして、怒られそうな言い方だけど、わたしはちょっとほっとする。

2月と3月の頃、いま住んでいる家が、地震と老朽化の影響で2ヶ月近く断水していた時、わたしは何度も公園に水を汲みに行った。(住む前から断水なんて、聞いたことねえよ!って感じだが)その時に、はたから見たら今のわたしはどんなふうに見えているんだろう、家がない人とか極端にお金がない人みたいに見えたりするんだろうか、と毎度思っていた。平日の昼間に、街ゆく人たちよりも雑な厚着をして公園に現れ、持てるだけのペットボトルに黙って次々水を詰めて1人でのろのろ立ち去るわたしと、ぐっと眉を描いてファンデーションを塗って、適切な時間に電車に乗って向かう職場には自分のデスクがあって空調の整った部屋で仕事をしているわたしは、時間軸がずれているだけの同一人物だ。ふたりは片方ずつ都市に現れる。

断水だけど無理矢理泊まりがけで作業をしていた(床や壁などの内装を自分たちでやったんです…)時、朝起きたらまず顔を拭いて無理矢理化粧をして、街へ向かい、パン屋のイートインでモーニングを食べてようやくトイレを借りたりしていた。そういうことを楽しんではいたけど、あんな非常事態みたいな生活(せいぜい体験版だけど)と、今のすっかり「普通」の都会暮らしとのギャップを、私自身が意外に思いながら納得している。社会や都市の要求にきちんと答えている自分と、ちょっと違う論理で動いている自分がどっちもいて(あいだにはグラデーションがあって)わたしたちはどちらの時にも都市の生活人だ。

自分の生活は家という単位で成り立っているのではない。あの厳しめの生活(体験版)が教えてくれたのは、生活は街と共にあるということだった。頭ではわかっていたことを身をもって知った心地がした。ちょっと考えてみれば、この小さい部屋のなかだけで全てが完結しているはずなんか当然ない。電気も水もガスも、遠くからここまで運ばれてくる。うちは水道関係がやばいので、上の階の人が洗濯機を使えば、わたしたちの家のベランダの排水のところに泡が流れてきたりするんだけど、それくらいの、なんか雑雑としていてちょっと汚くて、みんなで生きているのだという感覚が、都市ってことなのであれば、これは愛せる。弁当屋とか、銭湯とか、食料品を売っている店、コインランドリーとそこのフリーWi-Fi、いくつかある最寄駅、そういうものを用途に応じて使いこなしていくのが、おそらく自分がこれからしばらく営んでいく都市生活のあり方なんだろう。郊外でだってそうだったはずだけど、あの車規模の街とは全然ちがって、ぜんぶ自転車と徒歩圏内にあって体の大きさに近いので、感覚としてぜんぜん違う。

南国で、たまに電気が止まったり、時々手桶で水を汲んで水を浴びるタイプの風呂やトイレを使う生活を半年だけやって、慣れてきた頃に、ああ、生きていくのに必要なものってそんなにたくさんなくて、必要なものを自分の手でかき集めて、みんな各自で工夫して手動で生活しているんだな〜、と思ってちょっと嬉しかったことを思い出している。ガスや飲み水をタンクで買ってきて使ったりしている町だった。あらゆることがかなり違うけど、ここでも本当はそう。あんまり上手くいかないことのほうが多くて、工夫の余地ばっかりで、手や足、体を使って、見えないようで見えるものたちと隣同士で生きている。






クナイプのハンドクリームへの感謝

 
今日、疲れた帰り道で、手があまりにもカサカサしていて破けてしまいそうだったので、マツキヨでハンドクリームを買った。かなり疲れている時の、「胸が張り裂けそうな」という表現がしっくりくるような、コップのふちギリギリまで水が入っているような、あと一つ何か条件が揃ったら途端に泣き出してしまいそうな限界状態というのがあるが、最近は慣れないハードなことが多くて2日に一度はそうなっている気がする。ともかくこの手のカサカサを癒したかった。

