木を見ることについてと、景色を見たことについて

 
走行中の乗り物から、窓の外を流れて行く景色を見るのが好きだ。昔からずっと好きだけど、異国でのそれは輪をかけて楽しい。
町の看板の文字がだんだん解読できるようになってきたのも楽しいし、人が!あんなところに!?と二度見したくなることも多い。自分で運転ができたらどれほどいいだろうと毎日思う。まあ、景色に関しては本当にあらゆることがおもしろいんですが、今回は木々を見ることについて書きたい。
 
日本にいた時、わたしは集合住宅などの庭の木や花の世話をする会社でバイトをしていた。あんまり日数は働けなかったけど一応三年ほどは続けて、本当によかったと思っている。あの仕事のおかげで、だいぶ、草木を見分ける力がついた。窓の外をビュンビュン流れていく景色のなかの緑色を見る時、その緑が漠然とした一色ではなくて、「さっきもあったあの木だ」とか「もうこの花の季節か」といったように、気候や季節を肌感覚だけではなくて情報っぽく受け取れるのがおもしろい。名前はわからなくても、あの時にあそこにあった、あれと似た種類のあの木……、と覚えておける程度の解像度はある。
 
今年の春に韓国へ行った時、川沿いの公園で梅の花が咲き始めているのを見た。日本はもう桜が咲き出している頃だったけど、韓国のほうが少し寒いので時期がずれる。でも梅はある。わたしは、外国はほぼアジアしか行ったことがないので地球の他の地方のことは知らないけど、少なくともアジアのこの辺りの草木は共通しているものが多くて、国は違っても海を隔てても土地の質感が地続きだというのがわかって、なんとなく嬉しい。台湾へ行った時にもインドネシアへ来た時にも立派なガジュマルがそのへんにたくさんあって、それを見つけては「沖縄以南だな〜」と思っていた。竹にまつわる昔話が残っている地域も、インドネシアやフィリピン、台湾をつたって日本まで伸びているというのをかなり前に先生から聞いた。
植物は「面」という感じが強い。べたーーっと広く、地面にはりついて生きるのは、人間の自分とは全然ちがう。やつらは場所との相性が直に自らの生死を左右する仕組みで生きているので、人間よりもずっと切実に場所と共にある。地面を離れたら自力では生きていけない。木の在り方は、ほぼ場所だ。
 
そして、ここへ来て景色をみている実感として、インドネシアの道端にある草木と、日本で見かける草木とは、意外とかぶっていない。竹はあるし、イネ科っぽい雑草もあるし、山の上へ行くと松もたくさんあって、似ているものもそれなりにあるけど、少なくとも私の今滞在しているAmbarawa周辺の木々は、ほとんどが日本では見かけないものたちだ。そういうわけで珍しがってよく見ているせいか、最近は街で見かける木々の顔ぶれが徐々に把握できてきた。
 
いつも通る道の曲がり角にあるあの木と、校庭にある大きなあの木と、ゲストハウスの中庭にひょろっと高く伸びているあの木とが、みっつともよく似ているな…とある時ふと思って、次に見る時に意識して確認していったら、全部同じものだと先日わかった。名前はわからないけど、傘のようにひょろひょろと垂直に幹を伸ばし、てっぺんでワッと枝葉を広げる形が特徴的だ。
あと、この辺りには、所々にコーヒー畑がある。少し山を登ったところの村に、カフェを併設しているコーヒー畑があって、遠いけど気に入ったので、二回行った。カフェは静かで涼しくて、素人のわたしでもわかるくらいコーヒーが美味い。そこでコーヒーの木(収穫のために背を低く抑えて剪定してある)の姿を見て覚えていたら、後日、時々通る大きい道路のわきにたくさん生えているのが全部コーヒーの木だ!!とわかった。その近くにもやっぱりコーヒーを売りにした観光スポットがある。その知識も備えて引き続き車窓からよく見渡してみたら、そのへん一帯がみごとに全部コーヒー畑だった。なぜかコーヒーに混じって他の背の高い木も植えてあるので、ぱっと見た印象が畑っぽくなくてそれまで気付けなかったのだけど、同じ木がたくさんあるな…と思っていたのが、コーヒー畑だとわかってちょっと誇らしいような気持ちになった。地図に色を塗りたい気分だった。
 
また、果物が生る木はパッと見てすぐわかる。一番よく見かけるのはマンゴーとココナッツとバナナ。ジャックフルーツもよく見る。かなり巨大なトゲだらけの果実は迫力があっていい。ドリアンもそこそこ見かける。ちょっと珍しくて、見かけると「オッ」となるのはカカオだ。木の枝に直接、カカオの実がプリッと生っていておもしろい。
 
