面としての命

少し長めの旅行に出るので、部屋で世話している観葉植物を3つ、人に預けた。そのうちの1番大きい木、といっても鉢をいれても20センチくらいの高さの、小さなガジュマルに関して。

そのガジュマルは、春に、引越し記念みたいに買ったものだ。丈夫だから育てやすいし可愛いからオススメ、と人に聞いて、あまり観葉植物へのこだわりも無かったので、フーンナルホドという感じでホームセンターに行った時に一式買った。鉢を割らないように気をつけながら肌寒い曇りの日に1人で自転車をこいだのを覚えている。

それが、買って窓辺に置いてから1ヶ月ほど、新芽も出るのだけど、葉っぱが黄色くなって落ちたりするのを繰り返していて、植物に詳しくガジュマルを薦めてくれた知人に話したら、「環境に慣れるのに時間がかかるよ」とのことだったので、ひとまず1ヶ月は様子を見て、そのあと一度、液体肥料をやってみた。

6、7月くらいになって気温が上がってくるとグイグイのびるようになった。片一方へばかり伸びたりしてバランスが悪くなってきたので、一度強めに剪定してみた。切ると、その傷口から白くてペタペタした液体が、指を針で刺してしまった時みたいにプク、と出てくるので、ワー、生きてんなァ、と思った。けっこう坊主寸前くらいまで切ったのが幸いしたのか、その後はさらに勢いよくグイグイ芽を出し枝を伸ばして育つようになった。

ただ、葉っぱがまだらに黄色っぽくなったり変な形に縮れるのがいつまでも治らない。わたしの植物の世話は基本的に詳しい友人に聞くかググるところから始まるのだが、今回はネットで調べた。それによると“ハダニ”の仕業らしい。葉っぱの裏を見てみると、確かに何か白い点のような粒がある。

ハダニは水で溺れるので、風呂で強めにシャワーを浴びせると良い、というのを見つけて、何度かやってみた。葉裏への霧吹きも毎日やった。それでしばらく様子を見ていたところ、一部の葉っぱは黄色かったりマダラになったりして引き続きダメだけど、全体的には成長している。大丈夫そうなので、油断してシャワーはやらなくなった。

そうして1ヶ月くらい経って、ふと見ると、たしかに葉っぱが増えて育ってはいるものの、やっぱり色がところどころ汚い。暇というよりは忙しいなかでの現実逃避や気分転換だったけど、ハダニを本気で駆除することにした。

ガジュマル ハダニ 薬剤

ハダニ 駆除

ハダニ 片栗粉

ハダニ 全滅

などとワードを変えながら検索する。色々な情報が次々にわたしを通過していく。

薬を散布するのが一番手っ取り早く確実らしい。薬を使いたくないなら牛乳や片栗粉を溶いた水も効くとか。とにかく水やりのタイミングで強めのシャワーをやるのは根気がいるけどお金もかからなくて良い、とか、とにかく、色々な意見が出る中、

セロテープで物理的に引き剥がす

というのがあった。薬剤も牛乳も片栗粉さえもこの家にはないが、セロテープはある。やってみることにした。

葉っぱを傷めないように気を遣いながら、白いのがついている全ての葉っぱの裏と表をペタペタした。まだ小さい木でよかった、これが大きな木だったら相当な仕事だっただろう。ハダニはクモの仲間らしいが、脚の数を確認したりする気にはぜんぜんならず、こびりついた汚れくらいの気持ちでどんどん取った。これがけっこう楽しくて、窓辺で1時間くらい没頭した。そうして目視できるハダニを皆殺しにし、もう取り返しのつかなそうな黄色い葉っぱは全て剪定し、霧吹きをこれでもかとかけ、数日たつと、ガジュマルはかなり綺麗になった。

そのタイミングで、2週間ほど家を開けることになり、先日、人に預けてきたのだった。

引っ越してきて、1ヶ月後くらいに、5日ほどの旅行から帰ってきたら、新居と思っていた部屋が「自分の家」と思えるようになった時と似ている。人に預ける、となって初めて、自分がガジュマルたちに色々な世話を焼いていたことに気づいた。旅は日常を鮮明にする。

2週間のあいだにこんな世話を焼く必要は多分ないから、Kさんは気にしなくていいんだけど、ハダニはこの季節は元気でドンドン増えるので要注意だそうです。みなさんご注意を。

そう、この時、けっこう印象的だったのだけど、Kさんに植物を預けにいった時、彼女は袋から出た3つのグリーンを見て、「かわいい〜」と言った。

わたしは、彼らを好いてはいたけれど、そう言われて初めて、彼らについて「かわいいよね」と口に出した気がした。

観葉植物の世話をする時に、ペットみたいな気持ちで育てる人と、生物の実験みたいな気持ちで育てる人とに分かれる気がしていて、わたしはずっと後者のつもりでいたのだけど(初めはペットみたいに話かけるつもりで買ったけど一切話しかけていないし、剪定する時にゴメンネとか思わないし、眺めて仲良くするというよりは姿をキレイに保つために試行錯誤するのが楽しい)、そこにも、当たり前だが、けっこうちゃんと愛がある。

植物は、生きる速さと仕組みが動物とは全然違っているし、特に屋内で育てる観葉植物は、人が世話をしないとすぐ死んでしまう。でもこれは、本来の生まれた場所でならば1人で生きていけるはずのものを勝手に連れてきて、彼らにとって過酷だったり不適切な環境に閉じ込めたうえで世話ごっこをしているようなものだ。庭の木もそうで、ここにあったらキレイだな、といった基準で、本来は山にあるような種の木を、海の近くの埋め立て地に植えたりしてしまう(これはバイト先の人が言っていた)。

それでも、彼らは、わたしたちに世話をされていてくれる。

1年以上前、バイトで雑草を抜く時に、一本一本抜くたびに一つ一つ殺している気がした、というようなことを書いた気がするのだけど、続けていく中で、それへの感覚が全く変わった。

植物、とくに、雑草と呼ばれるような強い草たちは、たぶん、一本一本がひとつの命ではない。彼らの命のありかたは、点ではなくて、面のようなありかたなのではないかと思う。垂直というよりは水平。抜いても抜いても生えてくるし、地下茎で繋がっていたりもする。感覚としては菌に近い。そう思うと、雑草むしりが精神的にかなり楽になった。終わりのない作業だけど、その終わりのなさが彼らの確かなあり方なのだと信頼できるようになった。彼らは強い。その強さは筋肉とか骨の強さではなくて、もっと長い時間感覚と、大きい空間を持った強さだ。

種、くらいの単位で命を考えると、手塚治虫火の鳥みたいな精神性に切り替わって、わたしは自分の立つのが楽になる。垂直な立ち方よりも水平な立ち方の方が心地よい時はある。今あるこのひとつの命だけではなくて、過去にあった命とかこれから生まれる命まで幅を広げてみると、自分の生きているのがただの現象だと思えるような気がする。

そのために窓辺で植物を育てているのかも知れない。わたしが世話をしてあげないとこの子ダメなの、じゃなくて、個人の世話ごっこの遊びに付き合ってくれてありがとうございます、という気持ち。

全然知らないけど、ひょっとすると盆栽に近いのかもしれない。