店頭には、ハンドクリームだけで4段くらいのコーナーができていた。yusukinの香りつきのが3種類、三色並んでいるのが可愛かったり、ハンドモデルも使っています!と書かれた業務用というのがあったり、フエキのりのパッケージのふざけたようなものもあった。一番下の段には見慣れたニベアもある。選択肢が多くて迷った。わたしは疲れると判断力をごっそり失うが、この時もそうで、どうやって決めたものか悩んだ。一度、業務用のものを手に取ったが、レジへ進もうと左へ視線をやると、輸入っぽい感じのハンドクリームやボディクリームが並んだゾーンが目に入った。クナイプのハンドクリームがこれも3種類出ていて、ひとつは寝る前用、もうひとつは何だったか忘れたけど、一番左にあったもののパッケージがちょっと面白くて目を引いた。

全体は鮮やかなオレンジ色で、回すタイプのフタは安っぽいプラスチックのシルバー。チューブの上部には、口角の上がった表情のぬいぐるみのクマが二匹(大きいのと、少し小さいクマ)が仲良く写った写真がプリントされていた。「穏やか」で画像検索したら出てきそうな、ザ・穏やか、といった印象である。そして「Show me your smile」と書かれた白い字の下に、同じような白いゴシック体で「あしたも笑って」と書かれていた。
明日が「あした」と表記されているし、全体が輸入系っぽい(ドイツの製品らしい)デザインであるため、どことなく自動翻訳のような変な日本語のように感じて可笑しかった。それに加えてクマの親子が晴れた陽気の花畑で仲良さそうにしている写真があまりにも優しく感じて、これを買うことにした。

マツキヨを後にして、駅のホームで電車を待つあいだにさっそく使ってみると、ネロリの香りと書かれている通り、甘い匂いがした。手を鼻に近づけて、マスクごしにもう一度息を吸い込む。少し生っぽいくらい甘くて強い香りだ。なんとなくインドネシアを思い出した。あの国では甘い匂いをたくさん嗅いだ。花もタバコも果物もお菓子も、空港の空気さえも、大抵のものが甘ったるかった。旅先で嗅いだ匂いのことは覚えやすいし思い出しやすい。ああ、暑い気候も、薄着の暮らしもまだ遠い。懐かしい気分だ。こことは違う場所や季節のことに思いが巡った。
 
嬉しくなってインドネシアの友達に「この匂いはインドネシアを思い出します!」とインドネシア語で送ろうと思って写メを撮ったけど、Bau=においという単語が思い出せなくて面倒になってやめて、来た電車に乗ってぼうっとしているうちに眠ってしまった。
 
自分があまりにもヘトヘトなのがよくわかった。ハンドクリームに期待していたのは単純に手の乾燥を癒すことだけだったのに、想像以上に癒されてしまった。これまで、パッケージに「きっとうまくいく」とか「だいじょうぶだよ」などと書いてある商品を見るたびに、誰が誰に言ってんだか…と小馬鹿にしていたけど、おそらく今日の自分はこの言葉にもまんまと癒されてしまった。「あしたも笑って」なんて、言われなくても笑いますが、ずっとこのメッセージを発し続けているパッケージ、パワフルすぎる…。
 
自分は明らかに、ここ数年でかなり涙もろくなったし、かわいいぬいぐるみや良い香りや、犬の動画に癒される度合いが増したような気がする。簡単に癒されるので、つまり生きやすくなったということなんだけど、漠然と、代わりに何かを失っているような気がする。そのうち、子犬の写真になんかそれっぽい前向きな言葉が添えられたカレンダーとか買ってしまうようになるんだろうか…。捻くれたところが減って、心が広くなったといえば聞こえがいいかもしれない。とにかく今日はクナイプに感謝、あしたも笑います。

 
 
 
 
 

他人の荷物

 

1人で電車に乗っていたら、向かいの席に30代と見られる男性2人組が座った。少し小柄なヒゲの人と、少したくましいメガネの人。それぞれトレーナーとネルシャツで、カジュアルな服装だ。

 
前を向いているとつい視界に入ってしまうのでなんとなく見ていたら、ヒゲの人がおもむろにリュックから小さな袋を出した。ユニクロのウルトラライトダウンかな?と思っていたら、生地を少し引っ張り出して触り心地を2人で確認するように指で擦っただけで、すぐリュックにしまった。電車の走行音が大きくて、話の内容は全然聞き取れない。今のは何だったんだろうと思って積極的に見ていたら、ヒゲの人が今度は30センチくらいの、半透明の青いプラスチックの筒を取り出した。たぶん直径4センチくらい。何に使う物なのか全くわからない…!片方には緑色のキャップがついていて、全体がネジのように規則的にデコボコしている。本当に何に使う道具なのか、あるいは部品なのか全くわからず、かなり惹かれてしまった。この人たちは何者なんだ。
 
