床からの雑感

 
わたしは、床のことが好きみたいだ。
好みのタイプがあるし、しょっちゅう気にしてしまう。
 
床にはいろんなものが置けるし、人も立ったり座ったり寝たりできる。
一番安定していて可能性の開かれた場所だと思う。それなのに、一番「低い」というだけで、見下ろされたり、汚いものとされることもあるのはどうも不思議というか、物理的に実際汚いことが多いとわかっていても、汚いって曖昧でよくわかんないし、それが当然だとはあまり思えない。
地面については、生き物が死んで行き着く先、の、実際のほうって感じに思っている。物質としての肉体が、ただ物質として地面に還っていくその先。で、その地面と、生きた我々を隔てているのが建物の床だ。床のしている仕事はどうやらかなり多い。
 
 
 
まずは、床に関して自分の印象に残っている出来事をいくつか書いてみる。
わたしの印象に残っている床は、たいてい、板張りの床ではなくて、畳も絨毯もない、石やピータイルやリノリウムの床だ。硬い床。そこに雑に座った時の、接地面が少し汗ばむ感じが好きだったりする。
硬い床に雑に座った自分の記憶はいくつかあるけど、けっこう思い出せる。たぶん床に座るってたいてい「座り込んでしまった」ということで、その時の自分は、激しい疲労だったり超ゴキゲンだったり、体調が悪いなどの、ちょっと普段と違う状態にある。そんな状態の自分も、避けたりしないでバッチリ受け止めてくれる最後の相手が床だ。重力のあるこの地球においては。
だからいろいろ覚えている。大失恋して、ひとりで数時間めちゃめちゃに泣き続けた時も、自分の部屋の床にへたりこんでいたし。貧血で立っていられなくなって電車を降りて駅のホームに座り込んだら少しほっとしたということもあった。
特に自分にとって印象的なのは、高校の文化祭で初めてバンドをやって人前で歌い、終わったあとのこと。丸一年くらい準備して臨んだ本番だったから、終わったら完全に燃え尽きてしまっていた。高校一年生の秋で、その時とても仲良くしていた女友達(今も仲いい)が、黙って隣にいてくれていてとても安心したのをすごく覚えている。
高校の校舎の、木の床とリノリウムの床のちょうど変わるくらいの場所で、たしか白いリノリウムのほうに座って、次のバンドの演奏が始まるか始まらないかくらいの雰囲気のガヤガヤを、息をしながら聞いていた。汗をかいていて、でも秋なので空気はわりとすっきりとしていて、裸足で。火照った体を休めるのに、床は圧倒的に味方だったと思う。その友人もわたしと同じ高さの同じ床にいてくれて、たしか彼女はしゃがんでいた。
 
床に座ると椅子が邪魔をしないので、人と近くにいられるというのも実感としてある。最近、人の家で、床に座ったり寝そべったりしてワイワイごろごろ映画を見ていた時、椅子に別々に座っていたらこうはならないな、と思う距離感で隣に友人がいて、実際仲良いと思うけど、それ以上になんか姿勢が仲が良いような感じがして、ちょっと照れくさかった。
むしろ姿勢から仲良くなっていったりする部分あるんだろうか、あるんだろうな、と思ったら、床に座って多人数で演奏するインドネシアとかあの辺の音楽と人の感じが思い浮かんだりした。
 
 
 
 
床というより地面だけど、高さの話でまずひとつ。わたしは肉体労働と呼んでいいタイプのバイトをしていて、その仕事の一環で地面に生えた雑草をむしる(手取り除草と呼んでいる)というのがあって、この作業の日はマジで地面の高さにほぼ丸1日いることになる。基本的に楽しくてやっているのだけど、たまに犬かなにかのフンに遭遇したり、ゴミが落ちていたり、ごくごく稀に、道行く人の見下したような視線を感じることもある(ほとんどの 通りすがりの人は「ご苦労様〜」と言ってくれる)。この仕事をやらせてもらうようになって小学生以来にこんなに低い目線を得たら、いろんな感触が興味深くて、もうバイトも三年目だけど、低いということが気になり続けている。
 
