わざとの確かな眺め

歯磨きをする時、洗面台に付属している鏡の両脇にあるプラスチックの棚を眺めていることが多い。

プラスチックの棚はだいたい同じ大きさのものが左右に二つずつ、上段、下段、というふうにわかれて、計4つだ。

左上は、イソジンと保湿クリーム

左下は、化粧落としと保湿オイルと化粧水

右上は、ドライヤーと綿棒とヘアワックス

右下は、箱ティッシュを立てておいて、隙間の空いているところには歯磨き粉とコンタクトレンズの洗浄液がある。

他にも細かいものが隙間にさしてあって、あと少しで使い切りそうな頬紅のコンパクト(持ち歩かないで家で使う用)とか、カミソリとか、ヘアブラシとか、パックとか。

家には似た場所がもうひとつある。台所だ。

わたしの家の台所は正面の壁が大きめのタイルになっているので、そこに吸盤でフックをたくさんつけて、道具をぶらさげている。

一番左は丈夫な吸盤で、大きな中華鍋

その右隣は、小さいフックで、軽量カップ

さらに右は、タコ足的に複数のフックがまとめられていて、そこにはトング、おろし金、缶切り、計量スプーン、茶こし、木べら、箸、菜箸、おたま

その隣はまた丈夫な吸盤で、小さいまな板、ざる、小さいフライパン

一番右は、小さいフックに、水筒を洗う用の、柄のついたスポンジが下げてある。

時々、あんまり使っていないと判断した道具は、ベンチへ下げて、常にスタメンのプライドと士気を保っておく。これがうまくいっていると、なんとなく具合がよい。実際、棚へしまわれて月一回くらいのペースで顔をだす選手もいるくらいのほうが、緊張感があってきりっとする。今のキッチンでは、トングと缶切りが、ギリギリしがみついている状態で、彼らが下がると計量スプーンのすわりが良くなるだろう。これはダジャレだけど全てがわたしのさじ加減で決まる。

まあ、ともかく歯を磨きながら、これらの壁面や棚を眺めるのである。これがけっこう良い。

というのも、今ではない時間軸にも自分が、かつて居た、あるいは、これから居ることになるのがわかって、道具たちの道具っぷりがわかるのだ。変な表現だけれど、コトン、という感じでそれらの道具は確かにそこにあってくれる。そうすると、過去にそれを使ってもとの場所に戻した自分を思い出せる今の自分が、トン、とここに立てる心地がする。もとの場所に戻した、という過去がちゃんと今につながっていることが、腑に落ちるような。足と足が床に立っていることと、棚にドライヤーが収まっていることとが、同じ空間に着地していることにホッとする。

今は、歯を磨いているから、イソジンもヘアワックスもカミソリも使わないわけだけど、たまたま今そうなだけで、イソジンでうがいをしている時は歯ブラシは用無しだし、ヘアワックスを手に出している時にカミソリは持たない。でも、きっとまた自分の順番が巡ってくるのがわかっているから、喧嘩もしないで整然としていてくれる。まずそれが好きなのだと思う。

でもおそらくもう一つ好きな理由がある。

「誰かがわざわざそうしないとそうならない、という物のあり方」は、家のなかの多くのものに当てはまるが、特に使用頻度の高い道具置き場には、めちゃくちゃ濃密に詰まっている。上記の台所の壁なんて最たるものだ。そして、そのあり方が詰まっていることが心地よく思える時、そこにはキッチリとか趣味とかユーモアとかが効いている。たとえば柄のあるスポンジを下げるためだけの小さいフックなんて、割とふざけているし、置物や花瓶を置いたり、壁に絵を飾ったりすることは、こういう行為のいちばんリッチなやつだ。キッチリが1に対してユーモアとか趣味が9ぐらいあると思う。ああいうものに実用的機能はない。というかそもそも図る単位が違う。

以前、デザインの仕事をしている人の家にお邪魔した時、家の隅々まで、飾ったり置いたりといった、「わざわざそうしないとそうならない物のあり方」をコントロールする意識が行き届きすぎていてびっくりしたことがある。実用においても装飾においても、なんか全部ちょうどいいのだ。色も形も、パーフェクトみたいだった。でもそれは息苦しいものではなくて、肩の力が抜けたユーモアのある妥協のなさだった。明らかにちょっと普通じゃないセンスの人が住んでいる空間だったけど、「誰かがわざわざそうしないとそうならない」を楽しんでいる気配がした。いい場所だった。

わたしの部屋はああいうタイプには絶対なれないけど、箱ティッシュを立てて棚に置くのはナイスだと自分で思っているし、キチンの洗い場の右の水が飛ぶとちょっと嫌なところに開いた牛乳パックでカバーをしつつそれを砂糖のビンで抑えるのもこうして字面にするとかなり貧乏くさいけど見た目はそんなに悪くないし汚くなったらいつでも交換可能という機能性もあってこれもベリーナイスだと思っているし、国立奥多摩美術館の鉄のチケットを棚のふちギリギリのドアとの微妙なデッドゾーンのきわに置いてそこに傘の持ち手がちょうど引っかかって具合良く収納できているのとかも正直天才だと自負している。

そういうナイスは、ナイスだった日から決め事になる。そうしたら今度は、日々、それが決めポーズみたいに、こちらを合わせていくのだ。

計量カップのためだけのフックに計量カップを戻す。ドライヤーのためだけのスペースにドライヤーを戻す。

ちょっとしたキッチリは、わたしにとっては手グセでありユーモアですらあって、そうやって描いたのが、例えば洗面所と台所の道具の並びなのだと思う。時々、洗った皿やスプーンをそのまま乾かせるように隙間をあけながら積んでいてかっこよくキマると嬉しくて写真を撮ったりしてしまう刹那的なパターンもあるけど、洗面所と台所はもっと長いスパンで作られて更新され続けている。

それがわたしにとっては時々、眺めるに値するのだ。

絵画や窓の外の世界には到底かなわないし、小さくて見逃しそうなほどの、しかし、とても確かな眺めだ。