コントみたいだなあと面白がって見ているわたしをよそに、ヒゲの人はまたすぐリュックに謎の筒をしまって、それからは何も取り出さずに話を続けていた。
結局どんな二人組なのか全然わからなかったが、仲は良さそうだった。(そのあとまた謎の筒を取り出して、貼ってあったシールを剥がしてヒゲがメガネにそれを差し出し、「いらないっす」と言っているのが聞こえた。ヒゲの人はちょっとお茶目だ。ふいにメガネのほうが「お疲れ様した」といってヒゲが「ありがとうございました」と返すのに会釈しながら降りていった。2人はなんらかの仕事を共にしていたっぽい。)
 
 
人のリュックに何が入っているのかってそういえば知るよしもない。友人や家族の鞄にすら、何が入っているのかわたしは知らない。だからだろうか、電車で見るような全然知らない人の鞄の中から何かが出てくると、ちょっと惹かれて見てしまう。ほとんどの人がスマホを操作しているだけの電車内だから、そうではないものを出したりまたしまったりする人がいると、急にその人の個性のようなものが際立つ。
 
今年の1月の初旬には、外国人らしき風貌のおじいさんが、わたしが使っていたのと同じ、ダイソーの赤い水玉のペンケースを使っているのを見た。ガバッと大きく開く形がすごく使いやすくて、わたしもなかなか使い込んだのだけど、そのおじいさんは私よりさらに使い込んでいて、妙に嬉しかった。地図か何かにピンクのマーカーを引いていて、隣には歩きやすそうな靴をはいたおばあさんがいた。
 
また、いつだったか、新聞を読んでいたおじさんが、ふいに自分の鞄からハサミを取り出して、記事の一部を切り抜き、ハサミをしまうと同時に取り出した小さながま口のポーチに切り抜いた記事をしまうのを見たことがあった。がま口の小さなポーチをおじさんが丁寧に触っているのが可愛く見えた。
 
電車で隣に座っていた高校生らしき制服を着た髪の短い女の子が、鞄から手のひらほどの小さな手帳を取り出してシャーペンで何か書きつけていたこともあった。気になって見ていたら、書いているのは全て漢字で、中国語かな?と思ってさらにコッソリ注目していると、右側のページに少し書き込んではすぐページをめくり、また新しい右側のページに書き込む、というのを繰り返していた。5ページくらい書き込んだら済んだらしく、すぐに手帳を閉じて鞄にしまった。
目視できた漢字の意味をなんとなく想像するしかできなかったけど、詩か、あるいは何かの見出しのようだった。ぽく見えただけかもしれないけど、あんな感じに、ポケットサイズの小さな手帳に、漢字の詩を書く若い女の子なんて初めて見たので、新鮮だった。
 
 
日々、電車に乗っている時間が長いと色々なことがある。全然知らない他人の個性的なプライベートが垣間見えて、人間ってほんとうにたくさんいて、それぞれにそれぞれの一生とかがあるんだなあと思うとなかなか感慨深い。こんなに色んな人がいるんだったら、自分が何をやっても良いような気がしてくる。
そういえば高校生の時に帰りの電車で見た、薔薇の花一本だけを手に持って、つり革の取っ手じゃなくパイプ部分を掴んで窓の外を見ていた背の高い黒人のお兄さんは、とても楽しそうにしていたあの人は、今頃どうしているんだろう。あんな映画みたいな様子はなかなか忘れられない。たぶん一生覚えている。上に書いた人たちのことも、書いたからにはきっとしばらく覚えているだろう。
 
わたしももしかしたら何か思われているのかもしれないと思いながら、今日は本を持ってくるのを忘れたのでこれを書いていました。
今日は、夏日だとか言われるほど異常に暖かな陽気の2月21日。油断してジャケット類を羽織らずにセーターで家を出てしまった。少しずつ暮れていく夕陽を車窓から眺めて、帰りはきっと寒い思いをするだろうなあとソワソワ後悔しながら電車に揺られて、横須賀に向かっています。
 
 
 
 
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