高さについてもうひとつ、高校の部活で吹奏楽をやっていた時のこと。クラリネットを吹いていたので楽器を組み立てる段階があるのだけど、先輩が「楽器は机や椅子の上ではなくて床で組み立てろ、 万が一手が滑って落とした時のダメージが最小で済む」と言っていたのが印象に残っていて、まあ慣れてくると椅子に座ったまま膝の上で組み立てたりしてしまうんだけど、自分が先輩になって後輩に教える時にもそう伝えていたと思う。その時、そうか、確かに床ならそれ以上下に落ちないな、というのがおもしろかったので覚えている。
「それ以上落ちない」ということは、「それより高い」のほうが多いということで、地面に近いところから見上げると木や空はとても高く見えるし、人や建物はすごく大きく見える。地面のことを仮に大地とか地球って呼べるのだとしたら、その地球の実感に近いのは、高いところからよりも、低いところからの景色や触感のような気がする。低いと近いから触ることができる、高いと遠くて触れない。地球のことを自分の命の側だと思うか、対象だと思うかという考え方の違いなのか。
 
 
 
 
まだ床について気になっていることがある。
 
わたしには好きな床のタイプがある。硬い床が好きだ。そのなかでも特に、白くて光ってるのが好みで、出会うとつい嬉しくなる。
 
自分は何故かピカピカの床に惹かれるようだ、と自覚したのは一年か二年くらい前だと思う。近所のSEIYUに行くと、ちょっと間の抜けたBGMもあいまって、いつも楽しくなってしまって買い物しながらこっそりちょっと踊ったり音楽に合わせて床と靴でキュッキュッと音を出しながら歩いたりしてしまうのを、よく一緒にいく人に指摘された。
それで、わたしはなんでああいうの嬉しくなってしまうんだろうと思ってずっと気にしていたら、ピカピカの床はSEIYUだけじゃなくて、いろんな場所にあるのがわかってきた。ドラッグストアとか電気屋さん、コンビニ、ディスカウントスーパー、ホームセンターなどの商業施設で特によく見られる。たまに地下鉄のホームなんかもそうだったりするのだけど、とりあえずピカピカの床は、清潔に保ちやすいということと、蛍光灯の光が床で反射するので空間が明るくなって気分がアガる、ひいては購買意欲を高める効果?がたぶんあるような気がする。(この説でいくならライブハウスやクラブの壁や床も、黒じゃなくて白のほうがみんなバカになれるのでは、なりすぎちゃうのかな)
 
さらに、台湾やインドネシアに旅行に行った時、ホテルやアパートの床を始め、村の中にある半屋外の寺のようなところも、王宮の伝統的な踊りが行われる広い舞台も、床が白っぽい石やタイルでできており、日本よりもピカピカの床にたくさん出会えたことから、ピカピカの床は冷たくて涼しいので南国に多いのではないか、という風にも思っている。
 
まだこれについては、「南国のピカピカの床で、陽気な音楽を聴いたら、完全に最高な気分で踊れるしなんでも買っちゃう気がする」というところまでしかわかっていないけど、現段階の、ピカピカの床に対する雑感はそんなところだ。
 
 
 
あと、音の響きについても、高さが低いと変わってくる。(低くても高さっていうの不思議)
先日、耳にバイノーラルマイクをつけて自分の声や環境音を録音していた時、声を出したりしつつ床にねそべったら、途端に音の聞こえ方が変わって、おもしろかった。まあ普通に頭の後ろからの音が少なくなったり変わってくるから、そりゃ当然なんだけど、普段、布団にはいって眠りにつく時に、立っている時よりも少し静かになるってことを考えたことがなかったなと思った。
さらに床と自分のあいだに布団を敷くことによってますます音を吸収するから、耳に届く音にはけっこうな差があるような気がする。あんまり乗ったことがないけど、ハンモックってマジで相当落ち着かないと思う。
 
