Terimakasihhhhhhh

 
日本に帰ってきてちょうど2週間がたった。
2週間前、29日に朝の羽田に着いて、空港の外に出た時の第一印象は「木がショボい」だった。空港の周りだし、まだ寒い季節というのも手伝って葉っぱのない木ばかりで、植物の迫力がインドネシアとは全然違って、曇り空の下、冷たい風に揺れていて、寒々しかった。それに、どうやら自分はよりによって寒い日に帰ってきてしまったらしかった。でも、この季節の日本のにおいが確かにした。噂に聞いていた醤油の匂いではなくて、冷たくてツンとしていて、淋しくなるような春のにおいだ。
 
地元に戻ってすぐ、母と近所の回転寿司屋に行った。インドネシアにいるあいだ、寿司が食べたいという気持ちを意図的に捨てて寿司のない生活になんとか耐えていたけど、久しぶりに食べたら泣けてくるくらい美味しくて、飢えている人みたいな勢いで食べてしまった。晩にはスーパー銭湯に行った。久しぶりの湯船に浸かって、体が溶けそうに気持ちよかったのには、さすがに半年を感じた。寿司と風呂があるってサイコーだ。その日から、毎日あたふた楽しく過ごしているうちに、もう4月も半ばにさしかかる。
 
ここ2週間は、いろんな場所でいろんな人と、花見をしたりご飯を食べたりして、久しぶりの友人たちに次々会った。先週は即興的なパフォーマンスのイベントに参加したり、この前の火曜日には友人の営む店でインドネシアで撮ってきた映像や写真を見せて話す会を開かせてもらったりした。来月にある演劇の稽古も始まった。寒さのせいか気が緩んでいるのか、寝ても寝ても眠くて毎日寝過ぎるのを早くなんとかしたい。
 
 
 
 
インドネシアにいるあいだに仲良くなった友人達とは、インドネシアにいた頃より(来週の待ち合わせはこうしようとか、今度ここに行ってみない?といった話をしないから)頻度が激減してしまったけど、インターネットを通して普通にコンタクトが取れるので、拍子抜けするほど淋しくない。日本にいたって一年以上会わない人がたくさんいるんだから、それと同じだ。
 
ただ、インドネシアで半年間住んでいた町を離れて2日ほど手続き等のためにジャカルタにいた時とか、日本への飛行機に乗っている時などは、さすがに淋しかった。
 
 
26日、ジャカルタに行くために空港へ向かっていた時、タクシーの運転手とした短い会話の時の感触をよく覚えている。以前にも一度お世話になっておしゃべりをしたことのある運転手だったので、半年の滞在の最後の日だというのをすぐに理解してくれたようだった。わたしがゲストハウスのオーナーと別れる時に思わずちょっと涙ぐんでしまって、車に乗ってからも遠い目をしているのを察したのか、「たくさん勉強した?」「うん、たくさん」と短いやりとりをしただけで、あとはほとんど黙っていてくれた。
 
わたしは、「banyak(たくさん).」と、この半年間ほぼ毎日のように使ってきてすっかり口に馴染んだ単語を、噛みしめるみたいに低く、少しゆっくり発語してそれを自分で聞きながら、100キロ超の猛スピードで景色が流れていくのを目で追った。あと何回、残り数日のインドネシア滞在でbanyakって言うかな、と月並みなことが頭をかすめた。何かを逃したくない、みたいな、切ない気分でいた。何を逃したくないのかは、よくわからないのだけど。
昨夜、荷物をまとめると帰ってしまうことが現実になるようで、いやでいやで仕方がなくて、だらだらと明け方頃まで荷造りをしていたので寝不足だったけど、ぜんぜん眠くなかった。さっきの涙が下のまぶたにちょっと残ったまま、鮮やかな緑色の山とか煉瓦色の家々とかよく晴れた空を見ていた。なんだか目がよく見えた。でも、初めて通る高速道路の景色は、あまり感動的ではなくて、残った涙はすぐに乾いていった。
 
以前にも、同じように引き裂かれるような呆然とした気分でタクシーに乗っていたことがあったのを思い出していた。気持ちと関係なくドンドン前に進んでくれる乗り物のおかげで、わたしは次に移っていける。人が運転してくれる乗り物は強い。徒歩や心ならこうはいかない。
 
