1 チッポケになって刻み込む

8月19日
引越しまであと8日
別れる時、手を振って小さくなっていく相手と、同じ速さでわたしも小さくなっていくことが嬉しい


月曜から家族で京都に帰省して、そのまま帰らずにわたしだけ岡山へ行ってそこで親しい人と会い二泊ぶん遊んだり展示を観たりして、さらにその後に一人で広島まで行って、好きな作家の展示とパフォーマンスを観て、いまは帰りの列車に乗っていて、ひとり暮らしの部屋へ帰っている道中で、わたしは黙っている。




京都に行く直前の二日半は、演劇の公開稽古というクリエイティブなイベがあったので、そのあいだはずっと緊張感のある会話のなかにいたし、京都にいた三日半ほどは、久しぶりの友達と会ってたくさん喋ったり家族や親戚(一人増えた!)と過ごしたし、岡山での二日半ほどのあいだも、主に好きな人と二人だったので、ここ一週間ほどは、かなり毎日、よくよく人と喋っていた。どうでもいい話も、大事な話もたくさんした。嬉しくて勢いよくパーッと喋ったりもしたし、ウンザリした気分で雑な返事をしたりもした。
そうして人と過ごして来た旅行の最後の今日、広島へ一人で向かう段になって、いきなり本格的に黙って過ごす時間ができた。

仲のいい人と一緒に電車に乗っていて、お喋りが盛り上がっていたところで相手が途中の駅で先に降りて行った時、パチンといきなり自分が無言になる、ということがよくあるんだけど、あの瞬間って何だか可笑しい。一人で妙な気分になる。他の人のそれを目撃した時もちょっと面白い。この現象の、ちょっと時間の単位の大きい版が、今日は起こっていた。広島に向かう列車の中で、黙ったまんま、一人で選んで一人で買ったオヤツを一人で食べていて、なに黙々と食べてんのわたし…と思ったら笑えた。でも可笑しさを共有する相手がいないので、ニヤニヤ未満くらいをピークにその気持ちは過ぎて行った。
広島ではもしかしたら一切声を発しない可能性がある。話をしたい内容が特別にあるわけでもないし、黙っているのがイヤとも思わないのだけど、言葉を発しないことに口が慣れていないような感触があって、ちょっとソワソワした。 岡山駅まで一緒にいた人と、サクッとサワラ丼を食べて、かなりサッパリと「バイバーイ」と別れたのがちょっと惜しまれた。
ほどなくして列車は広島駅に着いた。わたしは心の中に「広島ついた!新幹線、はや〜!ホームあっつ〜!」とか感想が生まれているのを置き去りにして、無言で改札へ向かっている自分にやっぱり変な気分だった。空いているコインロッカーをなんとか見つけて重い荷物を入れカギをかけた時につい「ッシャ」とか言ってしまったりもした。そんな調子でいたら、思わぬところで人と話す機会を得た。

路面電車を待っていた時だ。
大きなスーツケースを持った女性に「路面電車って、5000円札両替できますかね」と話しかけられた。確かできないよね(したい)、というニュアンスが含まれていた。
わたしは、ちょうど偶然、さっきオヤツを買った時に「1000円札にしておいた方がいいかも」と思ってあえて5000円札を使ったので、1000円札が多めに財布に入っていた。それを確認してから、「…わたし両替しましょうか、1000円札5枚ですよね」と言ってみた。良いんですか、ありがとうございます!助かります、いえなんて事ないです、広島はよく来るんですか、ええ仕事で、大阪から、なんて少しだけ会話をしたけどなんとなくそんなに続かず、短い沈黙へ路面電車が来たので二人とも乗り込んだ。乗車してからは混んでいたのもあってやはり会話はなくて、駅について降りる時にようやく「ありがとうございました」「いえ」という会話をもう一度だけして、その人とは別れた。

