言葉を歌う感覚のこと

もうひと月近く前のことだけど、友人と話をしていて、言葉の、発語の時の認識みたいな感覚を再確認することがあった。

わたしは歌を歌ったり、詩を読んだりすること、言葉を発することをしばしばやっていて、それを日々の根本的なモチベーションにしている。その、歌を歌ったり詩を読むような、意識的な発語をする時、それらの言葉に対して自分の持っているすごく具体的なイメージを、逐一持ち出しているような感覚があることに気がついた。(意識してやっている時もあるけど、あまり意識しないでそうなっていることも多い。)

「言葉に対する自分なりのすごく具体的なイメージ」というのは、たいていの場合、誰しもが持っている。そもそも、言葉とイメージが結びついていないと、言葉というもの自体が成立しないんだから、これはごく当たり前のことだ。(それをどの程度の緻密さで、どれくらい頻繁に呼び出しているかどうかは、かなり人によると思うけれど。)
幼い頃、言葉を覚え始めた頃に、きっとわたしたちは、ひとつひとつの言葉に初めて出会っている。例えば「春」という言葉に初めて出会う。その瞬間のことは、今ではもう全く覚えていないけど、「これが春と呼ばれるものだ」といつかの時点で知って、それをその後何度もあらゆる場面で確認して、体感して、体得してきたのは確かだ。その期間を経て、今わたしは「春」という言葉を使えている。使うといってもあらゆるレベルがあるけど、少なくとも普通の意味で、他人と同じように「春」という言葉を、意味をわかって適切に使うことができる。そして、「春」についてのあらゆる記憶やイメージを、春に出会うたびに、今も繋ぎ加え続けている。更新し続けている。

もうひとつ例をあげて、「僕」とか人称を表す言葉について考えてみる。人称代名詞は、他の名詞と比べて出会う頻度が高いし、代名詞なので、「春」と違ってことが少し複雑だ。今までに読んだあらゆる文章の中の「僕」の数だけ、いろんな僕を、わたしは「僕」に代入してきている。これが、小説を読むときにいつも気になってしまう。全然ちがう小説を読んでいるはずなのに、単に「僕」という記号で人称代名詞が使われているというだけなのに、他の今まで出会ってきた「僕」が、チラチラ見えてしまうのだ。「僕」に今まで託してきたたくさんのイメージからなる影のようなものだ。わたしが小説を読んでいる時の「僕」は、わたししか知らない「僕」として、いつのまにか輪郭を、独特の質感を持ってしまっている。

この仕組みが、たぶんほとんどすべての言葉に当てはまる。人称代名詞の質感はどうもひっかかるけど、この仕組みは基本的に好ましい。わたしは、今までの人生のなかで、自分とその言葉が出会うたび毎に紡いできた関係とかイメージといったものが、だんだん更新されたり累加されたりしながら、ただの記号ならざる言葉をつくっていくんだと思っている。とてもエキサイティングだ。それに、歌の歌詞は、音のレベルで記憶に残っているものが多いから、他の場所で出会った時に、この感じのこの言葉はなんの歌で出会ったんだっけ?と脳内で検索を始めてしまうことがあって、楽しい。自分の口からでた「〜でしょ」という語尾が、あの歌の「〜でしょ」に似ていた、みたいな細かい気づきが時々あって、歌う気持ちがつのる。
ただ、わたしは記憶喪失になったりしたことがないから、経験が積み重なっていくことを疑っていない、それゆえの楽しみだろうと思うから、将来、ボケるのが怖い。


さて、こんなふうに言葉にたくさんの、自分の経験に基づくイメージが具体的に結びついていると、特に歌を歌ったり、意識的に発語をする時に、自分の心に湧き出てくるものが強い。単語ひとつひとつの容量が大きいような感じだ。見えはしないけれど確かに強めに心に現れてくる。どこからともなく季節が香る時みたいなキュンとした強い感触。これは、現れさせるように意識してもいるけど、勝手にうまくいっていることもある。そういう発語はとても楽しい。歌が自分の歌として「歌えている」と感じるし、言葉が自分の言葉として「話せている」と感じる。

