いい秋の1日目みたい

乱暴なくらい音の大きなライブを楽しんだ帰り、iPhoneに繋がないままのイヤホンで耳栓をしながら電車に乗っている。
 
イヤホンから音を鳴らしていないのに、耳の中を圧迫するようにピーーーーという微妙な音程の細い持続音が鳴り続けている。よく聞くと2つくらい鳴っている。疲れていたりして鳴ることはあるけど、爆音でこうなるのは久しぶりだ。きっと耳に悪いんだろうけどまあしかしすごく楽しかったからあんまりどうでもよくて、いつ鳴り止むのかが知りたくて、ピーーーーに耳を澄ましている。経験の余韻(これは疲労どころか多分ほぼ傷)がこんなに明確に残っている。楽しかった。
 
 
この電車に乗り換える前は、わたしは本を読んでいて、目や体が楽で心地よかった。(わたしは今いい具合に疲れて酔っ払っているのでかえって感覚が冴えていて、そんなこともいちいちクリアに感じる。)
読書はスマホで色々やっているよりも1つのことにグッと集中できるのがすごくいいと最近実感する。パソコンで作業をするよりもペンで紙に書いた方が捗ったりするのと同じだ。本も紙も、それ以外のことができないのが、気が散りやすいわたしにとって有難い。
さっき一緒にライブハウスにいた友達と、ある程度閉じた空間というのは必要だね、みたいな話をしたのも思い出す。主にSNS上で遭遇するような、あまりにもしょうもなかったり民度が低すぎる言葉とか雑な悪意とかは、本当の本当に完全無視していい存在だが(ある、ということを知るくらいで充分)、ライブハウスみたいに正しく閉じた場所にはそういうのがいない。みたいなことだったと思う。(違ってたらごめん)かつてライブハウスで痴漢ぽいのに遭ったことも思い出すとわたしは100同意ではないけど、でもライブは現場で起きていて、そこには一定以上の情熱のある人達が来ていて、ちゃんと作法や目的を共有できているから野暮なことは誰も言わない。いわゆる茶番も成立する。それは愛しいしクールだ。いろんな考えなきゃいけないことは一旦置いておいて、今はとにかく笑って踊る。昨日のイベントにはそれがあって、素晴らしかった。なるべく真摯であろうとすることは人として大切だし、ポリティカルコレクトネスとか大事だけど、正しさを過剰に求めるのは毒だ。
最近は、バカになるのにもワルくなるのにもおちょくるのにも勇気を要するような感覚が自分のなかにあって、それをシンドく思っているのを自覚した。オフラインで、ちょっとワルいくらいのパーティーがしたい。
 
 
 
 
読んでいたのは図書館で借りた本だったので、「〜までに返却してください」という紙をしおりにしている。たまに「これは」という箇所があるとそれを小さく破って挟むのだけど、束ねられた紙を神聖なくらい丁寧に見つめ印刷された言葉を味わいながら、別の紙をビリビリちぎっては挟む、というのはなんだか罪悪感に似た違和感があっておもしろかった。紙の世界にもヒエラルキーがあるみたいだ。
 
 
今日はすごく楽しく過ごした。偶然バッタリ久しぶりの友達にも会ったし、偶然ではなくて予定していた久しぶりの友達にも会った。初めての串カツ田中にも行った。
 
都内で目的地が4箇所くらいある日だったので、メトロの一日乗車券を買って使った。600円で24時間有効だとわりと簡単にお得になるから良い。ピ!じゃなくてカシャン!という音と一緒に改札機を通すのは、ちょっと懐かしさもあり楽しいのでおススメです。