最後の静かな片隅


件の感染症の影響をもれなく受けて、自分もここ最近は仕事や外での用事がほとんど全部なくなり、とにかく家にいる。
幸い家にいるという選択肢をとれる人間として、本気で家にいる。


出かけなくなって約2週間半。親しい人たちに会えない、という寂しさは今のところそんなになく、むしろ1人で電車に乗る時間のことが恋しくなった。自分はいま郊外に住んでいるので、都内へ出かけるには乗車時間がいつも長く、それを煩わしく思ってきた。でも失ってみるとあの時間は、それが満員電車であろうとなかろうと、1人でぼんやり過ごす稀有な時間として、あるいはこの後に会う人のことやこの後やる仕事のことを考えたりして心の準備をする時間として、それなりの役割を担ってくれていたのだとわかってきた。満員電車は最悪だけど、それでも。

今はもう全部が全部、かえってゼロ距離になってしまった。外国にいる友人ともリアルタイムでチャットができてしまうし、仕事の通話もすぐつながる。仲間とのZOOMミーティングやオンラインでのコミュニケーションも、最初は「できるじゃん!」という感じでけっこう楽しかったけれど、だんだんしんどくなってきた。この先に、これが当然の日常になって自分が順応していく段階があるんだろうなー、とは思いつつ、今はまだ慣れず、疲れが勝っている。



こういう状況なので、今の自分にとってはジョギングだけが家の外へ出る口実だ。ここ数週間、雨の日以外は毎日走っていて、その時間が心と体を支えてくれている。同じような人が多分そこそこいるのだろう。どの時間帯に外へ出ても、自分と同様にジョギングやウォーキングをしている人とけっこうすれ違うし、けっこう追い抜く。たまに追い抜かれる。

わたしは、いつも同じコースを走りつつ、毎日数メートルずつ距離を伸ばしている。今日は3m先のあの街灯までいくぞ、明日はあの木までいくぞ、と、折り返す地点を少しずつ遠ざけていくと着実に距離が伸びていくので楽しい。恥ずかしながら、今までにもこういうのを3日に一度くらいのペースで数週間ほど頑張ってはスッカリやめて、という微妙な三日坊主(三週坊主?)を繰り返してきたのだけど、今回は相当着実にやれている。もう少しで2軒目のガソリンスタンドに到達するのだけど、急いで達成すると良くない気がするので欲を抑えてジリジリやっている。

この長い道沿いには桜が咲いている。3月末にはもう満開だったが、ここ2週間ほどですっかり葉っぱに変わった。昨日の雨で花はかなり落ちて、透き通るような美しい若葉が日に日に増している。紫陽花も生命力をメキメキ取り戻してきた。冬に一度枯れきって、またこの季節に急に元気になる紫陽花にはいつもワクワクする。一番好きな季節が近いのが心底嬉しい。早く半袖のTシャツを着たい。そういうことを考える時間を1日の中に少しもつことで、だいぶ救われている。



一方、家にいる時間、というか、自分は今インターネットがけっこう辛い。自分のタイムラインはもはや、情報源やコミュニケーションの場というよりは、バリエーションに富んだ暴力の現場みたいになってきていて、自分が弱っているとダメージをもろに喰らう。書き込んだ人の意図や具体的な内容とは無関係にとにかくガッと喰らう。こちらが疲れている時には、厳しい批評・批判、しょうもない誹謗中傷、クソリプのみならず、美しい景色やかわいい動物や美味しい食べ物の写真、ちょっとしたジョーク、音楽など、あらゆる楽しいものさえ「それにひきかえおれは」とゲッソリした気分で受け取ってしまう!疲れすぎですね。
そして数日前にようやく、自分が家族メンバーに対して不要にキツく当たってしまっている事実と、最近の己の負の感情と疲弊は全部ツイッターから受け取ったものじゃん、ということに気づいたので、お知らせがある時以外はツイートせずしばらくはガチのログアウトを決めこむことにした。やり方が不器用すぎるが、ちょっと今の自分はこういう方法しかとれない。