逆に、自分には歌えない歌というのがやっぱりあるということに、ここ数ヶ月のいろいろな本番を経て気付かされた。最近、他人の書いた歌や、他人の書いたセリフを歌ったり読んだりする機会がたまたま続いた。「この歌は歌える」「歌えない」という判断をしてコンサートで歌う歌を選んだり、セリフにおいてこの言葉はなんか引っかかってうまく言えないからこう書き換えてみよう、と手を加えてみたりした。手を加えずそのまま読んだ時は、そのまま読むつもりでいたのに、自分の読みやすいように読み間違えてしまったこともあった。
歌える歌えない、読める読めないというのは、技術的にこの音が出ないとかそういうことではなくて、その言葉の組み合わさった織物に、うまく自分のイメージが乗らないということなのだと思う。

例えば「地球の夜更けは淋しいよ、そこからわたしが見えますか」という歌詞がある。(「冬隣」という歌、吉田旺氏の作詞でちあきなおみの歌、最近のお気に入り曲です)これを歌うとなった時、この「地球」とか「夜更け」とか「淋しい」とかいう言葉たちが、それぞれのイメージを持ち寄るみたいにして、景色のようなものをわたしのなかに作る。それも、全部、隣の言葉と溶けあっているので、たとえば「淋しい」は単体ではなくて「淋しいよ」まで含んでそのイメージを作ってくる。今までの人生のなかで出会ったあらゆる「淋しいよ」を参考にしながら、地球の夜更けは淋しいよ、という言葉がそこに居られる景色を作るのだ。そうして、言葉と景色がちゃんと腑に落ちている時は、歌うことができる。腑に落ちる落ちないが何で決まるのか、まだよくわかっていないけど、わたしはこの歌詞の一節はとても好きで、いつ本当に歌えるようになるかはまだわからないけど、ぜひこのまま歌いたいと思う。

ここまではよい。ここまでは、歌を歌う人として何の問題もない。むしろこれからも言葉と付き合うにおいて、大事にしたい感覚だ。だけど普段の会話は、なかなかこんなに丁寧にできない。丁寧にできないけど、多かれ少なかれこの感覚があって、それがちょっと喋りにくさに繋がっている気がする。

わたしは、発語することは好きだけど、人と話すのが苦手だと感じることが多い。
会話のなかで、今思っていることを伝えるために使いたい的確な言葉(的確、という時点で厳しい、相手に伝わって失礼じゃなくて自分の伝えたい意思や意味も満たすなんてすごい条件!)が見つけられなくて、それを探してしまって次の言葉を出すのに時間がかかる、ということがよくある。だから、会話としては、ゆっくりになるのだけど、その速さで考えているわけではない。めちゃめちゃ考えている。だけど、言葉で考えているというよりイメージに合う言葉を探している状態だ。言葉って少なすぎるなとビシビシ思う。たくさん使って、どんどん補足していくこともできるけど、パーーーッと、次々に言葉を出して、合っていないイメージを持った言葉をどんどん上塗りし続けて近づけようとするのは(そういうスタイルの人もいる)なんだかゴテゴテしてみっともなく思えてしまって、完成形がすっきりしないような気がして苦手だ。これは完全に話し方の趣味の話で、そういう人が苦手ということでも、ないんだけど。

こういう時、歌だったらいいのにと思ってしまう。その会話の中で、突然出せない言葉ってけっこうたくさんある。唐突すぎて自分さえ戸惑ってしまうような言葉だけど、いま心に浮かんでいて、イメージとしてはそれなんだ、というような時。そういう時、歌だったら、詩だったら、それをもう少しすんなり出せる気がする。人との会話を芸術だと思ってしている人はあんまりいないと思うけど、歌や詩だったら、戸惑いながらも受け入れてもらえそう。もっと人とうまく話せていたら、きっとこんなに歌ったりしていない。人と普通に話すんじゃうまく伝えきれないものがあって、わたしはそれを歌に任せている。
こうやって言葉と声が使えるうちは、なるべく納得のいく形で使っていたいと思う。限りある限り。