インドネシアに行って帰ってきてもうすぐ二週間になるけど、わたしにはまだあの旅の余韻がおおいにあったので、流暢に言葉が使えて会話ができるとこんなことも出来ちゃうんだなあ、と静かに感動した。一人でピョンと遠くに行ったりそこで上手く過ごしたりできるのは、そこが日本国内で、わたしが日本語をけっこうしっかり使えるからだ。(山内さんが勧めてくれた、日本の読み書きのできない人たちにそれを教える活動をしている人とそこで読み書きを覚えた人たちの文章を集めた本、やっぱ絶対に読もう)
旅をすると色んなことに自覚的になると思うけど、人と話すことについては特に敏感になるような気がした。旅先で流暢に話せると、自分の正体も名前も自在に誤魔化せるという変な後ろ盾みたいなものがあるので、他人と楽に話ができる。実際に誤魔化したことはあんまりないけど。




それで
人と話すこととは別の話で 

旅行の楽しみ方っていろいろある。違う人と違うやり方で過ごす旅が連続したから明快になったのだけど、わたしは家族で行く時の「フリーペーパーに載ってたあれが食べたいガイドブックに載ってたここにも行きたい」式、ちょっと忙しくてお金のかかる観光客然としたミーハーな観光旅行も好きだし、年や世界観の近い友人と行く、景色や街や建物が面白いとか、今なんか変なのあったぞとかこっちの路地に入ってみようかとか、そういうところで新鮮を得ることに重点を置く、体力と時間をかける式の旅も好きだ。

この、後者が気になる。

一人だったり気の置けない人と出かけると、後者のようなハードなことになりがちなのだけど、今回も例に漏れず岡山ではけっこう厳しい山道を、親しい人と二人で自転車で走り回った。上り坂の苦しみを下り坂の風の爽快さと高いところからの絶景の喜びで相殺するみたいにして、日差しと筋肉と汗と肺の容量を感じながら走りに走った。すごく疲れたけど楽しかった。
徒歩とか自転車だと、やっぱり自分の「あれなに」タイミングでキュッと止まれるから良い。
3月に、完全に観光ツアーでジョグジャカルタに行った時は、ガイドさんの解説とビュンビュン目的地を点でつないでいくチャーターの車で観て回ったから、気になったものも気になっていないものと同じ速さでドンドン遠ざかってしまっていて、街の印象はかなり漠然としていた。楽しかったけど、資料集っぽさすらあった。
わたしは、あの漠然とした街よりも、今回の7月に行った、道に迷ったり不安になったりしながら、疲労とともに体に刻んだ具体的なジョグジャカルタが好きだ。地理的には同じ場所だけど、心と体にはまるで違うものとして入っている。自分の目や耳や脚が馴染んだ道と、まだ馴染んでいない道が、グラデーションをもって頭の中の地図に染みている。完成度の高い資料集も悪くないけど、自分で色を染み込ませた手書きの地図のほうがやっぱり楽しい。その街における自分の大きさもちゃんとわかる。 

好きになった人の好きな映画とか音楽を片っ端からチェックして相手との具体的なデートを妄想できるようになるみたいなのと似ている気がする。わたしとっては街も人も、具体的にならないと好きにもなりきれない。アクセスもできない。なんでもかんでも好きにならなきゃいけないわけでは、全然ないんだけど。

ともかく街は、資料集じゃなくて街で、わたしは点じゃなくて肉体でそこに立っている。世界中どこだって、点や線でできてなんかいない。街の中には、目的地にしてきた地点とか記憶に残っているポイントはあるけど、そのあいだを埋める距離とか道も確実にそこにある。そこを無視すると資料集になってしまう。この、点を点のまま断片的に覚えるのと、道とか土地の記憶のされ方は、なんか違うと思っていて、道のほうを、体で覚えようとするような感覚が気になっている。

たいてい、道中はあんまり日記にはかかれないって先日の旅を毎日日記にしていて分かったけど、でも、これは確実にある、かなり重要な部分で、それを覚えるのは言葉じゃなくて体の仕事のような気がするのだ。

