14 特別じゃない旅

8月7日とその後

 
目が覚めたら外はすっかり明るくなっていた。飛行機の中から夜明けを見れたら嬉しいなあと思っていたけど、眠ったせいで叶わなかった。北上している飛行機の東の窓側の座席だったのにかなり惜しいことをした気がする。
ガルーダ航空だったので、頼んでいないけど機内食が配られた。洋と和だったので迷わず和食を選んだ。来る時の飛行機でもエアアジアの牛丼を食べたんだけど、飛行機の中で食べる牛肉ってなんか似た独特の硬さがある。嫌いではないけど全然美味しくない。まるで空に生息しているそういう動物の肉みたいだなと想像してみたらちょっとおもしろかった。
 
またうたた寝したらしくて、気がつけばシートベルトを締めましょうというランプが点いていて、大きな音をたてながら飛行機は降りていき、成田空港の滑走路に着地した。あんなに高いところから無事に降りてきた。何度も使っている交通機関だけど、相変わらず飛行機ってすごい。宇宙とはたぶん呼ばないんだろうけど雲の中とか上まで通って、ちょっと地球から浮いて移動するなんて、夢がある気がする。反面めちゃくちゃ怖いとも思うけど。
 
空港に着いて、スーツケースを回収したり入国手続きとかをサクサク済ませて、家族に「無事に帰ったよ」と連絡をいれてから電車に乗り込んだ。安心してしまって自分でもどうかと思うほど爆睡していたようで、あっという間に一人暮らしの最寄駅に着いたし、歩いて自分の部屋まで戻った。日本の方が絶対に暑い。地面が熱した鉄板みたい。疲れた体にはかなり厳しかった。
クタクタに疲れているはずなのだけど、今日は午後1時から大学の授業があって、わたしはこれの単位をちゃんと取らないと来年以降の計画が狂う。ので、帰宅した瞬間に全く間髪入れず服を脱いで熱いシャワーと冷たいシャワーを交互に浴び、体を強制的にしゃっきりさせ、きれいな服を着て、ちゃんと授業に間に合う時間の電車に乗った。乗れた。
 
電車に乗ってしまったらいつもの慣れた景色の連続だった。駅から駅までの風景も、駅から大学までの道も、見て知っているのと同じだ。かなり暑くてびっくりするけど、これが日本の8月だ。そう、8月という実感は正直あんまりないけれど。
 
旅の痕跡がいくつか自分にあった。
ジャカルタで買ったピアスは買った日につけて似合うと言われて嬉しかった時からずっとつけっぱなしにしていたし、鞄も向こうでハードに使っていたものをこの日も持っていて、向こうで買ったちょっといい匂いの痒み止めも、鞄にあったから腕に塗った。行きの空港で気持ちを落ち着かせるべく食べていたけど向こうについたらあんまり食べる気がしなくて残っていたかりんとうも、授業の合間に食べきった。飛行機でもらった小さいペットポトルの水も飲みきった。財布をいつものに戻せていなかったので、昼のオニギリを買ったお釣りにもらった小銭はポケットにいれていた。
 
そういう、帰ってきた日ならではの少し不慣れなことがいくつかあって安心した。
 
このグラデーションをちゃんと感じたほうが何か良い気がした。少しのあいだだけどインドネシアにいたことを、夢とか幻とか、非日常みたいに記憶しておくということは、なんというか、したくない。あまりにも強い日常ってやつは、そうではなさそうなものをすぐ非日常って呼びたがる。それに抗いたい。
というのは、それくらい楽しかったから。
そして、飛行機で行ったけど、あそこは海底を通ってここ日本と地続きの場所で、新しい友達ができたり、もともとの友達に会ったりした場所で、バイクに乗せてもらって走ったり笑ったりした場所で、その時は確かにわたしの居る「ここ」だった。
言葉の定義としてはあの日々を非日常と呼ぶのかもしれない。でもあの場所にある日常とか生活を、もう他人事だとは思いたくない。難しいけど、わたしは、「あの日々」と「この日々」を、ぜんぶ「この日々」にしたいんだと思う。
 
どんな欲望なんだか自分でもよく分からないけど、べつに過去になっていく時間に抗うってことではなくて、あれはあくまでも場所で、場所それ自体は過去とか非日常ではなく現実で現在だってことを、「母」みたいな広さでつかまえていたいし抱きしめていたい、みたいな、感じ。悔しいけどそんな女っぽい感じ。 場所は過去を溜めていくけど、過去になっていくわけじゃない。今もそこにある。
 