 
 
で、そういった雑感をふまえて、建物の機能から逸脱する楽しみについて、
 
以前、なぜだったのか完全に忘れたのだけど、家のキッチンの床に座って足の爪を切ったことがあった。それを知人に話したら「なんかエロい」という感想をもらった。何がエロいのかはよく分からない(し、たぶんその人もあんまり考えていないと思う)んだけど、キッチンの床で爪を切るっていうシチュエーションは自由でいいなとわたしは後から思った。
風呂場で歌を歌うとかと似ていて、家や部屋の本来の機能から少しずれたことをするのは基本的に楽しい。果汁がこぼれてしまうから、と台所の流しに立ったままプラムをかじるのとかも、なんとなく楽しい。「なんかエロい」ってそういうことなのかもしれない。ちょっと本能とか動物に近いような行動。理性的にいったら、足の爪を切るなら ---(…足の爪ってみんなどこで切ってるんだろう?)ーーー寝室の床とかだろうか、わかんないけど少なくともたぶんキッチンの床ではないし、ものを食べる場所は本来は台所の流しではないし、べつに家のどこで歌を歌ったっていいけど風呂場はそのための場所として作られてはいない。押し入れで寝る子供やドラえもんがちょっと可愛いのとかもそれな気がする。あらかじめ定められた目的からさりげなく逸脱するのはエキサイティングだ。
 
床をはじめ家をもっと自由に使うっていうのは、定住に抗う方法のひとつなんじゃないかと思う。なんで定住に抗いたいのかというと、いろいろあるけど、まず定住によるクセみたいなものが、わたしは自覚しないまま自分の体にどんどんついていくことがなんとなく嫌だというのがある。毎日自分の右側にある窓から朝日が入る向きで眠るとか、右手でトイレのドアをあけるとかいったこと、それ自体は別に悪いことではないんだけど、なんだろうこれと思う。
知らないうちに建物や環境から影響をただただ受け続けるのに抵抗がある。実は自分の今寝ている部屋の床が、地面から何十メートルも高いところにあるとか、そいうこと考えたら、わたしなら怖くてタワーマンションになんて住めないんだけど、都内の巨大なタワーマンションの高層階に住むことがステイタスみたいになっていたりする世界観の人は、一体、こわくないんだろうか。階段を走って降りられないレベルの高さって、え〜?って感じだ。
 
でも、そういうわたし自身だって、実際、生まれた時からマンションとアパートと、最も低くて一戸建ての二階にしか住んだことがない。今までの自分の生活に違和感があったわけではないけど、ここ地面じゃない、浮いてる、と、ある時に思ってから、怖くなった。津波で窓がすっかり流されて、壁に四角い大きい穴が空いているだけの建物になった家を、写真でだけど、見たらすごく怖くて、なんだ、壁とか床とか天井とか、たまたまあるだけじゃん、と思ったこともあった。
 
動物は自分で自分の生活する巣を作るけど、わたしは自分で自分の生活をする家を建てない。たまたま出会って住み着いてしまった巣の形に、どうしてもなんらかの影響は受ける。床や歌を使って抗うにせよ、その巣を愛して暮らすにせよ、だ。
 
 
あと、床でPCとかの作業や勉強をするのがわりと苦手なので、床はやっぱり少なくとも自分にとっては理性より本能に近いんだろうなと思ったりもする。床の高さで勉強したり論理的に考えようとしたりすると大体いつのまにか寝ている(この文章はテーブルの高さで書いている)
 
 
雑雑と書こうと思って書き出したらきりがないことがわかったのでここらで切り上げます。
 
床については引き続き考え続けたい。が、床や町と関わることを考えるにあたって、脚が気になっていて、絶対必要だと思っていて、だけど床だけでこんな感じだから脚のことも考えようと思ったらますますまとまらない気がする、先は長い…