「いつもの音」

先日、海に遊びにいった。二泊した。

ほとんど泳げないので、海に潜ったりしていた時間は短かったけど、朝まで起きて、日がのぼるのを眺めたり、夜、ただただ波の音がするなかで眠ったりした。

いま自分が住んでいるところは、電車が近くを走っていて、鳥がたくさんいる。国道もそばにある。けっこうにぎやかだ。朝まで起きていると、四時半ごろに始発が動き出すのがきこえたり、新聞配達のバイクの音がしたりカラスとか名前のよくわからない鳥がさわいだりする。

まえに住んでいたところは、マンションだった。すぐ下の道路はけっこう車の通りが多くて、雨の日なんかは車が水しぶきをあげて走るシャーッという音がしたりする。わたしの部屋からは遠くの建物のすきまに電車が見えて、あかりがちらちら過ぎていく。深夜や早朝の静かな時間にすごく注意して耳を澄ますと、うっすらガタンゴトンが聴こえる。

どちらにしても、自分の住んだことのある場所には、あんまり水の気配がない。

一番ちかい海も、埋め立ての工業地域だし、電車で通っていた高校の近くには川が流れていたけれど、遊んで入れるようなものではなくて、コンクリートの壁のあいだや道路の下をひっそりと濁って流れるタイプのものだった。日常的に見る川や海は、コンクリートや排気ガスの色やにおいと常に結びついていた。砂浜とか、土とかからは切り離されて流れていた。

そのせいだろう、水が流れる音というのには馴染みがない。毎日聞くのは水洗トイレの音くらいだ。

雨が降った日のマンホールの上に立つとじゃばじゃば音がするのが楽しい、とか、傘にあたる雨の音が屋根の下をくぐると変わるのが楽しいとか、そういうところで補完していた気がする。小川のそばに住んでいる人とか、海のそばに住んでいる人は毎日、水がたてる音を聞いて生活しているのかと思うと少し羨ましい。

自分は水のことが好きなのだと思う。それでも、馴染みはないから、憧れみたいな好き方で。

泳ぐのは全然得意じゃないけど、それでも年に一回くらいは、地元の温水プールにふらりと一人で遊びにいってばしゃばしゃやって帰ってきたりしている。いつだか自分の名前の漢字の意味が、水の色のあお色だと知ったり、しょうもないけど星座が魚座だったりして、後天的に、水と自分は仲良くしていたいと思ってきたところもある。あんまりうまくやれている感じがしないし、まあただの趣味なんだけど。

以前に聞きにいったライブで、歌のなかに、「缶ビールに雨粒がひとつ落ちた」みたいな一節があった。

その時にわたしは多分20歳とかで、缶ビールに対して、それなりの馴染みがあった。いや、むしろまだ自分の人生においては缶ビールってものは新参者で、こちらから彼に対して積極的にアプローチしている段階だったから、缶ビールに対するいくつかのイメージをかえって鮮明に持っていた。そういうのを思ってから、高校生の頃は缶ビールに対してなんて全く馴染みがなかったから、きっとその頃に聞いていたら、この歌詞のイメージは全然ちがうものだっただろうな、と、なんとも言えない気分になった。

缶ビールが自分にとっておなじみのグッズになった頃には、それ以前の感覚には戻れないのだろうというのが妙にはかなくて印象的だった。

これと同じで、きっと、水の音がいつも聴こえる家に引っ越したら、それ以前の、鳥が賑やかだとか、電車が走っている音に潜在的に安心していた生活のことは、感覚レベルでは忘れていって、次のサウンドスケープに馴染んでいくのだろう。他人と自分の生活を、壁で一生懸命くぎって、だけどそれでも壁を超えて聴こえてくる音に安心する、寂しがりやの毎日から、知らないから具体的に言及できないけど、水の音のなかでの生活へ。

二泊あそびに行って、海にもあまり入らなかっただけの自分にはわからなかったのだけど、水の音に命の気配はあるんだろうか。鳥の声や電車やマンションの壁のすぐ向こうには、明らかに動物がいるけれど、波の音やわいて流れていく水の音は、もっともっと大きな命とか、時には死さえ運ぶ仕事をしている気がする。きっと、電車と水では安心の根拠のレベルがすこし違う。波の音なんて、場合によっては不安にだってなりそうだ。

そういう仮説のところを、アタマじゃなくて耳とか体で確信してみたい。

海辺とか、川辺に住んで、耳を澄ませる毎日を、いずれ自分のために用意したい。

(自分の体のなかの水の音が聴こえた時のあの微笑ましい感じ、メモ)