 
 
空港やジャカルタでは、半年間、わたしとは違う町や島で同じ仕事を頑張っていた仲間たちに再会できた。それは嬉しかったけど、以降、突然バチンとインドネシア語を聞かなくなってしまって、日本人に囲まれて、もう日本に帰ってきたみたいだった。いやいや、待ってくれよ、まだ、まだインドネシアにいるだろうが、、、だから、ひとりの時には友人に教えてもらったインドネシアのバンドを聴いたり、「もうジャカルタについた?」とメッセージをくれたジョグジャの友人とくだらない話題でしばらくチャットしたりして、インドネシア語の質感とか、確かにそれに付随する色んなことを、体にとどめようとするみたいにしていた。思い返すとけっこう必死だった。
 
わたしは日本へ帰る飛行機に乗っているあいだじゅう殆どずっと、紙のノートに細い黒いボールペンで隣の人には読めないくらいの小さい字で、詳しすぎる日記のようなものを書いていた。特に、23日にライブをしたことその前にご飯屋さんを探して弱い雨のなか傘もささずに友達と4人で散歩したことバカな写真を撮ったのを見せてもらって笑ったこと結局一番近いお向かいの屋台で食べたこと(その屋台は1月に同じ場所でのライブを観に来た時に食べたのと同じ屋台で店のお兄さんは後で娘を連れてちょっと演奏を見にきてくれた)合間に話した沢山のことAditが面白いTシャツを着てたことRanggaが2年前と同じサンダルをはいていたこと準備した時のことライブ中のことライブの合間のことライブ直後のこと一回コンビニに行ったこと帰りの車が高台の坂を登れなくてみんなで押したけどわたしは押す役ではなくタイヤに挟むための大きい石を探してくる役を任されたことその時振り向いたら見事に町の夜景が見えたこと小さい雷という意味の言葉を3人がかりで教えてもらったこと仲間のシェアハウスにみんなで泊まったことジャワの甘すぎる濃いお酒を飲んだことワヤンのポーズの話をしたこと寒さと疲れと興奮でなかなか寝つけなかったこと朝ごはんにジャンクすぎる揚げ物とソトを食べたことその時Aditが肉抜きでと注文していたこと笛を吹いて遊んだことATMでお金を下ろすのを待ったことプレゼントをもらったことそして大好きな友人たちと別れたバス停までの、
 
までの、、
 
メチャクチャ楽しかった約2日間の、全ての出来事とその時に思ったことを絶対に忘れたくなくて、馬鹿みたいだけど思い出せる限りの全部を詳細に言葉にしてノートに書きつけた。文章が時々ぶっ壊れていたけど誰かに見せるわけでもないのでそのままにして先へ先へ書き進んだ。手が追いつかなくて字も汚い。全部なんて絶対に残せないと分かっているし、こんなの何にもならない無駄な行為だけど、それでも書くなら今が最後だと思っていた。日本に着いてしまったら書けなくなる気がした。
 
 
深夜23時半くらいに出発して朝に羽田空港に着く便だったので機内は暗く、本来は寝ておくべきだし他のほとんどの乗客は寝ているのだけど、わたしは「ごめんなさいあとちょっとだから」と思いながら自分の手元を照らすランプをつけて、時々目と手を休ませつつ、結局朝の6時ごろまで書き続けた。左隣の座席には、外国人技能実習制度で日本へ行くとおぼしき青年が座っていた。きっと彼にとっても、今夜は特別に孤独で、でも楽しくてワクワクで、いや、やっぱり寂しくて、グラグラと心の落ち着かないフライトだろうなと想像したりした。いや、わたしがそうだっただけだ。
 
右隣の席の日本人のおじさんが、機内食が配られるタイミングなどに少しコミュニケーションを要する際、初対面なのにこちらをナメきって下に見て接しているのが見え見えでわりと不愉快だったのだけど、その不愉快さはちょっと懐かしくすらあって、ああ日本に帰るんだなと思ったりした。
 
 
 
 
 
 
 