そして、実際いい。なんか気づいたらロフトベッドを購入していた。

配送業者の仕事を増やしてしまう、という事実にそわそわするけど、睡眠環境の改善をもって悪夢を見る回数を減らすことのほうが自分にとって切実だと判断した。

複数の人と話してだんだん分かってきたが、自分はわりと睡眠が下手っぽい。寝る前にいきなり憂鬱になって数時間寝付けないまま静かに泣くことや、見る夢が概ね悪夢であること、寝ても寝た心地がせず寝起きのコンディションが最悪なこと、日中頭が覚醒している時間が少なすぎることなどがある。とはいえ、自分の程度はそれによって健康に害を及ぼす、社会生活に支障をきたす、というところまでは至らないので全然かわいいものだ。加えてこれは花粉症の薬のせい説もあるし、今後ばっちり是正される予定である。

ともかくベッドは近々届くので、この機会に自分の生活環境をめっちゃいい感じにする。他に歌などを録音する案件が複数あったり、ちょっとだけ仕事もあるので、なんとか「生活」という状態が成立している。
あとは友人にそそのかされて音楽を編集するソフトの90日無料のものをインストールしたので、それも毎日開いて地道に動かしている。立ち上げるたびに「無料期間はあと87日ですが買いますか?」という英語のメッセージが表示されてカウントダウンされていくのがなんだか可笑しい。超初歩ですがエレキギターをライン入力で録音できるようになりました()



まだ2日しか脱ツイッター生活をしていないけど、インターネットに全部を吸い取られていく感じがただの錯覚であったというのが、やっと体感できるようになってきた。失いかけていたものが戻ってきた。
こうしてダラダラとブログにしか書かないような文体でブログにしか書かないようなことを書くのも大事っぽい。これは自分にとって、体を吸い取らせずにインターネット上に痕跡を残す原始的な最後の手段のような気がする。140字で終わらせたり区切ったりせずに書ききるところまでしつこく言葉を探し、実感がのると思えるリズムで、でも気楽に支離滅裂になりながら、ダーッと書く。お気に入りもリツイートもいいねもない、静かな自治区だ。ここには、声を録音してアップロードするとか、演奏している様子が映像になって Youtubeにあがっている状態よりも、もっと強く自分の何かが刻まれていると思える感触がある。
 
まあ、こんなに長い独り言が必要って冷静にヤバいのだが、でも、きっと誰かが見ていると思って書く文章は、こんな文章でも紙に書く日記よりは少しよそ行きで、ちゃんと希望に向かえる。大げさかもしれないけど、これは自分が健康でいられる文体なのだと思う。インドネシアに半年いてインドネシア語に囲まれていた時も、たまに日本語でブログを書くことで、どろどろ落ち込むのではなく、1人で前向きに落ち着く時間を確保していた。

それと、ここにだけは、かつて自分が信頼していたインターネットの静かな片隅といった感じが、かろうじて残っている気がする。
Youtubeに張り付いて音楽を聴き漁ったりアニメやニコニコ動画を観たり、好きな漫画の絵を真似して描いたりグダグダと黒歴史でしかないブログを毎日のように更新していた高校生や中学生や小学生のころの自分が好いていた、あのひっそりとした居心地だ。
 
創作以前の、ただオタクかネクラっぽいだけの静かな興奮が、秘密っぽさが、かつて自分が1人で好いて遊びに来ていたインターネット上にはあったと思う。でもツイッターにはもうない。たぶん他の場所にもほとんど残っていない。というか、わたしが今からそういう場所を探して出向くことはもうなさそうだ。さすがに大人になって、顔も名前も出して表現とか考えていて、あの時とまるっきり同じものが必要なわけではない。

でも、とにかく体は続いていて、自分は同じ顔で、化粧だけ変えて生きている。
たぶん今後もここにはお世話になります。ベッド楽しみだなー。
 
 
 
追記:
はてなブログ、記事の下部に「いいな」機能があるんですね、笑っちゃった。
この機能はオフにできたらしておきます。