日本語の先生が「あそこにドリアンの木があるでしょ」と校舎の2階から遠くを指差して教えてくれたことがあった。庭先の木から小さくてすっぱい赤い実をとってくれたこともあった(しぶくてすっぱくて美味しくなかった)。生物の先生も「僕のうちにはランブータンの木があるよ」とか「あの先生のうちにはドリアンの木があるのでそれをこの時期はみんなで買うんだ」と言っていた。一緒にいただいたそのドリアンは、旬ということもあってか、明確に美味しかった。今までドリアンを食べた時は、慣れない味すぎて好きとも嫌いとも言えないなあと思っていたけど、美味しいドリアンは美味しいんだとわかって、それはけっこう嬉しかった。
ここでは人と木の距離がとても近い。果物の生る木が多いから、木を見分けることがごく普通のことなのだろう。
日本で暮らしていて、わたしはあのバイトをしていなかったら、今ほど木に興味を持っていなかっただろうし、木の見分けなんてついていなかったと思う。日本の街中にあって気軽に実を食べられる木といったら秋のイチョウくらいで、街路樹の名前がわかるとか、そういうことは自分の生活や命とあまり関係がない。でも、ここでは関係がある。一年中、あらゆる木に生る実を食べられるからだ。食べることが、木と人の距離を縮めている。みんな、どんな風に果実が生っているのか分かって食べている。前回、動物と人が近いような感じがするというようなことを書いたけど、こちらの飲食店の看板は料理の写真よりも動物の絵が描いてあることが多くて、みんな自分が食べている肉がもともとどんな生き物だったのかちゃんと分かって食っている感じがする。だいたいの鶏肉は骨つきだし。
 
 
 
 
 
木を見ることとは違う話になるが、先日、少し遠くの釣り堀のようなところへ、友人の家族に連れて行ってもらった。日本でいう川床のような、高床になっているところでナマズを食べ、小さな池でアヒルボートを漕いで遊んだ。食べている途中で強い雨が降り出すし、朝からずっと曇っていてかなり寒くて、わたしは体調もあんまりよくなかったので大変だったのだけど、その帰路がすごくよかった。
 
さっきまでの雨が小雨になって降り続いていて、依然として肌寒い。でも、胃は痛いし悪路も続いていて酔いそうだったので、わたしはメガネに水滴がつくのはすっかり諦めて、顔を雨と風にさらして窓の外の景色を見ていた。
わたしたちを乗せた大きな車は田舎道をガシガシ走って、森のようなところにある古い家々のあいだを抜けて、鶏が歩いているのを轢きそうになったりしながらどんどん進んだ。ひとしきり走った頃、木々や家々の間を抜けると、そこは広々とした田んぼだった。すでに収穫の済んだところとまだのところとが混ざっている。少し遠くのあぜ道にはとても背の高いヤシの木が並んで立っていて、さらに向こうのほうには、山がみっつほど重なり合って彩度の低い青のグラデーションをつくっていた。そこに白っぽい霧のような雲が低く漂って、早朝みたいな静けさだった。山は、どっしりと重たそうに霞んで、巨大だった。
 
急に景色が開けてそれらが目に入った瞬間、すごく気持ちが良くて、ワア〜〜!と声がでた。続けてわたしは「indah...!」と低めの声で呟いた。自分の口からふわっと出て来たそのインドネシア語が、なんだかじんわりとした質感をもっていて、心がちょっと立ち止まった。
 
 
少し前に「indah」は景色に使う「美しい」で、人には使わないんだよ、と友達が教えてくれた。(人が美人だとかいう時には「cantik」という。)その後、すでに何度か景色が見事だった時に「インダァ!」と言ってきたけど、あの車窓からの眺めを前にした時、あれが、わたしにとって、初めてちゃんと本当の「indah」が言えた瞬間だった。
 
正しい発音ができたかどうかとかは全然わからないし運転をしていた友人の父も助手席にいた友人の母も、「そうだねえ山だねえ」みたいな反応だったけど、わたしは一人でけっこうグッときていた。
インドネシア語の「h」の発音は日本語にはないのでちょっと難しくて、意識して丁寧に発音しようと心がけてきたのだけど、この時ほどこの「h」の存在感がしっかりと胸に染みたことはなかった。なんというか、その景色を前にした感動が、語尾の「h」の、ため息みたいな低い声にまでのった気がした。口から出た音と、目で見た景色とが、ついにちゃんと結べたような感触があった。「インドネシア語で景色が見えた」と言ったら言い過ぎかもしれないけど、それくらいの感動だった。
 
 
その、ほんの一分くらいの出来事に、わたしはすっかり心をもっていかれて、道が変わって景色が見えなくなるまでの数十秒、顔にあたる小雨と風の強さに目を細めていた。体だけじんわり暑くて、顔は雨と風で冷たいのがちょっと可笑しかった。