まだ呼べない

 
10月2日火曜日
 
雨だ。いま、雨が降ってきた。粒が大きそうだ。
ホテルの窓を叩く音が、ポツポツというよりもぼつぼつという感じだ。
 
1週間前の月曜日にインドネシアに到着して、しばらくジャカルタに滞在したのち、今はスマランという街にいる。
もうあと数日、これから半年間住む村の部屋ではなく、この街のホテルで過ごす。
 
 
 
 
1週間経って、お金を払うのに慣れてきた。3日ほど前に改めて、両替した金額や出費した額をアプリに記録してお金を数えた。そうしたら、ようやく「この色のお札がいくらで、いくらの小銭があって、それらをインドネシア語でなんと呼ぶか」が整理されて、さっき細々とした買い物をした時には、店員さんの言った金額をちゃんと聞き取って、迷わず理解して、素早く正しく支払いができるようになっていた。嬉しい。
 
 
 
(ここまで書いたら、さっきの雨がもう止んでしまった。誰かがシャワーを浴びている音が天井の隅のほうから聞こえる。
ホテルの壁は薄い。他の部屋の誰かが話したり笑ったりする声もテレビの音も、小さく聞こえる。さっきは廊下を歩く誰かが口笛を吹いていて、短いフレーズを繰り返しながらゆっくり歩いていくものだから、まるで何かの合図をしているみたいで怖かった。自分は他人にこんな思いをさせたくないからホテルの廊下では口笛を吹かないようにしようと思った。)
 
 
 
食事にも慣れてきた。2週間目に入ったけど、まだお腹は壊していない。警戒して屋台にはまだ行っていないというのもあると思うけど、去年何度か屋台で食べて無事だったので、大丈夫のような気がする。目が痛くなるほど辛いものも一度だけ食べたけど、あえて辛いものを選んだりしなければ平気なものがほとんどだ。ただ、脂っこさと味の濃さだけは、何を食べてもついてくる。日本にいても、わたしは脂っこいものや味の濃いもの、甘いものはたくさん食べられない人間なので、自分がつらくならない量を、かなり意識して調整している。こういうことが苦じゃないので、体調管理とか好きでよかったなと思う。
 
そういう調子なので基本的に元気だけれど、唯一、おとといから喉の調子があまり良くない。腫れていて痛い。昨日が、バッドのピークだった。疲れ、空気の汚れ、ホテルの乾燥、味の濃い食事など、思い当たる要因はとてもたくさんある。でもおそらく一番大きな要因は、ここしばらく全然歌えていないことだ。自分の場合、マスクをしても喉スプレーをしても、うがい薬でうがいをしてものど飴を舐めてもとれない違和感がある時は、歌うと治る。今までにも何度かそういうことがあった。特に言葉や歌のことを気に病んだり鬱憤がたまると調子を崩すみたいで、言いたいことが言えたり歌が歌えたりすると、すっと良くなる。何度かあったので、そろそろ「本当」認定をしていいと思う。
 
 
それで、やばいなと思って、あまり乗り気じゃないまま、やっと昨晩ホテルの部屋で少し歌ってみた。ちょっと嬉しかったけどでもすぐ違う感じがしたので、散歩に出ることにした。道を歩きながら小声で歌った。
大きい声が出せるわけではないけど車の通りが多いのでその音でかき消されるし、歩道橋の上にあがればすれ違う人もほとんどないので、そこそこ自由だった。雨が降ったらもっと良いけど、まだ乾季だ。
 
しかし、いざ歩き出して歌い出してみても、全然言葉が出てこなかった。景色は見える。交通量の多い幅の広い車道をヘッドライトをつけた車やバイクがたくさん流れていたり、ガソリンスタンドやコンビニやカフェの看板があったり、歩道橋やいたるところにグラフィティがあったり、道が崩れていたり、描写されうる現実は、バッチリ目の前にある。足も健康に立って歩ける。それでも、日本語でそれを声を伴って描写することに、なんとなく違和感があった。この景色に日本語が通じる感覚がなかった。この場でわたしだけがわかる言葉を与えたところで、現実の景色さんには全然通じないんじゃないかと思った。
 
これまで日本でそんなふうに考えたことはなかった。むしろ、自分の呼びたい呼び名で、自分勝手に現実を呼ぶ、というような、そういう感覚でいた。現実はこちらから呼ばれるがまま、とまで言わないが、少なくとも現実とこちらとが噛み合わないなんて事態は想像していなかった。でも、昨晩のスマランの景色には、自分の今まで使ってきた言葉の感覚が全然しっくりこなかった。
 
今までの1週間、あらゆるインドネシア人に言葉が通じなくてしんどかったから、つい考えてしまう。きっと考えすぎだろうけど、でも、例えばここでは車はmobilだし、バイクはmotorだ。車って呼ぶのはわたしと日本人だけだ。mobil、motorじゃないと通じない。それは事実で、現実としてここにある。
 
これに関しては、3年くらい前に気づいてからずっと重要だと思っていることがあるので改めて書く。
 
わたしの生まれて育った日本は、地球でいうと北半球にある。インドネシアのジャワ島は、南半球だ。だから、ジャワ島で「北」というと、赤道・太陽のあるほうになる。日本にいて太陽が見えるのは「南」なので、地上の人間の皮膚感覚的にいうと言葉とイメージの関係がアベコベっぽくなっている。日本では北風が涼しいけれど、インドネシアでは南風が涼しく、北風が熱い。北風っていうか、「Utara」からの風が熱い。つまり、地球における方角という辞書的な意味では「北=Utara」だけれど、地上でそれぞれの人間が言葉で指そうとしているイメージが明らかに違う。
 
朝の挨拶として「おはようございます」とか「Good morning」とか「Selamat pagi」は並列されるけど、考えてみたら全部ちょっとずつ意味が違う。別の場所のそれぞれの現実に、それぞれで対応している。本当はひとつもイコールで結べない。
まあ、そんなことを言い出したら、外国語の習得ってなんなんだ?というか言葉が通じるってなんだ?!翻訳とか不可能では??という話になってしまって、それはちょっとズレてくるので置いておくけど、でも、少なくとも、昨晩の道路を走っていたのは「mobil dan motor」だったことは確かで、わたしはそれらをまだ「車とバイク」だと思ってしまう。
 
 
 
それでも、ここで生活をするからには、その実感を無視しない歌が作りたいし歌いたい。
というか生きるために必要だ、今の自分にとっては歌わないで半年も生活するのは死ぬのと同じだ。いつのまにかそんな風に思うようになった。
 
わたしは、自分の内側にあることと外側にあることを繋げたり混ぜたりできる、というのが、歌というメディアの特性の一つだと思っている。それは物理的に声が体内で発されて、内と外とで同時に震えるっていう話、と、言葉は常に現実ではなくてこちら側にあって、そこをつなぐのは言葉が音になった瞬間なのではという意味とで、二重に。
 
これが、今、日本語と異国の地、というふうに、バッサリ別れてしまっている。自分と現実とのあいだにある谷が深い。
今考えていることを外に出せていないし、外にあるものが素直に中に入ってこない。滞っている。
 
こんなふうに言葉で整理するとけっこうスッキリしているけど、解決策が全然わからないのでやばい。
 
とりあえず、音に音程や音色があることが救いだと思っていて、昨晩は、言葉が出てこないので音を聞いて真似してみたり影響されたりしながら歌っていた。まず、そういう歌から歌っていくのかもしれない。それに、案外もうちょっと時間がたてば、こんな悩みはなんでもなくなって、いつもの日本語で歌っているような気もする。まだわかりません。