木片に思う

箸を替えた。

引っ越して食器を新調したときに新しい箸を買ったのに、なぜか古い箸を引っ越してからも使っていたのをようやく捨てた。いいかげん古くなって傷んでいるのが気になっていたので、特になにかあったわけではないけど、替えた。3膳あったのを全部、替えた。

捨てるときに、古い箸を1本ずつ折った。オシマイ、と自分にも箸にも言って聞かせるみたいに折ったのだ。

両端を持って、エイ、と力を込める。それが、けっこう硬くて、割り箸のようにはいかなかった。折る時に、衝撃がビリッと走って、手が痺れた。

その痺れに、わたしは少し驚いて、少し悲しいみたいになって、同時に、ちょっとホッとした。折れた箸は、折れる前の箸と全く違っていた。表面の赤い塗装と、今まで見たことのなかった内側の木の繊維が隣り合って、みょうに鮮やかだった。破片がすこし床に飛んだ。

1本ずつ折っている時、下手したら、殺すような感覚や暴力に傾きそうになるのを、頭で一生懸命、軌道修正しようとしていたような気がする。特に何かきっかけがあったわけでもない、使えなくなったわけでもないのに、数年間、毎日のように世話になった道具を突然に気分で捨てるということに、罪悪感があったのだと思う。それでも、一方で、道具は道具、という気分もある。傷んだ箸を使い続けるのはやめて、新しいものを気持ちよく使うほうが、道具の使い方としては正解のような気がする。だから、使えなくして終わらせるためだろうか、箸を折った。

ただ、箸を折った時に手に届いた痺れが、予想外だったから、思わず心に残ってしまったみたいだ。

以前にも、箸の先端を欠けさせてしまったので捨てたことがあった。その時も、たしか折ったけど、折る時に手が痺れるほど硬い箸ではなかった。

ここまで書いてから、気になって少し調べたら、箸には、使った人の魂が宿るから、むやみに捨てるものじゃないという考え方とか、箸供養というものがあるらしい。彼らに言わせれば、使わなくなった箸を折るのは、箸に宿った魂を自分に戻す、ということなのだそうだ。

そう言われてみたら、何か、その話は知っていたような気がする。わたしは、そういう中身をすっかり忘れていて、折って捨てるのが何か正解のような気がして、今日それを自分ひとりで行ったのだけど、あのビリッとしたのが、安心でもあったのは、心のどこかに、箸に魂を預けているみたいな考え方が残っていたからなのだろう。意外と、こんなものである。

すごく前の出来事だけど、好きな人に箸をプレゼントしたことがあった。いまごろ古くなって捨てられたか、使う以前に要らないと処分されたか、わからないけど、多分もう使っていないだろう。どんなデザインの箸だったかもあんまり思い出せないが、今更、箸をプレゼントするのってちょっと呪いっぽかったかもなと、申し訳ない気持ちになった。

新しい箸は、ただ、大型ホームセンターの食器コーナーで見つけた何でもない木の箸だ。家族と住んでいた時は、自分の箸、というのが決まっていて、いつも必ずそれを使っていたけど、今回は、3膳おろしたし、どれを自分のメインの箸、と決めるつもりもないから、魂が宿るなんて感覚はやっぱりしっくり来きらなくて、モヤモヤする。それでも、いずれ捨てる時には、わたしはまた、それを折ると思う。

そういえば、同じく食べるときに使う道具だけど、スプーンやフォークに、そういう気持ちを抱くのがあまり想像できないのは、素材のせいだろうか。金属製の箸だったら、少なくとも、折る、なんて発想にはならないように思う。

箸の、木って素材を意識すると、突然、命みたいな気配がしだしてしまって、あながち、魂が宿る話はありそうな気がしてくる。そうすると2本ないといけないところとかが可愛く思えてきて、1本ずつ無くした元々別々の箸同士で使っていたのはかなり失礼だったんじゃないかとか、ああ、このへんで考えるのをやめておかないと、箸が使えなくなりそうだ。