岡山の牛窓では、狭い範囲をさんざん自転車で走ったので、走ったところに関しては距離感とか地形をけっこう感じることができた。そのうえで、次の日に牛窓の近くの尻海というあたりもちょっと走った。そのあたりは、けっこう最近まで海の底で、江戸時代とか、その後にも数回にわけて、人工的に埋め立てていって今の状態になっているらしい。もともと海産物を養殖していた広い平たい土地で、今はかなり大規模な太陽光発電が行われている。その電気畑の近くを自転車でスーッと通って町へ行き、神社のほうへ階段を登って小高いところから見下ろしたら、町と山の間には、太陽光パネルが、海だったところに海みたいな顔をして広がっていた。視線を少し左にずらせば本当の海と何かの養殖場があった。不思議な景色だった。でも、あそこをあんな風に走ってきて、という地理の体感があったので、その景色を見た後に古い地図を指して少し話を聞いたら、昔は海だったとか、そういう感じがけっこうイメージできた。

自転車で前島というところをグルッと廻った時も、去年の夏に一週間くらい居た犬島(これも岡山県)で見たのにかなり似た、ガシガシ切り立った斜面にチョビチョビと松などのわりとガシャッとした植物が生えたりしている景色が多く広がっていて、このあたりの土地の質をなんとなく再確認できた。前島は自転車ではシンドイくらい、土地の高低差がかなりあった。このあたりの海はきっと、さっきの埋め立て地と距離は近いけど全然違った形の部分で、島が山みたいに急になっていて、島が終わって海になっても、海底へそのまま深く斜面が続いているから、海面を見るとすぐに濃い青色で綺麗なんだろうなと、海底の形をわからないなりに想像したりした。今いる場所から地続きの大きい地形が想像できると、自分がチッポケになれるのが気持ち良い。

そう、チッポケなわたしはいつも疲労とエネルギーと一緒にいる気がする。

わたしは大きい声を出すのが好きだ。その時には、高くて大きい声を広い場所へ、いっぱい!という感じで出していて、この時の自分の体感はとてもチッポケだ。街が大きく感じる。わたしの体は頑張ってエネルギーを使っているので疲れる。その「ぼく一人ではこんなに大きな街には到底敵わないや」という徒労感が、さらにわたしをチッポケにする。エネルギーを使わないとチッポケにはなれないんだと思う。
あれも食べたいここにも行きたい、全部一日で達成するためにバスやタクシーを駆使する、というタイプのリッチで欲張りな旅は、楽しいけど全然わたしをチッポケにしない。むしろ、なんでもお金でなんとかしていくので、ちょっと大きくて強い気分にすらさせる。寺山修司が何かに書いていた「代理の労働」を利用する側にお金の力で立つ。代わりにやってもらう、は、自分でやる、とは使うエネルギーの種類が全然違う。

疲労とか汚れと一緒に技術未満の何かが自分の体に刻まれていく感覚や、この時のチッポケさって、お金とかよりも信頼できると最近とても思っている。それは、体のレベルで実際だから。外国へ行ったって同じように、あって続いて機能する感覚だから。気温に応じて汗腺が開くように。

実際にここにある自分の体で、エネルギーをいっぱい!使って、ちょっと戦うみたいなチッポケの段階を経て刻み込んだものは、ちゃんと肉に残る気がする。お金は使えばなくなっていくけど、疲れは体を使えば使うほど溜まったり肉になったりしていって、脳はたぶん学習していく。 
エネルギーを使おう、汗をかこう、なんてすげー暑苦しい感じで、正直アレだけど。

自分の体で戦って疲れちゃう弱いチッポケでいられれば、街とか光とか匂いとか地形とか時間とか、いろんなものが、ちゃんと体に入ってくる。好きや嫌いという言葉のレベルでは選んだりできないダイレクトさで。

そして一人に一人分のエネルギーと肉体しかない以上、わたしには、できることとできないことがある。観れるもの行ける場所には限界がある。ここについては、ある程度選ばないといけないし、諦めなきゃいけないこともあるんだろう。

だからこそ、岡山駅であっさり「バイバーイ」と別れたこの旅の良い仲間が、わたしとは別の道を通って、別のやり方で東京へ帰っていくことが、なんだかチッポケで可愛い、ちゃんとした希望に思えて嬉しい。
また東京で会う時、わたしたちは同じチッポケも、似た別のチッポケも経ていて、そしてまた、流暢に話ができる。