 
あの日々とこの日々とはそれ以外と同じようにシームレスだ、と考えることは、普通にできると思う。わたしにとっては(場所が違うし人が違うし言葉が違うしあらゆることが違うから)あの日々はたまたま不慣れの連続だったから、なんか特別っぽいというだけだ。
そして、その特別っぽいあの日々と、この日々とを、慣れと不慣れとか、過去と現在とか、日常と非日常みたいにしないで、同じに抱いておきたくて、やり方を探している。 
 
その時に、何処で誰とどんな日々を送っていても自分に残っている慣れが、きっとあって、これが大事なのかもしれないと思う。
 
多分、慣れはかなり重要な人間の機能だ。その手前の不慣れによって疲れたりすることで自分をアップデートしていけるという部分もあるし、慣れはいつも体に入って体に現れてくる。
わたしは、色んなことにどんどん慣れるのがわりと得意だったり好きなつもりだけど(習得とは別の話)、あっさり慣れてしまえるものと、なかなか慣れられないものとがある。そうやって、自分が慣れたり慣れなかったりしたことで、少しずつわかるものがある。
 
たとえば風呂トイレは別がいい、なんて住居に対するこだわりは、しょうもない慣れからきたもので、違う様式に慣れてしまえば本当にどうでも良いものだったのだと今回わかった。あと、意思疎通の時に言葉じゃなくて声のレベルで全力で意思を表現するってことは、慣れに近いところで実践していたけど、やっぱりめちゃくちゃ大事だったと思う。
たぶん恋も同じで、恋人が美女やイケメンかどうかなんて慣れたら関係ないのか、あるいは重要なのかを判断するには慣れが必要だし、ドキドキした気持ちが単に不慣れな時めきなのか、慣れても続く恋になっていくのかだって、慣れに任せてみたらちょっとわかってくる。
たいていのことは慣れたらどうでもよくて、慣れてもどうでもよくならなかったり、慣れなかったりするものが、問題にする意味がある。それは自分が続く部分、寝て起きた次の日もその次の日も続く部分だ。
 
どんな日々を送っていても同じように自分が続く部分があるなら、それはたぶん信じてよい部分だ。そして、たとえば近いけど遠い外国が、海の底を通って地続きだっていう想像力を持つためには、その外国でも自分の続いている部分があるとわかることが必要なのだと思う。実際にそこに行って実感するしか、今のわたしには方法がなさそうだけど。
だって、遠くの外国は外国、じゃなくて、実際の事実として、この北半球の続きにある南半球にある場所だ、って捉えられるようになりたい。場所だと思ったら北海道とかと変わんないじゃん。ちょっと自分でも何を言ってるのか分かりきっていないんだけど、そんな風に思いたい欲望がある。
 
 
 
 
この日は、授業が始まる前に仲のいい後輩に偶然会ったり、終わってから恋人と会って蕎麦を食べたりして、こういう人たちがグイグイと、慣れたほうへと引き戻してくれるんだなと思った。待ち合わせた賑やかな駅前は雨も降って湿度が高くて、よく知っている日本の夏だった。8月、という数字はまだしっくりこないけど。
 
たぶんわたしはあっという間に、日本の生活に、いままでしていた生活に慣れていく。体にたまった旅の疲れも、服や鞄についた汚れも、数日で全部きれいに落としてスッキリしてしまう。そしたらまるで終わってしまいそうで、簡単に幻になってしまいそうで、いや、ならないししないんだけど、日常化ってほんとに強いから、ああ、
 
だからせめてもの抵抗で、物理的に続く部分として、ピアスはしばらく着けたままにしとこうかなとか、おまじないみたいなことを思っている。なるべく旅のつもりで、不慣れと疲れを続けたいとも思っている。旅を帯びた日常生活を。肉体の疲労は、身体に旅を擦り込んでくれるから、わりと信頼できる気がしている。
 
 
そうそう、色んな夜があることってかなり嬉しいじゃんと、旅行していて思った。
初めて来た場所で緊張しながら寝る夜も
友達とダラダラと朝まで過ごすような夜も
気まずいまま別れる夜も
さっと夕飯を食べて名残惜しくもなくバイバイする夜も
ひとりですぐ寝る夜も
寝つけなくて掃除を始めちゃう夜も
 
夜はたいていの場合、帰る先で、出かける手前だから、そこにバリエーションがあるって良い。旅的。
旅を帯びて生きれたら、きっと良い。たとえば夜更かしとか、そういうやつも肯定できそうだし、今まで自分を狭くしてきた変な健康オタクや几帳面さと、いよいよお別れできそうだ。
ああ早速 もう朝が近い。