メチャクチャ楽しかった二日間の最後24日の昼の、大好きな友人たちとの別れは、けっこうあっけなかった。学校の先生たちはプレゼントを次々にくれたり送別会を開いて写真をたくさん撮ったり歌を歌ってくれたりボロボロ泣いてくれたりしてしっかりと別れを味わわせてくれたけど、彼らは普通だった。わたしも「まあまた会うでしょ」という気分が強くて全然泣かなかった。
 
Aditは超嬉しいプレゼントをくれたけど、出発する前にみんなでお喋りしている場面でこっそり「みんなの前で開けられると恥ずかしいので後で開けて」とメッセージを送ってきて、わたしがスマホでそれを確認したのを見届けたうえで片手で雑に渡されてしまったので、全然本人の前でちゃんと喜ばせてもらえず、だいぶ戸惑った。でも、重要なところで変な感じになっちゃうのがあまりにも彼らしくて、マジ好きだなと思った。友人として大変に愛しい。
AditとRanggaが一緒にジョグジャへ帰っていくのをバス停で見送った時もなんだかヘタクソだった。バス停にバスが来て、さあ乗るぞ!というタイミングになって、ウワアア〜〜!もうバス来ちゃった早〜〜!!という感じで思い出したように大急ぎで、でもお互いにそうすると決めていた迷いのなさで、バッ!とハグしてシンプルに「またね」と言った。前に彼らに教えたのだった。Sampai jumpa lagi は「さよなら」じゃなくて「またね」だよ、と。
 
慌てて2人が乗り込んだバスはドアを開けたまま発車(※インドネシアでは普通)して、3秒くらい手を振ったらもう、ドアは閉まって2人の姿は見えなくなった。ついさっき抱き合って「うわあやっぱり肩の位置が高い」と思うほどの距離にいた人が、5秒とたたずに、何メートルも遠ざかってしまった。早すぎた。友達をバスにさらわれたみたいだった。昨日からさっきまで、ずーーっと聴こえていた笑い声とか見えていた表情とかあった仕草とかそういうのが、こんなに一瞬で、もう跡形もない。
 
 
わたしは軽くため息をついて伸びをして、一緒に見送りに来ていた友人Bambangと、ジョグジャに行くためにはあのバスだとどこで乗り換えることになるの?など関係ない話をしながら3分くらい歩いてシェアハウスに戻った。
 
 
次の日、25日にはわたしも同じバスでさらわれたのだけど、その時もKartunさん(今回音楽周りで超お世話になったおじさま)と、やっぱりハグして別れた。Kartunさんは痩せていて少し背が低い。静かな細い目をして、またね、と落ち着いて一言言ってくれた。こういうシーン、彼にとっては今までにも幾度となくあったんだろうなあ、となんとなく思った。昨日の夜にライブ会場から(24日の夜にもライブをした)シェアハウスへ戻る時、スマラン中心部からひとしきり走ったから、最後に馴染んだ街の夜景がじっくり見られて嬉しかったです、と言いたかったけど言葉が間に合わないのでそういう目だけしておいた。
 
乗りこんだバスは平日の昼らしく空いていて、めずらしく音楽もかかっていなかった。一番後ろの席に座って、景色を目で追うでもなくただただ揺られた。クーラーが入っていなくて車内の気温は高めだったのだけど、寝不足ゆえに暑さをあまり感じなかったから、ずっと上着を着ていた。あんまり何も考えられないまま、ゲストハウスまで帰った。あの部屋に「帰る」のは、この日が最後だった。次の日、26日にはジャカルタへ向かうのだ、というのが全然信じられないくらい、荷造りの進捗はゼロだった。
 
家に帰ってから、さっきAditが片手で渡してきたプレゼントを開けたら、彼が描いた絵をプリントしたトートバッグとおすすめのCDと、当たり障りのない内容の、ノートの切れ端に書いたと思われる短い手紙が入っていた。思わず「ええええ〜〜〜」と声が出た。こんな嬉しいプレゼントだったのかよ雑に渡しやがって!と思った。

簡単なインドネシア語で書いてくれていたのだろう、手紙は最後まで辞書不要でさらさら読めた。そして、一番最後にひらがなで「またね〜」と書いてあった。慣れない手書きのひらがな三文字と、最後の「〜」が、とても愛しかった。そっか、わたしも手紙書けばよかったな、とちょっと後悔しながら、すぐ、お礼のLINEを、超ハイテンションで送った。