帰宅、そして帰宅

引っ越しのカウントダウンをしようとしたけど全然できないまま、なんだかんだ引っ越し終わってもう一ヶ月が経ってしまった。30日とか経つと、引っ越ししたての時とは少し違った気分になってきていて、最近はなんとなく「もとからあった」というようなことを感じている。




5年前に出て行った時から、わたしの部屋はほとんど使われていなくて、時が止まったみたいになっていた。引っ越してきてからは、それを少しずつ整理して、今の自分が使える部屋へ切り替えていく作業をしつつ、平行して今の自分の生活を進めている。それでとりあえず真っ先に思うのは、5年前以前と、5年前以後の、けっこうハッキリした分断を感じるということだ。
例えばあの頃は捨てられなかったいろんなものをどんどん捨てられるようになっていたとか、そういうこともあるし、それ以上に、駅までの少し長い道のりを、自転車で流れていく景色を、いまだに「今」として捉えられなくて、「あの頃あんな気分で歩いた」とかそういう過去をまだまだいちいち思い出してしまっているのがビシビシくる。自分の「今」がここにないみたいといったら大袈裟だけど、まだ旅っぽい感覚が終わらないでいるような気がする。よそに来て間借りしているような。
この感じは、悪くないけど、これでいいんだろうか?とは思っていて、だからやっぱり物でいっぱいになって全然使えない自分の部屋を片付けているんだけど、でも、せっかくのこの旅っぽい感じは、終わらせたくない。なるべく保ちたい。これについてはまだ困惑している。


ただ、ここ一週間くらいで、そういう間借りっぽい旅っぽいなかにも、引っ越しの分断とか時の流れる摩擦にも打ち克ってずっと自分に続いていた部分があったんだと思うようになった。今大事にしていることの一部が、もとから自分のなかにあった。それも意外なほど身近な感じで。

ずっとマンションで暮らしてきた、というそのマンションに実際にこの一ヶ月で戻ってきて生活を進めてみたら、まず「帰宅」ってすごく重要なのではという気がしてきた。
一度家を出て帰ってくるというのを日々繰り返し、主観と客観を行き来することで、ハウスがホームになっていくような気がする。9月の初め頃に友達の家を3カ所ほど転々として2週間くらい過ごしていた時に、帰宅を繰り返すと、人の家でもなんかちょっとホーム感が出てくるのがおもしろかった。一人暮らしを初めて間もない頃に少し旅行に行って、帰って来た時、あ、ここわたしの家だな、と思ったこともあった。その「帰宅」は、最近わたしに二つの気づきをくれた。

ひとつは、建物の外壁と音響的に関わるという現在の自分の興味の、原体験っぽい記憶だ。帰宅していた時に思い出した。
帰ってきて道を曲がってマンションのエントランス前へさしかかると、それまでの道にいた時と音の聞こえる感じが変わる、ということに、小学生当時のわたしは気がついて、楽しくて時々遊んでいた。「背の高い硬い建物の前で声を出したら反響する」という風に言語化してはいなかったけど、マンションの高い外壁がそびえ立っていて、洗濯物とか干してあって、時々そこから顔をだしてる知らないおばちゃんとかいるんだけど、ここで声を出すと響くから楽しい、でもやりすぎると近所迷惑だな、と遊んだり考えたりしたことが、そういえばあの頃あった。一回「あ!」とかいうぶんにはセーフ、というのもその時に初めて実証した。

もうひとつ、このマンションで、もっとよくやっていたことがある。自宅の玄関の外のすぐ横にある45センチくらいの厚めの壁に、ちょうど人の頭がひとつハマるくらいの幅の四角いスリットが、鎖骨くらいの高さから天井へ向かって細長く入っていて、向こうの景色が見える。わたしは、よくそこに頭をつっこんで、7階からの遠い景色を見ていた。帰宅した時に玄関の鍵が閉まっていると、チャイムを鳴らして、家のなかにいる母や姉が鍵を開けに玄関まで来てくれるのを待つのだけど、その少しの間の、遊び未満の行動だった。遠くをみていると眼が良くなるという噂を試していたようなところもあった。
そのスリットは、本当に頭ジャストの幅でできているから、頭をつっこむと両耳を壁で軽く塞ぐような状態になる。そうなると聞こえる音が減って、見えているものに集中できるのが気持ち良かった。風と一緒に、見えている景色へと自分が吸い込まれていくような感覚になる。ただただなんでもない住宅街が、7階の高さからの視界いっぱいに広がっているだけだけど、それでも、ガチャ、と母が鍵を開ける音が聞こえるまでの1分にもならないひと時、そうしているのが好きだった。それを小学生の頃にやりだして、中学に入っても高校を出てからもしばしばやっていて、昨日も普通に自分が同じことをクセみたいにやっていて、あれ、そういえばと思ったのだった。本来と違うけど自分にとって気に入れる家の使い方を勝手に開発していた。
(そういうのを受けて、昨日は洗面所の流しのところに脚まであげて腰掛けて歯を磨いてみたけど特におもしろくなかった。)


マンションの、隣や上下に住んでいる人のことはやっぱり全然知らない。小学校の頃の同級生が何階の何号室に住んでいるとかは知っていて、エレベーターに乗る時にその前をいつも通っているけど、彼らには全然出くわさない。
今の自分の生活は、家とそれ以外になっている。家族は東京や神奈川にいるわたしの友達にほとんど会わないし、わたしの友達だってわざわざこんな何もない郊外に遊びにきたりしない。日常の生活圏と、日中の活動圏が重なっていない。家の近くのスーパーにふらっと買い物に行って知り合いに会う、ということが、今は一切ない。生活と友達のあいだに距離がある。
郊外に住んで都内に通勤している人とかってこういう風に切り替わる感覚なのだろうか、と思ったりするし、なんとなく、生活がこっそりしてくる。ああ、これがマンションの生活だなと懐かしい反面、その懐かしい頃の友達とは今はほとんど関わっていないから、正直いって寂しさのほうが強い。やっぱりずっとこうやって暮らしていくのはつまんないし、なんならけっこうシンドイかもしれない。

一時期、単身赴任ではなくこの家から都内に通勤していた父は、家の近くに友達なんて、いたんだろうか。
いたならいいけど、あんまり見たことがない。勝手な想像だけど、いなかったんだったら、こんな感覚だったんだろうか。けっこう寂しいっていうか、ここは父にとって、本当にただ帰ってくるためだけの家と町だったのかもしれない。聞いてないのでわかんないけど。

でもそのぶん、こんな場所では、家族がとても愛しいものになるのかもしれないということは、僭越ながらちょっぴりわかったような気が少し、した。
何度帰宅を繰り返しても大抵の時ちゃんと家にいる人たち、友達の言葉を借りると、確かにちょっと、好いている猫みたいだ。