会えないからだ

わたしにとって、次の日が休みの深夜なんかについやってしまうことのひとつに、好きな人や気になる人のツイッターアカウントをこっそりメッチャさかのぼるという時間つぶし、がある。本当に無駄だとわかっていながら、しばらく会っていなくても、嫌われているかもしれなくても、こうして生存が確認できるってすごいなあ、とか思ってついやってしまう。幸せなのか不幸なことなのか、わからないけど、この無駄な時間は嫌いじゃない。今回は、ある人のアカウントが、実は二つあるってことに気づいて、二つともさかのぼっていたらずいぶん時間がつぶれた。

一番最近のポストまで全部見終わると、今度は坂口恭平の「死にたくなくなるツイキャス」を眺めたり、友達のバンドの音楽を聴いたり、今日買ったCDを聴いたり、合間にいろんなネット上の記事とかニュースを平行して読んだり、、、まあ、こうやって書いたらまるで色々やっているみたいだけど、パソコンの前に座っていただけだ。三時間くらい、パソコンの前に座って、コンタクトが乾くので目をパチパチしながら、やみくもに時間を過ごした。

ぼうっとパソコンの前に座っていて、かたわらに置いていたお酒もなくなった。夜もますます深まっている。気がついたら二時もまわっている。肩がこっている。少し体が冷えたので、扇風機は止めて、一階に降り、お湯を沸かす。ヤカンを火にかけているあいだ、歯を磨く。白湯でも飲んで、そろそろ寝た方が良いなとか、ちょっと反省する。

同居人の誰かが濡れたまま放置したらしいスウェットが、サンルームから生乾きの強烈なにおいを放っている。自分は普段からこのにおいに関しては敏感ゆえに相当気をつけているので、やっちまったなあ、とひとごとみたいに思っているけど、明日は我が身だ。そんなにおいのなか、お湯が沸いて、それをマグカップに注いで、二階の自分の部屋へもどる。

床に洗濯物がたくさん散らばっている。とりこんで、たたまないままになっている服たちだ。これを全部たたむ。なんとなく優しい音楽を、小さい音量でかけながら。

洗濯が済んだ服や靴下やタオルをたたんでいる時は、希望があると思う。

明日や明後日、あるいはその次の日とかもっと先の将来に、きっと自分が着るであろう服の面倒を、ちゃんとみるぞ、という意思を固めていく、儀式ってほどではないけど、自分の人生を作る仕事のひとつだ。いつも肌に触れているものたちだから、たたんでいる手にもよく馴染む。ぴしっと四角くたたんで、上から手でおさえると、ちゃん、とした感じになる。たまにしか着ないレインコートがうまくたためなかったりするのは、やっぱり、たまにしか着ないからなんだろうし、仕方のないことだ。

今日は何故か、全然ちゃんとしていない夜の、すごくだらだらと過ぎた時間が、あんまり惜しいとか、ダメだとか思わない。夕方に観てきた演劇が良くて、その余韻とかもある気がする。物語じゃなくて、演出とか、言葉とか身体とか、そういうところで魅せるんだっていう気合いがすごくストイックに感じられて好きだった。当日券がなくて、キャンセル待ちということだったけど諦めずにはるばる横浜まで行ったので、観れて良かったという気持ちもあるし、会場で買ってきた台本とCDのセットも良かったから、全然フェアなジャッジじゃないけど、別にいいんだ。作品を観るってそういうもんだろう。

このまえ、観たかった演劇があって予約もしていたのに電車を間違えて観られなかったということもあったから、演劇は、ちゃんと目的地に時間通りにたどり着いたり、事前にメールや電話で予約をとれるような、きちんとした人じゃなきゃ観られないじゃないか、そういうお客さんしか相手にできないじゃないか!とか思っていたけど、今日は(当日券がとれなくても立ち見になっても構わない、と覚悟こそ決めたけど)ふらっと行って良い経験ができたから、くつがえされてしまったな。

机に当たると肘が痛いので、たたんだバスタオルを肘の下にしいてキーボードを売っている。皮膚とか、身体とか、どんどん弱くなっているような気もするし、体力はついてきたような気もする。

昨日の朝、母と電話をしたけど、風邪をひいたと言っていた。録音した自分の声ととても似ていた。

長い間、面と向かって会っていない人の、体とか、声とか、話し方とか、どうなっているんだろう。その裏に絶対にある生活の、ほんの一部分だけがSNSでちらちら見えるという状態、とてもヘンだ。全然あてにならない、別の話という感じがする。生きているということとか、趣味が変わらないとかそういうことだけが一応、形式的に確かであるだけ。

今日観た作品の主演の人が、ラップをやっているCDをわたしは一年前くらいから聴いていて、その声が、今日は生で聞こえて、良い声なのだけど全然演劇っぽくないからおもしろかった。少し笑っちゃいそうになったりした。その人の人生というか、普段の活動という生活が、少し見えたような気がした。見えちゃった、という感じに。

きっと、ずっと会っていない人にも、ぱっと、会ったりしたら、一目で、本当にいろんなことがわかるのだろう。あるいは、その人が、なんらかのカタチで舞台に立ったりしていてもいいのかもしれない。身体が発している情報量ってけっこうたくさんある。きっと、「会いたい」っていうのは、そういう情報をガン、と受け取りたいって気持ちなのだ。

それで、自分の情報も、一目で、ガン、と伝えて、その上で言葉を使っていきたいのだ。

ただ単に、会えれば、それでいいのだ。それが難しいから、いろんな方法をとっている。